「シネマノート」  「雑日記」

2007年 11月 18日

●Finnair(フィンランド航空)への抗議文(2/2)

【抗議文】(2/3)
I had had to work hard in Berlin for my lectures and workshops. In order to have a rest, I stooped over at Helsinki and enjoyed a good hotel and nice meals. Because of the shortest distance and time, I chose your flight to Narita from Helsinki. But the consequence was so terrible. The travel was much harder for a old person than 14 hour flights such as Berlin to Frankfurt to Narita (this is my usual way). The 10 hour torture you forced from Helsinki to Narita damaged me heavily and left the aftereffect.

It goes without saying that the purser is unworthy to work in the service-hospitality industry and to control her partners, and the general policy of your service is too poor: for instance I had ordered a special meal (western vegetarian) but your attendants always brought me a wrong one (automatically served a "ordinary" meal). I had to mention to them about my order again and again. This happened in the all flights from Narita to Helsinki to Berlin to Helsinki to Narita. Also, in spite of the earlier announcement, your service of appetizers was always later than the meals. Even any of cheap flights serve appetizer first. I have never experienced such a terrible service in the other companies&.html#39; flights for my last 30 years. Is that your basic policy to the economy class passengers?

I love Helsinki and plan to stop over there on my way back from Europe or to Tokyo, but I would never like to use Finnair anymore.

All in all, I hope you understand how your terrible service and hospitality sacrificed me. I am convinced that it should be your least responsibility and aftercare to refund the cost I paid.

20071117


2007年 11月 17日

●Finnair(フィンランド航空)への抗議文(1/2)

11月6日に、「最悪のFinnair――牢獄としての飛行機」という一文を書いた。その後、どうしても気分が晴れないので、フィンランド航空に電話した。電話に出た予約センターの女性は、「それはひどいですね」と同情し、こちらが英文で抗議文を書けば、本社の担当部署に届けると言ってくれた。そこで、下段のような抗議文を書いて送った。しかし、返事が一向に来ないので、Finnairのウェブページにあるフィードバックのページに同じ文章を書いた。
【抗議文】(1/2)(長すぎるので2回に分散)
What happened:
Soon after departing from Helsinki, a Japanese-speaking woman flight attendant asked me to change my seat (22H) because she wanted to let a family get together in the 22th seats. According to her, the alternative seat is not different from my present one (22H). So, I accepted her request and moved there. However I quickly understand that it was not proper to me: the seat turned out to be very different from the 22H. It had a noisy speaker over my head and had no room in the upper closet. When I told her that I didn&.html#39;t like it, she said there is no other seat. To my question why you changed the seats even if you had not enough seats for me, she was unable to answer. Therefore, I suggested her to call the purser. As I had no seat for me, I was standing in the aisle for over 15 minutes. Until a English-speaking woman purser appeared, I was exhausted. When I repeated to explain what&.html#39; happening, I was surprised that she just repeated the same answer and said that if I can&.html#39;t accept the alternative seat I have to come back to the previous seat. So I thought I had no choice except coming back to my previous seat. Surprisingly enough, she brought my baggage by herself and went straight to the family. Then she told to one of the family (I guess the mother of the children), "This person does not want to move from here....". This is a terrible simplification and is not true in the nuance. Everybody there stared me contemptuously. The "mother" said, "why we have to move where we are now happy?!" I was very embarrassed because I had no intention to disturb the family. Also I was very embarrassed that the purser let me confront directly with them. The beginning was not from me but your ill-organized arrangement. Later I learned that this is a "professional" technique to let the "troublesome" passenger to give up her/his insistence. Her final arrangement was to let me sit down at the seat that was located far and far backward. It had no speaker over the head and seemed better than the second arrangement. But I found later that there was more serious problem in this seat: the aisle-seat passenger next to me drank a lot of beer and wine and slept deeply: I was unable to go out for toilet for many hours. Also, the personal video screen didn&.html#39;t work and I could not watch the video. Apparently, this area was for the "group-tour" passengers. Why I had to sit down here? The price I paid was much more expensive than such a "group-tour" tickets. For what I had to carefully reserve my seat of 22H? My attempts were wasteful.[continued]

20071106


2007年 11月 06日

●最悪のFinnair――牢獄としての飛行機

ヘルシンキからやれやれあと10時間たらずで成田に着けると思って、席につき、偶然ヘルシンキで手に入れたフィンランドの建築家Juhani Pallasmaaの本を読み始めたら、日本人のスチュワーデスに、子様連れのファミリーが離れた席に別れ別れになってしまったので、席を替わってくれないかと言われた。遜色のない席だというので快諾したが、確かめてからOKすればと後悔した。あてがわれた席は、頭上にスピーカーがあり、そこから猛烈な勢いのフィンランド語が流れる。行きの席がそうだったので、帰りはそうならないことを願っていた。さいわい、もとの席はビジネスクラスのすぐ後ろの通路側の席で頭上にスピーカーはなかった。
とても休養できないので、ほかに席はないのかときくと、あとはずっと後ろの席になるという。じょうだんじゃないと、パーサー(フィンランド人?)に文句を言うと、じゃあ、元にもどしましょうとわたしの荷物を持って元の席に進み、子供を3人も連れた夫婦の奥さんの方に向って、「この方がまえの席にもどりたいと言っているので、もとにもどってください」とのたまった。非常に論理的な解決方法ではあるが、本来は、飛行機会社側が取った処置の結果生まれた問題なのに、その解決を客同士の関係に持ち込むというのは、サービス業のやり口ではない。これでは、もし、わたしが元の席にもどっても、隣の家族と不快な状態が生まれではないか。
おそらくそのパーサーは、そう言うことによって、わたしが引き下がらざるをえなくなることを予想したのだろう。むろん、わたしは、その奥さんが文句を言い出すまえに奥の席に移ることを決意した。パーサーの手口は見事成功したわけである。しかし、これは、悪質ではないか? 
おかげで、わたしは、最後部に近い、中央のラインの通路側ではない席に突っ込まれ、身体を小さくして座ることになった。通路側にいる日本人の男は、毎回2本づつビールを注文し、そのあとはワインを飲み続け、あげくのはてに高いびきで寝てしまったので、彼が目覚めるまでトイレに行くことができなかった。そこはどうやら団体席らしく、食事や飲みものの「配給」もかなりおざなりだった。
わたしのは、ネットで席まで選べる「正規」の切符で、ツアー切符よりはましな条件をあたえられると思ったが、それ以下だった。ツアー用の極安の切符を買ったことはよくあるが、こんなあつかいを受けたことはなかった。もう二度とフィンランド航空(Finnair)は使うまい。
ヘルシンキはいい街であり、そこへ直行するにはFinnairを利用するのが一番樂なのだが、残念だ。以前、ベルギーへ行くとき、サベナ・ベルギー航空で直行するのが一番樂だったが、この便がひどかった。案の定、この会社は経営難に陥り、つぶれてしまった。こんなことをしていると、Finnairも同じ運命をたどるにちがいない。というより、実は、経営がすでに苦しいからこういう状態が生まれるのかもしれない。その意味では、カッコつけずに堂々と「ひどかった」かつてのアエロフロートの方がましだったと言える。ソ連時代のアエロフロートに関しては、色々な思い出があるので、いずれ書いてみよう。


2007年 11月 03日

●ベルリンの「ミニFM」

先月、ウィーンから東京にもどる日に、インタヴューをしたいというダルムシュタット大学のメディア科のMinh Nguyenという学生が連絡をしてきて、ウィーンでは無理なので、ベルリンで是非ということになった。1時にはるばるホテルにやってきた彼は、名前から想像したとうりヴェトナム人だった。わたしのことは、メディアアーティストでブロードキャスターでもあるSabine Breitsameterからきいたという。いま科の教授をしている彼女のもとで卒論を書くのに、テーマを「ミニFM」にすることに決めたという。いまどき日本の学生には、こんなパワーのある(フランクフルトの家からわざわざ来たのだから)のはいないので、新鮮だった。
近所の喫茶店で話をする。ドイツでは、いま、iPodトランスミッターのような「微弱電波」を使った「ミニFM」への関心が高く、その「源流」である日本のミニFMについて調べているという。わたしのウェブページは全部見たというが、質問は、わたしがすでに書いたり、動画を提示したりして説明していることとダブる。が、熱意と好奇心は旺盛で、こちらの言ったことを全部ノートに取る。
ドイツの規定では、免許なしに使える「微弱電波」は、0.0005ワットで、これだと通常は10メートルぐらいしか届かないが、規定が日本のように「電界強度」ではないので、アンテナの性能次第では、100メートルぐらいは飛ばせるだろう。しかし、ミニFMの重要性は、もはや、どこまでメッセージを飛ばすかではない。飛ばせることを目的にするのなら、ケータイでいいではないか。
わたしはいま、ミニFMという概念で、脳神経との「交信」のレベルを考えている。ニューロ・トランスミッター(「神経伝達物質」と訳されるが、これではあまりにスタティックな意味になってしまう)としてのミニFMだ。
夕方、Backyard Radioへ行き、みんなでPlaz der Vereinten Nationen(英訳するとUnited Nations Plazaとなる)のマイクロラジオ局WUNPに行く。ここで、Angel NevarezとValerie Tervereがやっている番組に参加するのである。テーマは、「ウェブ2.0」にならった「ラジオ2.0」つまりデジタル化以後のラジオについてである。ちなみに二人はペーパータイガーのディーディー・ハレックの元学生で、ニューヨークでneuroTransmitterという象徴的なパフォーマンス集団を組んでいるが、いまは、ベルリンに来ている。
放送のスタイルが、かつての日本のミニFM的でなつかしい気がした。この局は、正式の認可を受けているが、誰が聴いているかを全く気にせずに放送している。あとから来た者もそのまま放送に参加してしまうのもそっくりだ。
放送のデジタル化は、データベースとシミュレーションとAIの機能をエスカレートさせるだろうとわたしは思う。番組を見たり、聴いたりしながら、早送りや巻き戻しも可能になる。ある種の「YouTube」化であり、飛行機内のモニターではすでにはじまっていることである。ならなぜインターネットを「進化」させないのかと考えれるが、インターネットを真似ながら、別の技術でその部分機能(情報の送受信)を向上させようというわけだ。が、モデルはインターネットだから、放送のデジタル化のあかつきには、インターネットも変わらざるをえない。わたしには、それは、アナログラジオ/テレビともども、一つのチャンスだと思うが、これについては、いずれ詳述する。
http://www.unitednationsplaza.org/radio.html


2007年 11月 02日

●ベルリンでのパフォーマンス

今度のベルリン滞在でメインに考えていたのは、今日のパフォーマンスだった。グラーツのときとは異なる音を出すシステムを作るのにも成功し、自信をもってこの日をむかえた。が、こういうときが危ない。が、先に結果を言っておくと、非常にうまく行き、ハッピーな気持ちで会場の「M12」を出た。
昨日に懲りたダイアナは、9時開始の3時間もまえにわたしをタクシーでFernsehturm(送信タワー)近くのM12に連れて行った。ここは、外がよく見えるガラス張りのクラブスペース。小型の40個のスピーカがPAだというので、低音を心配したが、エンジニアが繊細で、準備は難なく終わり、時間があまってしまったので、Sarah Washington、Knut Aufermann、スコットランドからわざわざ来てくれたプロデューサーのBarry Essonと食事に出かけた。
3人がホテルで休むというので、わたしは、あたりを散歩する。ベルリンは4年ぶりだが、実にいい感じになって来た。若ければ、絶対に移り住むだろう。
今回も、ダイアナの主張で、ソロパフォーマンスのまえに「レクチャー」をしてくれと言われた。招待主に抵抗しないわたしは、やや抽象的に作った映像を流しながら、送信機を作るパフォーマンスとトークをした。「レクチャー・パフォーマンス」である。それから、15分のブレイクを取り、「de-radia transversal」と題した手と電波との戯れのパフォーマンスを披露した。終わったときの拍手は、口笛もまじり、いまのベルリンの感度のよさを感じさせた。
面白い街では面白い出会いがあるものだが、今日も、それがあった。1994年にヴァンクーヴァーのウエスタン・フロントでハンク・ブルの企画で「NTVプロジェクト」(http://anarchy.translocal.jp/streaming/index.html)という臨時にコミュニティ・テレビを立ち上げる企画をやったとき、いっしょに呼ばれたのが、コンピュータハッキングや送信ではよく知られたJeff Manだったが、その彼が来てくれたのだった。始まるまえ、こちらをじっと見ている小柄の男がいて、どこかに見覚えがあると思ったら、「覚えていないかもしれないが・・・」と切り出した。髪が少し白いものがまじったが、面影ですく思い出した。彼もいまベルリンに住んでいるという。
わたしと同じように送信機を使って音を出すサラとクヌートとの共演は、何度もやっているので、すんなりと進んだ。彼女と彼はミュージシャンだが、わたしは、ミュージッシャンではなく、わたしはただ電波と戯れ、その結果として音が出て、彼と彼女の音とからむにすぎないのだが、次第にインタープレイのようになっていくのが不思議だった。
ダイアナにホテルに送られたら深夜になっていたが、部屋に入って、まだ夕食を食べていないことに気づいた。荷物を置いて、夜の街へ。レストランは閉まっていたが、屋台風の店はいくつらも開いていて、ひんやりとした路上のテーブルで食事をした。ふと、70年代後半のニューヨークを思い出した。


2007年 11月 01日

●ベルリンでの「レクチャー」

最近ますます、「レクチャー」や「講義」と名のつくものはやらないようにしている。が、ダイアナ・マッカーティーとピット・シュルツが立ち上げた「Imagine Radio 2.0」という4日間のイヴェントで「基調講演」をしろというので、いくつか代案を仕組んで出かけた。
パフォーマンスはむろんのこと、大学での「講義」でも相当早く行って、機材のチェックをする。それだけ、「講義」というよりもマルチメディア・プレゼンテイションのようなやり方に傾いていることを意味するが、ダイアナはのんびりしており、拠点のBackyard Radio (http://backyardradio.de/blog/?p=40) を出たのは、6時すぎだった。向うは、アレグザンダープラッツの近くのC-Baseというスペース。狭い入口の奥は、入り組んでおり、コンピュータやゲーム機やメディアアート的なインスタレイションであふれた部屋がいくつもある。わたしが「レクチャー」をするスペースは、川に面している。川の向こう側に電車が見え、どことなく、新橋や秋葉原を思い出させる。
スクリーンを3つ、CDJ、DVDプレイヤー、PCを使ってマイクロメディアについてプレゼンをすることにしていたが、案の定、段取りが悪く、映像はOKだが、音が出ないとか、いろいろトラブルが重なり、何と肝心のマイクにブーンというハムが入る始末。「ベルリン時間」では、1時間遅れが普通とのことだったが、開始予定の8時からすでに90分も経過し、客席はいっぱいになっている。
限界を感じ、スピーチは地声でやることにした。これは、意外といい結果を生んだ。観客との近しさが生まれたからだ。この日、会場でどうしても流したかったのが、ドイツにおける自由/海賊ラジオの「導師」(といっても若かったが)クリストフ・ブッシュ(Christoph Busch)への古いインタヴューを流すことだった。彼は、まだ自由ラジオが不可だった当時のドイツで、送信機を自由ラジオが可になっていたスイスとフランスに置き、指向性の強いアンテナをドイツ側に向け、三者間を電話で結ぶという方法で「合法的」な放送をすることに成功した。Radio Dreyeckland(ドライエックラント)である。わたしは、1984年にこの局のあるフライブルクで彼に会って話を聞いた。
インターネットがなかった当時は、ある程度の距離をカバーするということがラジオの必要条件だったので、ブッシュは、わたしが話したミニFMに関心は示しはしたものの、本気で興味は持たなかった。それが、いま、ベルリンでミニFMが生まれ、わたしがその話をするために呼ばれた。この大きな変化をいまの若い世代に知ってもらうには、このインタヴューが最適だと思った。
スタートはもたもたしたが、手ごたえは十分あり、0時を過ぎても質問が絶えなかった。
ベルリンは、いま、70年代末のニューヨークに似た雰囲気をもっている。確実にジェントリフィケーションは始まっているが、その余剰効果もあり、ミクロな部分での活気も生まれている。そういうところには意外な出会いの度合いも高まり、すでにベルリン在住の年数は長いが、10年以上も会っていなかったフォルカー・グラスムックや、国際的ノマドになって久しい中本昌彦さんがうわさを聞いて来てくれた。
http://logbuch.c-base.org/index.php?s=kogawa