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2008年 03月 31日
●ネグリ来日中止のこと(2)
(前日の続き)
今回、ネグリは、日本政府の干渉によって来日できなくなったと一般には報じられているが、そのへんは、もっと屈折があったと思う。いまの日本は、ネグリ程度の知識人を「危険人物」とみなして、一方的にビザ申請の必要を要求するようなハードな管理を避ける(その分、ソフトな管理・弾圧はしたたかになっている)。
ネグリが今回のトラブルに巻き込まれたのは、ネグリの恋人のジュディット・ルヴェルが書いているように、「用心のため、私たちは在仏日本大使館にも問い合わせ」たことから始まったのだと思う。おそらく、この「用心のため」には、ネグリに逮捕歴があるからだけではなく、来日時に講演を行なうので、観光ビザでは済まない可能性があるということも含まれる。
いずれにせよ、(このへんの経緯を招聘先の財団法人国際文化会館は明かしていないのだが)「問合せ」をすれば、大使館としては、その本性上、逮捕歴のある人間は日本入国を拒否される可能性があること、そして、他面で「政治犯」は、ビザを免れられるということ、また、謝礼などの収益がある場合、ビザが必要になることを明示しなければならない。
ネグリたちは、「政治犯」であることの証明を出せと要求されたと言っているが、ビザなしで入国することを選んだのは、ネグリと招聘先である。そういう選択なしに、大使館が勝手に彼を「政治犯」としてビザなしで入国させようとしたならば、それは、政治問題であり、日本政府の介入によって来日が阻止されたと主張する場合には、政府批判の主題にすべきことである。
今回のトラブルは、(招聘者たちは怒るかもしれないが)日本の外交と似たような外交感覚のズレからお起こったような気がする。というのも、ビザ申請でえらく待たされたりすることは商用ビザでもよくあり、それを覚悟しなければならない。それに、たとえ、大使館が入国の不可を示唆したとしても、成田までやって来て、成田の入国審査で闘うことも可能だったからだ。マスメディアを使って圧力をかけることも可能だったかもしれない。しかし、最終的に、「ヤバイトキニハスグヤメル」の「アウトノミスト」ネグリ(と招聘先)は、ことがやっかいになるのを回避した。彼(と招聘先)は、成田でトラぶるのを避け、来日を中止した。それは、彼らしくていいとわたしは思う。
かつてガタリが3度目の来日(再婚旅行をかねて)をしたとき、彼は、パスポートが期限切れであることを忘れていた。当然、成田で入国不可だったのだが、朝日新聞が手を回して、数時間後には入国できた。
アウトノミア思想の影響を受け、ガタリとネグリの共著『自由の新たな空間』を英訳しているマイケル・ライアンを新日本文学会の要請でわたしが呼んだとき、彼は、ビザなし(当時は日米間でも必要だった)で来てしまった。すると、日本航空の職員が、日本を経由して香港に行くチケットだということにしてくれて、ビザなしの一時滞在のあつかいにしてくれた。ノンキな時代だった。裏話をすれば、彼は、IRAとの関係を疑われたことがあって、ビザ申請をしたくなかったのだった。
結局、ネグリの場合は、講演をするビザを取る可能性もあったし、「政治犯」であることを別に何万ページもの文書を提出しなくても証明する方法はあったはずだが、何やかやの面倒な事態が発生したために、いやになってしまったのだと思う。このへんを「旧左翼」流に「権力」の問題にするのは、いまの時代には、権力に対する戦略のなさ、政治の「イナカモン」ぶりを露呈させるものだ。
ネグリは、来日を中止したのち、「さっさとバカンスに行ってしまった」という批判をする人もいるが、これも、日本の「左翼」と西欧の「左翼」との文化的温度差の問題である。そもそも「バカンス」の概念がちがうし、その意味では、ネグリは恋人と「バカンス」をかねて日本に来ようとしたはずだ。ネグリは、理論的には「マルチチュード」を支援しているが、彼自身は「ブルジョア」的と日本では思われる生活をしている。
このへんの温度差は、今後変わるのだろうか? かつて花田清輝は、「盛大に飯が食えないような社会主義革命はダメなのだ」という意味のことを言った。金がなくてもうまいものを食うにはどうしたらいいのか(かつて津村喬あたりが唱えていた)をもっと考え、実践すべきだろう。
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2008年 03月 30日
●ネグリ来日中止のこと(1)
ネグリが来日するという話を大分まえに聞いたとき、果たして来るのかなという気がした。それは、日本政府が彼を「危険人物」として阻止する可能性があるからではなくて、トニ・ネグリの性格上、ドタキャンの可能性があると思ったからだ。
ネグリは、イタリアで1970年代後半に展開し、1979年に大弾圧(仮の拘置施設を作って3000人も逮捕した)された通称「アウトノミア」運動の理論的背景といわれた人(スター)だが、大雑把に言うと、アウトノミアの基本思想の一つに「ヤバイトキニハスグヤメル」というのがあった。
ゴダールの映画なんかにもちらりと出てくる「ポリティカル・ショッピング」とか、威嚇としての爆破とか、空家占拠、自由ラジオなどの面白い動きがとめどもなく広がるなかで、真性の「アウトノミスト」は、そういう運動に対して官憲の抑圧があったとき、旧「左翼」のように、命をかけて最後まで闘うのではなく、さっと引く、逃げる(かつて浅田彰が「闘争」と「逃走」をかけたのは、ガタリ経由のアウトノミア思想)のを得意とした。
ネグリは、赤い旅団の黒幕という疑いをかけられて逮捕されたが、国会議員として獄中から立候補し、見事当選してしまったが、国会議員になった者は拘置できないという法律で拘置をまぬがれるや、ただちにフランスに亡命してしまった。むろん、ドゥルーズ、ガタリ、フーコーなどが支援して、そういうことが可能になった。
しかし、この亡命のやり方は、まさに「ヤバイトキニハスグヤメル」の実践であり、アウトノミスト・ネグリの真骨頂だった。
わたしは、1979年に、ニューヨークでネグリの弟子筋にあたるシルヴィア・フェデリッチと会い、イタリアで起こった大弾圧のことを知り、ただちに連帯行動を取った。日本のメディアにこのことを知らせることがその一つだったが、『ニューズウィーク』の一面を飾ったこの事件を日本のマスコミはどこも知らなかった。だから、わたしの記事(「イタリアの熱い日々」、『メディアの牢獄』所収)を全文掲載したのは、当時「新左翼」の先端的な新聞だった『日本読書新聞』だけだった。
その意味で、日本語で「アントニオ・ネグリ」という文字がメディアに流れたのは、この文章が最初だと思う。この記事が縁となって、伊藤公雄がすでにネグリの研究をしていたことがわかったり、若き小倉利丸がネグリ研究を始めたりした。
1980年にガタリが初来日したとき、ガタリとアウトノミア運動との関係を知っていたわたしは、インタヴューの機会をあたえられたとき、ネグリに対する弾圧の不当さを尋ねた。彼は、予期しない質問に興奮し、「この機会をかりて、(ネグリ弾圧の)不当さを強調したい」というようなことを言った。
そんな文脈で、1983年に平井玄らが賛同し、法政大学の学館ホールで、ネグリとアウトノミア運動を支援する会をやった(『インパクション』にその記事があるはず)。それに際して、わたしは、ネグリが収監されているイタリアのレッビビア刑務所に手紙を送り、声明を送ってくれるように頼んだ。すると、ネグリはすぐに獄中から、A4で1ページほどの声明(→
注)を送ってきた。そのため、わたしはそれを集会で代読できた。そのとき、彼は国会議員に立候補中で、集会は、彼の当選をかなたから支援するものでもあった。
だから、ネグリが当選し、しかもフランスに亡命してしまったことをその直後に知ったとき、そのあざやかな「逃走」に、わたしは痛快さをおぼえたのだったが、イタリア内部では全く事情がちがっていたことをあとで知り、驚いた。
1984年3月、わたしは、ネグリの愛弟子の一人であったマリアローザ・ダッラコスタやイタリアの自由ラジオの連中に会うためにまず、ネグリの本拠のパドヴァに行った。すると、マリアローザをはじめとして、「ネグリはひどすぎる」という意外な反応を示すのだった。「ヤバクナッタラスグヤメル」は、アウトノミア運動の基本思想だとしても、現実には、そういうことをやれば、「無責任」という風に受け取られる。外からは、アウトノミアの脱「義理人情」を新しいものとして評価できるが、内部ではそう簡単ではなかったわけだ。ネグリが「逃走」したことによって、彼の弟子たちは、色々と迷惑をこうむったのである。
それと、現地に行ってみてわかったのは、外から見るとカッコよかったアウトノミア運動も、内部では色々な矛盾を露呈させていた。マリアローザは、「家事労働に賃金を!」の運動(のちにイヴァン・イリイチは、ここから「シャドウ・ワーク」というコンセプトを思いつく)の創始者だが、彼女にしてから、アウトノミアは結局「男たちの運動」だったと総括した。反論するわたしに、「外の人にはわからない」と言って、ちょっと涙をこぼした。
(翌日に続く)
https://cinemanote.jp/books/medianorogoku/m-006.html
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2008年 03月 24日
●「ローマ悲歌」に泣かされて
昼過ぎ、納富貴久男さんが坪井一春さんを紹介してくれるので、五反田のイマジカに行った。ホットな話を聴き、「身体表現ワークショップ」のゲストの約束をもらい、2人に感謝しながら、大崎まわりで京橋へ。スウェーデンのロイ・アンダーソンのオフビートな『愛しき隣人』を見る。夕方、地下鉄で末広町に出て、しばらくアキバを散策。先日、毛利悠子さんと歩いてから間もないので、新鮮味がなく、掘り出し物は見つからない。30分後、近くのうなぎ屋に行く。やがて旧友2人が来て、遅くまで旧交をあたためた。
帰って、今日見た『愛しき隣人』についての「シネマノート」を書こうと、コンピュータのまえに座ったが、冒頭に出てきたゲーテの文章が気になって先に進めなくなった。あげくのはてには、その文章の出典である「ローマ悲歌」の載っている原書と訳書をひっぱリ出してきて、チェックをはじめる。
「ローマ悲歌」(Roemische Elegien) は、ゲーテがイタリア旅行から帰ってからヴァイマルで書いた詩だが、「悲しさ」とはあまり関係がない。「Elegie」(英語の「エレジー」)は、「悲歌」とか「哀歌」と訳されるが、少なくともゲーテの場合は、「ローマ的愛惜の歌」とでも訳すべきもので、ヴァイマルの役人だったゲーテが、イタリアにドロップアウトし、刺激的な(とりわけ女性たちと)日々を送ったのを「愛惜」する詩篇である。まあ、あんなにいいところに当分行けなくて「悲しい」なという意味では「悲」かもしれない。
それはともかく、映画の字幕では「命ある者よ・・・」といった訳が見えて、あっというまに消えてしまったので、何か生き物全体のことを言っているのかという印象をあたえ、そらから始まったシーンとの関係がわからなかった。あとで調べると、引用の個所は、「ローマ悲歌」の第10節の部分で、潮出版の『ゲーテ全集』第1巻所収の今井寛訳では、こう訳されていた。
だから楽しむがいい、生きている者よ、愛にぬくもるその場所を
急ぎ行くおまえの足を、おそろしくもレーテの水がぬらさないうちに
「レーテ」(Lehte)というのは、黄泉の世界のことだから、後半の句は、要するに「死んでしまうまえに」という意味に受け取っておけばいいが、問題は前半の句の意味だ。わかるようでわからない。一体、「愛にぬくもるその場所」とは何か?
「ローマ悲歌」は、流布している訳がみなもってまわっているのでわかりにくいが、かなり「きわどい」内容と表現の詩篇である。たとえば、第18節には、(わたしの超訳では)こんなくだりがある。
夜の一人寝はいやだ
でも、最高にいやなのは、愛の途中で
びくびくすること。情欲の薔薇の下にある贈物に。
わたしが「贈物」と訳したドイツ語のGiftには、英語とはちがって明白な「毒」という意味がある。つまりここは、〈夜、一人で寝るのはいやだが、だからといって売春婦などを買って、性病にかかるのをびくびくしながらセックスするのはいやだ〉という意味で、ここから、「ローマ悲歌」に「処女礼讃」的な意味に読める部分が多いのも理解できるわけである。
このことを知って先ほどの訳を読むと、「愛にぬくもるその場所」というのは、女性性器か何かを意味するのではないかという誤解を生みかねない。しかし、それは、不正確な訳のためなのだ。
原文を調べてみると、Freue dich also, Lebend'ger, der lieberwaermeten Staetteとなっている。要するに「楽しめ」(freude dich)と言っているわけだが、dichは単数の「君」だから、「ねえ、君、楽しむんだよ」といったニュアンスであって、「生きてる者よ」とか「命ある者よ」といった万人に向けて「楽しむがいい」というニュアンスではない。そうすると、「愛にぬくもるその場所を」と訳されているder lieberwaermeten Staetteは、Lebend'ger=Lebendigerにかかるものとして読んだ方がよいのではないか? その場合、この「Lebendiger」は、「生きている者」ではあるが、君(dich)のことだから、「生きている者よ」という間投詞的な使い方ではなくて、ニュアンス的には、「君は生きているんだから」という意味である。
また、邦訳では、「der lieberwaermeten Staette」を目的格として訳されているが、原文は所有格である。まあ、「・・・場所を」楽しむでも、「・・・場所で」楽しむでも大した違いはないかもしれないが、ちゃんと訳さなければその「場所」がどういう場所なのかがはっきりしない。この個所は、Lebend'gerにかかるものとした方が素直に読めると思う。すなわち、「たのしみなさい、君は、愛を熱くはぐくむ場所で生きているのだから」と訳すのである。この「愛を熱くはぐくむ場所」というのは、具体的には酒場や遊郭、愛が生まれるかもしれない相手の家でもよく、要するに都市の一部である。訳しなおすとこうなる。
だから君、生きているんだからこの愛を熱くはぐくむ街で楽しむのだよ。
黄泉の河の水が急ぎ行く君の足をぬらすまえに。
これで、なぜこの詩文が『愛しき隣人』の最初にかかげられているかがわかったが、やれやれ、今日も寝るのが朝になってしまった。
https://cinemanote.jp/2008-03.html
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2008年 03月 12日
●「ハイデガー」の由来
AV Festival 08の会場で、総合ディレクターのHonor Hargerのことをみんなが「オナー・ハーガー」と呼んでいるのが気になった。わたしは、彼女のことをずっと「オナー・ハージャー」と呼んできたからだ。
2月29日の「Music & Machines VIII: Broadcast」という会議で最初にあいさつをしたBenett Hoggが、「ハージャー」ではなく「ハーガー」と呼び、その後も何人かがそう呼んでいたので、自信を失ったわたしは、自分の番になり、「呼んでくれて感謝する」みたいな慣例のあいさつをするとき、「ハーガー」と言ってしまった。しかし、どうも納得できないので、会議が終わってやっと彼女とゆっくりしゃべることができたとき、そのことをきいてみた。すると、彼女は、「まちがって発音している人が多いのよ」と言った。つまり、「ハージャー」が正しかったのである。
日本語表記というのは、いいかげんかつ厳密なところがあって困る。「major」は「メイジャー」のはずなのに「メジャー」と表記され、「main」は、「メイン」でなはく「メーン」と(特に新聞で)表記される。まあ、英語圏ではかのヨハン・セバスチアン・バッハも「バック」と発音されるから、四の五の言うことはないのかもしれないが、「バッハ」でも「バック」でも文字表記は「Bach」なのだから、検索などのときに不自由はしない。しかし、日本語の場合は、「ハージャー」と記されているのを「ハーガー」で検索したら何も出てこない。
それで思い出したが、わたしがかのMartin Heideggerを大学で専攻しはじめたとき、その呼び方は「ハイデッガー」が一般的だった。そのうち、桑木務が「ハイデガー」という表記を使いはじめたのだが、まだ依然として「ハイデッガー」が主流であり、なかには「ハイデッゲル」というのもあった。
そこで、ゼミのわたしの指導教授である佐藤慶ニ先生に「本当」の発音はどうなのかをきいてみた。先生は、20代のころからハイデッガーについての論文を発表し、「カミソリ佐藤」と呼ばれた人で(ただし、わたしが「カミソリ佐藤」のつもりで氏の門をたたいたときには、周囲では「ほとけの佐藤」と呼ばれていることをあとで知った)、ハイデッガーのもとで勉強したことがあったからだ。
すると佐藤先生は、「いや、ぼくも気になってきいたことがあるんだが、そうしたらハイデッガーは『ハイ・デッ・ゲル』と言ったんだ」と笑った。しかし、実際には、ハイデッガーは、「ハイデッカー」と「ガー」をむしろ「カー」に近い発音で呼ばれていたようだ。わたしは、ハイデッガーの弟子の一人であるカール・レヴィットの放送を聴いてそのことを知った。
そのため、ハイデッガーの言語について書いた修士論文では、「ハイデッカー」と表記することにした。すると、主査の佐藤先生は何も言わなかったが、ずっと黙っていた副査の川原栄峰先生が、口を切り、まず「『ハイデッカー』とはなんだ」と食ってかかってきた。川原先生は、すでにハイデッガーの『形而上学入門』などの訳を出していたが、表記は「ハイデッガー」だった。「ガ」を「カ」とまちがえるような野郎だとわたしを思ったのか、以後、口頭試問は、その内容ではななく、もっぱら誤字の指摘に終始し、わたしは、沈黙するしかなかった。若くて生意気なわたしは、「樫山さんの下訳なんかばかりやってるとそういうことばかり気になるようになるのかな」などと思いながら、この先生を軽蔑した。「ハイデッカー」はともかく、その論文の内容には、もうちょっとオリジナリティがあると自負していたからである。
さて、いま、Heideggerは、「ハイデッガー」よりも「ハイデガー」と表記されることが多いが、最初は桑木務だとしても、一番影響力があったのは手塚富雄だろう。彼は、1954年3月にハイデッガーを訪ね、「ハイデガーとの一時間」というエッセーを書いた(『西欧のこころをたずねて』、1955年、河出書房所収)。このときの会見は、ハイデッガーに大きなインパクトをあたえ、のちにハイデッガーは、手塚との対話をベースに「ひとりの日本人と問う人とのあいだの対話」(「Unterwegs zur Sprach」所収、邦訳『ことばについての対話』)を書いた。それまで手塚は、リルケなどの研究で知られる独文学者だったが、このことがきっかにになり、ハイデッガーに関して一家言を持つ人ということになった。そして、手塚自身が、「ハイデッガーの名前は、『ハイデガー』の方が原音に近い」といったことを力説したこともあって、次第に手塚の意見になびいていった。
名前の発音にうるさい日本の傾向は、料理や見立てへの神経の使い方に一脈通じるものがあるが、日本語の場合、どんなに「原音」に近い形で表記されても、アクセントの方は表記されないから、そのうるささが何の意味もなくなることが多い。現に、「原音に近い」という「ハイデガー」も、短く表記されたために、「ハイ」の方にアクセントを置いて発音されるようになり、本場では「ガー」に尻上がりのアクセントが置かれていることは忘れられてしまった。これだと、ドイツ人に向って発音する場合、誰のことかわからなくなるおそれがある。まだ「ハイデッガー」の方が通じるのだ。
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2008年 03月 03日
●送信機ワークショップ
FM送信機を作るワークショップは、もう名十回となくやっているが、いつも準備には気を使う。いや、一番気を使うのは、飛行機に乗るときか? だんだんうるさくなり、この分では、道具や部品を別送しなければならなくなりそうだ。
誰にでも作れるといっても、それなりの下準備をしておかないとそうはいかない。作っても動作しなかったら、参加者は失望する。そんなわけで、昨夜は寝るのが遅くなってしまった。開始が午前10時なので、目覚ましで起きた。ワークショップの場所は、さいわい、歩いてすぐの「ISIS Arts」のラボ。
コーディネーターのSneha Solankiとは、メールで何度も打ち合わせをしたが、彼女は、しっかりとわたしのサイトを調べていて、現場に着いたら、工具類はむろんのこと、配線図から部品表まで人数分のコピーを作ったあった。プロジェクターやコンピュータの用意も万全で、すんなりと開始できた。始める寸前、オナー・ハージャーが姿を現したので、「どうしたの?」と訊いたら、様子を見に来たのだという。忙しいのに律儀な人だ。
参加者の大半は29日のわたしのチャー・パフォーマンスを聴いているのだが、そのときは、あえてミニFMや自由ラジオのことは話さなかったので、少し映像を見せながら、「レクチャー」をする。
部品を配って、1人だけ完成しかかったところで、階下に昼食が用意してあるというので、全員で部屋を出る。いつも思うが、こういう場所には必ずといってよいくらい、建物のどこかに調理場や食の行為のための場所が設けてあり、「食べる」ことが行事や仕事の一環に入っている。この日は、短時間に食べなければならないということもあり、チーズ、パン、(いまヨーロッパのどこに行ってもある)寿司類、果物、飲み物などが用意されていた。
始まるまえ参加者が自己紹介をしたら、みんなドクターであったり、アーティストとしてかなりの仕事をしていたりで、すでに自分の領域を持っている人たちがあえてこういうワークショップに興味を示すのに若さを感じたが、でっぷり太り、頭のはげたおっさんが、あの「ヴァン・ゴッホ・TV」の創始者の一人であるKarel Dudesekだと知って、驚く。彼は、いまロンドンに住み、「Do it your self media」というのをやっている。
送信機のワークショップをやると、必ず、「どうすればもっと遠くまで電波を飛ばせるか」、「ステレオにするには?」という質問を受ける。以前は、そういうことをしたければ、既成の製品を使えばいいし、既成の送信機ではやらない/やれないことをするために作るんだとはね返したが、最近は、別の答えをする。
ステレオにしたければ、2つ送信機を作って、別々の周波数で2つのチャンネルの音を出せばいいという答えと、遠くまで飛ばしたければ、たくさん送信機を作ってつなぎあえばいいでしょうという答えである。
こういうことは、日本では、ミニFMの時代にさんざん試したことだが、ヨーロッパがアメリカでは、ラジオ局が一杯で周波数に空きがなく、出来ない相談だったのだが、ここに来て、状況が変わって来た。デジタル化に向けて、FM帯が空いて来たのだ。AMに関しては、もう「砂漠」状態になりつつある。この特典をアーティストは利用すべきだ。80年代のミニFMは、日本では既成が強くて放送局を作れないので周波数ががら空きだったために出来たのだったが、いま、ヨーロッパで、全く逆のロジックの逆説で似たような状況が生まれているのである。
http://flickr.com/photos/poportis/sets/72157604016976657/
■2008年 03月 02日
●「NE1FM」での放送
例によって早起きし、駅のそばで朝食をたべ、もどってきて少し仕事をする。電波の「植民地化」のことについても、いろいろインスピレイションがわいた。土地や鉱物資源同様に「資源」化される電波帯。
昼過ぎ、近所の「Discovery Museum」へ。ここでクヌート・アウファーマンとサラ・ワシントンが期間限定のフェスティヴァルラジオ局「AV Festival on NE1FM」をやっていて、わたしを呼んだ。
古いテレビ受像機などがならぶ展示室の片隅に臨時のスタジオがあり、そこで彼と彼女が10日にわたって24時間放送をする。が、ベルリン以来の再会を喜んだつかのま、クヌートの口から、グチが飛び出した。自由なアートラジオのはずが、途中から、局側が「送信機が壊れる云々」の文句を言い出し、持続するのが微妙だという。NE1FMは、地元のローカル局だが、フェスティヴァルの期間だけ周波数帯と送信設備を丸貸ししてくれたのだが、いざとなると、管理者が出てきて既存のロジックをふりまわすようになったたのだという。無音状態やノイズに色を失ったらしい。どこも変わらない。
わたしのまえにシンセやセンサーやエフェクターや玩具などをテーブルに並べてサウンドを作るパフォーマーが2時間ほどやり、そのあとわたしとクヌート、サラとの雑談になる。演奏や話の最中にも、ミュージアムの見学者の子供などの声がまじりこみ、まるっきり自由ラジオの雰囲気でよかった。
夕方、3人で飯を食いに行く。毎度のことながら、この2人といると気が休まる。街の散歩が好きなのと、美味いものを食わせる店を見つける嗅覚がいいのだ。観光をしないわたしは、この街の有名な「城」(「ニューカッスル」の「カッスル」)を見ていなかったが、彼らのおかげでそれも見、また、『Variations VII』の帰りに通ったのにろくろく憶えていない有名な橋の由来とかを教えてもらった。
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2008年 03月 01日
●AV Festival 08の2日目
今日は荷物がないので、歩いてニューカッスル大学まで行く。土曜なので、街は、買物やレジャーの人々があふれている。
キーノートスピーチは、昨夜「Variations VII」を演ったAtau Tanaka。キーノートというと、わたしなどは、全体のテーマを意識してそういう話をしなければならないと思うのがつねだが、彼は、自分がやってきたことをパワーポイントを使って説明しただけ。ユーモアのあるしゃべり方がなかなかよかった。紹介した彼のネットワーク作品のなかにReiko.Aの声が出てきた。
次のコーナーでは、ハイディ・グルントマンとエリザベート・ツィマーマンにメディア歴史家のアンドレアス・ブレックマンが「クンストラディオ」についてインタヴューをしたが、話が昔にばかりさかのぼるので、新鮮味がなかった。ハイディも本意ではなさそう。エリザベートは、ちょっと不足そうな顔をしている。と思っていると、質問の時間になり、いきなり、モデュレイターのノーマがわたしにマイクをふった。クンストラディオについては、そのトランスローカル的機能とか、ラディアートへのこだわりとか、色々話したいことがあったはずなのに、いきなりの指名で、大したことを言わずに、先の「アーツ・バースデイ」にクンストラディオが指定したタイトル「Forever Young」をもじって、「クンストラディオは永遠に若くあってほしい」などというつまらない言葉でしめてしまった。
フォーエヴァー・ヤングといえば、15年ほどまえこの近くのサンダーランドで初めてハイディに会ったときのことを思い出した。あのとき「ウィーンの貴婦人」の匂いをただよわせていた彼女が、いま、杖をついた「おばあさん」になってそこにいる。自分もそれだけ老いたのだろうが、自分には盲目でいられる。
次のセッションでは、Tao Sambolecが、「ラジオ・ピクニック」をやるというのでつきあった。フェスティヴァルが借り切ったFM局からサウンドを流しておいて、参加者がポータブルラジオを持って街を散歩するというもの。以前わたしがドイツのヴァイマルでやったときは、公園のなかだったが、今回は、街なかなので、細い街路や建物で音が反射して、なかなかいい雰囲気だった。街の他の人たちは、ラジオを持った集団が街をぞろぞろ歩くのを異様な集団に困惑していた。ただし、既成の局を発信源にしているので、電波がとだえることはなく、その分、送受信における「場所性」が出なかった。自前のミニ送信機でやればもっと面白かっただろう。
終わって、大学ももどると、すでに午後の2時を過ぎていた。次のセッションは、アルトーの肉声を録音したテープの話とのことだったが、さぼることにして、外に出た。大きなショッピングモールがあり、そのバーでビールを一杯。それから気の向くままに歩き出したら、サッカー場に来てしまった。逆方向から、若者やおっさんの大群が歩いて来る。近くのバーからも顔を真っ赤にした人たちもサッカー場の方に勢いよく歩いて来る。わたしはそこを離れようとしているのだが、そんなやつはいない。今夜サッカーの試合があるらしいのだ。
あちこち歩きまわっているうちに、4時からの「まとめ」に出るのがおっくになった。小学生のころ、渋谷の街を歩いているうちに、「あの授業がもう終わりになるな」と思いながら、気味のよい喜びと若干の不安とがよぎる経験を楽しんだが、いまでも、拘束のなかに置かれると、そういう記憶の快感に呼び寄せられ、ドロップアウトをしてしまう。このときも、そんな感じで、結局、会議とはこれでバイバイすることにした。
アジアの場合は違うのだが、ヨーロッパや北米の集まりでは、朝から夜までスケジュールぜめということはない。特に今回のように、自分で見るように組まれた展示やイヴェントがたくさんある会議では、自分のパート以外で拘束されることはない。
アパートメントホテルにもどり、少し仕事をする。ネット環境がいいので、日本の仕事場にいるのとあまり変わらない。そんなことをしているうちに、夜の8時がすぎ、腹がすいてきた。先日ちょっと気になったタイ料理の店に行く。土曜なので猛烈混んでいて、予約なしで行ったので、入口のそばの席しかなかったが、料理はおいしく、いい休養になった。
外に出ると、昨夜以上に若者の集団が闊歩(かっぽ)している。みな薄着で、かなり寒いのに、肌を剥き出しにして、背中に天使の羽根をつけているような女の子もいる。あとできいたら、最初はお金のない若者が寒くてもコートなどを着ないでいるというだけのことだったのだが、それがやがてファッションになり、いまは、寒いときに薄着をするのがファッションなのだという。
そういう若者に押されるようにして歩いていったら、The Gateというレジャーランドにたどりついてしまった。映画館があったので、スケジュールを見ると、『ジュノ』がちょうどはじまるところ。まだ見ていなかったので、入ることにした。なかが10館ぐらに分かれたシネコンだが、スクリーンは大きい。この映画については、「シネマノート」に書こう。
http://musicfilmbroth.com/seminars.html