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2009年 03月 29日
●気晴らしのWindows 7 Ultimate Beta
シネマノートを書かなければならないと思いながら、気晴らしがしたい気分で、ダウンロードしてしばらく放っておいたテスト版の「Windows 7」をインストールしてみることにした。
Vistaとくらべて特別の新さはないが、Vistaのとき重かったマシンでもかなり軽く動くようだ。わたしの場合は、Core2Duo 3GHzのCPU、4GBのメモリーのマシーンに乗せたので、速さの変化を体感することはできなかった。
Vistaの評判が悪くて、「XPにダウングレードできます」と最初から表記して売っているパソコンなどもあるが、Vistaはそんなに悪いOSではない。マシンにある程度のパワーがないと本領を発揮できないだけで、機能や性能自体は、XPよりはるかにいい。
しかし、Vistaは、マイクロソフトが予想したほど売れず、その間に次のOSである「セブン」のテスト版が登場したので、「何を考えているのか」と言う人もいるが、「セブン」は、Vistaの修正版であって、Vistaのユーザーは、「セブン」に吸収され、そのかなりの修正度のゆえに、Vistaを買い控えていた人は「セブン」の正規版の登場とともに、そちらに走り、マイクロソフトは、Vistaの失点を一気に帳消しにするのではなかろうか?
それにしても、こういう、認証なしで使えるテスト版(当面、これまで使ってきたソフトを入れてみても、問題なく動いた)を使ってしまうと、認証のいる正規版を買って使う気にはなれなくなる。
ちなみに、このテスト版は今年の8月1日までしか使えないらしい。
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2009年 03月 23日
●グラスゴウ風邪日記(8)
8時に迎えの車が来るというので、またもや早々と朝食をとり、最後のパッキングを済ませてロビーに行くと、昨夜遅くまで打上で飲んでいたはずのバリーとブロニーがロビーにいた。まあ、ラドゥ・マルファッティのようなマエストロもいっしょに帰るので、儀礼をつくして早起きしたのだろうが、タフだねぇ。ロビーで抱擁とフレンチキッスがくりかえされ、ラドゥといっしょにウィーンに帰るクラウス・フィリップほか6人がマイクロバスに乗る。
空港にはすぐ着いてしまったが、例によってゲイトが直前にならないと決まらない。みんなと別れ、空港内を散策する。オンライン・チェックインをしておいたので、簡単にチェックインできたが、手荷物検査はうるさかった。ベルトも靴もはずさせられた。こういうことをとっても、もう航空機の時代は終わったのだ。ずり落ちそうになるズボンを押えながら男女が裸足で床を歩き、乱暴に流れてくる荷物をあわててかきあつめる。ここには、旅の優雅さなどはどこにもない。
ヒースロウに少し後れて着いたが、成田行きの便への接続は楽だった。パリのシャルルドゴールなどよりははるかに便利に出来ている。が、テレビも新聞も見なかったので知らなかったのだが、昨日成田で航空機事故があり、成田への便は羽田に着くかもしれないという。遠まわりをする可能性があるので燃料を積むために出発が大分遅れた。
さて、1時間半ほど遅れて出発した飛行機は、行きと同じボーイング747-436だったが、行きに懲りてさらにもう一枚セーターを着込んだのに、寒さは行き以上だった。何なのだ? わたしが老化して感覚がおかしくなっているのかとも思ったが、右隣の40歳ぐらいの女性は、厚いオーバーを着込み、自前の毛布を出して頭からかぶった。なるほど。左側には「地球の歩き方」のロンドン篇を持った学生っぽい女性が座っていたが、寒さに耐えかねてアテンダントに毛布を頼んだ。判で押したように、そのアテンダントは、「温度を上げますからお待ちください」と言ったので、わたしが口をはさみ、「いつもそういうことばかり言って、全然暖かくならないじゃない」と言うと、あわてて毛布を二人分持って来た。その女性は、2枚の毛布を身体にまきつけていたから、やはり寒かったのだろうと思う。
それにしてもなぜなのだろうという思いがおさまらず、アテンダントの姿を見て、寒さの理由がわかった。彼や彼女らの労働はすごい。食事など立って食べている。昔ほどのサービスはなくなったが、最低限、食事はくばらなければならない。人数は切り詰められているから、仕事量が多い。走り回るのが普通なのだ。あれで、室温を高くしたら、とてもあの労働量をこなせない。つまり、機内の温度は、走り回って労働するのに最適な温度にしてあるのだ。客も、飛行機に乗ったら走り回わらなければならない。しかし、これって、サービス業としては、末期現象ですよね?
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2009年 03月 21日
●グラスゴウ風邪日記(6)
早く目が覚め、8時まえに食堂ルームで朝食。午前中、部屋でシステムのテスト。30分の一発勝負だから、システムが動かないではサマにならない。この日の30分のために来たようなものだから、失敗しましたすいませんでは済まないわけだ。
結局、このへんが、「音楽」と「パフォーマンス」との違いで、「音楽家」の方は「そんな厳密じゃないよ」というが、やっぱりちがうのだ。わたしのこだわりでは、パフォーマンスはプロセス重視で、メカニカルなアキシデンツもパフォーマンスに含まれるが、「音楽」は、メカは音を出すための道具であり、道具が予定通りに動いてくれないとい失敗とみなす。
部屋の掃除に来たが、ドアごしにタオル類を交換して、掃除は省略してもらった。
昼まえ、近くのイタリア料理店へ行く。新しい店。ペストのパスタを食べ、ソルべのデザートを摂り、エスプレッソを飲んですぐに出る。ワインが飲みたかったが、風邪を気遣ってあいかわらずひかええいる。今日が済めば、ガンガン飲もうと思う。
12:45pmロビーに降りたら、すでに迎の人が来ていた。マイケル・J・ポラードを元気なくした感じの人。The Archesまでの車中、おしゃべりをし、「今日はホテルとのあいだを何回も往復しなけりゃならないね」と言うと、「俺はアーティストじゃないけど、この仕事に満足しているんだ」と言った。
会場に入るとバリーがすぐ出てきたが、約束のテーブルも、ステージの下の場所もビデオも準備が出来ていない。こういうのには慣れているので、ちょっとドスを効かせ、急がせる。が、ステージは、動かせない、みんなこの上で演るというので、妥協する。
PAは意外にお粗末で、エンジニアも素人っぽい。これなら、東経大のわたしのイヴェントの方がマシだなと思いながら、INSTALに過大なイメージをいだいていたことに気づく。
4pmまえ、時間通りにスタート。まずバリーのフェスティヴァル開始のイントロとわたしの紹介があり、早速パフォーマンスを始める。わたしは「音楽家」ではなく、ラディオアーティストで、音は「電波との遊び(プレイ)」のためのインデックスにすぎないと言っても、場が「音楽祭」だから、何をやっても、プレイは「演奏」とみなされる――と思い、音を「楽音」から異化するために、電波を操作するわたしの手先を大画面で映すビデオ装置を用意してもらった。まあ、グラーツで2006年にやったヴァージョンの流れだ。今回は、4回路の送受信システムを使った。
当人はノレたし、反応はなかなかよかったと思うが、ノイズやドローンの変種と受け取られては困るなと思いながら、ステージを降りた。とたんに、「エンジニア」がやってきて、テーブルをそさくさと移しはじめた。このあと10組が演奏をするのだから、まるで学芸会である。
以後、Radu MalfattiとKlaus Filipのウルトラ・ミニマルな演奏(10分おきぐらいに天井をゆるがす列車の音は意識していないということだから)このミニマルさだと、生の観客よりも、録音という最終地点のみを意識した演奏になるのではないかと思った。
Nikos Veliotisの、チェロを砕いて機械で粉にするパフォーマンスは、色々理屈があるらしいが、わたしには、古いという印象しかおぼえなかった。
声帯を「楽器」にする「演奏」が二つあった。Steve McCafferyのとJoan La Barbaraので、どちらもコンセプトや方法がちがうのだが、「芸」としては面白いとしても、アートとしての驚きはなかった。
いまのアートにとって、身体をどう「処理」するか――コンピュータで「消す」のも一法――が重要なテーマと思うが、この点に関しては、この日のわたしがちゃんと聴いたかぎりの「演奏」からは特に新しいものを発見できなかった。こちらが風邪を引いてボケていたせいかもしれない。
http://dezji.wordpress.com/2009/03/22/instal-09-day-two-glasgow-arches-21309/
■2009年 03月 20日
●グラスゴウ風邪日記(5)
今回、レクチャーの話がバリーから出たとき、何を話せばいいのかをきいた。例によって「あなたが話すことならなんでも面白い」といった乗せ方をされ、「しかし~」というわたしの反発があり、結果的に「これまでラジオでやってきたこと」を話して欲しいというメールをもらった。通常、わたしはこれこれについて話して欲しいとやや強制的に依頼されると、それに反発し、同時にエネルギーもわいて、「いい仕事」ができるというひねくれたパターンがある。今回の反発は、不幸にして、そういう創造性をはらんでいなかった。どこかで乗せられている感じをどこかで崩そうと思っているうちに、時が経った。自分がやってきたことなら、アドリブでもいいかという思いもあり、記録映像のクリップをDVDのチャプターにしたものだけを用意した。それをどう使うかを練らないまま、飛行機に乗った。
丁度1年まえの3月にNewcastleでやった「レクチャー・パフォーマンス」は、やったあと、自分のなかにフィードバックがあり、5月のTorontoの集まりで、それをさらに深め、最終的にRigaがから出たムック「SPECTROPIA」で概念的な部分をテキスト化した。さらに、その後、刃根康尚さんが、このテキストをたたき台にして面白い対話的パフォーマンスを仕掛けてくれたので、自己反省もできた。
今度は、そういう具合にはいかないということは感じていた。チャレンジの方は、音楽のフェスティヴァルで「音楽家」ではないわたしが音もあるパフォーマンスをするという面に重きが置かれ、レクチャーでチャレンジする気が失せたからだ。とにかく、今回は、やるべきことが多すぎた。
10時すぎにジョナサンが迎えに来て、Glasgow Movie Theatreへ行く。ここは、映画館だが、CCAはときどき教室としても使うらしい。来てみてわかったのだが、この日のイヴェントを仕切っているのは、CCAの二人の女性の先生で、バリーではなかった。11時の開始には、その先生たちがまず数百人の学生に話をし、それからバリーがわたしの紹介するのだった。わたしの紹介をしたあと、わたしが講壇に立ったら、分厚いノートがあるので、見ると、それはバリーのだった。彼にしてアガることがあるのかと思ったが、そんな雰囲気の開始だった。
しかし、わたしは大勢のまえで話すのは慣れているので、アドリブで行くことにした。というより、今回、原稿は一切用意していなかったのだ。来てからホテルで書くつもりだったが、風邪とワークショップでその余裕はなかった。結果的に、それはよかったかもしれない。自由ラジオからマイクロラジオ、さらにはラジオアートへというわたしのラジオへのコミットメントの変遷を話せという注文だったが、話しているときの学生たちの反応から、むしろ、身体的な現実性がヴァーチャルなものに移行してきたことや、テクノロジー文化の変化についての方が、興味を引くらしいということがわかった。
まあ、これも、わたしには新鮮なテーマではないが、グラスゴウの学生も、「ヒキコモリ」のような現象を幾分かは共有しており、ケータイ的・電子的ヴァーチャリティのなかで生きているらしいのだ。このことは、ワークショップで会った学生たちからも感じられることだった。
終わって、この集まりを主催した先生たちに誘われて昼食をしたときも、ヴァーチャリティや軍事技術の話になった。何だ、早く彼女らと打ち合わせをしていれば、もっと「需要」に見合ったレクチャーができたのに、と思う。
2時すぎ、歩いてホテルにもどったら、少し疲れが出た。まだ鼻呼吸が制約されるからだ。ベッドの上でくつろぐ。
今夜もグラスゴウ大のチャペルでディナーパーティがあるといわれたが、さぼることにした。明日のライブまでにからだを整えたいと思ったし、とにかく働きすぎで休養が欲しかった。
夕方、ホテルを出て、気の向くままに歩いて行くと、右側にガラス張りのイタリアン・レストランがあり、左側にタイ料理の店があった。右はガラガラだったが、左は混んでいた。ピリッとするものが食べたいとも思い、その店のドアを押した。さいわい、席があった。
大きな店だが、フロアで働いているのはファミリーらしい。愛想のいいマダム、飲み物を仕切っている息子、シャイな感じだが、相当のスピードで料理を運ぶ小柄な娘。
料理を十分楽しみ、からだも癒された。ナムジュン・パイクが、疲れたときはスープにかぎるよと言ったことがあった(そのとき、見かけ以上に疲れていたのだろう)が、たしかに、スープは、西洋のものでも東洋のものでも、癒しの効果がある。この店の本格的なトムヤンクンは、なかなかのものだった。
風邪の峠は越えたみたい。
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2009年 03月 19日
●グラスゴウ風邪日記(4)
タクシーでCCAへ。
今日は、予定の11人がばっちりそろい、時間通りに始まった。大学院の学生が多く、そのうちの二人は、半田付けの経験があり、早いペースで送信機を作った。しかし、参加者の関心は「飛ばす」ことで、送信機を使ってラジオアートをやろうという人はいなかった。この点では、トロントの方が面白い。Deep Wireless1というラジオアートの集まりが毎年あるからだ。
1時すぎには外へ出る。天気がいい。歩いてホテルへ。まだ、歩いたり、集中的な仕事をすると熱が出る。といっても、ウィルスによる発熱ではなく(極寒のドイツで流感になり、死ぬかと思ったこともある)、機能が劣っているための単なるオーバーヒートである。だからゆっくりと動かなければならない。
部屋にもどり、やれやれこれでワークショップは終わったという気分で、部品や道具を片付け、2時すぎに外へ。ロビーで打ち合わせ中の中村としまるさんに手を振る。
美術館に行くつもりはないが、美術館やグラスゴウ大学がある方向へ歩く。公園を抜けたり、気ままな散歩。
そろそろ何か食べたいと思いながら、気を引く店を何軒か通り過ぎてしまい、このへんで決着をつけないと食べるところなどない通りになりそうな気配を感じ、ちょっと「アメリカン」だなと思う店だったが、そこに入る。メニューはそれほど「アメリカン」ではなく、スープ料理がうまそうなので、それにする。愛想のいいウエイターが内容を詳しく説明してくれた。雰囲気的にアルコールを摂りたかったが、やめておく。風邪のこの時期にアルコールを摂ると喘息状態を誘導するというパターンがわたしにはある。
今夜は「グラスゴウで一番の」インド料理店でディナーパーティがあるからとバリーが力説していたので、この時間に大食はしない方がいいと思い、軽い昼食程度におさめ、プリンのデザートを食べ、エスプレッソを飲んで外へ。
それから、路地を気の向くままに歩き、公園のなかを抜け、4時すぎにホテルにもどった。かなりの疲れ。が、気持ちのいい疲れ。しばらくベッドでまどろむ。だらだらと時間がたち、外は暗くなってきた。たしか、8時にホテルのロビーに集まってインドレストランに行くということになっていたな、と思いながら、ベッドのなかを出なかった。これは、ある種の「ヒキコモリ」感覚である。ときどき、わたしは、むかしからこんな調子で「重大」な集まりや仕事を流してしまうことがあったが、そのイディオシンクラシーは、いまも変わっていない。まあ、今回は、仕事ではなくプレジャーの集まりだから、実害はないだろう・・・と頭のかたすみで考えながら。
みんながインドレストランで食事を終え、おいしいワインなんかを飲んでいるだろうという時間になって最終的にベッドを出ることにした。体調がよければ、遅れていって酒だけ飲むこともできたが、そうする自信がまだからだにない。しかし、インド料理は食べたかったな。
そのまま朝まで眠ってしまおうと思ったが、何かを食べたくなった。風邪引きの大食だ。たしか、ホテルのならびに何軒かレストランがあったことを思い出し、とにかく、コートを羽織って外へ出る。何と、1軒となりにインドかパキスタンの料理の店があるではないか。「グラスゴウで1番」ではなさそうだが、UKのインド料理ははずれてもまずくはない。
なかはかなり混んでいて、しばらく待たされたが、通された席は落ち着いた場所だった。離れた席でどよめきが上がったので見ると、ウェイターが持って来たナンの大きさに対する驚きの声だった。たしかに、この店のナンは、平均より大きめだ。ニューヨークなんかでもそうだが、インド料理には、かならず相当量のライスが付くから、そのうえにナンを取ると過剰になってしまう。しかし、あのナンは食べてみる価値があると思い、取ることにする。
ヴェジタリアンのメニューにしたが、まあまあ美味しかった。ちゃんとナンもライスも食べた。インド料理は、舌で味わうというよりも、からだに染みとおるスパイスの持続時間を体感して味わうようなところがあり、全身を内側からマッサージされるような快感がある。風邪あがりのわたしにはうってつけだった。
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2009年 03月 18日
●グラスゴウ風邪旅行(3)
わたしは風邪を引くと大食になる。ふだんは二食だが、一昨日から3食食べている。昨夜、ワークショップが終わって、夕食をしていないことに気づいた。バリーに夕飯を食いに行かないかと言うと、「え~、まだ食べてないの?」という反応なので、逆に驚いた。そんな暇あるわけないじゃない。彼はCCAのキャフェテリアで早々と食べてしまったらしい。この時間だと開いているところは少ないといいながら、iPhoneで検索し、近くのフレンチ・イタリアンを探してくれた。ブロニーもいっしょに来て、3人で食べた(二人はデザートのみ)。店を出て、「タクシーで帰ろうよ」と言うと、「歩いてもすぐだ」というので3人で歩く。しかしねぇ、ワークショップの道具を持っての30分の徒歩は、「病気の老人」にはきついのです、わかんねぇかな。
今朝は、昨夜の「行軍」のせいか腹が減り、朝食もフル・ブレックファーストを摂った。そして、朝の9時まえにタクシーでCCAに着いた。昨日に懲りて、ジョナサンは、道具を人数分(15人の予約があったという)そろえ、ラジオも10台以上用意した。わたしのワークショップの人数のマックスは12人に決めている。15人は多すぎるが、今日は3時間取ってあるというので受けることにした。
ところが、予定時間をすぎても6人しか集まらない。通常、始まるまでに出席者のリストを渡されることが多いが、今回はやり方が非常にルーズだ。ワークショップについてどういう告知をしたのかもわからない。音源とラジオを持って来るようにジョナサンに言っておいたのに、誰も持ってこないところを見ると、わたしの指示は参加者には全然伝えられていなかったのだろう。こういういいかげんなワークショップを(しかも3回も)やるのは初めてだ。
そもそも、平日の朝の10時から(美術学校CCAの会場を使うという便宜的な理由からそうなったのだろう)なんて、無茶である。CCAの学生だって来れないだろう。朝が弱いのはどこの学生も変わらない。だから、わたしは日本では午前中の授業などしたことがない。
毎回同じパターンでやってもしょうがないので、今日は、まず、参加者に「どうしてこのワークショップに来たのか」を一人一人に話してもらうことにした。すると、半数以上が、「海賊放送がやりたい」のでその技術を身に着けるために来たというのだった。他も、ラジオアートなどのことは少しも知らず、「放送」がやりたいというのだった。
おいおい、これじゃ、わたしのワークショップの意味をとりちがえているじゃないか。INSTALの紹介サイトにはちゃんと趣旨が載っていたと記憶するが、それも読んでいない手合いなのだ。むろん、「放送」の技術は教えることが出来る。しかし、そういう電波をキャリア(搬送装置)として使い、コンテンツを「広く投げる」(ブロード・キャスト)方法は、もう意味がなく、他の方法でやった方がよいので、電波をラジオアートのマテリアルとして使おうというのが、わたしのワークショップの趣旨である。
しかし、ここにきてそんなレクチャーをしても仕方がないから、若干の指摘にとどめ、組み立てを始める。例によって、みんな仕上がり、ハッピーな顔をして帰って行ったが、わたしの心は満たされなかった。
1時すぎ、解放されて、外に出る。天気はいい。ホテルまで歩く。グラスゴウの街は、特に活気があるわけではないが、だからといって「死んでいる」わけではなく、適度の気楽さがある。船舶や工業で栄えた時代が終わり、『フル・モンティ』(こちらの舞台はシェフィールドだが)的な脱工業化がすっかり完結し、工業化の最盛期をなつかしがったりする必要がなくなっているという感じ。
ホテルに着いたら、慣れない午前中の仕事で疲れが出た。日本時間では午後の11時すぎで、目がぱっちり開く時間だが、身体は気圧や気温を感知して順応するらしく、時差があっても夜型は夜型で、今日は相当無理をして「朝型」生活をしたわけだ。
夕方までホテルにいて、それから外に食事に行く。今夜は、CCAのキャフェテリアでディナー・パーティがあるとのことだったが、「仕事場」に戻る気になれず、サボることにする。
気の向くままに歩いていったら、イタリアンのレストランがあった。グラスゴウにはイタリアンの店が多い。ここは、とりたてて特徴のある店ではないが、イタリア人の家族でやっていて、イタリア人の知り合いが話し込みに来るような気楽な店のようなので入る。デザートが食べたいので(量が多いと困るので)、メインはやめ、ミネストローネの前菜とマッシュルームなどが入ったタリアテーレを取ったが、量は丁度よかった。味も水準をクリアしている。
わたしは、レストランにいるときが一番落ち着く。今回は、まさにレストランが「医院」である。病気になったらレストランに行くにかぎる。もともとフランスのレストランはそういう機能を持っていたし、いまでも、ときどきわたしが行く中国料理の店のシェフは、調子が悪いというと、「これを飲んでごらん」と言って妙な味のスープを飲ましてくれたりする。
まだ少し歩いただけだが、グラスゴウには気のきいたレストランが多く、その点では、わたしには快適だ。
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2009年 03月 17日
●グラスゴウ風邪旅行(2)
睡眠剤を飲んだので早く目が覚めてしまった。ホテルの朝食が7時から8時までだというので、荷物整理などをしたあと、7時すぎに地下の食堂に行ってみる。一応、選択肢がととのっていて、まあまあの朝食。1、2名いるだけのガランとした空間だが、明るく暖かい。機内食(スペッシャルをあらかじめ注文しておいたので、機内食としてはそうひどくはなかったが)の単調な味に拘束されてきたので、解放された。
さいわいなことに、最初の仕事となるワークショップは、夜の7時半からで、それまでたっぷり時間がある。わたしのワークショップでは、料理とおなじような「下ごしらえ」があり、そこで手を抜くと、失望感を味わう参加者が出る。だから、細かい部品を一つ一つチェックし、分類したり、現場で手間取らない準備をする。
そんなことをしているうちにすぐに昼になり、腹が空いた。まだ風邪ぎみなので、安全のため、昨晩行ったバーで昼食を食べる。カレー味のパスタ料理とアップルパイのデザート。いつもならビールか何かを飲むが、鼻炎をひどくしそうなのでやめ、スパーリンクウォーターを飲み、エスプレッソでしめた。
今回、バリーに念を押したのは、部屋でインターネットができることだった。大丈夫だとかいわれても、無線LANの電波が弱くて、ロビーあたりにコンピュータを持っていかないとアクセスできないホテルがけっこうある。約束通り、わたしの部屋ではWiFiが使えた。が、部屋の位置によっては、電波がすぐ減衰したから、どの部屋でもOKというわけにはいかなかったのではないかと思う。わたしがうるさく言ったのと、フェスティヴァルまえの一番乗りだったので、電波の強い部屋を選べたのだと思う。海外で(韓国を除き)「全室ハイスピード無線LAN完備」という宣伝は疑ってかからなければならない。
4時にジョンが迎に来て、The Archesに行く。21日にやるパフォーマンスの場所の電波状況をチェックする。中央駅の地下なので、放送の電波はほとんど入らない。バリーとセッティングの打ち合わせをして、彼らが忙しそうなので、すぐに別れる。中央駅のあたりを歩く。歩いているとすぐ街はなくなるが、郊外都市とはちがう。ショッピングセンターをさまよい、足のおもむくままに歩き、最終的に今夜の会場となるCCAに着く。
ジョナサンはすでに来ていたが、テーブルセッティングは全然していない。ビデオ機器もお粗末だ。12人が参加する予定なのに、工具が5人分しかない。これだと予定の倍の時間がかかる。むかしだと、こういうとき、目をむいて文句を言ったはずだが、このごろはそうはならない。出来成りでやることに慣れたのだ。倍の時間だっていいじゃないか。ビデオ機器がダメなら、使わなくてもいいじゃないか、と。
開始まえ、なつかしい顔があらわれた。ミエコ・コナカ。シドニーのラジオプロデューサのトニー・バレルの通訳として始めた会ったのが10年ぐらいまえ。その後、風のようにあらわれ、わたしがやっていたネット放送に加わったかと思うと、忽然と消えるという人だった。数年まえ、突然もらったメールで、彼女がスコットランドで刺繍職人になったと知らされた。今夜は、わたしのためにわざわざ見学に来てくれたのだ。
ワークショップは、例によって例のごとく進み、わたしは、鼻呼吸が苦しいので、だんだん疲れてきたが、参加者は、みな楽しんでくれたようだ。ただ、鼻声の英語とはいえ、しつこく説明したのに、それを全然理解していない人がいた。どうやら、彼は英語が読めず、図解も理解できないのだった。仕方なく、でたらめに配線したのを全部取り外し、わたしが最初から作りなおした。
もう一つ驚いたのは、耳が聞こえない青年が参加していることだった。言ったことを繰り返し訊いて来るので、おかしいなと思っていたが、そうやって何とか送信機を組み上げた。あとになって、母親らしい人が彼の耳のことを言うので、最初から言ってくれればそれなりの対応をしたのにと言うと、「彼はリップリーディングの才能で自力でやることにしているのです」と言った。いや、そうだとしても、風邪でゆがんだわたしの唇の動きを読むのは大変だったろう。音を聴くためでなくラジオ送信機を作る――これぞradio without contentであり、送信機を音の運搬装置ではなく、電波のオッシレイターと取ることじゃないか。彼はこの日最高の参加者だった。
http://www.cca-glasgow.com/index.cfm?page=236B7D10-868E-4F86-A306909B378E5655&eventid=7CA3B351-6307-8617-AB041125BE18EC92
■2009年 03月 16日
●グラスゴウ風邪旅行(1)
毎年グラスゴウのThe Archesというスペースで開かれる音楽フェスティヴァルに呼ばれ、ヒースロウ経由でグラスゴウに行くことになった。ワークショップ、レクチャー、パフォーマンスの3種類の課題をあたえられ、準備に追われた数週間だったが、ほかにも野暮用があり、ついに風邪を引いてしまった。
風邪といっても流感ではなく、鼻風邪だ。そのまえに花粉症が出ていたので、そこから移行したのだろう。そうでなくても引いたかもしれない。疲労のうえに、12時間吹きさらしの戸外にいれば誰でも風邪をひくだろう。
とにかく、飛行機のなかは寒かった。以前、オーストラリア航空で寒い経験をしたころがあるが、今回のは尋常ではない。あちこちでクシャミが聞こえ、まわりの人も寒がって文句を言っていたが、アテンダントは、「温度を上げます」と言うだけで、結果はともなわない。余分の毛布もないという。これは拷問だ。セーターやコートは持っているが、これだと、顔まですっぽり覆って冬山を登山するようなかっこうでもしなければならない。(実際、帰りの便〔同じ機種〕で隣合わせた女性は、最初から持参の毛布を頭からすっぽりかぶっていた)。
さらに悪いことに、隣に赤ん坊を連れた女性が乗っていて、その子が始終泣き喚く。あわててヘッドフォンをつけたが、身体をばたつかせるから、無関係ではいられない。その向こう側に夫らしき人がいたのに、その人は知らぬ顔で寝ている。
まあ、そんなわけで、ロンドンに着いたときは、ぐったりし、同時に解放感を味わった。資料が整っていたので、ワーキングビザは比較的すんなりと済み、グラスゴウ行きの国内便に乗った。
出迎えの代行業者はすぐ見つかり、市内のホテルに案内された。すねに鼻水が出始めていたので、薬を飲んだりしていたら、すぐに電話が鳴った。ディレクターのバリー・イッソンからで、ロビーにいるという。着替えする間もなく、下に降り、熱い抱擁。パートナーで共同ディレクターのブロニー、プロジェクト・マネージャーのジョンもいる。すぐに4人で向かいのバーに行き、ラフな打ち合わせを始めた。バリーは、大分まえ、今回のINSTALは、アンリ・ルフェーブルの"rhythmanalysis"の線で行くと言っていたが、それから変わって、アラン・バディウに傾斜したらしい。渡されたパンフの序文でもバディウを引用していた。
1時間後、疲れたの彼らを置いてホテルにもどろうと、外に出たら、えらく身体が寒かった。ワインを1杯飲んだだけだったが、酔い覚めの寒さという感じ。部屋にもどって体温を測ると、37度と超えていた。わたしは、通常、体温が平均より低いから、37度というのは、普通の38度と同じだと考えることにしている。
明日から「働か」なくてはならないからヤバイなと思いながら、荷物を整理し、念のため抗生物質ものんで、ベッドに入る。
海外でこういうことは何度かあったので、経過は予想がつく。とにかく、20日のレクチャーのときに声が出ない(鼻がフガフガ)ではサマにならないから、それまでに山を越えなければならない。
それにしても、あの飛行機はナンなのだ? ブリティッシュ・エアウエイズは、わたしがエール・フランスの次に敬遠する会社なのだが、今回は、お仕着せで、選択の余地がなかった。チケット自体は消してケチってはいないと思うが、その飛行機のポリシーがおかしいのだ。
http://www.arika.org.uk/instal/2009/artists/view/4
■2009年 03月 07日
●パッセンジャーズ (Passengers/2008/Rodrigo GarcxJ吹)(ロドリゴ・ガルシア)
低気圧のせいか、不規則な生活のせいか、安眠できない。が、安眠とは死と同じではないか?人は、毎日、いや、眠りと目覚めとのあいだで死と生をくりかす。だから、半睡、眠りと目覚めの中間状態というものは、面白い。それは、通常は長くは持続せず、曖昧模糊としているが、小説や映画ならば、思い切り長く延ばすこともできるし、半睡の世界とは明示せずに、ある特殊な世界として提示できる。
映画『パッセンジャーズ』は、そんな中間状態をそうとは明かさずに描いている。ネタバレ摘発人に文句を言われたくないので、内容は書かないが、映画で言えば、『この胸いっぱいの愛を』(2005-08-20)や『イルマーレ』(2006-06-29)の世界に似ているというのがヒントだ。
飛行機事故が起こり、アン・ハサウェイ演じるPTSD専門のセラピストが事故の「生存者」に面接する。事故のためというだけでなく、みなちょっと変なのだが、そのうち、彼女は、「生存者」の一人(パトリック・ウィルソン)を愛するようになる。航空機会社の発表と異なり、機体の外で爆発を見たという証言もあり、犯罪ドラマの展開をするのかと思わせるところもある。そして、その間に、常識では理解しがたいが瑣末すぎて見過ごしてしまうような出来事がたびたび起こる。色々思わせぶりなシーンがあるのに、二人の愛は深まっていくので、おいおい事件の方はどうなったのと思ったところで、謎が明かされる。
この最後の謎解きに腹を立てる人もいるらしく、海外での評価はそれほど高くはないが、わたしは面白く見た。半睡のときだけでなく、日常生活のなかで、空想や妄想としてではなく、ふと見えたり、聴こえたりする、異次元空間のはざまの事象をちらりと見せる技術がうまいと思うのだ。
http://www.imdb.com/title/tt0449487/