「シネマノート」  「雑日記」


2012年09月15日
『精神病院と社会のはざまで』
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杉村昌昭がフェリクス・ガタリをフォローする姿勢にはいつも感動させられる。思想史上の人物の、すでに古典となった主著をつまみ食い的(失礼!)に翻訳する訳者は多々いるが、杉村のように、一旦ガタリを訳し始めたらその「小品」までフォローし続ける訳者は少ない。

杉村が今回訳出した『精神病院と社会のはざまで』(水声社)は、最近出たガタリの遺著『DE LEROS À LA BORDE』をいち早く翻訳し、杉村自身の長文の解説を付したものである。

ガタリは、彼にとってカフカは、自分が何か新しいことを考えているとき、彼ならどう考えるだろうかと思いその本を開いてみる――そういう人物だと言っていた。その意味では、まさにガタリはわたしにとっては、いつもそういう人物の一人である。

本書は、ステファン・ナドーが「本書の成り立ちについて」、マリー・ドゥピュゼが「フェリックス・ガタリの思い出」、ジャン・ウリが「フェリックス・ガタリのために」、それにガタリ自身の「ロレス島日記」と「精神の基地としてのラボルド」、そして杉村昌昭の「フェリクス・ガタリと制度論的精神療法  制度と主観性をめぐって」からなる。随所にインスパイアリングな文章があるので、書き手を明記せずに以下に羅列してみる。

狂人よりも狂人でなくてはならない (p.29)

主観性を整えるだけでは狂人の「狂い」に適合するのに十分ではなく、もっと先まですすんで、新しい主観性を生産しなくてはならない (p.35)

なにか新しいことを発明して実践するように若者を仕向けること (p.39)

治療は芸術作品ではないが芸術作品と同じ種類の創造性から生じる (.43)

伝達するだけで満足するのではなく、創造を優先する (p.43)

文学は、プルーストが言うように、答えを要求しないという美点を持つ (p.44)

子どもは子どもを幼稚化する環境を取り払ったら、有限性のカテゴリー(有限的な存在)を理解する能力を完全に備えている (p.58)

羊飼いや漁師は、狂人を動物のように飼うことを当然視している・・・彼らはむしろ動物の方を重んじているのだ! (p.59-60)

精神病の本質は、世界との関係の持ち方の違いに由来する (p.90-91)

知は本質的に転用されるためにある (p.123)

〔ガタリにとって概念とは〕未来に身を向けた自己成長的な無意識を構築しようとするもの (p.123)

次元や機能の異質混交性、そして具体的な動的編成の特殊性を通して、個人や集団の一種の多声的な生きた空間が確立される (p.131)