「シネマノート」  「雑日記」


2006年 09月 27日

●『ありがとう』を見た

大震災の悲劇を生き抜き、どん底からプロゴルファーの資格を取る実在の人物を赤井英和が演じるとなると、出来すぎているという印象を隠せない。シネマノートでは、「完全犯罪」という言葉を使ってしまったが、不謹慎なら謝る。
東銀座から歩いて有楽町のビックカメラに寄ったが、最近、やけに店内のスピーカーの音量が大きい。わたしの偏見的経験によると、秋葉原の電気店で呼び込みや宣伝のスピーカーの音量が喧(かまびす)しくなると、その店の経営が危機なのだった。そのロジックがビックカメラにあてはまるかどうかはわからない。
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2006年 09月 26日

●『あるいは裏切りという名の犬』を見た

フィルム・ノワールっぽい警察ものだというので期待したが、俳優も絵柄もよかったのに、終始鳴りつづける音楽に邪魔されて、ずっと意識が分裂する思いだった。ちょっとVJ的でもあるので、新しいスタイルにチャレンジしているのかなと思ったが、どうもそうではない。クラブでへたなDJの音楽といっしょに流される映画を見せられている感じ。いや、本屋の音楽のように(わたしに言わせると)無用で邪魔なのだ。
このあと、ソフィア・コッポラの新作『マリー・アントワネット』の試写を見る時間の余裕があったのだが、やめた。理由は、試写状にそえられていた扇子。マリー・アントワネットにちなんだしゃれなのだろうが、会場となるヤマハホールのような詰まった座席で左右前後から扇子の風を受けるのを恐れたのだ。わたしは、扇子の風が苦手。扇子なんて、クーラーのない時代のものだろう。まわりが猛烈暑いから、他人(ひと)の扇子の風を浴びても心地よかったのだ。クーラーが入っている場所で扇子の風は、わたしにはきつい。
が、運の悪い日というものはあるらしい。地下鉄に乗って、空いている席に座ったら、隣の男(かなり涼しくなったのに半そで)いきなり扇子(試写状の付録のやつの倍ぐらい大きい)を使いはじめた。これは、本当の話だ。扇子にたたられた日。
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2006年 09月 25日

●『エレクション』と『椿山課長の七日間』を見た

「エレクション」というのは、「選挙」の意味で、「発射」の意味ではないと思うが、なぜ原題の「黒社会」を使わなかったのだろう? あいかわらずハードな身体描写のうまいジョニー・トーの新作。
京橋の映画美学校を出たとき、まだ時間がかなりあったので、東銀座の松竹まで歩くことにする。フィルムセンターのまえを通り、昭和通を越えて、高速をさらに越えて右折し、晴海通に近づいたら、正面に「KYOBASHI POST OFFICE」の表示。え、京橋郵便局!? このビルのまえは何度も通っており、その名も知っていたが、一瞬、京橋から歩いてまた京橋にもどってしまったのかと思う。
浅田次郎の原作にもとづく『椿山課長の七日間』は、『地下鉄に乗って』と同じように、ずばり言ってしまえば簡単なことをシャイで言えず、もってまわった形になるのをドラマにしてしまう浅田式ドラマツルギーがベースになっている。その点を押さえている点では、こちらのほうが『地下鉄に乗って』よりいい。


2006年 09月 24日

●書いたものはどうでもいい?

日 本語を読めるカナダの友人が、わたしの本と書いたものを送ってくれというので、突っ込んである本や雑誌を物色しはじめたが、その昔、長野の戸隠と飯綱のあいだを登山していて原野に迷い込んだときのような意識に襲われた。
かつては、まだ本を出すことに意味を感じていたので、精神衛生のうえからも、半年に一度ぐらい、雑誌や新聞に書き散らしたものを読みなおし、再編集して本にするという作業をコンスタントにしていた。それが10年ぐらい続いたところで、インターネットに出会い、本離れをはじめた。「シネマノート」はそのなりゆきで開始され、いま一定の形をなしている例だ。
が、活字への関心が薄れたとはいえ、そのわりにはいまもけっこう活字につきあっている。ネットには、まだその一部しか載せていない。カナダの人は活字好きなので、それらをコピーして送ろうと思ったが、その山をいじっているうちに、原野に迷い込んだ感じになったのだ。やっとのことで最近のものを数十点選んだが、コピーするのさらに面倒。おそらく、雑誌・新聞に書いたもの→本という方法は、なかなかいい整理形態だったのだろう。
今回、求められたから再読もしたが、シネマノートのように書いてばかりいて、再読しない(だからタイトルをまちがえても気づかない)という形態の書き方は、ネット時代に特有のものだろう。今後、こういう形がわたしにかぎらずもっと加速するだろう。だって、ケータイメール(わたしはやらないが)なんて、他人のは読み返したりすることがあるとしても、自分のは読み返さないでしょう?
2006年 09月 23日

●電話インタヴュー

メールを開いたら、オーストラリアのルーファスから電話インタヴューの質問事項を簡単に羅列しているのが見つかった。が、読んでみると、先日彼に送ったMIT Pressのわたしのインタヴューと相当のダブりがある。それと、ミニFMというものが、最初から「ナローキャスティング」だという前提で質問している。そんなことは、もう何度も書いているし、いろいろな形で論評している。
「ナローキャスティング」なんて、いまでは、どの放送局でも取り入れている。あのグローバル・メディアのCNNですらそうだ。それと、いまでは、「ナローキャスティング」は、「ブロードキャスティング」の対立項ではない。そもそも、「ブロード(広く)キャスティング(放射すること)」というものがなくなり、ラジオもテレビも、ナローキャスティングを取り込んだ形になっている。だから、わたしは、普通の放送をこえた「ポリモーファス・メディア」を提唱してきたのだ。
こりゃ、早めにメールで説明しておかなければならないと思い、キーボードをたたきはじめたら、電話がなった。またしても、うかつなことに、電話インタヴューの時間は5時で、いまがその時間になっていることを忘れていたのだった。結局、電話で30分も話す。こちらのトロい英語のせいで時間がかかったのだが、ルーファスはあまり気にしていない模様。
どうせ長引くと思い、最初、わたしは、Skypeでの会話をすすめたが、彼は、Skypeをやっていないと言った。ということは、インターネットにもあまり深入りしていない可能性がある。とすると、ミニFMが「ナローキャスティング」だと思っても仕方がないかもしれない。話のなかで、ハバマスの「公共論」などが出てきて、ビビった。というのも、わたしは、ハバマスのメディア論も「公共論」も全然ダメだと思っている人間なので、ハバマスなどを肯定的なひきあいに出されたりすると、異なる前提の説明に苦労するからだ。
要するに、もう「パブリック」なものの再活性化とか復活とかいう発想はダメということだ。パブリック/プライベイトのセット概念がもう終わっている。「プライベート」の腹のなかから出てきたオープン・ソース・ムーブメントが「パブリック」でもあるような時代じゃないか。プライベイト・カンパニーのマイクロソフトがIEをフリーで「パブリック」に提供しなければそのプライベート性(商売)が成り立たない時代じゃないか。
http://anarchy.translocal.jp/non-japanese/index.html


2006年 09月 21日

●『トリスタンとイゾルデ』を見た

製作総指揮リドリー・スコットというので、気にはなっていたが、タイミングがあわなかった。試写状の写真から、絵に描いたような「悲恋」もののイメージがただよってきたのも、無意識に拒否反応を起こさせていたかもしれない。
結果は、スコットのというよりも、監督ケヴィン・レイノルズのものだったが、悪くなかった。しかし、親子関係も男女関係も死の観念も、現代とは全然ちがう時代の話しだから、所詮は、古い時代を借りていまを語っているにすぎない気がする。
イゾルデが媚薬を含む薬物の知識にたけていたことがちらりと出てくるが、トリスタン伝説の時代(12世紀?)には、そういう知識はいまのハイテク並のものだったわけだから、彼女は、単にウブで純真な女性ではなかったわけだ。そういうひねりはこの映画にはなかった。
夜、シネマノートの『世界最速のインディアン』の個所で、タイトルの「最速」が「最強」になっているという指摘をメールでもらう。めんぼくない。これ、言い訳をすると、あれこれ使っているコンピュータの1つで打ったとき、「最速」とストレートに出ないので、まず「最強」と打ち、それから「強」を「速」に変えたのだったが、直し忘れたのをコピーしてしまった。
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2006年 09月 20日

●『グアンタナモ、僕たちが見た真実』を見た

この10年以上、一般公開される映画で最も政治的につっぱっている映画監督はマイケル・ウィンターボトムかもしれない。むろん、ほかにもいるはずだが、彼の映画を見るたびに感心する。
アメリカは、「ファシズム」状態だと言う人は多いが、じゃあ、具体的にどういうところがそうなのかということを映像的に見せてくれる映画作家は少ない。YouTubeのような映像投稿サイトにはけっこう鋭いブッシュ批判もあるし、「デイリー・ショー」のジョン・スチュワートなんかは、ブッシュをコケにしたトークをひんぱんにやっている。しかし、大きな映画では、その矛先はあまり鋭くない。
アルカイダのメンバーの疑いをかけられて捕まり、キューバのガンタナモ基地の動物の檻のような収容所に入れられたパキスタン系イギリス人の青年3人の実話にもとづくこの映画は、鋭い。アメリカは、こんなことをやりつづけていたら、どうにもならない国になってしまうという印象。アメリカに見切りをつけた知り合いが何人かいるが、わたしなどは、誰でもテロリストの予備軍と見る目をした通関の職員の顔を見るのがイヤで最近はアメリカには行かない。
終わって、銀座で岩名雅記さんと、例の特別講座に出演してもらう打ち合わせ。彼とゆっくり話をするのは10年ぶりか? ずっと会わず、連絡もとりあわずとも、基本の波長がズレていないので、昨日の続きのように話がはずむ。
http://anarchy.translocal.jp/TKU/shintai/


2006年 09月 19日

●『地下鉄に乗って』を見た

もうちょっとのレベルを期待したが、場所(中野)と時代(昭和39年)を限定したというシーンもアバウト。結局、この映画は、ある時代に特有な親子の話ではなく、いつの時代にもある(と一般化して切り捨てたくなるようなパターンで受け取れる)親と子のすれ違いのようなものを、時代のアクセサリーをまぶして、もってまわったスタイルで表現しているという印象。詳細はシネマノートで。
赤羽のレトロな喫茶店で「花火」のプロの山崎望さんと打ち合わせ。大学の特別講座で、「尋常でない」ことをやっていただく相談。尽きぬアイデアに魅了され、あっという間に2時間がたつ。
http://anarchy.translocal.jp/TKU/shintai/


2006年 09月 18日

●クリス・ランドレス

低気圧の影響で、今日は「物忌み」。しばらく放置しておいたDVD『Ryan』を見る。
監督のクリス・ランドレスは、『フランツ・Kの物語』(1993)以来注目してきたCGアニメーションの作家だ。タバコを吸っているところはちがうとしても、明らかにカフカを想定した「生き物」(?)をオブジェ化しているこの3分間の作品には驚嘆した。
が、寡作な人で、なかなか自作を発表せず、わずかに当時勤めていたAlias Wavefrontのサイトに彼の習作の部分が載ったりするだけで、その後の活動が不明だった。
1995年になってやっと、たった7分間の『The End』が話題になり、そこに『Kafka』のテーマと技法が引き継がれているのを発見して、うれしかった。が、このまま新作を目にすることができるのかなと思ったが、次に彼の作品を見ることができたのは、1998年になってからだった。『Bingo』である。このたった5分間のアニメは、いくつもの賞に輝き、クリス・ランドレスの名が一般的にも知られるようになったが、彼のカフカ的な寡作の姿勢は変わらず、次作は、一昨年発表された『Ryan』までまたなければならなかった。この作品は、オスカーの「ベスト・ショート・フィルム」賞に輝き、ようやくDVDも出ることになった。
顔は似ていないがカフカに似た彼の創作姿勢は、彼自身のカフカへの関心とともに、興味を引く。彼は、オスカー作家になり、これから大ものを作っていくのだろうか、それとも、短いが実に鋭利な作品をこれまで通り時間をかけて発表するということになるのだろうか?
2006年 09月 17日

●「ゼロ次元以後のアクションアート」

アウトラウンジの田上真知子さんから「ゼロ次元以後のアクションアート」への参加の依頼。11月18、19日に都電荒川線を借り切って車内で「身体を使用してのパフォーマンス」をするというもの。区間を区切り、各駅から乗り込み、バッとパフォーマンスをして下車し、そういうのが始発から終点まで連続的に続く。これは面白い。すぐに参加を決意。
同じ線での似たようなイヴェントはまえに体験している。先日、ニュージーランドのウエリントンで、わたしのデザインした送信機が市電のイヴェントで使われた。シベリア鉄道でのラジオアート・イヴェントを手伝ったこともある。
今度は手伝いではなく、自分でやるのだからまだ誰もやっていないことを考えたい。いずれにしても電波を使ったものだ。ちなみに、他のパフォーマンスは、生身の肉体だけのアクションが多いみたい。
http://anarchy.translocal.jp/radioart/


2006年 09月 16日

●BYPプロジェクト

メルボルンのRMIT大学の学生のリン・クエイ・リーという学生の依頼、「デジタル放送時代におけるアナログラジオの意義」といったテーマのメッセージを録音し、mp3ファイルで送る。
いま人間関係もきわめてネットワーク的というより(より正確には)ウェブ(web→weave 織る)的になってきた。以前にちょっと書いたが、ニュージーランドでわたしがミニ送信機を作るワークショップをやり、それに参加したアダム・ハイドがしばらくしてブダペストで同じようなワークショップをやった。それに参加したロッテ・マイヤーというアーティストがアムステルダムでBYP (Broadcast Your Podcast )というプロジェクトを始めた(http://www.lottemeijer.com/)。それから数ヶ月のあいだにこのプロジェクトは反響を呼び、ロッテのところには、問い合わせが殺到しているという。RMITのリン・クエイ・リーは、それに染まった一人で、仲間たちとこのプロジェクトをオーストラリアで広める活動を始めたのだという (http://raws.adc.rmit.edu.au/~s3089734/blog/)。
大きなメディアやビッグネームが強力な求心力で影響をあたえるのではなく、誰かが、ときには無責任にポーンと水面に投じた小石が波紋を広げ、別の波を作るといった形で新しい動きが生じるということが常態的になってきた。
http://anarchy.translocal.jp/radio/micro/howtosimplestTX.html


2006年 09月 15日

●画像の問題

シネマノートのトップページでは、毎回、ノートを書くまえに、ごく最近に見た作品の小型スチルを載せることにしている。が、先日来載せていた『武士の一分』のスチルでクレームがついた。宣伝の人からメールが来て、木村拓哉の場合は、「WEB上での掲載はNG」になっており、早急に掲載を見合わせてほしいというのだった。
こういうとき、わたしの社会的イメージだと、そういう「依頼」をガンとはねつけて、断固として掲載を固持するように思われるかもしれないが、そうではないのです。早速、サーバーにアクセスして、画像を『世界最速のインディアン』と入れ替えた。だって、シネマノートに載せている画像は、一応トレイラーからわたしがキャプチャーした(DJがディスクをミックスするような意味で)オリジナルだと思っているが、日本の現行法では違法で、無断掲載にあたるからだ。訴えられれば、勝ち目はない。「ヤバくなったらすぐやめる」がモットーのわたしとしては、そんなことで無駄な労力を使いたくはない。それに、すぐ変更できるのが、インターネットと印刷メディアとの違いだ。
ジャニーズ事務所の姿勢は、テレビ局などに共通のもので、彼らがいかにインターネット――というよりも、インターネットの時代のコピーライトの変容を理解していないかを暴露する。10年遅れているのだ。時代がちょっとバブルっぽくなると一般人のまえに姿をあらわす高城剛が、最近出した『ヤバいぜっ!デジタル日本』(集英社新書)も書いているように、日本では、いつのまにか、「世界の中でも厳しい著作権法と著作権管理システムが出来上がった」。これは、本当にヤバいぜっ! ちなみに、高城は、「どんな時代でも、次世代記録メディアの勝敗は、『コピーしやすいほう』が勝つ」という鋭い指摘をしている。
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2006年 09月 14日

●『プレスリー vs ミイラ男』と『HOSTEL』を見た

偶然、「ホラー」仕立ての映画を2本見ることになった。どちらもB級で、こっちが入れ込んで見ないと、あるいは、入れ込めるところがないと面白くない。わたしの場合、前者では、プレスリーの「老い」、後者では、カフカが、2本を面白く見る鍵になった。詳細は、シネマノートを参照。
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2006年 09月 13日

●『世界最速のインディアン』を見た

メカを何でも自分で作ってしまい、独立独歩という主人公(1000cc以下の流線型バイク世界最速記録保持者バート・マーロー)の話しだから、わたしが気に入らないはずがない。アンソニー・ホプキンスが、晩年の彼の不思議な魅力をヴィヴィッドに描き出している。
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2006年 09月 11日

●『涙そうそう』を見た

森山良子のヒットソングであることを別にすると、このタイトルは、わたしを警戒させた。いまの心境では、映画で泣きたくはないからだ。が、この作品は、「涙ポルノ」とはちがっていた。兄弟愛と「
近親相姦」的愛との不分明な領域へのアプローチとして面白い。
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2006年 09月 09日

●送信機の哲学

昼間、仕事のあいまに高田継男氏に電話し、送信機談義。単純にして高性能・高機能を目標に実験しているわたしを理解してくれる数少ないプロ。「そんなことしたいのなら回路をもう2,3追加すればいいじゃない」と言いがちなプロのなかで、高田氏は、すでにそういう道を早くから手がけてきたので、話がわかる。


2006年 09月 07日

●『朱霊たち』と『武士の一分』を見た

『朱霊たち』は、舞踏家岩名雅記の第1回監督作品。少年期の彼のイマージネイションと気分を独特のスタイルで映像化したなかなかの作品。いずれ、シネマノートに詳しく書こうと思う。終わって、小さなパーティがあり、岩名と久しぶりに歓談。彼は、いまフランスのノルマンディに住み、ヨーロッパを活動の場(映画もそこで撮られた)にしているが、かつて彼がまだ日本を主な舞台にしていたとき、わたしが企画したイヴェントで踊ってもらったことがある。以前から彼の舞踏には関心をもってきたが、映画を撮るとは思わなかった。
渋谷まわりで銀座に出て、『武士の一分』の試写へ駆けつける。開場20分まえだったが、すでに、待ち人の列は3階下のロビーまで伸びている。
昨日会った植草さんが絶賛していたが、たしかに力作だ。山田洋次の監督作品のなかでも5指に入るかもしれない。木村拓哉はまあまだが、映画初出演の檀れいが実にブリリアントな演技を見せている。舞台では有名な彼女だが、これまで映画に出なかったのはなぜだろう? これを機会に別のキャラクターを演じるのも見たい。


2006年 09月 06日

●性別の偽装問題

六本木で植草信和さんに会ってから、秋葉原のラジオデパートのシオヤ無線に行ったら、ご主人が「男子ご誕生ですね」と言ったので、瞬間何のことかわからなかった。すぐにその意味を理解したが、彼からそんな話題が出るとは思わなかったのだ。
夜、テレビで愛育病院の院長が、秋篠宮が(生まれてくる子の)性別を知りたくないと言われたので、自分も知らないようにしたし、担当医にも調べないように命令したといったことを言っていた。おいおい、患者の命をあつかう医師が、いまの時代に、胎児の性別を見てみぬふりをするなどということができるのだろうか? できるとしても、そんなことをしていいのだろうか?
むろん、院長の発言は、政治的なタテマエ発言だが、それをテレビも新聞もとがった形では問題にしない。一方で、誰が皇位を継承するのか、女系天皇は可か不可かといった議論をあおっており、秋篠宮の子供の性別がきわめて政治的な問題になっていたのだから、医学的に性別がわかった時点で公開するのが、「国民」の知る権利に対する国家の義務ではないのか? 国家=政府がそれをしないのなら、マスコミが代わってするのが、その「使命」(ミッション)というものではないのか?
こういう姿を見ると、日本のマスコミはあいかわらず御用メディアであるという、淋しい印象をぬぐえない。


2006年 09月 05日

●『ヘンダーソン夫人の贈りもの』

ジュディ・デンチとボブ・ホスキンスのかけあいが楽しい。70歳で夫をなくしてから、「慈善事業」でもやったらという友人のすすめで劇場を始めたヘンダーソン夫人の実話。が、「慈善」といっても、それまで禁じられていた女性の裸を舞台で見せるということに意欲を燃やす夫人の「慈善」は、とてもラディカル。西欧社会では、ラディカルさは、上側からあらわになり、社会を変えるパターンがある。結局、底辺からの怒りや要求が高まっていって、世の中が変わるよりも、富豪や有能な官僚の上層からたまたま「変人」が出て、その気まぐれや執心で社会が変わるということの方が多いのかもしれない。
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2006年 09月 04日

●『レディ・イン・ザ・ウォーター』を見た

M・ナイト・シャマランの賛否両論の新作だが、わたしは面白かった。彼がこれまでの作品でもアメリカの政治状況を意識しながら撮ってきたことが確認できる作品。ただ、彼の場合、ストレートにブッシュ政権を批判するのではなく(ますますそういうことが難しくなっているが)、もう少し幅の広い層のなかにただよう不安や絶望をメタファー的に表現するので、「なんだこれは?!」という反発も出る。
終わって、新橋から都営線で神保町へ。久しぶりの古本探し。が、いまやますます神保町の書店は、「古本屋」ではなくて、「骨董本」化された本をおごそかにならべるアンティック店になってしまった。店内では、主人が店番をしながらネットかデータベース検索に熱中していたりする。物色したい本棚のまえで店の人が本の整理をしていて本を見れないところもある。棚に近づいても気をきかせてはくれない。店売りをする気がないのか? こちらの足元を見ているのか?
当然探している本など見つかるはずもなく、歩き疲れ、行きすがりのイタリア料理店に入る。いま古本を探そうと思ったら、ネットで調べ、注文するのが一番楽なことは知っていた。が、古本屋も秋葉原のジャンク屋と同じ運命なのか?
2006年 09月 02日

●「コピーライトはもう古い」

・・・とウェブサイトに表記して久しいが、ネットの方向は、確実にコピーライトなどというものを無意味にする方向へ向っている。YouTubeやVeohのような投稿サイトを見ても、ネットがコピーライトなどでは動いていないことがよくわかる。
一昨日、ニューヨーク在住というDJからメールが来て、わたしの「New York Paranoia」サイトにある写真をCDのジャケットに使いたいがいいか、よければ印刷クォリティの画像がほしい――という。CDは、80年代初頭のニューヨーク・ヒップホップをミックスしたもので、写真は、当時ニューヨークで進みつつあったジェントリフィケーションを示す地上げされた建設用地をわたしが撮ったもの。せっかく使ってもらうのなら、希望通りにしたいと思い、フィルムから2400dpiにスキャンしなおして送る。
サイトでは「コピーライト・フリー」(Anti-copyright)と明記しているので、この人のように許可を求めてくる人は少ない。使っても、その成果物(こういう表現があるのを最近まで知らなかった)を送ってくる人はごくまれだから、わたしの写真がどのくらい使われているかは把握していないが、公開している以上、使ってくれる人がいるということを知ること(あるいはそう妄想すること)がウェブを続ける原動力になる。
NHKの受信料の納入を法律で義務づける動きがあるらしいが、受信を物の売買と同レベルで考えているところが全くもって時代錯誤だ。情報は交換の論理では動いていない。
その昔、「左翼」の集会で情報資本主義との関連でこのような話をしたら、会場にいた菅孝行が、「あんたどうやって食ってるの?!」と怒気をはらんだ野次が飛ばした。むろん、わたしは交換経済を否定するものではない。わたしが否定しようがすまいが、交換経済はちゃんと存在するし、今後も存在しつづけるだろう。情報経済が交換経済にとってかわるとは言っていない。が、問題は、それと並行しながら、別のロジックにしたがうシステムが増殖しつつあるということを理解しなければ、いまの社会も経済も文化もわからないだろうということなのだ。
わたしは、ボランティアがいいというようなことを言っているのではない。が、「ボランティア」的要素は今後ますます生活のなかに広がっていかざるをえないだろうし、他方、働かなくても食っていける(盛大に食うことはできないにしても)要素も増えていくはずだ。が、他面、「食う」ことはできても、「生きる」意味が見出せないという傾向も高まるだろう。「食える」からといってハッピーであるとはかぎらない傾向は高まる。
ところで、この文章を書いているさなかにコロンビアの人から、原住民のためにラジオ局を開きたいのでわたしの「anarchy」サイトを参考にしながら送信機を作ろうとしているが、「Does the variable capacitance diode, (AKA Mr dificult) have any cousin, friend or comrade that can work instead of him?」というメールが来た。
この表現、ユニークではないか? 言いたいことは、「バリキャップ・ダイオード」の代品はないかということなのだが、「彼に代わって働く従兄弟か友達か同志はいないか?」というのだから。こいつは、送らにゃなるめぇ。このバリキャップ・ダイオード、秋葉原では1本10円たらずだが、国によっては入手がむずかしい。
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2006年 09月 01日

●『天使の卵』を見た

『UDON』でいい演技をしていた小西真奈美のその後に興味があったが、ちょっともったいない感じだった。脚本が悪い。市原隼人と沢尻エリカがガキの演技なのは、演出のせいか? 鈴木一真などは、見るに耐えなかった。精神を病んでる役を北村想が演じているが、これも、コンセプトがぜんぜんダメ。小西も鈴木も精神科医という設定なのだから、もうちょっとこの分野をリサーチしてから撮るべきだ。
そうそう、松竹の試写室に急ぎながら、地下鉄銀座駅のホームを歩いていたら、久しく会っていない守谷訓光に遭った。短時間だったが話しがはずむ。彼は、並の「大学教授」も足元におよばない知識と語学力の持ち主だが、頑として「フリーター」をやっているスタイナー主義者。インゴ・ギュンターを最初にひき会わせてくれたのも彼だと思う。

【追記】上記をアップロード後、この文章を読んだらしい人からメールでクレームをもらった。わたしが「フリーター」という言葉を楽天的に使いすぎるというのだ。現状はもっと深刻で、この言葉を安易に使うなということらしい。しかし、わたしは、この語がまだ「free」との関係をもっていた時代からこの言葉を使っていたし、わたし自身その意味での「フリーター」だったので、意味あいが変わってくるのは当然である。問題はむしろ、孤立した個人を一切合財「フリーター」というありあわせの言葉に押し込んでいるマスメディアや社会解説者の方ではないだろうか?
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