「シネマノート」  「雑日記」


2009年 09月 21日

●こころがわり

以前、「RAPTORreloaded」というプロジェクトが立ち上がり、参加を呼びかけられたが、その趣旨に反発したということを書いた。理由は、このプロジェクトは、当初、ウィーン近郊のミステルバッハ (Mistelbach)というところにあるワインヤードで、「ブドウを食べてしまう鳥(*)を追い払う」というテーマでサウンドアート作品を集めることになっていたからである。これでは、まるで、最近日本でも導入されている若者追い払いシステム、つまり中高年には聞えないが若者には聴こえる高い周波数のわずらわしい音をばら撒いて、一箇所にたむろする若者を追い払うシステムと同じだと思ったのだ。
が、わたしの異論は、内部で反響を呼び、テーマの再検討がおこなわれ、「追い払う」というよりも「武装解除させる」ないしは「音に惹かれて、ブドウを食べる気をなくさせる」という方向が採用されるようになった。
わたしは、もともと、追い払うよりも、ブドウ畑に来た鳥をめろめろにしてしまうことに関心をいだいた。少し文献を調べてみると、人間の耳には聴こえない高い周波数がそういう可能性を持っているかもしれないということを知った。そこで、超音波の送信機のことを模索しはじめたのだが、可聴周波数よりはるかに高い送信機は、たとえば、メガネを掃除する超音波装置を改造すれば作れることがわかったが、それではちょっと高すぎるのだった。25,000Hzぐらいがほしいのだが、うまい技術が見つからない。
そのうち、このプロジェクトでは、固定した4つのスピーカーを使い、それぞれにMaxで150秒しかセイブできないROMにあらかじめ録音したファイルを流すという細目がわかった。これでは、自作の送信機を送り、ワイン畑に設置してもらうことはできない。しかも、このスピーカーは、上はせいぜい5,000Hzぐらいまでしかカバーしないものであるという。
そんなわけで、わたしは、一旦、辞退するメールを出したのだが、親愛なるマルチン・ブラインドル(エイーリアンプロジェクト)は、なかなか辞退させてくれない。そもそも、わたしは、「サウンド・アーティスト」でも「ミュージシャン」でもなく、一貫して電波や波にこだわる「ラディオアーティスト」だ。音作品を提出するとすれば、それは、電波や波を使ったライブパフォーマンスの結果にすぎないのでなければいやだ。だから、超音波システムが出来て、それが郵送して設置してはもらえないとしても、それをこちらで作動した結果として得られた音でなければならない。
・・・といった御託を並べているうちに、わたしは最後の一人になってしまい、決断を迫られた。そこで、すでに内輪のサイトにアップロードされている他のアーティストの音をいくつか聴いてみた。すると、ほとんどがみな「音楽」なのですな。鳥との「融和」という路線が加わったこともあるのかもしれない。とにかくみな「美しい」のです。
ひねくれ者のわたしは、「音楽」ではないものならいくらでも作れるような気がしてきた。しかし、「送信」という基本は守りたいので、コンピュータの音声ソフトに自作のインターフェースをかませ、自己発振的な状態を作ることにした。
不思議なことに、そうやって(鳥にとっての)「適正」(とわたしが臆断する)周波数の音のファイルを作ってみたら、ある部分で鳥がさえずっているような音が混じるのだった。
(*むろん、鳥といってもさまざまで、このワインヤードに来る鳥の多くは、"Starling"という種類の鳥だとういう)。
http://alien.mur.at/raptorReloaded/about.html?lang=en


2009年 09月 20日

●「分厚い本」もいろいろ

先日、分厚い本を批判するような文章を書いたが、本日掲載の「BOOKナビ」(東京新聞)には、杉村昌昭さん訳したフランソワ・ドス『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』(河出書房新社)というまさに分厚い本を取り上げた。
毎度杉村さんのパワーには感銘するが、本書は、索引や注を入れると600ページちかい大著。わたしは、短いスペースでの紹介ということもあって、そのなかに書かれている、ガタリの若い妻ジョゼフィーヌ(色々なことを気遣ってか、ファミリーネームは書いていない)とのエピソードに触れるにとどめたが、本書は、決してそんなゴシップ本ではなく、ドゥルーズとガタリの思想へのユニークで非常に目配りのよい概説である。膨大な引用(ちゃんと出典を明記してある)で書かれており、しかも、それが修士論文や博士論文を本にしたたぐいのものとはちがい、一気に読み通せるリズムを持っている。こういうのを本当の労作というのだ。
著者が自信をもって言うように、本書は、「ガタリを過小評価して消し去り、ドゥルーズの名前だけを持ち上げるというような《偏向》を是正する」力を持っている点も高く評価できる。
アカデミズムは、ガタリを消去したがっているが、ガタリの重要性は、まだあまりに過小評価されている。かつてガタリは、「人間存在の複数性」、つまり「ひとりの個人は、すでにさまざまな異質的構成要素からなる"集合体"にほかならない」と語ったが、このことがもっと「あたりまえ」になれば、世界は激変するだろう。「ひきこもり」や薬物中毒者などへの視点も全く違ったものになるだろう。
しかし、本書は、ガタリをもちあげてドゥルーズを過小評価するような過ちは決して犯さない。二人の奇跡的な「豊饒な出会い」を記述しようという姿勢は一貫しており、それが本書の「分厚さ」となっているのである。
二人の生い立ちから死までの足跡を追いながら、単に、彼らの思想を「私生活」に還元することなく、逆に「複数」化することに成功している。
いまでも、大人が何か問題を起こしたとき、その「原因」を彼や彼女の幼年期の「トラウマ」に「還元」するのが依然無批判に行われている。しかし、そいうことの誤りは、ドゥルーズとガタリが、『アンチ・オイディプス』でも「幼年期をあらゆる社会病理の出現の場として位置づけてはならない」とくりかえし批判し続けたことなのだ。ドスは、彼らの「アンチ・オイディプス」の思想を、たとえば、「家族主義的因果律に対する批判」、「人は自分の家庭によってではなく世界によって錯乱する」、「錯乱は精神分析の言うようなものではまったくなくて、世界全体に関係するもの」というような言い方で概説する。
ポスト構造主義やラカンとの微妙な距離に関しても、なかなかうまい概説をしている。カフカへの深入り、ガタリと自由ラジオ、ドゥルーズと映画、二人の著作を読んでいれば周知のことが、まるで初めて耳にするうような新鮮さで再構築される。
ナチズムの時代から始まり、いまも続いている傾向――「もはやお互いに見つめあうことはできない、あるいは"疲労感"やおそらくは猜疑心なしにはひとりひとりが互いに見つめあうことができない」という社会的気分――の時代に対し、ドゥルーズとガタリはいくつかの代案を出した。それは、「同一のもの、モデルの自己同一性に同調しすぎる古い形而上学」の否定、「人が同じ問題を問わないように、そして同じ仕方で問わないようにする」ことの薦めだ。
実際には、教育の分野でも、マスメディアでも、個々のコミュニケーションにおいても、「同一性」への信仰が前提されている。「アイデンティティの喪失」が嘆かれ、他人に「同調」することがよしとされる。出来事や一回性、異質性や特異性が尊重されることは稀なのだ。それらは、たかだか「芸術」や「特殊なこと」あるいは「狂気」や「犯罪」のなかで「評価」(批判・断罪)されるにすぎない。
本書は、ドゥルーズとガタリが、当初の無視から、「世界のあちこち」にどのように浸透していったかについても、インタヴューなどもまじえながら、丁寧に(とりわけ北アメリカへのそれが)記述されている。ただし、その現場をよく知っているわたしの目からすると、日本についての記述は偏っているように思われる。日本とガタリとの関連の記述で気になるのは、彼が初来日した1980年から1983年ごろまでのあいだのガタリが日本で与えたインパクトの記述が全くないこと、また、ガタリと日本の建築家との関係が事実以上に誇張されていることである。わたしは、彼が来日した裏事情も知っているのでいくらでも解説できるが、いずれにしても、このへんの無批判でジャーナリスティックな記述を読むと、それまでの概説が、急に色褪せて来ないでもない。しかし、本書にそこまで問うのは酷と言うものだろう。それらをたったの10数ページで概説することは不可能なのだから。


2009年 09月 18日

●絶望

今期は、25組くらいゲストを呼ばなければならない「身体表現ワークショップ」の初日。
大学へ行くまえに、来週のゲストの山崎望さんが花火の実演を見せてくれるので、国分寺消防署に届けを出しに行った。
初日なので、イントロをやっておこうと、まず、ここ20年ぐらいの身体性の変化について話す。身体が「肉体」として内在的なパワーをもちえた(あるいはそう思えた)時代は80年代までで、以後「電子」装置に頼らなければリアリティを維持できない「アンドロイド」的身体への移行が始まった。そして、そういう過渡期に青春を送った世代(30台後半)が、「肉体的身体性」と「アンドロイド的身体性」のはざまで行き場を失ってドラッグなどに耽溺する云々。身体性の時代的変容については、わたしも何度も書いたり話したりしてきたので、何ら目新しいことはないが、この授業に来ている学生たちは初めて聴くはずだ。しかし、映像などを見せているのに、「講義」となると、わたしから数メートルしか離れていない距離で、頭を垂れて眠り込むのがいる。これでは、別の日にここで講義をしている押井守さんが絶望するのもわかろうというものだ。氏は、1年客員教授をやってみて、うんざりしてしまったらしい。
さらに、後半、「講義」ばかりではと思い、わたしが海外で見せてきたラディオアート・パフォーマンスの装置を学生に使わせてみるというのをやった。そうすることで、わたし自身が今後使うことをやめるきっかけにもしようという思いもあった。同じ装置を何度も使っていると、やることが「芸」になってしまい、わたしがやろうとしている方向からはずれてくるので、そろそろ使うのをやめようというわけだ。
この装置は、楽器とはちがい、あらかじめセットアップすれば、誰がやっても似たような音が出る。まあ、決して同じではないし、わたしも、何度かやるうちに、身振りや音の出し方が一つの「芸」になり、「楽器」化しはじめるのだが、わたしとしては、使うまえのコンセプトやセッティングに意味があるアートもあるということを知ってほしかった。
もともと、わたしはこの装置で「音楽」を「演奏する」ことをめざしてはいない。むしろ、そういう装置を作り、セッティングするプロセスを問題にしてきた。
ところが、その装置を使って「音を出した」学生たちは、それなりに楽しんでくれたようだったが、前期にも熱心に出ていた学生(ただし、装置を使ってみないと誘っても頭を振って絶対にやらなかった)が、感想でこう書いた。
「訓練といったものが必要ないのに美術なの?どこがプロ?と思えてしまう」。
ああ、ここでアートを語るのは無理だなぁ、「芸」ぐらいまでしか無理なのだなあ、と思う。「美術」も「プロ」もわたしにはいらない言葉なんですがね。初日からやる気喪失。
http://anarchy.translocal.jp/TKU/shintai/


2009年 09月 10日

●分厚い本

東京新聞で書いている書評的エッセーのために、本屋に行くと、何か適当な新刊書がないかと思うのが癖になってしまったが、「思想書」という注文に応えられる本が少ない。時代の傾向か、そういう本の出版点数が少なくなっているうえに、本屋自体がだんだん「思想書」を敬遠するようになっている。
この日、都心の大きな書店に入ったら、思想書の棚に分厚い本がこれみよがしに並んでいるのを発見した。上下巻で猛烈な厚さである。何か「思想書」が売れない傾向への挑発のような厚さだ。
おそらく、この本を作った人は、時代の傾向と読者の意識をたくみにとらえているのだろう。いまの時代、ティッシュペイパーのように読み捨てるタイプの本か、さもなければ、「買っておけばいつか役に立つかもしれない」と思い込ませるタイプの本しか売れないからである。ただし、本が売れなくなる以前から、百科辞典は、「買っておけばいつか役に立つかもしれない」という幻想を植えつけることによって一定部数さばけたが、いまは、デジタル化が進み、重くて持つのが大変な紙メディアとしての辞典類が凋落の一途をたどっている。
この点、分厚い思想書の方は、もっと「ありがたみ」のあるかのような知的幻想を誘うようにできているので、一定部数の購買が保障され、デジタル化もまぬがれているのである。電子版ではその「ありがたみ」が薄れてしまうからである。
フレデリック・パジェスの皮肉味のきいた楽しい本『哲学者は午後五時に外出する』(夏目書房)には、こんなエピソードが載っていた。
<イェニー・マルクスによれば、彼女の夫は意図的に「膨大な歴史的資料をつけ加えることにした。〔・・・〕なぜなら、ドイツ人は分厚い本しか信じないから」なのだそうである。>
むろん、これは、あの大著『資本論』の話である。わたしが学生のころ、文庫本でも十何巻だかになる『資本論』をとにかく買っておくのが流行だったが、全巻読破するどころか、第1巻の1、2ページしかめくらなかったという人を数多く知っている。マルクスは資本主義のからくりをよく知っていたわけである。