「シネマノート」  「雑日記」


2005年 09月 30日

●『ノエル』を見た

試写のまえ、銀座で植草信和さんに久しぶりに会い、鶴間和夫さんのオフィスへ。大学の「教室を教室でなくする」わたしの企画に殺陣師を招く相談にのっていただく。出来たものに難癖をつけてはいるが、俳優やプロデューサにはミーハーでサインなんかもらうわたしとしては、大いに緊張。
鶴間さんのオフィスを出て、喫茶店で植草さんと歓談。ちなみに、植草さんは、25年まえ、『キネマ旬報』の編集者として、わたしを試写室通いに引き込んだ張本人。ついつい、編集者とライターが緊張関係をもちながら面白いことをやる時代は終わった・・・という話になる。
試写まで少し時間があるので、秋葉原へ。しばらく来なかったら、駅前の開発が進み、つくばエクスプレスも開通して、すっかり様変り。街の焦点が、神田花岡町・佐久間町側にシフトし、コンピュータの普及とともに拡大し、活気づいた外神田エリアがさびれはじめた。この動きは止まらないだろう。地下鉄で末広町から新橋へ。
映画は、あまり期待しなかったが、「ハート・ウォーミング」な作品として、けっこうよくできていた。かつてウディ・アレンの映画でセンスのいい手腕をふるったスーザン・E・モースの編集。アレンが彼女と手を切ったのは、凋落のはじまりだった。
さて、いま日付が変わった。これから朝までお仕事。
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2005年 09月 29日

●『アメノナカノ青空』を見た

2003年の韓国映画。アメリカナイズされた生活風景と、それと対照的な「ナイーブ」で「ウエット」なドラマとの共存に、韓国のいまを思う。と同時に、この「泣かせ」の技法は、この間に日本で定着した「韓流」スタイルであり、もうそろそろここから脱皮してもいいのではと思う。
帰ると、またニューヨークのApexartの件で督促のメール。同時期にPERFORMA05 (http://www.performa-arts.org )というパフォーマンスのビエンナーレが開かれ、それとドッキングした形で招待するという。じょうだんじゃないよ。わたしは、「ビエンナーレ」(むろん「トリエンアーレ」も)のような「百貨店」的なアートイヴェントには興味がない。だいたい、もう、美術館とか展示とかいう概念自体が終わりでしょう。そんなところで「マイクロラジオ・パフォーマンス」じゃ、洒落にならない。
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2005年 09月 28日

●『まだまだあぶない刑事』と『同じ月を見ている』を見た

試写状をわしずかみにして出かけ、あとでゆっくり見たら、見る予定の2作は、同じ場所で上映されるのだった。タレントや上役の姿も見える東映の事務所の奥の小さな試写室。
帰りにビックカメラにより、1万円ちょっとの買物したら、レシート番号が50名に一人当たる番号になったので、支払いはただだといわれた。
混んだ地下鉄に乗り、つり革につかまったら、いきなり前に座っていた人がさっと立ち上がって、閉まりかけのドアーから飛び出して行った。これも3度目の偶然かと思い、腰をおろす。
仕事場に帰ったら、ニューヨークのApexartで開かれるイヴェントへの参加の意志確認のメール。一度OKしたが、急に熱が冷め、キャンセルのメールを出した。が、相手はなかなか折れない。
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2005年 09月 27日

●『イントゥー・ザ・ブルー』を見た

映画が当たるかどうかは、試写会の受付の雰囲気でわかる。この映画は、わたしの偏見ではネガティヴ。前の作品が押していて待たされたのはしかたがない。が、ロクに試写状もチェックせずに入場させ(多くはなかったが)、プレスも、横文字を縦にしただけのお粗末な数ページのコピー。「内覧」ならこういう場合もあるが、とにかく熱気が感じられない。
映画のほうは、まあB級で、これからの公開では季節はずれかもしれないが、フリ-・ダイビングを前面にもってきた映画としてはけっこう見れる。単なるスポーツ的なアクションを見せるのではなく、宝探しやダイビングへの情熱が見る者を引き込む。なにさ、海も嫌い、スポーツは大嫌いのわたしが、楽しんだのだから。
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2005年 09月 24日

●『アリゾナ』(VHS)を見た

馬上で銃を撃つまえに親指を舐める男が出てくるシーンを幼児期に見たが、その題名がわからないという「自分探し」で、折にふれ、古い西部劇を見ようとしている。日本では未発売、アメリカでも廃品のビデオをイギリスから取り寄せた。PAL方式なので、しまいこんだPALデッキを引っ張り出したが、ふと、その専用モニターが壊れ、回収屋さんに出してしまったことを思い出した。十数年まえに買ったものである。仕方なく、(デッキは生きているので)その出力をつなぐ方法を考えた。通常のNTSCモニターではダメなのだ。たまたま1台のパソコンにビデオボードが差してあり、それがPAL対応だったのを思い出す。つないで見ると、バッチリ。
しかし、苦労して手にいれ、苦労して映した作品だが、撃ちあいシーンには、問題の個所はなかった。それにしても、この映画、1940年製作というだけあって、もろに戦争プロパガンダになっている。インディアンをイラク人におきかえれば、そのままいまのアメリカで受けいれられそう。
最近の刀根康尚のメールでは、ニューオリンズの被害、それに対する批判(イラク戦争のためにミシシッピを犠牲にした、温暖化対策の無視等々)の高まりにもかかわらず、ブッシュ体制はくずれそうにないとのこと。でも、わたしは、今後10年間以内に、アメリカは、ソ連の末期のような状況に向かうのではないかという気がしている。
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2005年 09月 23日

●本のHTML化

ウェブページで過去に出した本のデジタルテキストを発表しているが、大半は、スキャンして校正していないラフテキストである。「なんとかなりませんか」というクレームというか注文のメールがよくあるので、連休の時間を使って整形作業をする。注文の多い初期作品『主体の転換』にとりかかったが、けっこう大変。マクロや自動でやろうとしてかえって時間がかかったり。これじゃ、PDFにしてかんべんしてもらおうかと思ったが、がんばって、2つの章だけ完成。ふ~う。でも、読みなおしたら、あのころは100のものを10に圧縮して書いていたなという印象。そんなふるくなってはいないぜ。
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2005年 09月 22日

●『天空の草原のナンサ』を見た

モンゴル出身のビャンバスレン・ダバーの新作。岩まじりの草原に住む遊牧民の家族を登場させたドキュドラマ。途中ちょっと退屈になったが、幼いときからおもちゃだらけで育つ日本の子供と、牛の糞を積木代わりにして遊ぶこの映画の遊牧民の子供との差は何かを考えた。少なくとも、ここでは、自分で問うこと(問いを発見すること)が必要だが、日本では、問いは与えられ、答えだけを――しかも選択肢のなかから選ぶという形式で――受動的に返す。
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2005年 09月 21日

●『二人日和』と『僕と未来とブエノスアイレス』を見た

チラシに「古都・京都の町家を舞台に夫婦の愛を繊細に綴る珠玉のラブ・ストーリー」とある前者は、たしでかにそうでもあるのだが、京都では、昔気質の職人のような一見そうでないように見える人が意外にモダンであることが多いということを思うと、この映画はなかなか京都をおさえているなと思った。藤村志保が抜群の演技。
後者のチラシには全くそうは書いていないが、またしてもユダヤ系家族の話。ブエノスアイレスにはたしかに東欧からのユダヤ移民が多い。が、こちらは、『ミート・ザ・ペアレンツ2』や『イン・ハー・シューズ』ほど、ユダヤ性を意識しなくても話がわかる。むしろ、イスラエルの問題が暗黙の前提になっているところが、もう少し政治的。
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2005年 09月 20日

●『世界』を見た

ジャ・ジャンクーの話題の新作。蓮實重彦先生などは、「みなぎる豊かな若さに心からの嫉妬を憶えた。しかるのち心おきなく涙した」と評しておられるので、大いに期待したが、わたしには高尚すぎた。「北京を出ないで世界を回ろう」という北京郊外のテーマパーク「世界公園」で働くパフォーマーの女性たちとガードマン。北京のモダニゼイションの極地に閉塞された人々のはずだが、人工ボケしているわたしには、この人工的なはずの空間が全然人工的に見えないのだ。だから、それがあたりまえの空間で起こるドラマとして見ればいいのだが、その空間を映画は肯定していないように見える。もっと、あけっぴろげに肯定してしまったほうがいいのではとわたしは思った。
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2005年 09月 19日

●『春の雪』のシネマノートをやっとアップ

シネマノートの本文は、なるべくその日に書くことにしているが、ちょっと調べたいことなどがあると後回しになり、それからどんどん日がたってしまう。6月に見た『バッドアス!』も、非常に面白く見たのだが、がりがり書いてやろうと力んでいるうちに仕上げるチャンスを逸している。今日は試写がないので、書き残した『春の雪』のノートを書き上げる。映画の話よりも原作の話になってしまった。
今年は三島由紀夫生誕80周年とかで、読者がふえているとか。読み、創造的に解釈するには、生身の作者を知らないほうがいいが、わたしは、残念ながら、無理やカッコばかりつけている生身の三島を見てしまったために、入れ込んで三島を読む気にならない。不幸である。
https://cinemanote.jp/2005-08.html#2005-08-31


2005年 09月 18日

●休日に封筒をびりびり破りながら

最近は郵便ではロクなものが来ないので10日に一度ぐらいしか郵便の封を開かない。だから、床やテーブルに封筒が山積になる。ただし、例外は、試写状と岩波書店のPR誌『図書』。なんていうと、イワナミねぇと冷やかされるかもしれないが、毎月楽しみにしているのは、そのなかのたった1ページだ。それは、鶴見俊輔さんの連載「一月一語」。「自分用の索引」という副題がついている。鶴見さんとは、その昔、『思想の舞台』と『コミュニケーション事典』でおつきあいさせていただき、氏が考えることは大体わかってしまったつもりになっていた時期があったが、どうしてどうして。特にこの1ページエッセーが凄い。
9月号の「夏休みが終わって」では、日本では、明治6年に学校制度が出来て以来、先生が問題を出し、生徒がそれに答えるという習慣が出来上がり、そのために「問題とは与えられるもの、その答えは先生が知っているもの、という習慣が日本の知識人の性格とな」ったという。しかもその「先生」はしょっちゅう替わるから、折々に「出会う先生の答えをいちはやく察知して答案を書くことが、知識人の習慣となる」。いまの日本の最大の「先生」は米国だが、問題というのは、自分で作るものだと鶴見さんは言う。
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2005年 09月 17日

●『ヨーク軍曹』 (VHS) を見たが

先日、『ランド・オブ・ザ・デッド』の「ノート」(2005-08-02)でロバート・ジョイがゾンビを撃つときに親指を舐めるしぐさに触れ、わたしが幼いときに同じしぐさを見たことがあるがどの映画か思い出せないと書いた。その後、何人から方が、それは、ハワード・ホークスの『ヨーク軍曹』(1941)だろうと親切に教えてくれた。劇場パンフで篠崎誠監督がそう指摘しているらしいのだ。これで、自分が最初に見た映画は何かという積年のなぞが解けたかと大喜びしてが、9月8日の「日記」で書いたように、『ヨーク軍曹』だと、わたしが映画を見た時期と時代的に合わないのである。
とはいえ、『ヨーク軍曹』は、うんと昔に見たことがあるが、ほとんど記憶から消えていたので、とにかく、見直してみなければと思い、ビデオを探した。しかし、ある時期まで中古ビデオ屋にもゴロゴロしていたのに、見つからない。アメリカでも廃盤になっている。あちこち探し、通信販売で1993年再発売の版をようやく手に入れた。
最初の画面を見て、一気に記憶がよみがえる。しかし、それは、映画「初体験」の記憶ではなくて、その後に見た記憶である。わたしが見た映画は西部劇で、問題の男は主役ではなく、ゲイリー・クーパーよりももっとワイルドな感じだった。その男が馬上から憎く憎くしい顔でインディアンを撃つときに親指を舐めるのであった。『ヨーク軍曹』では、クーパは、親指の先の方を舐め、それを銃口の先に当てる。唾をつけるような仕草で、かなりおまじない的な雰囲気である。それに対し、わたしがおぼえている映画のシーンでは、男は親指をべろりと舐めるだけだ。『ランド・オブ・ザ・デッド』のロバート・ジョイの仕草は、むしろそれに近い。
とすると、わたしが見たシーンは、このクーパーの仕草を引用しているか、あるいは、この作品が前者を引用していることになる。ふたたび振り出しにもどってしまった。 幼児期の記憶のあいまいさを疑ったが、ビデオを見て、記憶に自信を持った。それにしても、『ヨーク軍曹』って、いま見るとキリスト教原理主義者の国策映画みたい。
https://cinemanote.jp/2005-08.html#2005-08-02


2005年 09月 16日

●アンケートは情報操作

先日のココリコ田中との対談依頼と同様に勘違いと思うが、あるテレビ局からアンケートの依頼。自民党の圧勝で諸問題が改善されるかどうかを年金、郵政民営化、景気回復等々の5項目にわたって訊いてくる。しかしねぇ、問題は改善の「善」の基準だ。小泉(基本は竹中だが)がやろうとしているのは、アメリカ的な資本主義の水準に追いつくことである。そこでは、あらゆる格差が激化し、経済的にも文化的にも情報へのアクセスの度合いも、階級間でものすごい格差ができる。だから、「改善」という場合、「リッチ」な階級にとって「善」なのか「プアー」にとってなのかを決めなければ、話がはじまらない。小泉=竹中改革は、アメリカ的な資本主義の水準に追いつくという意味では、成功しつつある。つまり「リッチ」にとっては期待値は高いのだ。アンケートをするのなら、まず当人がどちらの階級に属し、どちらの階級の味方なのかを明記しなければならない。量的な総計を提示するのは、情報操作だ。というわけで、このアンケートは棄権。
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2005年 09月 15日

●『欲望』を見た

同名のタイトルの映画には、すでにミケランジェロ・アントニオーニや吉村公三郎のものもあるので、まぎらわしいが、これは、小池真理子の原作の映画化。しかし、結果は、「三島由紀夫オタクの文学少女の原作を、そうも三島に入れ込めない監督が凡庸に原作をなぞっただけ」のような作品になっている。ここで言及され、あがめられる「三島」の世界は、せせら笑いたくなる感じ。三島の世界自身にもそんなところは多分にあるが、それが単純化されては、お気の毒。役者にもよるのだろうが、セックスシーンの退屈さにはまいった。これは、原作のセックス観の底が浅いからなのだろう。作家ご本人が、「見ているうちに3回くらい、ググッと胸が詰まって涙が浮かんできました」と言っているのだから。
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2005年 09月 14日

●『イン・ハー・シューズ』を見た

先日見た『ミート・ザ・ペアレンツ2』と同じようにユダヤ系ファミリーの話。要所要所にそのサインが出る。終わりのほうでタイトルの意味がわかった。「仏の手のひらのうえで」と似たような意味だが、もっとしゃれている。ストレートには出さないが、すべてを仕切らないとおさまらない「ジューイッシ・ママ」とその孫の話。彼女は娘よりも強烈だった。娘はその「犠牲」になったと思っている義息。でも、そのおかげで孫たちは救われるのだから、文句は言えない。この作品のユダヤ的背景がわかると、面白さ倍増だが、わからなくても、感動させるところが多い。ファミリーをやっていれば、こういうことはある。
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2005年 09月 13日

●『TAKESHIS&.html#39;』と『オリバー・ツイスト』を見た

今年で一番むし暑いと感じた日。こういう日にかぎって冷房がきつい。機械の使い方がばかげている。
前者は、北野武の単純なナルシシズムを暴露することになった。北野に甘いベネチア国際映画祭も、これではお愛想することもできなかったは当然。
後者は、テリー・ギリアムがグリム兄弟とグリム童話に注目したのと同じような、いまの時代から目を離さず、時をさかのぼるっていまを照射するという流行りの形式。カフカの他の「絶望的」な小説世界と一味ちがう『アメリカ(失踪者)』には、絶望のなかにわずかの希望を見出すディケンズの影響が見れるという。カフカ好きのポランスキーは、ディケンズのこの物語の主人公の「純真さ」や「真摯さ」にわずかの希望を見ている。そんなものじゃと思うかもしれないが、逆に、もうそんなところに期待するしかないという深い絶望感が伝わっても来る。北野さんも、もう少し外を見ないとね。
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2005年 09月 12日

●『ALWAYS 三丁目の夕日』を見た

昭和33年(1958年)に連れて行こうという映画だが、集団就職で東北からはるばるやってきた子供たちが実に明るい顔といま流のはつらつとした身ぶりをしているのに違和感をおぼる。が、両親の消息がわからない少年を演じる須賀健太の天才的な演技で、ちょっぴり時間の意識が1950年代へ。あの時代には、子供も大人も、「やったぁ!」などと安易に飛び上がったり、歓声をあげたりはしなかった。選挙に勝った代議士もいまのテレビではとても絵にならないくらい無表情だった。しかし、半世紀ちかくたって、日本人が本当に「明るく」なったのかというと、そうではない。電車に乗ると、みんな愛想のない顔をしているじゃないか。
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2005年 09月 11日

●選挙なんか行かない

ベルギーの友人の話では、ベルギーでは選挙に行かないと罰金を科されるそうだが、わたしは、選挙にはこれまで数回しか行ったことがない。棄権の権利があるし、能動的棄権というものがあると思うからだが、今回のように「眺めるメディア選挙」の場合は、とりわけ棄権に意味があると思う。結果が見え見えで、ばかばかしくって行っちゃいられねぇよという選挙だったが、みんながやると自分も同じことをやらないでは気になってしょうがない「みんな主義」の日本では、こういう発想は少数派か? が、どちらに転んでも、日本は、「極東」ではなくて「極米」なのだ。
【追記】言っていることがわからないというメールがあったので、付言する。要するにマスメディアの使い方の問題。テレビで「明日の投票率75%」と報道するとその通りになるのは、メディアを「鏡」としてしか使っていないということだ。しかもこの「鏡」は、ありのままを映すのではなくて、ヴァーチャル・リアリティ的な幻惑装置でもあるのだから、そこに映ったのを素直に真似するのは馬鹿げている。そんなに投票するのなら、おれはやめようというメディアの使い方があってもいいと思うのです。
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2005年 09月 10日

●また停電とは

11日にまた9時間あまり停電するということを急に知り、anarchy_TKUサーバーの移行を加速させる。しかし、リダレクトの作業を終えても、リダイレクトするマシーンが停まってしまっては、新サーバー(href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp)へ橋渡しはされない。「シネマノート」を早く独立させたので、「粉川哲夫」で検索すると、このページへのリンクが出てくるので、ここから「もう1つのサイト」へ行けばなんとかなるが、「tetsuo kogawa」で検索をかけると、出てくるデータは、圧倒的に旧サイトを表記したものだ。これは、海外との交流に大いにさしつかえる。この状態があらたまるには、1年以上かかるかもしれない。しかし、何で停電が11日なの?
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2005年 09月 09日

●ネットの引越し

家の引越しも大変ですが、サイトの引越しも手間がかかりますな。古いサイトの「ホームページ」(トップの入口)へのアクセスを新しいサイトに飛ばすのは簡単だが、その下にある膨大な数のファイルの一つ一つへのアクセスを、まちがいなく新サイトへ導くようにするのはやっかい。わたしは、JavaScriptの「locationオブジェクト」を利用した構文を旧サイトのファイルに書き込んでリダイレクトさせるようにしているが、10年間に書いたファイルは数千におよび、色々ツールを使って単純操作を簡略にしても、なかなか「引越し」完了にならない。コンピュータに向かって仕事をしているので、書く仕事に飽きると、こちらの「引越し」仕事をやってしまう。こちらは、単純労働なので楽だからだ。というわけで、シネマノートも原稿もさっぱりはかどらない。
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2005年 09月 08日

●映画の最初の記憶(のあいまいさ)

シネマノートの『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005-08-02)の末尾に、わたしが記憶している最初の映画シーン(銃を撃つときに親指を舐める)について題名がわかったら教えてほしいと書いた。ネットっていいですね。渡邉嘉男さんが、それは、ハワード・ホークスの『ヨーク軍曹』(1941)だろうというメールをくださった。渡邊さんは、「映画パンフの『ゾンビとハナビ!』と題された篠崎誠と中原昌也の対談で触れられて」いるので気づいたそうだが、ご親切に感謝。実は、大分まえ、『ヨーク軍曹』じゃないかという気がしてビデオを探したが手に入らずそのままになった。それと、古い『映画の友』に「昭和20年→昭和38年公開の外国映画List」のがあって、それで見ると、『ヨーク軍曹』の日本公開は1950年ということになっており、これではないと思った。これだと、わたしが、「ベビシッター」の人の背中で見た時代より大分あとになる。そうすると、そのときの映画館の記憶と、親指を舐めるシーンのある『ヨーク軍曹』を見たときの記憶とは別々で、二つの記憶がまじりあっているのかもしれない。とはいえ、映画のスクリーンと鮮明な映像の最初の記憶は、この親指を舐めるシーンなので、それが『ヨーク軍曹』だとわかったのは、うれしいかぎりである。
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2005年 09月 07日

●低気圧は苦手

わたしの生活は低気圧に左右されやすい。台風や熱帯低気圧もダメだ。低気圧がはり出すと無気力症になり、約束もドタキャンしがち。そんなわけで、見る予定だった『インサイド・ディープ・スロート』の試写をやめる。リスボンから来たドローウィング・アーティストのアントニオ・ホルヘ・ゴンチャルヴェスが六本木でパフォーマンスを演るから来てくれと言って来たが、これも中止。彼とは、スキャナー(ロビン・ランボー)の紹介で会った。「サブウェイ・ライフ」(http://www.subway-life.com)という作品が面白い。本を書くためのリサーチで日本に来ている。ヴェジタリアンだというので、「ロビン並の?」と訊くと、「彼ほどじゃない、魚も食えるよ」というので、イタリアンに連れていった。ロビンは、菜食の「原理主義者」で、ソースに肉・魚を使っていてもダメなのだ。
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2005年 09月 06日

●『ミート・ザ・ペアレンツ2』を見た

ジューウィシュ・ファミリーの知り合いがいたら、笑いがとまらないはず。わたしは、デイヴィッド・リフサンとかディーディー・ハレックとかを思い出しながら、笑いころげるのをようやく抑えた。バーブラ・ストライサンド、ダスティン・ホフマンときたら、ユダヤ的「臭み」を売り物にしている俳優だから、彼女と彼がユダヤ人を演じるだけでも、おかしいのだ。ただし、この映画のユダヤ人は、イスラエル派ではなく、60年代に反体制だった親とその「自由教育」を受けた子(ベン・スティラー)であって、そのへんが、いまのアメリカへの暗黙の批判にもなっている。
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2005年 09月 05日

●『疾走』と『歓びを歌にのせて』を見た

SABUの新作の前者は、ヘラルドの本社での「内覧」なので、四谷の清水谷へ。このあたりを歩くのは久しぶり。ンん十年まえ、近くの大学の授業をさぼってうろつきまわった場所だが、そのおもかげは完全に消えて。忘却都市東京。この映画にも、空間が人を追い込んで行く非情さのようなものが出ている。
スウェーデン映画の後者。ひと気のない北欧の村で過ごした幼い日々の記憶。都市で成功した指揮者がすべてを捨ててそこに戻る。殺風景でも、風景は変わらない。そばの客席にお国の人らしい初老の女性。終始笑い通し。周囲は寂(せき)として声なし。スウェーデン語がわかれば、わたしも笑えたのか? それとも、この人が笑い上戸なのか? でも、そのおかしさはわたしにもわかる。
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2005年 09月 04日

●選挙、選挙とうるさいが

『ある子供』、『ミリオンズ』、『親切なクムジャさん』の3本の「ノート」を書いていて、気晴らしにテレビをつけると、選挙の報道。昼間も、冷房に疲れて窓を開けると、選挙の街宣車。うんざり。今回の選挙は、日本で初めての本格的な「メディア選挙」。問われるのは、「郵政民営化」賛成か反対かではなくて、アメリカ式メディアとアメリカ式競争主義がどの程度浸透したかどうか。小泉が勝てば、浸透度はアメリカに接近。負ければ、「まだ」あるいは「異質」であることが証明される。しかし、この「まだ」と「異質」には、アメリカを20年遅れて模倣するのではなく、アメリカを経由せずにその先へ行ける可能性がある。とはいえ、その公算は薄く、アメリカを追い、そして「戦争株式会社」を内含したアメリカ型政治・経済システムへの道を歩みそう。
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2005年 09月 03日

●デイヴィッド・リフサンのこと

近年、「シネマノート」の更新で手一杯で、大本のanarchyサイトの更新はおろか、やり残したページの整備もできていない。今回ドメインを変えた機会に、もう少しそちらにも時間をさこうと思い、手始めに「ニューヨーク・パラノイア」の英語版のページにデイヴィッド・リフサンのページを追加した。彼は、いわばわたしにニューヨークの「うさんくささ」の魅力を教えた人物である。だから、わたしの最初のニューヨーク・エッセー集『ニューヨーク街路劇場』には、彼への献辞がある。彼が1996年に死んだとき、追悼のために急いで作ったビデオもRealメディアでアップした。当時は、たった5分程度のものなのに、SGIのIndyで作るのはけっこうめんどうだった。1977年に8mmカメラで撮った映像をテレシネし、そのとき回していた録音テープを組み合わせたて編集したのだ。彼らしい話をしているときはカメラを回していなかったので、口の動きと音はずれている。こんなもの、いまなら安いパソコンでも30分で作れる。なお、今回はストリーミング向きにレイトを落としたので、元映像よりかなりボケている。そのうちmpegでも公表する予定。
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2005年 09月 02日

●『親切なクムジャさん』を見た

25日に有楽町のマリオンであった劇場試写を見過ごしたパク・チャヌクの新作。例によって、『オールド・ボーイ』(2004-08-02)と同様に「残酷」でありながら、妙なユーモアがただよう。これは、哲学科出身のチャヌクの特徴。
久しぶりに、国道246をわたってすぐの古書センターをのぞく。が、収穫なし。本は、見つけるものではなく、むこうから見つかってくるもの。今日は、向こうが微笑んではくれなかったのだ。
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2005年 09月 01日

●『ある子供』と『ミリオンズ』を見た

いつまでたっても子供から抜け出せないという世代を代表するかのような『ある子供』の青年。出来てしまった子供を平気で養子に売り飛ばし、そのくせあとで後悔する。音楽を使わず生音だけのこの映画、しかし、鑑賞する環境は悪かった。となりのジイさんが、バッグのなかを始終まさぐり、そのカサカサいう音に悩まされる。今日は運が悪いのか、わたしの神経が過敏なのか、映像が凝っているダニー・ボイルのすぐれた新作『ミリオンズ』のときも、となりのニイちゃんが、冷房がちゃんときいているのに、扇子を音に合わせてもてあそび、それがわたしの視覚の一部に混入し、いらつかせる。にもかかわらず、引き込まれたから、この作は相当のもの。
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