「シネマノート」  「雑日記」


2008年 04月 29日

●ギフト・カルチャー  郵便物のなかにVHSカセット大の箱を見つけ、開くと、花模様のかわいらしい紙箱がはいっており、中身はチョコレートだった。ここまでは、驚きではないが、同封された手紙とカードを呼んで驚いた。
 それは、カリフォルニア大学デイヴィス校の友人からで、プリントされた紙には、わたしを含めた8人の名前と、推薦のおかげでデイヴィス校のテニュアー(tenure 終身在職権)が取れたこと、その感謝をあらわすために「unconventional idea」を思いついたことが書かれていた。さらに、美しい絵葉書(写真の花は桜か?)に手書きで、推薦状を書いてくれたことへの礼が心をこめてかかれている。
 日本に生まれ、ながらく住んでいるわたしには「贈答の文化」は周知のもので、しばしばうんざりして背を向けたりしてきたが、大分以前から日本に来る外国人が律儀に「おみやげ」を持ってくるようになったのに気づいてはいた。「おみやげなしで日本に行くと殺されるからね」という皮肉を言いながら渡す人もいたが、名刺もふくめて、日本の贈答と儀礼のカルチャーはいまインターナショナルに「学習」されている。
 だが、アメリカ人に推薦状を書いてチョコレートをもらうというのは初めてだ。しかも、手紙の付け方など心がこもっているではないか。アメリカにはチップ・カルチャーというものがあるから、「心づけ」というのは、日常的なことなのだが、日本では、最近は、チョコレート1箱でも、「贈収賄」とみなされない風潮もある。ちなみに、わたしの勤めている大学では、職員同士のあいだで年賀状のような「儀礼」はつつしむようという指令がまわった。こうなると、世話になったので礼を送りたいと思う場合でも、自己規制がはたらいてしまう。
 ところで、この人がなぜこういう「unconventional idea」を思いついたかだが、それは、彼の前の奥さんが日系人だったからではないかと思う。どっぷり「日本人」だと、いまは特に、「日本的」なものから距離を置きたいと思うものだが、「日本」になんらかのあこがれを持つ外国人にとっては、わたしなんかがうざったく思う「贈答」文化が美しく見え、また実際に面白く再活性化されるのではないかと思う。


2008年 04月 28日

●Lars and the Real Girlの意味

 2007年のアカデミー賞で「最も有望なフィルムメイカー」にノミネートされたクレイグ・ギリスピー(Craig Gillespie)の映画『ラースとリアル・ガール』(2007)の評判を読んで、やはりという思いをいだいた。
 この映画は、ライアン・ゴスリングが演じるシャイな男が、「セックス・ドール」を買ってきて、ガールフレンドにする話だ。ここまでなら、これまでも「猟奇的」なセッティングで登場したことがあるが、最初は反発していた周囲がやがてその関係を受け入れ、ハッピーエンドに終わる(わたしはまで見ていないが)というのは、これまでは「普通」ではなかった。
 すでにロイター通信は、日本に住む45歳の男が100体ぐらいの「セックス・ドール」と暮らしている映像を紹介しており、いまではYouTubeで見ることができる。
  http://www.youtube.com/watch?v=HGfaQCY_bo4
 わたしは、かつて「身体のヴァーチャリズム」(『インターネットが世界を変えるとしたら』所収、下段のリンクで読める)のなかで論じたことがあるが、近い将来、アンドロイトと暮らす人間が増えるのではないかと思っている。そして、ビデオデッキやインターネットが「ポルノ」とともにその普及度を高めたように、ロボットも「セックス・ドール」の普及とともに、その一般化が進むのだろうと予測する。
 「セックス・ドール」に関しては、すでに日本を含め「高度」のものを生産・販売しているところがあり、「彼女」らを用意したサロンなどもある。ちなみに、映画で使われたドールは、6000ドルの既製品らしい。
 こうしたドール・カルチャーが一般化するとき、生半可なアイドルや「淋しいから飼う」といった体(てい)のペットカルチャーは衰退し、すべてがドールに置き換わる可能性がある。当然、モラルや常識も一変する。いまペットが擬人化されているように、ドールをパートナーとみなす者も増えるだろう。
 身体とテクノロジーとの関係を少し研究してみると、人体の形というのは、なかなか捨てられないものであることがわかる。人間には抽象能力があるから、別に人体の形をしていなくても「親しみ」や「性的興奮」やその他の「人間的」感情を喚起することが出来ると思うが、実際には、そうでもないようだ。
 しかし、わたしが関心を持つのは、その先だ。もし、人間にかぎりなく近い機能を持ったドール、つまりはアンドロイドが身近なものとなったとき、そういう傾向にあきたりない者はどうするだろうかということである。クリエイティヴな者は、現状に飽き足りないからである。
 おそらく、そのときは、反/超「人体形」の傾向が出てきて、その一部は、あえて人間ではなく動物や植物をパートナーにしたりするだろう(ある種の「復古主義」)が、物的な対象性を持たないもの、「内在的」なものに身近なものを感じる者(ある種の「スピリチュアリズム」)も出てくるだろう。ただし、これは、「哲学者」にとっては、別に新しいことでも何でもないのだが。
https://cinemanote.jp/books/moshiinternet/3-5_vr.html


2008年 04月 22日

●眠るのがイヤ

 ギリシャ神話の眠りの神「ピュプノス」は、死の神「タナトス」と兄弟で、子供が寝るのをいやがるのは、死にたくないからだというよく知られた話があるが、わたしも、そろそろお呼びが近いので眠りたくないのかもしれない。
 しかし、面白いことがたくさんある日には、「寝たくない!」という意識が亢進するのはきわめて自然なことではないか?
 今日は、昼間新しい学生たち18人のゼミで、自分が「美味しい」と感じるものの映像を持ってきてコメントするということになっていた。今年のゼミ生はみなまじめで、一人もその課題を「忘れたり」する者がおらず、面白い画像や映像が集まった。時代が変わったと思うのは、16名がみなUSBスティックに画像や映像を入れてきた。2名はメールに貼り付け、その場で教場のPCからウェブメールにアクセスして、プロジェクターでみんなに見せた。この分だと、あと2年ぐらいすれば、ケータイに素材を入れてきて、直接ワイヤレスでプロジェクターにインプットできるようになるねと話したのだった。なお、今後この集まった素材を加工してYouTubeに載せようということになっている。
 ゼミが終わって、国分寺駅に走り、吉祥寺の「サウンド・カフェ・ズミ」(武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル)へ行く。ここは、その人ぞ知る泉秀樹さんが独力で開いたスペースで、カフェーだけでなく、面白いイヴェントが開かれる。今日は、『談』の編集長・佐藤信さんの企画で、連続対談の夕べの第1回目だった。
 わたしの対談相手は、訳書『マルチチュードの文法』(月曜社)や怪著『美味しい料理の哲学』(河出書房新社)の廣瀬純さん。佐藤さんが考えたプログラムは、ネグリからラジオアートまでという広範なもので、とても彼の要求に応えられるものではなかったが、廣瀬さんのドゥルーズ的コンセプチュアリゼイションのプロセスと強度を見せる概念パフォーマンスと、そういうのが嫌いではないがいくつになってもちょっとヒネくれるのが好きなわたしの挑発パフォーマンスとがけっこう面白い「共鳴」(レゾナンス)を起こしたような気がする。
 たちまち時間になり、おいしいワインの酔いを楽しみながら電車に乗ったら、缶ビールをぐいっとやっている男がとなりにいた。目は果てしないかなたを見ている。いや、何も見ていないのかもしれない。東京の電車は11時をすぎると面白い。
 さて、それから仕事場に直行したら、重要なメールが入っていた。近々公開の『敵こそ、我が友』の字幕をつけている赤木千寿子からで、先日試写を見たとき、「字幕には出てなかったようだけど、赤い旅団のことが出てきましたよね」と配給の人に言ったのが、波紋を呼び、確認が入ったのだった。結局それはわたしのパラノイアで、ミラノの爆破事件にナチのクラウス・バルビーが関わっていたというナレーションを深読み(深聴き)したのだった。早速、謝りのメールを書く。
 実は、帰ってすぐ原稿にかかるつもりだった。が、メールがウォーミングアップになって、すぐに原稿へ。この原稿、実は逃げようとした。むかし、知り合いに土建屋がいて、「仕事は、3回電話がかかってきてから腰を上げるんもんだ」というのが口癖だったが、それがわたしにも伝染し、いまでもその後遺症を引きずっている。
 その編集者は、先週、シメキリが過ぎてもメールも電話もくれなかった。まえにもそういうことがあって、そのままになった(無責任ですいません)ことがあり、(それでも懲りずに依頼してくれた)今回も差し替えてくれたのかなと思った。ところが、月曜になって「いかがでしょうか」みたいなメールが来たのだ。その日は出なければならない用事があり、とてもすぐにはかかれない。で、今日のイヴェントが終わればかかれるかもしれないという返事をし、やることになった(追いこまれた)のである。
 昔は、こういう事態になっても、さらに逃げつづける、向こうも追うという「風習」もあり、編集者もそれをこころえていたのだが、最近は、このへんまでが限度で、これ以上の神経戦をすると、文字通りパニックになり、紙面が白になってしまう。いや、あの『スポーツ報知』ですら、初刷で白を出したりするのだから、驚きだ。
 というわけで、いま、すでに23日の午前2時すぎだが、何とかその原稿も終え、ほっとしてこの日記を書いている。さて、明日、いや今日はまた試写があるが、それまでどうするか・・・。


2008年 04月 19日

●鈴木志郎康『声の生地』(書肆山田)

を読んでいたら40年ぐらいの時間がさっと目のまえを流れた。「走馬灯」などという月並みな感覚ではなく、もっと間欠と飛躍の多い時間のなかに連れ込まれ、それが(あとで)40年ぐらいの時間(空間化された)なのだなと思ったのだ。
 それは、「鈴木志郎康」という名前を知ったのが、1964年に出た『凶区』という雑誌でだったからでもある。これは、天沢退二郎や渡辺武信らが中心になって発行された同人誌だが、その第3号に菅谷規矩雄が「―ハイデッガー〈言葉〉についての批判的ノート―」という文章を書いているのを知り、購読をはじめたのである。そのとき、ついでにバックナンバーも手にいれた。
 鈴木志郎康に惹き付けられたのは、その第4号(1964・10)がほぼ鈴木志郎康特集だったことがきっかけだと思う。この号には、のちにH氏賞(1968年)の対象になる詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』(1967年)におさめられるいくつかの強烈な詩が載っていただけでなく、彼の映画評(ベルイマンの『沈黙』と今村昌平の『赤い殺意』)、大岡信の「鈴木志郎康についての断片的なことば」、そして、シネカメラマンとしての鈴木を活写した「NOZ・AKI」(野沢暎)の編集「後記」が載っていた。
 当時鈴木はNHKのカメラマンとして広島にいたが、毎号巻末に載る「凶区日録」には東京在住の同人たちが見た映画や聴いたジャズのことが書かれており、わたしには(年下で直接の関係はなかったが)非常にシンパシーを感じた。当時、すっかり「ニュージャズ」にはまり込んでいたわたしは、鈴木の詩にアルバート・アイラーを聴いた。

  十五才の少女はプアプアである
  純粋桃色の小陰唇
  希望が飛んでいる大伽藍の中に入って行くような気持ちでいると
  ポンプの熊平商店の前にすごい美人がいるぞ
  あらまあ奥さんでしたの

 いま「極私的」という言葉はよく使われるが、この言葉を作ったのは鈴木志郎康である。言葉は、命名者の思いを越えて一人歩きをするものだが、命名というものは、命名する者が思っていなかったことをも先取りしている。
 60年代には、日本では、「私」を語る「私小説」は乗り越えられるべきものだった。しかし、じくじくした「私」をかかえた主体は多かったから、「私」を語る場合には、自嘲的・自虐的な語りがトレンディとなった。そして、「私」を語らないで済ませる方法として、「みんなといっしょ」の「私」表現、「政治的」身体表現が突出してくる。
 鈴木志郎康は、フランス文学を研究して日本的な「私」に距離を置くと同時に、「政治の季節」に巻き込まれながら、カメラのレンズを通して「政治」のなかにいるということによって、「みんないっしょ」の「私」にも距離を置いた。つまり、「極私的」の「極」は、「私」を思い切りミクロな(分子的な)レベルに極小化すると同時に、極度にマクロなレベルに解放し、解消する過激さをはらんでいた。だから、彼の詩は、極度に「瑣末」なことを書きながら、それが、時代や社会や世界に通底するわけだ。

 新詩集のなかの「極私的ラディカリズム」という詩は、「70年、生きてきちゃった」という句で始まる。60年代の詩にくらべると簡素でやさしい雰囲気だが、「な」、「と」、「ね」、「は」、「る」・・・という繰り返しのない末尾の語音が生み出すリズムは複雑で多形的(ポリモーファス)である。

  毎日体操をしてますけど、
  肝心なのは、やはり言葉だ。
  身体のカオスから出てくる言葉。
  言葉で時間を刻む。単語の数が生きている時間だ。
  言葉を使うってこと、善し悪しは考えない。
  言うてことを続ける。または書くことを続ける。
  小さなことを言う。また小さなことを書く。


2008年 04月 17日

●「すべてのメールはラブレターである」

というのは、わたしの言葉ではなくて、きつかわゆきお『深呼吸する言葉』(バジリコ)の一文だが、同感だ。ただし、本当は「すべてのメールはラブレターである」はずなのだが、そういう風に書かない人が実際には多い。それは、もったいないことではないか、とわたしは思う。
もっとも、それを実践していると暇がなくなって、わたしのように寝る時間がなくなるかもしれない。わたしは、毎日英語と日本語の「ラブレター」を書き続けている。
ところで、この本は、ある日突然、きつかわさんから届いたのだが、きつかわゆきお(橘川幸夫)といえば、わたしには、忘れがたい人だ。もう20年以上も会っていないと思うが、その昔、わたしが初めてコンピュータ通信なるものを始めたのが、彼と松岡裕典さんらがやっていた「WENET」というBBSでだった。
わたしには、あの先進的なネットワークからこの「箴言集」のような本とのあいだで橘川さんに起こったことを知る由もないのだが、「箴言集」を書くということは、だらだらと書き連ねた文章によって構成されている本に相当絶望しているからではないかと、ふと思った。
 
 楽しい生き方とは、
 楽しいことをして暮らすことではない。
 楽しくないことはしない、という生き方である。

 僕は21世紀の老人にはならない。
 22世紀の少年になる。




2008年 04月 15日

●その日ぐらし

その日暮らしが好きだ。正確には、その〈時間〉暮らしというべきか。
少したまってしまった「シネマノート」を仕上げようと、コンピュータのまえにすわったら、新しいメールが入った。ニューヨークの未知の人からで、わたしのニューヨークサイトに掲載している80年代のヴィレッジの写真のもっとレゾルーションの高いものはないかというのだった。すぐに「あるけど、どのくらいのレゾルーション?」という返事を出したら、数分後に返事が来た。この人はインダストリアル・デザイナーだが、その写真を壁に焼き付けて使いたいというのだった。ニューヨークの生まれで、この写真が自分の子供時代を思い出させるので、是非使いたいという。そこで、わたしは、「シネマノート」の仕事をやめ、古いフィルムを探し出してきて、スキャンの作業を始める。すぐに終わり、1200dpiでメールにはりつけて送る。ちなみに、こういう問合せはよくあり、CDのジャケットなどにも使われているようだが、謝礼を要求したことはない。コピーライトなどないからだ。以後、チャット的にメールをやりとりする。彼は、デザイナーとして、「can only hope that it can be as vibrant as it once was, with many interesting visitors and inhabitants.」だと言う。
さて、「シネマノート」にもどろうと思っていると、またメールが入った。連載をしている『TASC』の佐藤真さんからで、「締め切りがすぎて、少々あわてております」と書いてある。あまり余分なことを書いていないのが、かえって真剣さを感じさせる。大分まえに督促のメールをもらっていたが、実感がわかなかった。そこで、新しいファイルを開いて、原稿を書き始める。構想はできていたので、1時間ちょっとで書き上げる。
この連載は、「シネマ・シガレッタ」といい、映画とタバコのことを書くことになっている。だが、最近のタバコ排除の傾向が亢進するなかで、映画のなかの喫煙シーンが少なくなり、ネタに窮することが多い。引き受けて後悔しているが、「ヤバクナッタラスグヤメル」を信条とするわたしでも、そう簡単には逃げられない。一度逃げようとしたが、佐藤さんの寝技でおしとどめられた。これぞ編集のプロ。だから、最近は、映画を見ると、タバコシーンが気になってしかたがない。ところが、最近の(特にアメリカの)映画では、タバコを吸う奴はすぐ殺されたしまったりして、浮かばれないのである。
あ、またメールが入った、では失礼。




2008年 04月 08日

●桜はなぜ「きれい」なのか?

 先日、浅草のあたりを知り合いと歩いていたら、その人が「桜きれいですね」と言った。一瞬、「そうですね」と言いそうになって、わたしは口ごもった。その直前、真上から桜の花びらが散ってきて、わたしの目に入り、うざったいなと思っていたこともあるが、そもそもわたしは、桜をきれい、美しいと思ったことが一度もないのからである。
 そのとき、ふと思ったが、桜が「きれい」だというのは、わたしがうっかり「そうですね」というようなレベルでのことであって、本当は誰も「きれい」だとは思ってはいないのではないか? これは、冬の寒さが去って、春の暖かい陽気が感じられる日に、「いい天気ですね」と言われて、多くの人が、「そうですね」というのと大差ない。
 厳密に言えば、そういう日でも、「いい天気」とは言えない場合もある。最近では、花粉症がひどい人も多いから、ぽかぽかした陽気の日には逆に花粉症がひどくて、とても「いい天気ですね」などとは言えないこともあるだろう。
 つまり、桜は「みんな」が「きれい」だと言うから「きれい」なのであって、それを見た個々人がそのつど感覚的に「きれい」だと知覚しているわけではないのである。
 目のまえに、薔薇やアンセリウムの一輪を差し出されて、「きれいですね」と言われれば、わたしはそれなりの感想を言うだろう。「いや、ちょっと・・・」とか、「そうですね」とか。しかし、桜は、季節になるとどこにでもあるし、個々の微妙な特徴を云々する以前に、桜は「いいもの」という暗黙の了解のようなものが支配する。
 ということは、世の中の価値観や流行の大きな変化が起これば、桜が「きれい」というコンセンサスは、一転して逆になることもあるわけだ。「桜っていやですね」という言い方が、4月の路上でかわされるようなこともありえるわけだ。
 でも、わたしに「桜きれいですね」と言った人は、そのとき本当にそう思ったから言ったのかもしれない。自分の目で知覚した感動を言ったのかもしれない。いや、「桜きれい!!」とは言わなかったと記憶するから、あれは、やはり、挨拶言葉に近い表現だったのではないか?


2008年 04月 06日

●市田良彦氏の4/5のメールを読んで

◆「謝罪」について
 メールを無断で掲載したことに関して「謝罪」はできません。それは、わたしが傲慢だからではなくて、そういう「罪」の意識がないからです。意識なしに謝罪するのは欺瞞ですよね。
 この場所は、「HP」ではなくて、「日記」です。それは、「私的」なスペースです。日記を公開するということは、個室の窓のカーテンを開け放すようなことです。他人がなかに入って来て、自由に使ったり、ものを持っていったりすることはできませんが、覗くことはできます。
 覗く人のなかには、高度の双眼鏡を使ったり、窓ガラス越しに特殊なセンサーで内部をさぐる人もいるかもしれません。それは自由です。わたしは、「露出狂」ではありませんが、そもそも電子テクノロジーの浸透した環境のなかでは、われわれは「ヌーディスト」であらざるをえません。だから、わたしは長年、「デジタル・ヌーディズム」ということを主張してきました。どんなにこちらが、何重にも服を着ても、窓のカーテンを厚くしても、ネットを通した通信は、「盗聴」や「傍聴」が可能です。ネットを使うかぎり、そういう可能性はさけられません。それは、そもそもネットというものが、近代の「私/公」というセット概念をとび越えてしまったからです。
 ですから、この「日記」はいちおう「私的」なスペースですが、事実上は「トランスパーソナル」なスペースであり、また、もっと「公的」な性格が強い「HP」も、近代流に「公的」であるわけにはいかないのです。
 「プライバシー」にこだわっても、プロバイダーは「セキュリティ」の名目で、通信記録を保存しています。これは、手紙やハガキとはちがう点です。アメリカのNSAは、個々人の通信のヘッダーだけではなく、「本文」をそのまま保存し、「万が一」に備えます。日本も、どこかでそんなことをしているのではないでしょうか。その意味では、封書やハガキも、いちいち透視スキャンされ、記録が残されているのかもしれません。

◆大使館の意識
 2通のメールを拝見して、わたしが「誤解」していたことがわかりました。わたしは、ネグリの招待が、入国に際して起こりうる問題がすべてクリアされた段階でなされたものだと思っていました。
 周知のように(「イタリアの熱い日々」でも書いていますが)、ネグリが「赤い旅団」によるモロ首相暗殺に関わったという嫌疑をかけられて最初に逮捕されたとき、イタリア政府は、彼の電話の録音の声紋分析を米国に依頼しました。それは一方的な「依頼」ではなく、アウトノミア運動を総弾圧しようということが、米伊のあいだの合意事項になっていたからです。
 ネグリはアメリカでは「マルチチュード」で時の人になりましたが、1970年代のこの米伊結託の陰謀に関しては、アメリカ側のネグリ・ファンも、この問題を追及しようとはしません。ネグリの入国に関して、アメリカが依然として高圧的な態度をとれるのもこのためです。アメリカの場合は、公文書の公開が日本などより開けていますから、この陰謀をある程度あばくことは可能だと思いますが、アメリカのいまの状況ではやる者がいないわけです。
 ネグリとアメリカ政府とのあいだには、そういう因縁があるわけですから、「極東」ではなく、「極米」でありつづける日本政府が、ネグリに対して日本独自の対応をすることはありえません。
 日本大使館がネグリに関して「本国照会」をせず、「問題が発覚したのはあくまで、日本国内でのことです」とのことですが、「本国照会」をしていないというのは、大使館側のおとぼけではないかと思います。それが本当だとしても、それは、たかだか大使館の窓口レベルの話であって、「問合せ」をした次の段階では、ネグリ来日の情報が、米仏伊日の政府チャンネルのあいだを飛び交ったと思います。これは、わたしの映画的パラノイアでしょうか? 
 いま「eチケット」がはやりですが、空港で「eチケット」によるチェックインをしようとしてパスポートをスロットに挿入したら、わたしがそれまで使った飛行機会社の名前がどどどと出たことがありました。会社がわかるということは、行ったところも記録されているということです。一体誰がインプットしているのでしょうか? 航空会社は別個でも、やつらはグローバルにつながりあっているのです。むろん、そういう情報は、政府機関にはアクセス可能で、わざわざ「本国照会」しなくても、つねにすでに彼らの手元にあるわけです。




2008年 04月 05日

●4/3の市田氏のメールを無断掲載したことへの抗議とコメント

昨日、4/3の市田氏のメールに対するわたしのコメントを掲載した直後、市田氏から新たなメールが届いた。それは、わたしのコメントをまだ読むまえのメールなので、順番としては4/4のわたしのコメントの前に置かれるべきかもしれないが、「日記」のCGIシステムが1日に複数の記載を許さないので、以下に掲載せざるをえない。メールでその旨を伝え、Fri Apr 04 14:29:25に最終バージョンをもらったので、それを使わせていただく。それに対するわたしのコメントは、明日掲載する。(以上、粉川哲夫)

【本文 (Fri Apr 04 00:25:33 2008 + Fri Apr 04 14:29:25 2008)】

 粉川さん、

メールはあくまで私信であり、それを勝手に公開するのは許されることではないと考えますが、削除は求めません。なぜなら、いったん公開し、誰かに読まれ、キャッシュに保存されてしまえば、いずれ流通することは目に見えているからです。私は、公開してもよいかと尋ねられれば、よいと返事するつもりでした。しかし、そのステップなしに公開してしまわれたことについては「日記」上で謝罪していただきたく存じます。その上で、このメールも同時に掲載をお願いします。公開されるなら、ネグリの「政治犯」認定についてもう少し説明しておきたいので。なぜそれが「ややこしいことになる」と私が考えたか、を。

ご承知のとおり、彼の最終的罪状は「国家転覆罪」です。このことだけをもって彼が「政治犯」であると主張することは可能です。しかしそこにいたる裁判資料は総計25000ページあり、それは彼の手元にもありません。仮にその一部だけ(私のところにも仏語訳されたものが97年のイタリアへの帰国時にファックスで送られてきましたが、今回も探してみたものの何回か引越ししているせいで、見つけられず)でも提出したとして、「国家転覆罪」(刑法のなかにある)での禁固12年を日本政府は「政治犯罪」と認めることができるのか? フランス政府でさえ、公的にはやらなかったことです。イタリアが不当な人権抑圧を行ったと宣言することになるのですから(ちなみに同じ罪状で裁かれている人間は最近も反グロ運動関係から出ています)。こちらとの交渉過程を秘密にするという条件でなら認めたかもしれませんね。しかし時間はそれなりにかかったでしょう。今回、外務省は「ならばフランス政府が彼を政治犯として扱っていた証拠を出せ」と言ってきた。イタリア国家の判決については判断しない代わりに、フランス政府の判断に日本もならったことにしよう、というわけです。しかしこれも簡単なことではない。なぜならこれまた周知のことながら、ネグリはフランス時代、政治亡命者という法的地位をもっていませんでした。それどころか、フランス政府の公式見解は「アントニオ・ネグリなる人物は国内にいない」というものだった。イタリアへの外交的配慮から、イタリアが人権抑圧をしていると認定することになる亡命者の地位を与えることなく、ネグリが偽名で暮らすことを黙認していただけです。今回、在仏日本大使館まで「証拠」を求めて動いてくれたようですが、事後的にそれを知らされた私は、何を無駄なことを、とあきれたものです。さらにはネグリが「冤罪」だったという主張ももはやできない。というのも、彼は97年、イタリア国内で起こっていた一括恩赦を求める運動に一石を投じるべく、「道義的責任」を認めて服役するために帰国したからです。つまり彼は法的には自分の「有罪」を承認した。

どこの国でもこういうややこしさは、ちょっと調べれば分かること。あるいは招聘者から説明すれば。今回はその時間とチャンスが与えられなかった。早くからやっていれば、外務省と法務省も認めたかもしれませんが、一方ではアメリカ政府があくまでも「すべての書類を提出して自分で証明せよ」という態度でネグリに臨んでいるという事実があります(だから彼は面倒だからアメリカへのビザ申請はしなかった)。アメリカに照会でもかけられれば、どうなったことやら。また、2003年10月(彼がパスポートをもらったとき)以降に訪れた22カ国のうち、私の知っているかぎりの数カ国ではネグリはまさに「素通り」です。つまり、一方には入国管理が世界的にものすごく「ゆるく」なっている現実があり、他方には9・11以降ものすごく「きつく」なっている現実があるわけです。ネグリの日本入国がどちらに転ぶかは俄かに判断しがたいところがあり、私としては「プロフィールを提出したうえで何も言ってこないなら大丈夫なんだろう」と思っていた次第です。甘かったかもしれませんが、もっと早くに交渉がややこしいものになっていたら、その時点で「やめる」判断をしていたかもしれません。日本に移住でも求めるなら、裁判等を含む闘いをこちらがやってもいいかもしれませんが、講演のために呼ばれただけの人間に、間に立った者としては過去の話を蒸し返して嫌な思いを今さらさせるなんてことはさせたくない。彼はもう充分に闘った。後は今の自由を満喫していればいい。いつまでたっても「過激派ネグリ」では、警戒するにせよ歓迎するにせよ、現在の彼をスポイルする一種の侮辱でしょう。

私としては、会館が上手く立ち回っていたらすんなり行ったかもしれないが、逆にもっと早く来日中止になっていたかもしれず、その確率は五分五分であろうというのが正直なところです。

以上です。

市田良彦

PS (Fri Apr 04 14:29:26 2008)
粉川さん、

一点、粉川さんのコメントへの再コメントです。ネグリ側が日本大使館に接触する必要がなかった、と仰られているところ。

結果的には接触しようがしまいが同じでした。なぜなら、問合せを受けた大使館のほうは本国照会していませんから。これは記者の取材に答えたもの。膨大な数の同種の問合せをいちいち本国照会なんかしない、ということでした。ネグリのほうから「私には犯歴があるんですけど」などと、間抜けな質問をしないかぎり。問題が発覚したのはあくまで、日本国内でのことです。

これはとくに掲載してほしいというコメントではありませんので、そちらの判断にお任せします。

市田良彦


2008年 04月 04日

●市田良彦氏のコメントを読んで

ネグリ来日中止についてのコメントは、この問題の根底にあるものをさらに議論しあえるようになることを期待して書いたので、市田氏のコメントは、非常にうれしく読ませてもらった。

 まず、わたしのイデオシンクラティックな表現によってあたえた可能性のある「誤解」をとくところから。

 市田氏は、「イナカモン」という表現を「蔑称」として、また「都会人」の対立概念としてとらえているようですが、それはちがいます。「田舎者」とも「イナカモノ」とも書かず、「イナカモン」とカタカナで書いたのは、「イナカモーン!」という間投詞的な使い方を意図しています。いまは、もう「田舎」と「都会」を対立項としてとらえることができない状況にありますから、「田舎者」は死語ですが、そういう状況であえて「あいつはイナカモノだからねぇ」といたディスクールの響きを引きずっている「イナカモン」という言葉を使ったのは、要するに、「一つの世界にこもっていて、現状に疎い」状態を短く表現しようとしたからにすぎません。

 それから、「ヤバクナッタラスグヤメル」ですが、これもカタカナで表現されている分のニュアンスがあります。しかし、これは冗談ではなく、アウトノミアの基本にある「思想」だとわたしは信じています。ガタリとドゥルーズの「逃走線」や「横断線」、1973年に「ポテーレ・オペライオ」が意図的に自己の「党」的組織を自己解体させたこと、全般的に見られた脱「党」的志向、あらゆるもののなかに「政治」を見る「ミクロポリティクス」・・を含み、かつ庶民的であるという点で、この「ヤバクナッタラスグヤメル」はなかなか言い得て妙だと思います。
 ただし、日本のアウトノミア理解は、これよりも「会うと飲み屋」の傾向の方が強く、「ヤバクナッタラスグヤメル」よりもこちらの方が標語として浸透してしまったようです。つまり、基本においては「個別に進み、共に撃て」なのだが、「個別」の方よりも「共に」の方にウエイトがかかってしまって、「義理人情」に流れてしまうという傾向です。

 さて、言葉や言い回しにこだわっていると、非常に不毛な議論に陥ってしまうので、もっと基本の問題についてコメントしたいと思います。

 あのコメントを書いたのは、ネグリの来日が「権力」の意図的「弾圧」のためだったというような意見を聞いたからです。それは、市田さんや招聘に関与した人たちの意見ではないでしょう。が、わたしの周辺ではそういう意見が聞こえてくるし、ネットにもそういうことを書いているブログがあったと記憶します。むろん、われわれは権力のもとで生きており、菊の門と日の丸とを使いわける二重国家のもとにいるわけですから、個人をいささかなりとも不自由にする要因は「権力の弾圧」だと言えます。しかし、それでは、そういう「権力」に対する具体的な対応も見つからないだろうということです。

 具体的な例を挙げます。わたしをネグリの位置の置くのは、畏れ多いですが、わたしもあるとき招待された国に行けない/いかないことがありました。それは、90年代のロシアですが、講演とパフォーマンスのために呼ばれ、先方がビザの必要書類を大使館経由で送ると連絡してきました。当時の日露間はフリービザではありませんでしたので、大使館からの連絡を待ちました。すると、しばらくして、FAXが入ったのですが、その半分が白になっているのです。そこで大使館に電話すると、もう一度送るといって、また送って来ましたが、それも半分が白なのです。しかたなく、それを持ってロシア大使館に行き、事情を話しました。すると、係官は、「それは、あたたのFAXが壊れているのです。直してから連絡しなさい」と言うのです。しかし、わたしのFAXは、ロシア大使館以外のものはちゃんと受信できるのです。すったもんだの末、じゃあわたし自身が観光で入国することにしようと、用紙をもらって申請をすることにしました。ところが、何日たってもビザが下りないのです。ダメとは言わないが、時間がかかっているとのこと。結局、時間切れで、先方には、行かれないことを電話で知らせざるをえなかったのです。
 しかし、先方は、驚き、大使館に電話をしてくれて、ビザが下りることになったが、それがイヴェントの前日で、それからビザを取って行っても間に合わない。結局、中止したのです。面白いのは、ビザがすんなり下りなかったのは、わたしの「政治的な過去」(そんなものはもともとないのですが)のためではなく、大使館の職員がそういうやり方で「アルバイト」をしていたのでした。つまり、無料のビザ申請には意地悪をする→最後に(泣きつけば)方法を教える→それは、グルになっている業者にビザ申請を委託すること――だから、最初から業者に金を払って申請を委託していれば、そういうことにはならなかったのです。わたしは実にイナカモンでした。

 ネグリの場合、「弾圧」的な要素が皆無だったとは言えないでしょう。これも責任のとれる具体例で話しましょう。その昔、ミニFM運動にかかわっていたとき、わたしらを含め多くが不法の出力の電波を出していたのに、同じ出力の送信機で放送していたある局が、電波監理局から警告を受けたのです。あとでわかったのは、たまたまその局の活動が新聞に載ったのを見た公安警察の人が、「あんな野郎が市民活動家ズラをしているのは許せねぇ」と言って、電波監理局に電話を入れたのだそうです。その人はかつてある党派の活動家でした。この場合、この局の側からすれば、明白な弾圧であり、警察の側からすれば復讐なのですね。

 ネグリは、そういう「政治」を知り抜いている人だと思います。ですから、国境を越えるときは、それなりの覚悟をもってするでしょう。市田さんは十分ご存知でしょうが、別に世を騒がせたことがある人でなくても、いまの時代、国境を越えるときには細心の注意がいります。わたしなどでも、けっこう緊張します。それは、いつもエレクトロニックスの機器を持ち込むからですが、つまらないことで入国がもたつくことは、以前にくらべ、普遍化しています。

 今回のメールを拝見して思うのは、ネグリに対する「思いやり」や「よしとして思いはかったこと」が裏目に出た面があるということです。ネグリは「74歳の老人」でも、日本に来て、あれだけ忙しいスケジュールをこなすことを引き受けた以上、それなりの覚悟が(少なくとも当初には)あったと思います。そして、犯罪歴があろうが、EUはむろんのこと、多くの国々の人間が入国できるタテマエがあるわけですから、ネグリの場合も、ビザの必要性を大使館に問い合わせる必要ななかったわけです。わたしは、それを最初にしたのが、ネグリ個人なのか、国際文化会館なのかはわかりません。いずれにしても、一旦大使館と接触してしまったなら、やっかいな問題が生じることを計算にいれなければならないでしょう。

 ご承知のように、こうした問題で思い出されるのは、日高事件です。日高六郎氏が、1981にメルボルンのラトローブ大学とモナシュ大学の客員教授として招かれたのをオーストラリアのASIO (The Australian Security Intelligence Organisation)が、横槍を入れ、日本と結託して入国を阻止した事件です。この問題は、招聘の中心にいたラトローブ大学の杉本良夫氏を中心とした豪日の人たちの長い年月にわたる闘いの結果、いまでは、その全貌があばかれ、十数年後に日高氏の訪豪にこぎつけたのでした。今回のネグリの来日の中止の影に警察の動きがあるのだとすれば、その全貌があばかれるべきでしょう。それは、「弾圧だ」と叫ぶよりも、もっと地道な闘いだと思うのです。

 最後に、警察が「本気でネグリ来日がG8絡みで対抗勢力の運動に弾みをつけると考えた」とのことですが、これは、はからずも、反G8運動の側が、ポストアウトノミアの状況であるいまになっても、アウトミアから「会うと飲み屋」の力学しか得ていないことへの警察側の無意識的「批判」を示唆しはしませんか? 少なくとも、そういう方向への反面教師的警告にはなるのではないでしょうか? 警察もいろいろのレベルがあり、IT関係なんかはもっとしたたかでしょうが、反G8活動をあいかわらず「義理人情的連帯」でもりあがると踏んでいるのです。
 結果的に、今回、ネグリは、「個別に進み、共に撃て」の「個別に進む」方を活性化させる触媒としてよりも、個別を楽天的な情念で一つにする「スター」の機能を背負わせられることにになってしまったのではないでしょうか? 


2008年 04月 03日

●「ネグリ来日中止のこと」への市田良彦氏によるコメント

3/30と3/31の私見に対して、「最初から招聘に関わった」市田良彦氏より私見の誤解を指摘するコメントをもらったので、とりあえず無断でアップロードしておく。いま、街頭なので、いずれ熟読してコメントしたいと思います。(粉川哲夫)

【本文 (Date: Thu, 03 Apr 2008 15:16:48 +0900)】
粉川哲夫さま、

市田良彦です。
突然メールを差し上げるご無礼をお許しくださいませ。

ネグリ来日中止について、粉川さんがHPでコメントされていると聞き、さっそく拝読させてもらいました。最初から招聘に関わった人間として、若干の説明とコメントをさせてください。

「いずれにせよ、(このへんの経緯を招聘先の財団法人国際文化会館は明かしていないのだが)「問合せ」をすれば、大使館としては、その本性上、逮捕歴のある人間は日本入国を拒否される可能性があること、そして、他面で「政治犯」は、ビザを免れられるということ、また、謝礼などの収益がある場合、ビザが必要になることを明示しなければならない。」

大使館は問合せに対し、逮捕歴や「政治犯」のことは何も明示していません。謝礼についても「給与ではなく謝礼だったらビザは要らない」と回答しています。したがって、「ビザなしで入国することを選んだのはネグリと招聘先である」は必ずしも正しくないと言わざるをえません。申請以前に自分で逮捕歴をわざわざ申告しなければならないとするなら、申告しなかったことをもって「選んだ」と言うのは正しいでしょうが。そういう申告義務が本人にあるのでしょうか?日本への入国条件を知らない人に。ネグリたちにとっては入国条件を教えてくれと大使館に問合せたら、「特になし」という返事が返ってきただけのことです。

私はネグリではなく招聘元である国際文化会館が犯歴については外務省に告げていると思っていました。あるいは、そう思わされていました。またあるいは、思い込んでいました。「ビザ申請に必要なプロフィールを含む書類一式は整えた」と言われていましたから。要はその「プロフィール」に犯歴の話は出ていなかった(これは事後的に確かめました)。

数ヶ月前に犯歴のことがあるから申請してくれと言われていたら、揃えられるものは揃えるような準備もしていたでしょう。交渉をしていたでしょう。それを今回は二日でやったわけです。そして、二日ではとうてい無理というような要求をしてきたわけです(役所はそれが無理だとは知らなかったでしょうけど)。なぜ無理なのか、私が直接外務省に説明する機会が与えられていれば、交渉の余地もあったかもしれませんが、会館の担当者は役人の言うことを右から左に本人たちに流すだけで、それで彼らを怒らせると私に泣きつき、私と役所の直接交渉については、会館と役所の両方から断られました。それでとにかく、このまま飛行機に乗ったら空港で足止めを食らって、下手をすればそのまま追い返されるだけと判断し、私と本人たちの間で中止を決め、それを会館に納得させました。

あのまま飛行機に乗っていても、入国できたかもしれませんが、74歳の老人にたかが講演旅行のためにリスクを負わせることはできませんでした。それだけのことです。

昨今では(いつからかは知りませんが)、EU市民であれば、犯歴の有無など事実上問題にされてきませんでした。懲役5年の実刑をくらった人間でも、素通り。今回はたまたま直前になって「見つかった」から、このような事態になりました。

事前に招聘者の側から「政治犯」認定を求めていたとしても、私はネグリ本人にその立証の手間を追わせるぐらいなら、彼には「来るな」と行ったでしょう。面倒くさいことになるのは知っていましたから。そのあたりの詳細については、長々と説明しなければなりませんので、やめておきます。「ヤバイトキニハスグヤメル」と仰られますが、来日はそれ自体政治活動でもなんでもないんですから、そもそもヤバクないならやってもかまわないよ、という程度のことにすぎません。

「このへんを「旧左翼」流に「権力」の問題にするのは、いまの時代には、権力に対する戦略のなさ、政治の「イナカモン」ぶりを露呈させるものだ。」これについてはまったく理解できません。どういう「都会的」やり方があったかは私には分かりませんし、あの二日間のやり取りというか外務省の言っていたことからして、せいぜいのところ、提出書類(政治犯認定のための)の種類についての交渉ぐらいしか思いつきません。そして、それは数日でできるようなものではない。

今回、横槍を入れてきたのはどうも警察のようです。彼らはどうも本気でネグリ来日がG8絡みで対抗勢力の運動に弾みをつけると考えたようです。これは複数の情報と状況証拠からの判断です。私としては、そんな「意味」なぞさらさら考えていませんでした。したがって、そもそも「戦略」を駆使してやるようなことがらでもない。そしてネグリは現在、そんな「戦略」を駆使しなくてもアメリカ以外の国へは入れます。アメリカと日本は入るのが面倒な国になっているのです。友人の大学教師にはアメリカに入国ビザが下りないし。今回の事態は決して、国家権力が正面から拳を振り上げて襲い掛かってきたような攻撃でないことぐらいは承知していますが、たかが講演旅行ができないのはやっぱり「権力」のせい(より正確には「権力」をめぐる状況と入管体制)なのだと思ってます。「イナカモン」かもしれませんが、特段恥じるようなところはないし、イナカモンが蔑称になるのはそれを蔑称と思っている人間にだけでしょう。スマートなやり方は役所と政治屋が考えればよい。

以上です。

市田良彦