「シネマノート」  「雑日記」


2012年02月12日 (3:35am) JST
ある対話

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――「シネマノート」も「雑日記」も、全然更新していないけど、どうなってるの? 体でも悪いんじゃないかって言うひともいるが。
――体はいたって元気ですが、まえにも書いたように「ネットに飽きた」のです。
――飽きたって、無責任だなあ。「シネマノート」の場合は、社会的責任みたいなものも多少はあるんじゃないの?
――え、「社会的責任」? そんなものはないと思いますよ。わたしはネットをそういう場とは考えていません。意味がないと思ったら辞めるのがむしろ責任じゃないですか?
――とすると、閉めることも考えている・・・。
――まえに書いたものがあるから、アルカイブとしては残しますが、閉めるというより放置することはありえるでしょうね。ときどき書きたいことを書くというぐらいに。
――いまFaceBookやTwitterが浸透しているわけだけど、ああいうのは全然ダメなのかな? 会社なんかでもブログをFaceBookに移したところもあるよね。何か発言をしようと思ったら、みんなが使うものでやらないと言いたいことも伝わらないんじゃない?
――「言いたいことを伝える」気はないんです。何か言いたいことがあって書いてきたわけではない。「伝える」というのも、こちらの頭のなかのものを他人の頭のなかに移すというような意味だったら、全然そんな気はないです。それに、そんな「伝達」は起こりえないから。
――ん、じゃあ何をしたいの? あなたが書いたものを読むというのはどういうこと? あなたが考えたことを受容するということだよね?
――いや、ちがうのです。誰かが書いたものを読むということは、それを素材にして新たに何かを組立るということです。そういう創造の材料を与えること。だから、どんな「受け取り」方をされるかはわからないし、それは、「受け取る」といっても決して受動的なものではないのです。
――解釈学や脱構築理論のことを頭に置いて言っているんだろうが、じゃあ、「シネマノート」や「雑日記」がいま直面している困難は何なのか? 創造の材料を提供する場としてうまくないというわけなの?
――こちらのスタンスはあまり変わっていないと思うんですが、環境――インターネットの環境が変わり、そういう材料を提供する場ではなくなったということです。材料は提供しはしても、創造的思考の材料ではない。そういう風に使ってくれる人はいるだろうが、むしろ、メッセージ(あなたが言った「伝達」の中身です)を伝える場のほうに移行してきているように思うんです。
――まあ、FaceBookやTwitterの文章は短いよね。材料というより、さっと読んでわかる文章にならざるをえない。そういうのは嫌だと・・・。
――イヤですね。「シネマノート」の場合、「読みにくい」と言われても改行のない文章をびっちりとレイアウトしたのも「さっと」は読めないようにしたつもりです。
――なら、短歌や俳句みたいに、短くても密度を高めるって方法もあるんじゃない? 長く書きたけりゃ1作品についてTwitterに20回書くんじゃダメなのかな? それこそ、読者が自由に読みつなげてくれるよ。
――「密度」って言い方は、文章のなかに意味が詰まっているという印象に聞こえますね。そういう方向はわたしとは大分違うんですよ。
――でも、いま、たとえばアカデミー賞候補の作品について君がどう考えているかとかを知りたい人はいると思うよ。そういう(義務とは言わないけど)サービスはしてもいいんじゃないかな?
――アカデミー賞候補についてはいずれ書きます。【追記→「2012年度アカデミー賞が決まるまで」】
――アルカイブにするといっても、それならば、もう少し整備しなければならないところもあるでしょう?
――はい。
――はいじゃないよ。ここまでネットにコミットしてきて、何か代案はないのかねぇ?
――マインド・スケープを応用したようなサイトだったら、やってみてもいいような気がしています。その場合、一個一個は短文でも、ユーザーの操作次第でさまざまに連関しあうから面白いのです。
――そこまで考えているんなら、なぜ実行しないの? ソフトの問題かね?
――自分でやりたいので、研究しているわけです。自分のサーバーに仕掛けるわけですから。
――ああ、あんたの場合、いつもそこが問題なんだよな。何でも自分でやりたいというやつ。そんな大したことをやってるわけでもないのに、ウェブサイトも自分で書かなけりゃ気が済まないんだろ?
――まあ、そうですね。
――リモートでも、ケータイからでもちょちょちょと書けばウェブ化してくれるような環境が整っているのに、わざわざ HTMLのタグを打ち込まなければ気がすまないとはねぇ。時間もかかるし。あいかわらずケータイは使わないの?
――厳密には、かけるだけにはたまに使っているんです。先月でお役ごめんになったんですが、毎週ゲストを迎えて公演を打っという講座をやっていたので、駅にゲストを出迎えに行ったりするとき、ケータイを持っていないとまずいなんてこともあったんです。でも、そのケータイが3月から機種変更になるんで、普通のやつを買い換えるか、全然やめちゃうかするしかないんです。だから、今後は全然持たなくなるかもしれません。
――どれどれ、どういうやつ? (ケータイを手に取って見る)うわぁ! 「デジタル・ムーバ P207」じゃない! こんなの使っているやつがいたのかぁ! メールも出来ないモデルだろう?
――そうです。しかし、わたしにはこれで十分でした。重さもたったの70グラムだし。いまのはみんな100グラム以上あるでしょう?
――ケータイはいまやスマートフォンになり、それだけで、あんたが机のうえのコンピュータでやってることがほとんど出来るわけだよね。なのに、なんで使わないのかな。理解できない。
――簡単に言えば、自分で組立られないからかもしれません。FaceBookやTwitterも、向こうまかせのところがイヤなんですが、ケータイの電子機能は再現できても、暗号化や回路のブラックボックス化で、企業秘密を知らなければ実用になるものは作れないのです。
――でもさ、コンピュータだって向こうまかせだろう?
――いや、全部自分で組み立てたものしか使っていないです。OSは作っていないですが。
――えぇ? Macも?
――もちろん、Macは、Hachintoshしか使っていません。この間、「シネマノート」や「雑日記」をさぼってジャンクPCのハッキントッシュ化にも精を出していました。それについては、「ハッキントシュ」に書くつもりですけど。
――じゃあ、その「マインド・スケープ」のウエブサイトが出来上がるまでは相当時間がかかりそうだね。がんばってくれとしか言いようがないけど、早く形になるのを祈る。
――別に「マインド・スケープ」じゃなくても、納得できるものがあればいいんです。「マインド・スケープ」もありきたりになっているし。
――またまた、そういう進めたり戻したりはやめてほしいよ。とにかく、何とかしてくれと言いたい。
――はい、何とかするようにします。