「シネマノート」  「雑日記」


2007年 03月 29日

●「頑張ります!」

という表現を耳にすることが多くなったような気がする。特に女性がよく使う。先ほど、締め切りの原稿にかかろうとして、どうも気が乗らないのでテレビをつけたら、かたおかみさおの「ドラマグッジョブ」をやっていて、そのなかでも女性たちが「頑張ります!」を連発していた。ほかのチャンネルでは、水泳の柴田亜衣が世界水泳で「頑張ります!」と言っていた。
「頑張る」という言葉は昔からあるが、最近の使われ方はちょっとちがっているのではないか?
その意味あいは、それほど重くはないのだが、この表現は、その別の極に「お疲れさん」という、これまた流行りの表現を前提しているように思える。つまり、いま〈頑張ります〉←→〈お疲れさん〉という軸のなかで日常が展開しているような気がするのだ。
かつてドイツのバウハウス大でわたしのワークショップに参加したマレイケ・マーゲが、その後日本に留学し、それも終わってこの3月で日本を去るというので、食事をした。そのとき、「日本では疲れていなくても『お疲れさん』っていうんですか」と訊かれた。「いや、慢性的に疲れているんじゃないかな」と答えたが、この疑問は、わたしも以前からいだいていた。
量販店で店頭にない商品の在庫をたずねたときなど、他の部署に電話する店員さんは、電話口でまず「お疲れさんでございます」と言う。先日、「フリートークの会」という不定期の集まりでこの話がでたとき、OLをやっている人から、彼女の会社では、「お疲れさん」は午後からの一般的な挨拶なのだという話を聞いた。
マニュアルばやりの時代だから、「頑張ります!」という表現の使い方にも、マニュアルがあるのだろうが、たとえば「鬱」の人に「頑張ってください」と言ってはいけないと、マニュアル的な助言を受けたことがある。とすれば、わたしが「頑張ってください」や「頑張ります」に違和感を感じるのは、わたしが潜在的に「鬱」だからだろうか?
ラフォルグの「怠ける権利」やアウトノミア運動の「労働の拒否」というコンセプトにほれ込んだことがあるのも、違和感を感じる一因だろう。高度経済成長の時代には、「猛烈社員」や「ガンバリズム」という言葉が流行った。「ゆとり教育」というのは、そういう偏重への組織側からの「悔い改め」のような意味をもっていたわけだが、それが最近では攻撃の的になっている。それだけ組織の路線が変ったということだが、最近の「頑張ります!」には、一方でエスカレートする競争主義や格差を肯定し、他方でそれらにとまどいを見せるような両義的な姿勢が感じられるのだ。


2007年 03月 22日

●日記の事情

〈日〉記のはずが〈月〉記へ、さらには〈季〉記になりそうな気配だが、別に何かあったわけではない。書きかけたことは何度もあったが、ひょんなことから無沙汰してして、次第に店に行きにくくなるのと同じで、インプットが遠のいた。
ひとつだけ言えることは、「完結」とほど遠い生活をしていたことが、日記からわたしを遠ざける主要な要因になっていたように思う。一日を振り返ることができるためには、「一日」という完結した時間が流れなければならない。しかし、24時間起きていてまとめ寝をするような(しかもそれが毎日違う)生活をしていれば、「さて今日は・・・」といった気分にはなれない。そして、そういう世間で言う「不規則」な生活をするなかで、一定期間に「やれやれ終わった」というような完了感がなく、次の日も、その次の日もはてしなく続くようなことに関わっていると、途中で「サミング・アップ」することができなくなる。
ところで、ふと思い出したが、先日、サマセット・モームの『サミング・アップ』(行方昭夫訳、岩波文庫)が送られてきたので久しぶりに再読した。この本は、以前はロングセラーの朱牟田夏雄訳『サミングアップ』のほかに 『要約すると』という訳名を持っていたが、本来の意味は『中仕切り』じゃないかと誰か(中野好夫だったか?)が書いていた。
sum upは、たしかに「要約する」という意味もあるが、モームはこの本で、彼の生涯をさしあたり「決算」してみようとしたわけだから、「勘定を締める」という意味で「中仕切り」は言いえて妙なわけである。
話が飛んだが、日記には、こうしたsum-upの要素があり、sum-upしたいという気持ちと、それが出来る状況がととのわないと形にならないのである。
今日、ちょっと日記を書いてみたい気になったのも、書きかけていた「シネマノート」を1、2作をのぞいて書き上げ、サイトに載せたのと、いつ終わるともなくつづいていたRalf Homannとのメール対話が完結しそうな雰囲気になったこと、4月から再開される「身体表現ワークショップ」のゲストの見通しが大分ついてきたこと、そして、全然先の見えなかったエレクトロニックスのある実験に1つの光明が見えてきたこと・・・などがある。
ラルフとの対話は、ラジオについて彼がわたしに質問を投げ、わたしがそれに答えるという形のメールインタヴューで、ウィーンのKunstradioが、昨年のラジオ生誕100年を記念して出すムックに載ることになっている。よく知っている者同士のメールなので、話が横に広がり、収拾がつかなくなりそうだったが、昨日、彼がWORDファイルにレイアウトしなおしたものを送ってきて、ちょっと「完結」のきざしが見えてきた。
最後に、モームの『サミング・アップ』から、モームらしい言説をひとつ――
「作家というものは、自分の最も深い感情や霊感によって浮かんだような素晴らしい考えの多くが、実は運動不足や調子の悪い肝臓のお陰であると自覚しているので、自分の霊感的体験を多少皮肉に眺めるのは否めない」。
http://kunstradio.at/