「シネマノート」  「雑日記」


2011年10月23日 (7:16 pm) JST

メールの返事にかえて

pic
K・K さん、メールありがとうございます。「雑日記が更新されず、映画批評も更新されない」というご心配、元気の出ないこのご時世、老骨ならずとも、もしやの途絶ということもままありますから、もっともなことと思います。ご心配をかけてすみません。映画批評のほうは、「10月公開作品短評」を更新していますが、10月は本文がまだ載っていませんね。「雑日記」にいたっては、8月15日に書いたきり、停まっていることはたしかです。その内容が北イギリスのセラフィールドと「ロンドン暴動」のことなので、バロー・イン・ファーネスの「FON」フェスティヴァルに行ったまま日本に帰ってきていないのではないかと思っている人もいるようです。いや、ちゃんと日本にいて、毎日放射能をあびています。

更新を積極的にしていない理由の一つはネットに対するわたしの関心の変化です。もう一つの理由は、大学がはじまり、毎週ゲストへの対応をするなかで、姿勢をいわば「発信」するほうのモードに替えることが難しいということがあります。書いたり表現したりすることは、ゲストをブッキングしたりホスピオタライズするのとは真逆のことで、肉体的に疲れる以前に、そのときどきの出来事に対応するある種受動的な姿勢が主になり、こちらから積極的に出していく姿勢が従になってしまいます。その代わり、「教室を教室でなくするチャレンジ」は、とても活気づいています。

「シネマノート」の長文のレヴューはさぼっていますが、映画はあいかわらずほぼ毎日見ています。ただ、3Dが多くなって、かなわないですね。その分、質があがったというのならいいのですが、急に狂ったように登場しはじめたいまの3Dは、ある種の「手抜き」です。その点で、オバカな作品ほど3Dが活きるという逆説もあります。ヴィム・ヴェンダースはもともとメディア装置が好きな監督ですが、『pina』は3Dの意味がない失望作でした。挿入される2Dのピナ・バウシュの古い記録映像は、彼女のダンスの凄さが歴然としていて3Dを内から否定している感じなのは皮肉でした。

ネットに対するわたしの関心の低下はどうもおさえようがなさそうです。いまネット技術は、ウェブ→ブログ→SNSへと重心移動していますが、facebookやlinkedinやとtwitterは、かつてのウェブにはあったマニュアル(手作業)の要素は希薄です。すでにブログでも、それ以前のリンクの作業が自動化しましたが、SNSになると、さまざまな参照機能はもとより、仲間もどんどん増やしてくれます。かつてのウェブでは、ページを作ったら誰かが検索してアクセスしてくるとか、相手を探して知らせるとかする必要がありましたが、SNSは自動的に相手に更新や新規の情報を知らせてくれます。新しいお相手まで探してくれます。

しかし、SNSでの「出会い」に驚きがとぼ乏しいと感じるのはわたしだけでしょうか? はやばやとfacebookに見切りをつけ、アカウントを閉鎖してしまったわたしがそう言うのはおかしいかもしれませんが、どうもそんな感じがします。おそらく、そこがSNSの新しさであり、そこから今後何かが生まれてくるのでしょうが、いま現在は、SNSの普及によって逆に人間関係が狭く、閉鎖的になっているように思えるのです。ちょっと流した情報で多数の人間が集まったり、ビジネスが発展したりすることはありますが、意外性や出来事性はどんどん萎縮しているではないでしょうか? かつてのテレビが世界を「像」にし、すべてをデジャヴュにしてしまったように、SNSは、すべてをあらかじめプログラムされたものにしているような感じがします。その意味では、いまのSNSが完全にパワー・システムにプラスです。

いまわたしが言ったSNS批判は、無知なるがゆえに言えることで、きわめて表層的な解釈だと思います。だから、SNSをスタンダートとは全然違う使い方をすれば、ものすごく面白いことが起きるのだとは思います。しかし、いまのところ、わたしには、その方向が見えないのです。そして、そうするなかで、古典的なウェブサイトは、更新しても「誰も見ない」という状態にみまわれることになります。

「シネマノート」のアクセス数は減ってはいないようですが、昔のような「とんでもない相手」との出会いをほとんど生まなくなりました。そうなるとこちらの意識もダウンして、勢いが出なくなり、その分ユーザーのほうも飽きてくるという悪循環が起きます。しかし、傾向として、「シネマノート」をデータベースとして使う人が増えてきました。「発見」や「出会い」は、facebookやtwitterのほうに行ってしまいましたから、そういうものと縁のない「シネマノート」がそうなるのはあたりまえです。

データベースだって、事後的な出会いや発見があるわけで、わたしはそれを無意味だとは思いませんが、いまのわたしの関心からすると、もしデータベース的なものの作成に関わるのなら、YouTubeやVimeoに映像を投稿するほうが面白いという気がします。それを少し始めていますが、そういうことをしているとますます「シネマノート」から遠ざかってしまいます。この種のサイトとしては、最近、Vimeoの動きが活発ですね。先日、ゲストで来てもらったAGFは、わたしがSONYのHDR-AX2000で撮った映像の一部を早速 Vimeoに載せました。Vimeoは、いまアーティストのあいだでYouTubeより人気があります。

K・K さん、メールで、「ウォール街を占拠せよ」デモやスティーブ・ジョブズの死去についても「雑日記」に何か載るかと期待していたと書かれていますね。ごく最近ではカダフィの惨殺という事件もありました。どれも多くのことがすでに語られています。スティーブ・ジョブズについては、たくさん書かれた追悼を流し読みしても、彼と NeXT とのことをちゃんと書く人がいないので、書いてみたい気がしなくもなかったのですが、しかし、すべてが回顧話になりかねないのでやめました。そういえば、9年ほどまえに、大学の「メディア論」の講義でNeXT のことをとりあげました。そのころはいまより学生へのサービス精神が旺盛でしたから、講義後その要約までウェブに載せたりもしていました。

ジョブズとNeXT に関しては、その昔、『MACPOWER』や『UNIX MAGAZINE』などにも詳しく書いたので、わたしのサイトにサイト内検索をかければ、いろいろと出てくるはずです(→「雑日記」「anarchy」)。いまさら書き加えることはありません。若くて「ハッタリ」半分の彼のプレゼン・パフォーマンスを目にした者には、だんだん老人のような風貌になっていく彼の姿は痛ましいものでした。その時代に書きたいと思いながら書かなかったのは、ジョブズが京都びいきで、京都の板前料理の店の主人とスタッフと食材をまるごと彼の自家用機に乗せて運びたいという計画があったが、彼の発病のために実現しなかった話ぐらいです。

ウォール・ストリートのデモも含めて、「twitter革命」とか「facebook革命」とか言われますが、それは、テレビや新聞が好む「物語」にすぎないと思います。デモは、どんなに衣装が変わっても、身体的な行為です。twitterやfacebookで効率はよくなったかもしれませんが、それで失われたものもあります。カダフィが惨殺される姿をケータイ(「スマホ」か?)で撮った映像を見ましたが、それがフィルムで撮られたら、全然印象がちがったでしょう。ケータイで撮られたことによって、彼の死の意味も軽くなりました。

電子メディアと社会変革との関係で言えば、いま誰が宣伝したのでもないのに、世界的に広まっている放射能測定は面白いと思います。ガイガーカウンターやイオン・チェンバーの自作の流行も今後の動向を変えるでしょう。すくなくとも、アートはこれで大分変わるはずです。放射線医学のことを「ラディオロジー」(radiology)、X線技師や放射能測定をする人を「ラディオロジスト」(radiologist)といいますが、それも含めて「ラディオ」(ラジオ、ラディエイション)の出来事とみなすならば、「ラディオアート」(radioart ラジオアート)を、アートはむろんのことラジオアートとも無縁の人が始めたということであり、いよいよラジオアートの時代になったことを思わせます。汚染地域の測定だけではなく、家のなかにある放射性物質を測りまくったり、線量計を持って街を歩いたりすることが新しいライフスタイルやアートの形式を生むのを、あと10年ぐらいすれば目の当たりにできるでしょう。

ウェブの日記というものは、なんらか自己顕示欲的な自発性が生まれないとできないのですが、メールをいただいたおかげで、久しぶりに更新できました。感謝します。