「シネマノート」  「雑日記」


2012年05月20日
ネットに書くということ

ネットに飽きたと書いたが、ネットの可能性そのものを否定したわけではないし、その魅力を忘れたわけではないので、ネットに書くということについて考えてみた。散漫に日が過ぎて行き、いまようやく形に出来そうな気がして書きはじめた。

ネットに書くのは、わたしの場合、伝達のためではない。伝達をしたいのなら、誰が読むか不確定なウェブサイトというメディアは使わない。ウェブに書いてなにかを期待するとすれば、メッセージの伝達ではなくて、共感と批評である。何かを考え、共感を受ければ、その思考を通じて少しは世界と関わった(世界の風に自分を晒した)という思いをいだく。批判を受ければ、考えや姿勢をあらためる機会になる。無視されても、再読を通じて、自分が世界とどう関わったかがわかる。だから、書くという自発性や欲望自体が衰弱する気配は、いまのところない。問題は、その方式であった。

ネットに飽きたと言ったのは、具体的には、いま現在やっているような、エディターを立ちあげて、ウェブページのタグを加えながら文章を綴ることに飽きたという意味である。だから、この間、「シネマノート」や「雑日記」を別のやり方で書くことはできないかを模索した。エディターはごくあたりまえのテキストエディターだから、これを替えても意味がない。でも、念のためいくつかエディターを替えてはみた。結果は、もとの「Mery」というフリーソフトにもどってしまった。

「シネマノート」や「雑日記」を書かなかった最大の理由は、だから、1995年以来やってきたHTMLタグの使い方に飽きたからだった。そこで、この間にわたしがやったことは、ウェブページの記述スタイルを替えることだった。この10年間に、ウェブページの文体は、急速にHTMLからスタイルシートへ、そしてさらにはXMLに移ってきた。そのなかで、かつて流行したフレームによるレイアウトは歓迎すべからざるものになった。これには、大分まえに対応した。たとえば、1997年のころは、こんなフレームのページを作っていた。

新しいウェブ言語は、HTMLだけの時代には考えられないような表現が出来る。しかし、わたしに飽きをおぼえさせた最近のウェブ世界の変化は、こうした新しいウェブ言語から直接来たのではない。ブログ、Twitter、facebookなどの流行によってもたらされたのでもない。元凶は、ケータイやスマホと呼ばれるモバイル機器である。むしろ、モバイルがTwitterやfacebookを活気づけ、ユーザーを広げているのである。

いま、ウェブの世界では、「モバイル・フレンドリー」という言葉がはやりで、ウェブデザイナーは、新たにウェブサイトを作るとき、それが「モバイル・フレンドリー」であるかどうかを気にする。「GoMoMeter」とか「WC3 mobileOK Checker」といったサイトがあり、ケータイやスマホで見たときちゃんと見えるかどうか、つまり「モバイル・フレンドリー」かどうかを判定してくれる。
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わたしは、いまはケータイやスマホやPDAといった小型のモニター画面でウェブページを見ることはしないが、世界の流れはそうなっている。仕事で大きい画面のモニターを使うことはあっても、日常気軽にウェブを覗くには小型の画面を使う人が多い。こういう傾向を無視するのはたやすいが、流行やトレンドに身を晒してみるのは悪いことではない。いや、そうすることが好きなのがわたしなのだ。そこで、Twitterやfacebookへの嫌悪は一旦括弧に入れて、自分のサイトを「モバイル・フレンドリー」にしてみることを試みた。それには、スタイルシートやXMLを使うことがよいことも学び、極力そうした新表現を使ってサイトの書き換えを試みた。その結果、「シネマノート」と「雑日記」は挿入した写真のような状態になった。

ある程度出来上がったので、友人のK.K.に知らせたら、<非常にシンプルで、「かけそば」のような印象です。ネット創世記は、動画や音声がおどっていた方が「豪華」な感じがしましたが、今となれば、「かけそば」の方が、旨そうな気がしますね。>というコメントをもらった。わたしは、あまり「かけそば」を食べることはないが、言わんとすることはわかるような気がする。たしかに過剰なほどシンプルだ。これでは、せっかくのウェブの機能を発揮できないのではないかと心配させるほどである。

スマホで見てもらいためからではなく始めた実験でわかったことは、いま、ウエブは、かつて車が家空間のような何でもありの大型車志向へ向かい、それが省エネの小型車志向に立ち入ったように、ハンディなモバイル・コンピュータを標準とする方向に向かっているということだった。現実世界と接したいのなら、現状を受け入れなければならないから、モバイル・フレンドリー志向のこの現状でどういう表現が出来るかを試したほうがいい。

結果的に、文章の単位、ブロックは小さくならざるをえない。大きな写真や動画は避け、文章やアイコン(小型の画像)がメインになる。いずれ、回線が太くなり、モバイル機器の性能が向上すれば、動画や大きな画像も問題なくなることは目に見えているが、<いま>の条件のなかでの表現可能性を最大限に広げるということが、いつの時代にも、表現のチャレンジである。

とはいえ、ここまで書いてきてふと気づくと、わたしは、あいかわらずモバイルの1画面にはとてもおさまり切れない量の文章を書いている。しかし、下に流した文章は、いくら長くても、スクロールすれば、モバイルの画面で読むことが出来るだろう。いや、読んでもらうことが第一ではなく、モバイルでも読めるということ、そこからフィードバックしてくる風の強さがわたしには問題なのだ。

ネットに書くことからしばらく離れているあいだ、活字になることを前提とした文章を大分書いた。それは、今後も続ける。ネットとのちがいは、編集者の存在だ。たまに編集者不在の注文もあるが、わたしの場合、編集者の介入がなければ注文原稿は書けないから、それは具体化しない。活字になることを前提とした原稿は、出版社があり媒体が厳然と存在するから、編集者をはじめとする関係者との関係を抜きにしては具体化できない。にもかかわらず、たまに、あたかも何を書いてもいいかのごとき態度で注文をしてくる編集者がいる。しかし、その結果は、(当然会社の歯止めがあるわけだから)矛盾した結果に陥る。ならば、最初から明確な路線とテーマを指定してきて、それをこちらがしたたかに「裏切る」というほうが現実的だ。