【本書の出版元は、偽札の発行に加担した容疑で閉鎖を与儀なくされ、本書の在庫もすべて廃棄された。そのため、もし古本が存在するならば、稀覯本に類すると思われる。】

都市の記憶


1
街路のフォークロア  

2
ポストモダン都市の政治  

3
遊歩の聖と俗  

4
都市論の系譜  
都市のフリー・ミュージック  
難民の記憶  
”亡命体験〃としての高度経済成長  
高度成長の代償  
アメリカン・コピー・オブ・ライフ  
ミドル・クラスの”文学”的事件  
収容所のうちそと  
ミクロ都市としての身体  
白夜のナショナリズム  
電子都市の”スクウオッター”たち  

あとがき  





 街路のフォークロア



 うさんくさい都市を求めて
 わたしが街を遊歩するとき、その意識の底にはっねにうさんくささへの期待がある。それを
感じさせるものは、路地の奥のあやしげな家や、路上でくりひろげられるインチキくさい取引
といったものでなくてもよく、H・G・ウェルズの「魔法の店」のように何が出てくるかわか
らない不安と期待をかきたてるような店でなくてもよい。むしろ、街路のよごれや無秩序と何
らかの一貫性を感じさせるような室内と、飲食や性や叫喚のあからさまな身ぶりがそのまま伝
わってくるような街路との不可分離な室内-街路関係とでも抽象的に言っておいた方がよいも
ののすべてであって、それはそのときどき、その街の条件、によって異なる。
 そういうものは、ニューヨークにはいくらでもあったし、シンガポールにもあった。しかし、
東京にはそれがほとんどなくなってしまった。街路は白っぽく小ぎれいになり、室内も、スー
パーマーケットのように、さっと見わたせばその全体像の察しがっくほどに予定調和化してし
まった。古本屋に行っても掘出しものは見つからなくなった。ジャズ喫茶でラリっているよう
な「都市の遊牧民」もいなくなってしまった。というよりも、街路と室内は、アルミ・サッシ
のガラス戸や自動ドアーで画然と仕切られて、そのダイナミックな相互関係を断たれてしまっ
た結果、街路はただの通行の場として、室内は身体運動がより拘束された場として分断される
ことになった。
 だから、東京については、わたしはもはや呪誼の言葉しか語れなくなり、そこで大阪の『プ
レイガイドジャーナル』の村上知彦さんのような心やさしい人は、「東京なんか捨てて早く大
阪へおいでよ」とわたしには受けとれるサィソをかなたから送ってくれるわけなのだが、東京
はもはやうさんくささを回復できない都市になってしまったのだろうか?
 都市のうさんくささとは、文化的・社会的に異質なものが対立しあい、まじりあっている度
合の高さを示す指標であって、その点でニューヨークのように雑多な民族、多様な文化の混在
しているところがうさんくさい雰囲気をもっているのは、あたりまえである。東京の場合、そ
うしたうさんくささが最高度に達したのは、近いところでは、やはり終戦直後だろう。
「炎天の下、むせかへる土ぼこりの中に、雑草のはびこるやうに一かたまり、葭賛がこひをひ
しとならべた店の、地べたになにやら雑貨をあきなふのもあり、衣料などひろげたのもあるが、
おほむね食ひものを売る屋台店で、これも主食をおほっぴらにもち出して、売手は照りつける
日ざしで顔をまフかに、あぶら汗をたぎらせながら、『さあ、けふっきりだよ。げふ一目だよ。
あしたからはだめだよ。』と、をんなの金切声もまじって、やげにわめきたててゐるのは、殺
気立つほどすさまじいげしきであった。」
 これは、いうまでもなく、石川淳の有名な『焼跡のイエス」の冒頭の一節だが、この小説は、
終戦直後のっかのまの解放空間を活写したものとしてよくひきあいに出される。そして、わた
し白身を含めて、この小説の雰囲気が、都市のうさんくささや都市のダイナミズムの原型とし
ていまではわれわれの記憶を逆に規定するようにすらなっている。わたし自身について言えば、
一九四六年に発表されたこの小説を遅ればせながら一九六〇年代のはじめに読んだとき、わた
しがはっきりと記憶している上野のヤミ市の雰囲気がここでみごとに活写されていると思った。
しかし、もの心ついていたとはいえ、五、六歳の子供の目にうつったヤミ市や上野の街頭と、
そこで必死にものを売ったり、かっぱらったりしていた大人にとってのそれとは大いにちがう
はずだ。当時、上野の京成電車には車輌の外側にまで乗客がぶら下がっていたが、日暮里のあ
たりでその光景を目撃したとき、わたしには、その乗客たちがひどく楽しげに遊んでいるよう
にみえた。実際に、そのうちの何人かは線路ほたて傍観している切ないわたしに手をふって笑
いかけた。しかし、かなりのスピードで走っているその電車にしがみついている人たちが、楽
しい遊びをしていたわげではないことは、いまでは理解できる。つまり、傍観者とはちがって、
戦後の「解放空間」とやらを実際に生きていた大人たちにとっては、それは解放空間でも何で
もなく、早く過ぎ去ってくれた方がよい悪夢の世界であったかもしれないということだ。
 にもかかわらず、こうした混乱期の雰囲気がわれわれをひきっけ、たとえば唐十郎に一おげる
ように、”美化〃されるのは、そこには”悲惨〃さや”不潔〃さといった概念をこえた何かが
あるからなのであり、今日の東京が当時にくらべれぱはるかに”豊か〃な生活を保証してくれ
るにもかかわらず、つねに空虚なものを感じさせるのは、いまの東京にはそういう何かが完全
に欠如してしまっているからなのだ。
 高度経済成長の時代に、東京には多種多様な人々が日本の各地から流入してきた。しかし、
そういう人たちのそれぞれの唯一性がぶっかりあって多様なダイナミズムが生まれたのはっか
の間で、東京という都市は、そうした多様性をえり分け、たとえば出稼ぎ労働者を文字通り使
い捨てにし、もともと東京に住んでいた者たちを郊外に追いやり、限られた者たちだげに居住
を許し、あえてこの都市に住もうと思うとその者はすべからく均質的な画一の文化と生活を強
制されるような一種の収容所になっていった。
 都市のうさんくささは、そこでのすべての遊歩や生活が遊牧民的であることによって生まれ
るのだが、高度経済成長は、東京のいたるところに地下鉄網をはりめぐらせ、外部からの人口
流入を容易にしたものの、それによって入ってくる潜在的な「遊牧民」たちの遊歩や生活から
は、徹底的にその遊牧民性を奪ってしまった。ここでは、郊外からの通勤者のように形だけの
「遊牧民」になるか、成り上がって(あるいは「収容所」の住人となって)「定住者」に転身す
るしかないのである。地下鉄を終夜営業にするか、上りだけの片道営業にすれば、状況は多少
ちがってくるのだが、そんなイキなことを考える政治家も役人もいはしない。では……?
 
 

 遊歩者の繰り言
 街を歩くことと本を読むこととを同じ経験の連続性のなかでとらえてみようと思ったことが
ある。『ニューヨーク街路劇場』の最終章「ダウンタウンの”街路劇〃」も、そうした試みの一
つだが、その発端は、ニューヨークの街路を歩きまわっていて、そのストリート・ナンバーと
本のページとのあいだにアナロジーを発見したというようなことにあるわげでもない。それよ
りも、六〇年代に植草甚一が『スウィング・ジャーナル』のレコード評で、チャーリー・ミソ
ガスの.「直立猿人」か何かについて、これをきくと何かおもしろい街のなかに入ってゆくよう
な気がしてくると書いているのを読んだことが、聴く=読むということと歩くこととのアナロ
ガスな関係をわたしにうえつけるきっかけとなった。
 しかし、このごろわたしは、東京の街を歩きながら街路を”読み”たいという気持におそわ
れない。読むということには、ある種の快楽がっきものなのだが、東京の街を歩いていると呪
誼の言葉だけがあとをっいて出てしまう。キラキラした安っぽさ、目先だけの新しさを競う傾
向がますます昂進し、街はもう完全にキッチと化しているのに、決してキッチを意識し、パロ
ディ化しているわげでもないそのくそまじめな成金趣味1これにすっかり愛想をっかしてい
るのだ。その実質を最もリアルにあらわしているのは昭和軽薄体的身ぶりなのに、うわべは、
都市政策も道路交通法もおごそかな表情をくずさない。むしろ、昭和軽薄体的な身ぶりがもて
はやされるのは、おごそかさが一向にくずれず、逆に硬直している現実の平衡をとるためなの
ではないか? 現実1つまり管理体制の方こそがいっべん、とことんまで軽薄になって、こ
の”軽薄〃た街を本当に軽薄にしてみれぱよいのだ。
 とはいえ、都市というものは、いつも呪記や悪口とは切りはなせないものなのかもしれない。
小沢信男は、『大東京24時間散歩』(現代書林)のなかで、「目木中がアメ楴になった按配でもあ
る」と書いていたが、まだ江戸の名ごりを残していた東京を遊歩した岩木堅一は、「春ちかき
頃」という魅力的なエッセイのなかで、新川に一ついて「この辺も表通りは町幅がひどく広くな
って、すっかり味といふものが無くなってしまった」(『素白随筆』、春秋杜)と書いている。だが、
今日の東京の変わり方は、小沢がこの本を上梓した一九七九年よりもはるかに激しいし、むろ
ん岩本がこの一文を書いた一九四〇年代とでは比較にならない。
 ロラン・バルトは、『記号の帝国』のなかで、東京の街路には名前が付いていないと書いて
いるが、最近は、街路に名前を付けることがはやっている。渋谷の公園通り、原宿の竹下通り
のほかに、青山にはキラー通り、広尾には地中海通り、六本木には星条旗通りなどがある、と
いうことになっている。しかし、これらはみな通称であって、通りがハウス・ナンバーで区分
されているわけではないから、これらの通りに名前がついて気をよくしているのは、通りにそ
ってたちならぶ商店だけである。
 その意味では、東京の街路には、キラー通りとか地中海通りとかいう名が定着しても、それ
らは実にのっぺりした名前でしかないのであり、名前をつけても、通りを通りとして生かす配
慮がなされていないのである。通りを通りとして生かすということは、通る者つまり遊歩者や
居住宅にとって役立つようにすることであるが、通りにハウス・ナンバーも付けずに、まさに
”国道二四六〃や”玉川通り〃のように、一本の通りを全体として名付けるだけというのは、
遊歩者を完全に無視しているのだ。
 このことは、ある地域(むろん、そこに名前の付いた通りがある場合の話だが)を通りで正
確に位置づげることができるかどうかを考えてみれぼすぐわかる。たとえば、目黒区青葉台三
丁目の玉川通りにそった地域を、”玉川通り〃という名称だけで位置づげるにはどうしたらよ
いだろう? ”玉川通りの三分の一ぐらいのところ〃とで空言うのだろうか?
 結局、こういう名前の付け方は、その通りをはしからはしまで通行するようなムダを前提と
しているわげであり、番地がわからなくてもはじからはじまで車を走らせてさがすことのでき
る自動車にのった通行者や、ぶらぶら歩いているうちに衝動買いをしたりする客こそが、こう
した通りにふさわしいのである。店や家屋の位置が、たとえばマンハッタンのように、ストリ
ートないしはアヴェニューとその番号をみただげで、そこへ一度も行ったことのない老にまで
わかってしまうというのは、衝動買いを誘発する意味では不利だ。どこに何があるのかわから
ぬ人々をとにかく誘致して、その何とか通りをぞろぞろ歩かせ、目的の不明瞭な歩行のなかで
あたかも自分が自発的に発見したかのような出来事に直面させること、そのためには、通りを
”広場〃と化してしまうのが一番だからである。
 このあたりにも、今日の日本の社会と文化の他のあらゆる側面と同様に管理の論理がきわめ
てよく貫徹されている。街路に名前がなかったのは、それが、西欧や中国の意味での通りでは
なく、どんなに細長い形をしていても機能としては広場であったからであり、この前近代的な
広場的街路は、それがハウス・ナンバーのようなもので合理主義的に分割されないことによっ
て、そこをみずから遊歩して、その身体的無意識のなかにその遊歩体験をきざみこむ者にとっ
てのみ”名前”をもつことができた。しかし、こうした前近代の民衆的積極性は、みごとに近
代の管理と商業主義の論理にからめとられてしまうのであり、街路に名前がなかったという伝
統が、遊歩者の頭ごしにどんな名前でも付けられるという管理の”積極性〃にすりかえられて
しまうのである。



 街路の〃右翼”と〃左翼”
 外国の都市に行き、街路を歩いていて、人にぶっかりそうになることがある。むろん、日本
にいるときもそういうことがないわけではないが、外国ではもっと頻度が高いように思う。こ
れは、わたしだげの問題だろうか?
 それは、文化の異なる土地にやってきて、自律神経が異文化のコードに順応できないからだ、
というのは一応の理尻である。事実、少しながく住んでいるうちに、そういうアキシデソトも
なくなってしまう。そして、日本に帰ってくると今度は、かって外国の街で起こったのと同じ
混乱が、しばらくのあいだわたしを悩ますのである。
 たしかにそれは一種の”自律神経失調症〃なのだろう。しかし、何が自律神経を失調させる
のだろうか?
 はじめのうち、これは、起きぬけにうまく歩けず、ものにぶっかったりするのと同じで、日
常の空間意識が一時的に鈍くなるために起こるのかと思っていた。しかし、それではたぜ空間
意識が鈍化するのか? 飛行機に乗ったりして一目近く体を動かさなかったからといって、そ
う簡単に空間意識が鈍化してはたまらない。事実、その他の点では全く問題がない場合にもこ
の歩行問題は起こるのである。
 あるとき、この謎が氷解した。たしかメルボルンでだったと思うが、人通りの激しい通りで
向こうから来た人とすれちがおうとして、わたしがその人の右側に歩を進めると、その人も同
じ方向に歩を進めたので、わたしたちはあやうくぶっかりそうになってしまった。そのとき、
この紳士は、わたしがあわてて「アイム・ソーリー」を言ったのに、無言のまま、二体こい
つは何て歩き方をするのかねえ」といった面持ちでわたしを見、頭をふりながらすれちがって
いった。これは、わたしには意外だったし、合点がいがなかった。わたしの何がいけたかった
のか、と思った。唯一考えられるのは、わたしがその紳士の右側に歩を進めたことぐらいであ
る。自動車じゃあるまいし、どっち側を通り抜けようが大した問題じゃないではないか。とこ
ろが、これが問題だったのである。
 今度ニューヨークヘ行ってためしてみたのだが、(少なくともニューヨークでは)人と人が
すれちがうとき、おたがいの左側を通る傾向があり、ぶつかりそうな切羽つまった状況ではと
くに、人は無意識的に左側ヘダーソするようだ。これは、日本で育った者が示す歩行運動のバ
ターンとはまるっきり逆だ。海外で日本人の行動が批判や悪口の材料になることが多いこのご
ろたので、この歩行バターン実験をそうひんぱんにニューヨークの路上でくりかえすことはで
きなかったが、これは大体まちがいないように思う。
 東京に帰ってきて、銀座と新宿でこの実験をやってみた。相手の姿が十メートル以上も先か
ら見えているときには、相手の体の右側を歩こうが左側を歩こうが問題はない。しかし、至近
距離でこちらがいきなり相手の左側に進もうとすると、相手は自分の体の右方向へ進むので、
ぶっかりそうになってしまう。銀座の東急ホテルのまえでこの実験をやったときには、ぶっか
りそうになった会社役員風の初老の紳士から、「なにをやってるんだ!」と叱責された。別の
ところで美しい女性に同じ試みを行なったら、彼女はぶっかりそうになるとす早く身をひるが
えしたので、ぶっからずに済んだのだが、「いやらしいヒト!」とでも言っているような非難
にみちた目でわたしを見た。
 日本で育った人の多くが、その歩行運動において”右翼〃的であるということは、新宿の喫
茶店プチモソドのように、人通りのはげしい街路を傭鰍できる場所から通行人の動きを観察し
てみてもわかる。一体に、人々は相手の右側を通り抜けている。これは、「人は右、車は左」
という交通法規にならされた結果なのだろうか?
 日本の規則では、歩道やガードレールがない道路では、人は道路の右側を歩1かなげればなら
ないことになっている。その点では、わたしなどいっも交通違反ばかりしている。しかし、す
べてを交通規則のせいにするのは早計なような気がする。東京で車が左側を走り、人が右側通
行を強制されることになったのは、戦争が終って数年後のことだった。ニューヨークの場合、
車は右側を走るが、歩道が完備しているので、車の交通を気にして左側に身をよせる必要はな
い。もっとも、車の右側通行というのは馬車時代からのものだから、歩道のない時代に行なっ
ていた歩行バターンが、いまだに人々の身体的無意識にしみっいているということは考えられ
る。しかし、東京の場合はどうなのか? 何世代にわたって蓄積された身体的無意識の記憶と
いうのならぱわからぬでもないが、たかが三〇年ぐらいLかたっていない交通規則が”左翼〃
から”右翼〃といった一八○度の方向転換をうながせるものなのか?
 影山光洋などの写真で、大正時代の東京の雑踏のなかで人々がどのような行動バターンをと
っていたかを調べてみると、人々はニューヨークと同じように”左翼〃的歩行バターンをとっ
ていたようにみえる。桜井清香の『米騒動絵巻』のなかには、騎馬銘一嵩官に追われた集団と、逆
方向から突進する集団とがすれちがうツーソがあるが、ここでも人々はやはり左側通行をして
いる。とすると、われわれの歩行における”右傾化〃は、戦後の現象なのだろうか?
 いずれにしても、身体における”右翼〃的傾向と”左翼〃的傾向とは、単に街路を歩くとき
の問題だけにとどまらないだろう。たとえば、右手文化が支配的な現状では、握手をするとき
にはどうしても”左翼〃に自分の体が行く。これは、イギリスでは、車は左側通行でも、歩行
者はアメリカと同じ歩行者バターンをとるということを説明するかもしれない。



 ドアーのフォークロア
 かつてル・コルビュジェは、有名な本の最初の方で次のように書いた。
「かって中世伽藍が白かったとき、人々はすべてのことにこぞって参加した。それは、仰々し
く事を行う芸術家の集まりではなく、民衆であり、前進する国全体であった。芝居は、伽藍の
中、会衆席に臨機に設けられた台の上で行われた。そこで人々は僧侶や権力老を非難した。当
時の民衆は、真白な伽藍の内でも外でも大人であり、自己を統御していた」(生田地・樋口清訳)。
 ル.コルビュジェが中世をかくも美化するのは、いまでは「中世伽藍は他の人々ー死せる
人々-のものであり、煤で黒ずみ、長い年月によって腐蝕されている。すべてが焼け、長い
使用で傷んでいる、制度も、教育も、都市も、農家もわれわれの生活も、心も、考え方も」、
というわけなのだが、はたして中世はそんなによい時代だったのだろうか?
 そもそも、伽藍はキリスト教権力の象徴であり、伽藍が白く、真新しいなどということは、
そうした権力の圧倒的な強さと野望をあらわしている。伽藍が白いときは、民衆に、とって圧政
のときだと言ってもよいくらいだろう。少なくとも、それはろくなときではない。
 ところが、伽藍が白かったときを至上のものとするコルビュジェの「輝ける都市」の理念を
実現しようとしているのが日本の都市であり、とりわけ東京なのである。この十年問に東京は
すっかり白くなってしまった。大通りの白々しさにうんざりして裏路地に入っても、そこには
また白っぽく、真新しい家並がたちならんでいる。めっきり洋風のものがふえてきた難物のド
アーは、みなぶ厚く、ごてごてと飾りたてられている。しかし、日本の住宅は、その外観がど
んなに洋風になっても、その基本は全然変.わってはいないように思う。
 洋風の家がたちならぶ路地を歩いていたら一軒の家のドアーがいきなり開き、思わず立ちど
まったことがある。そのときのことが頭にあって、日本の建物のドアーの開き方に注意するよう
になった。おもしろいことに、欧米の建物では、外に通じるドアーは、たいてい建物の内側に一
開くのに対して、日本ではほぼ一〇〇パーセント外側に開く。これは、日本では靴をぬいで家
のなかにあがる関係で、街路への出入口には靴が残されるので、もしドアーが内側に閉まると、
そこを倍のスペースにしなければならないからだというのはもっともな理用である。しかし、
それだけではあるまい。このごろとみにふえたマソシヨソの折込み広告の間どり図を調べてみ
ても、玄関の戸が内にあくようになっているものは皆無だ。玄関がなくて全部屋つづきの純洋
風建物でも、なぜか出入口の戸は街路に向かって開くようになっている。
 E・L・ドクトロウのベストセラーをミロシュ・フォアマンが映画化した『ラグタイム』の
はじめの方で、自分の女房をモデルにした裸体像を衆人環視の的にLたというわけで、一人の
男が仲間数人と建築家スタンフォード・ホワイト(ノーマン・メィラー好演)の家をおそうシ
ーンがある。ここで聞入者たちは、ドアーを押しやぶってパーティの会場へなだれ込むのだが、
これが日本の洋風建築だったら、そううまくドアーがはずれはしなかっただろう。
 日本のテレビ・ドラマでも、室内に犯人がたてこもり、刑事が犯人の挙を働いてドアーをう
ちやぶり、なかに飛び込むツーソがよく出てくる。しかし、これはインチキなのだ。日本の建
物のドアーは、ほとんど十中八九は、室外に向かって開くようになっているため、よほどがん
じょうな人問が体あたりしても、アメリカ映画でみられるようにあんたにキレィには、ドアー
は抜けないのである。こういうシーンのときだけ、ドアーが純洋風になってしまうのはおかし
いではないか。このような例は、日本の社会と文化のあらゆる部分にみられることなのだろう
が、そうだとすれば、ドアー一枚の位置にも、日本の社会や文化の性格が凝集的にあらわれて
いるはずである。
 ヨーロッパやアメリカの建物では、出入口が直接街路に面しており、ドアーをあけるとその
外がすぐ公道だというようなこともある。この場合、もしドアーが外側に開くようになってい
ると、ドアをあけたときにたまたまそこを通りかかった人を押し倒しかねないし、それよりも
まず、それは、公道の侵害であり、公的なものの私物化になる。
 その点、日本では、これとは全く違った公私観が支配している。ドアーとの関係でこのこと
がはっきりとあらわれているのは、アパートかマンションの廊下である。それは、ある種の
”公道〃に近いものと考えてよいと思うが、それは、同時に私有してよいものなのである。た
いていの場合、日本のアパートの廊下に面したドアーは、外に向かって開くようにできている
から、実際に、その建物の住人全員に対して平等に開かれている空間は、党かけより少ないこ
とにたる。つまり、日本の共有空間は、ちょっとぐらいなら私有してもかまわないというひじ
ょうに柔軟な精神にささえられているわげである。
 これは、公私混同ではなくて、むしろ公私交換とで空言うべき精神であろうが、それならば、
はじめから、あたかも公私の区別が厳然と存在するかのような空間にしないで、たとえば、部
屋を横切ってゆかなげれぱ奥の部屋にたどりっくことのできない昔の日本家屋のように、まさ
しく公私がいつでも交換可能なスペースにした方がすっきりするのではないか。
 もっとも、われわれが”日本家屋〃と呼んでいるものの原型は、寝殿づくりにあるらしく、
土問と床の二重性もそのころからはじまったようだから、日本の住宅はもともとすっきりはし
ていなかったのだろう。



 足の政治史
 以前、サンフランシスコの路上で、バソブスをはいて歩いてきた女性がいきなりそれをぬぎ、
ハンドバックのなかにしまって裸足で歩き出すのに出会い、妙に新鮮な印象をうけたことがあ
る。ところが、今度オーストラリアのメルボルンに行ってみて、歩道を裸足で歩く人たちがか
なりいるのに驚いた。繁華街を裸足で歩くことも別に特異な行為ではないらしく、ドラム(市
電)に裸足でのりこんでくる若者もいる。
 これもごく私的な印象にすぎないが、住居のなかを裸足で歩きまわる人の数も、アメリカよ
りもオーストラリアの方が多いような気がする。だが、これは決して日本的な習慣が輸出され
た結果ではあるまい。日本では街路と床面とのあいだには決定的な断絶があり、室内で裸足に
なるということの意味が根底からちがっている。これは、身体と物との関係が西欧的社会と日
本釣杜会とのあいだで根本的に異なることと関係がある。
 大げさな言い方をすると、日本人は世界で類をみないくらい、身体を清潔に保つことに熱心
だ。日本人にとって靴下は靴という外的世界に直接に接するものから足の清潔さ(浄化された
足)をまもるためのものであり、シーツも外的世界に属しているフトンから清潔な身体を保護
するためのものであるかにみえる。ところが西欧人にとって、靴下は、逆に靴を自分の足でよ
ごさないためのものであり、シーツは自分の身体のよごれや汗でマットをよごさない(私有化
しない)ためのものであるかのようだ。実際、わたしの観察では、アメリカ人もオーストラリ
ア人もゴ、、、だらけの床のうえを裸足で歩いて、まっ白なシーツのなかにもぐりこむことに何の
抵抗も感じないようにみえる。ところが日本では、靴をぬいであがる塵ひとつない床のうえを
スリッパで歩き、トイレではまた別のスリッパをはくのである。
『FOOT WORK 足の生態学』という本のなかで磯崎新は、西欧や中国の建築と日本の
それとの決定的な相違をユカの存在にみている。磯崎によると、平安時代の寝殿造において部
屋全体にユカがはりつめられるようになったが、このことが、「生活様式を坐式として、まっ
たくユニークな文化を生み出す契機となった」。
 磯崎はここで、ユカを「かっては寝室のベッドとして用いられた台のひろがったもの」とみ
なし、「ユカが歩行面でありながら寝床でもあるという両義的な性格」を強調するが、わたし
が関心をもつのは、むしろ街路/ユカ/量とのあいだの断絶である。というのも、街路との対
比においてユカが、ユカとの対比において畳が身体に対してまず第一に要求することは、歩く
/寝るという差異ではなく、土足の拒否、”わたしの身体〃のアナーキーなふるまいの抑制、
空間の私物化の禁止だからである。
 それゆえ、日本的身体は、西欧的な身体とは逆に、街路においてよりも室内(ユカと畳のう
え)において一属自己否定的(公共的ないしは自己忘却的)た性格をおびる。このことは、一
方では、街路よりも室内で社会と文化の集約的な表現が見出せるということでもあるが、他面
では、街路よりも室内が有力な支配装置になっているということでもある。
 山口昌男は、同書の「足から見た世界」のなかで、フレンチ・カソカソやマレーネ.ディー
トリッピの露出した脚、また「自律性を獲得し」、それ自体が雄弁に物語るキートンの足(こ
のキートン観は秀逸)に注目し、そこにカーニバル的なものをみているが、解放の問題を足か
らみる場合、日本的な足に一対してはユカと畳という媒介を挿入する必要があるだろう。という
のも西欧的な足を拘束する装置である靴と街路の日本的な相似物はユカと畳だからである。だ
が、残念なことに、日本的な足の歴史・文化的状況に藩蓄をかたむけている山口論文も鈴木忠
志「足の文法」も、日本的な足の解放の問題をはっきりとユカと量との関係において論じては
いない。
 たとえば、山口昌男は、山伏神楽の三番曼における踏み固めの所作と片足で柚子を踏んで踊
る「足の欠除」の所作とにコスモロジックな解放のイメージをみ、きわめて示唆に富む指摘を
行なっているが、こうした所作とユカとの関係が軽視されているため、こうした所作は無媒介
に「土地の精霊を踏み固める行為」に直結され、そうした「精霊」の解放をはぼんだり促進し
たりする政治のレベルが欠落してしまい、鈴木忠志の原初回帰志向的た身体論を補完してしま
うのである。
 靴と街路との関係を操作することによって社会管理ができるように、”日本的な足”とユカ
との関係を操作することで日本の社会や文化を管理することができるし、実際に、そのような
操作が行なわれてきたと思う。ニューヨークにながく住んでいる日本人の大半は、室内で靴を
ぬぎ、物理的には地続きの床に”日本的なユカ〃を仮構していた。そうでないのは、アメリカ
人と結婚して、家でもほとんど日本語を使わない日本女性の場合が多かった。むろん、これは、
組織的なリサーチにもとづく結論ではなく、わたしの主観的な印象でしかない。が、このこと
は、もし日本人が自分の”伝統〃を捨ててしまいたいと思うならば、単に意識や志を変えよう
とするよりも、ユカを撤廃する方がてっとり早いということの一つの証しになるかもしれない。
日本人のすべての室内生活が”土足〃になれば、今度はそこに新たな”伝統〃が生じ、それに
よってふりまわされる管理が始まるであろうが、日本社会のメィソ・ストリームがユカ生活で
あり、そこで人が必ずしも自発.的に進んでそれを受けいれているわけではないという状況-
つまりは管理された状況一が続くかぎり、ユカに”土足〃で上がる生活は1日本社会では
ー”反社会的〃な意味をもつことになる。
 とはいえ、”反社会的〃であることが嫌いでないわたし〔身にしても、現在、日本の平均的
な構造の家に住み、玄関で靴をぬぐ生活をしている。わたしは日和見主義者なのである。



 壁の記憶
 コンクリートの壁面に光沢のあるあざやかなペンキを塗りつけることは、アメリカやオース
トラリアではごくあたりまえの習慣になっているが、日本ではあまり一般的ではなかった。と
ころが、このごろ東京の街でそうした壁面によく出会う。階段のコンクリートの壁面や室内を
こってりとペンキで塗りつぶしたビルもある。
 むろん、そういう例はむかしもなかったわげではなく、二〇年ほどまえにフーテン少年・少
女のたまり場だった新宿のジャズ・ヴィレッジの壁は一面黒のペンキでぬられていたように記
憶する。また、もっと古い話では、日本家屋を接収した進駐軍が、木の地はだの美しい天井や
つくりっげの棚を毒々しい色のペンキで塗りっぶしてしまい、あとでその家を返された持主が
悲鳴をあげた、という話をきいたことがある。それは、アメリカ人をばかにするためのっくり
詰であったかもしれず、真偽はわからない。
 いずれにしても、壁にペンキを塗るということがアメリカから導入された習慣であることは
たしかだろう。早々と店内をベソキで内装していた先のジャズ・ヴィレッジにしたところで、
当時、最も”アメリカ的〃な場所の一つだった。その意味では、かつてまだ特権的ないしはマ
ージナルだった”アメリカ文化〃が、二〇年後には、アメリカなどに関心をもたない人々の周
囲にまで普及してきたわけだ。
 実際、アメリカでは建造物にやたらとペンキを塗りつける。これは、アメリカ人はもともと
海外から船でやってきたので、船体にペンキを塗る習慣をひきっいでいるのだ、などと言った
人がいるが、どうも話がうますぎる。それとも、彼や彼女らは、ながい船旅のあいだに乗組員
といっしょに船体のペンキ塗りでもしていたのであろうか? しかし、おしみなく塗りたくる
ことのできるようなペンキが普及するのは、二〇世紀になってからであり、まして吸収性の強
いコンクリートに無造作にペンキを塗れるほどペンキが安価になるのは、早くても一九三〇年
代のことではなかろうか。
 それはともかく、アメリカでは、建造物にペンキを塗る習慣が驚くべきほど普及している。
それは、どこかしらアメリカの衛生思想や新しさの感覚と関係があるらしく、アパートメント
の借り手が変わると、普通、家主や管理会社はその部屋の壁を全部塗りかえる。ただし、それ
は、”塗りかえる〃というよりも、うえから新たに塗りっぶすのであって、そのため、借り手
がひんぱんに変わるアパートの壁には、ペンキのぶ厚い層が出来ることになる。同じアパート
になが年住んでいる人でも、最低一、二年毎に壁のペンキを塗りかえるので、どのみちアメリ
カのアパートの壁にはペンキの厚い層ができている。
 ニューヨークのブリーカー・ストリートに住んでいたとき、わたしのアパートの浴室の壁は、
一応標準的なクリーム・ホワイトのベソキで塗られていたが、塗り残された部分にはあざやか
な青色の地がみえ、それをちょっとひっかいてみると、そのうしろに赤い壁がみえてきた。文
字通り、そこには色とりどりの生活があったわけで、わたしも、その壁を原色にぬりたくり、
放培な生活をおくらなげれぱならないかのような気になった。
 ブリーヵーに住むまえに下宿していたルーミング・ハウスで流しに湯をためていたら、流し
の白い底面がダリの絵の時計のようにぐにゃりとゆがみながら水面に浮かんできた。それは、
瞬間、クラゲが突如流しのなかに出現したか、あるいは流しが突然固体から軟体に変化してし
まったかのような感じでギョッとしたが、よくみるとそれは、一、ニミリもある白ペンキのぶ
厚い皮であった。家主は、おそらく、古びて汚くなった大理石の流しに、いつの目からかペン
キを塗りっけてきたのだろう。それが湯の熱ではがれたのである。
 よくもこの厚さまで塗りっげたものだが、ここまでくると塗るという言い方は通用しない。
日本語で〈塗る〉圭言う場合、それは何らかく濡る〉ということと関連しているはずで、日本
語の語感では、〈ベソキを塗る〉は、物体を塗料で〈濡らす〉とか、たかだか〈漆を塗りつけ
る〉程度の厚さでペンキを塗るイメージだ。ところが、アメリカでペィソトを塗るということ
は、そんなおとなしいことではなく、文字通り、対象をペィソトの被膜でつっんでしまうこと
なのである。
 こうしてみると、日本の都市で最近になって壁面や建物全体をペンキで塗りっぶすことが一
般化しはじめたことの理由が少しわかるような気がする。というのは、アメリカではくペィソ
ティソグ〉は、もはや塗ることではなく、かぶせることを意味するとすれば、それはまさしく
パッケージの発想と結びつくからである。日本の社会は、一九六〇~七〇年代を通じてアメリ
カの一九三〇~五〇年代の攻撃的な商品文化を駆け足で追体験し、パヅヶ-ジと広告記号操作
の美学を吸収したが、都市がいまやそうした美学を現実化しはじめたのかもしれない。
 しかし、日本の社会は、こうした美学を全面的にうけいれ、すべての価値と意味をものの実質
から表層へ移しつくしたかにみえながら、実際には、実質への限りない執着にとらわれている
ようにみえる。要するに、パッケージとは、何もない中味に価値や意味を付与するための絶対
的表層とで空言うべきものだが、日本社会でうげいれられたパッケージは、まだ実質としての
力を保持しているもののうえにかぶせられたカバーにすぎないのである。
 むろん、都市の景観は、近年ますます、確物や街路の表象にウェイトが移り、建物や街路自
身が一つの看板、広告塔に限りなく近づいているが、そうした表層は、それ自身がすべてを物
語るような表層ではなく、いわば書店で本にかぶせてくれるカバーのように実質を絶縁するた
めのものなのだ。とすれば、近年の都市のにぎわいは、たかだか”包装紙〃がきらびやかにな
っただげのことにすぎないのかもしれない。



 フロレスが大道芸だった頃
 プロレスは、大道芸と同様に、演技者と観客が直接現前しあうオーラル文化に属し、それ自
体はいかなる媒介がなくても成立するわけだが、大衆文化としての日本のプロレスはテレビと
切っても切れない関係にあり、テレビのほうもまた、プロレス中継によってマス・メディアと
しての機能をととのえていった。
 民間のテレビ放送(日本テレビ)が放送を開始するのは一九五三年であるが、同じ年に力造山
は日本プロレス協会を創立している。おそらく、テレビがプロレス中継をしなかったらプロレ
スは決して大衆文化にはたらなかっただろうし、また、プロレスがたかったら、テレビは、視
聴者を集めることのできる別の有力な素材を見つけ出さなければならなかっただろう。
 今日でも、大多数の人々にとってプロレスはテレビ文化であって、ライブな実演に立ち会う
オーラル文化ではない。しかし、プロレスのテレビ中継がはじまってから当分の問は、プロレ
スをみるということのなかにかなりの程度オーラル文化の要素がいりまじっていた。というの
も、当時のテレビは、いまとはちがって、一般には街頭のテレビだったからである。
 わたしがテレビのプロレス中継をはじめて見たのは一九五四年で、場所は渋谷の道玄坂うえ
にある「テレビ日本堂」という象徴的な名のラジオ屋でだった。この店が開店したのもこの頃
で、その店頭にならんでいる商品の九九パーセントはテレビではたかったが、来るべき時代の
趨勢を敏感に感じとった君主人が、店の名前に「テレビ」を冠したのだと思われる。
 この店の店頭にテレビが出現したのは、この店が開業してから半年ぐらいしてからで、しか
もそれは店主の自作になるテレビ受像機だった(それ以前にも、アメリカのテレビのチャンネ
ルを改造したものが、店頭に置かれていたような気もする)。
 当時は、どこのラジオ屋の店先も同様だったらしいが、この店のまえにも、プロレス中継が
行なわれる時間になると、どこからともなく人が集まって来、中継が始まってからは、店のま
えに人垣が出来た。むろん、商売など論外で、プロレスの時間はラジオ屋の店先が大道芸のた
めの広場のようになるのだった。毎回ちがう観客となじみの観客とがいりまじって歓声をあげ、
どよめくこの空間は、決して1やがて一般化することになる家庭用テレビの一家族生問と
は同じではなかった。
 力造山は、敗戦でうちひしがれた日本人に、日本人としての自信を与えて元気づげたという
ようなことが今日まことしやかに言われているが、わたしの印象では、テレビで見るフロレス
.(それは、当時、力造山と同義語だった)は、日本ではなく、アメリカだった。少なくとも、
それは、はじめから日本的なものを排除して、否定していた。そのため、しつけの厳しい家で
は、子供たちがプロレスをテレビで見ることを禁じるところもあった。
 まず、当時はまだそれほど収音条件がよいとはいえなかったマイクから聞える力造山の言葉
は、日本語ではなく英語だった。相手がシャープ兄弟のようなアメリカ人だし、レフエリーも
ハワイ出身であり、プロレス自体が力造山によってアメリカから輸入されたものだったのだか
ら、それは当然と言えば当然だが、彼らの表現や身ぶりは、決して「日本的」なものではたか
った。もし、力造山が日本人を元気づけたのだとしたら、それは、アメリカ人ではなくてもア
メリヵ人になることができるということを日本人に暗示したからだろう。
 もっと新鮮だったのは、それまで日本人が慣れ親しんできたのとは全く異なる身体処理を目
撃したことである。すでにアメリカ映画では、格闘シーンや馬から人がころげ落ちるシーンな
どによって、日本人が日常生活のなかで慣れ親しんでいるのよりもはるかに過激なやり方で取
りあっかわれるのを見ていたが、それは所詮”お芝居〃にすぎなかった。プロレスラーたちは、
それに対して、人体をあたかも物のようにあっかうのである。ねじり上げるだけで折れてしま
うと思われていた手首が、まさしくハンマーの柄になってしまい、足は”飛ぶハサミ〃(フライ
ング・シザーズ)となって相手の首をはさんでマットに横転させるのである。
 こうした身体処理と身体観は、相撲とは全然ちがうし、映画のラブ・シーンやセックス.シ
ーンとともに、アメリカから輸入されたものである。それは、やがて台頭する消費主義に対し
てそれを円滑に機能させる格好の文化ー”アメリカ的生活様式〃の文化ーを準備したのだ
った。
 プロレスは、今日でも大衆的なテレビ文化の一がくを形づくっているが、大衆の身体性や身
体感覚を変えるほどのインパクトをもはやもっていない。それは、見せ物としての本来の姿に
かえり、観客の方もそれだけ”専門化〃している。プロレスは、大衆的な文化装置としての機
能を終え、日本の”アメリカ的生活様式〃も、いまや終わろうとしているようにみえる。



 ドラッグストアの”アメリカ〃
 子供の頃、誰かがわたしに、薬屋は英語で、”ドラッグストア〃というけれど、アメリカの
ドラッグストアでは、店のなかでコーヒーを飲んだりすることができるのだと教えた。その後、
いくつかのアメリカ映画のなかにそんなドラッグストアを発見して、ドラッグストアに対する
わたしのイメージは固まった。
 まだテレビが白黒で放送されていた頃、『目真名氏飛び出す』という一種の探偵ドラマがあ
った。そのたかで、久松保夫が演じる目真名氏は、”三共ドラッグストア〃という、薬を若干
置いている喫茶店といった風情の店のカウンターでバィプをくゆらせていた。わたしは、なる
ほどこれがアメリカ式なのかと思い、スポンサーの三共が、やがてこのドラマの宣伝をかねて
”三共ドラッグストア〃なるものを開店したとき、渋谷の道玄坂の上の東急スカイラィソの一
階に出来たその店を早速のぞいてみた。しかし、その”ドラッグストア〃は、わたしのイメー・
ジのなかにあったものにくらべると、いやに小ぎれいで、薬を買ったらコーヒーなど飲まずに
そそくさと帰らなければならないような感じがした。
 もし、わたLがはじめに”ドラッグストアには喫茶コーナーがある〃などという思いこみを
しなけれぼ、おそらく、銀座のアメリカン・ファーマシがドラッグストアの固定したイメージ.
となっただろう。この店には、当時はまだあまり市販されていなかったジョンソンのバンドェ
ィドやコルゲィト歯磨きなどがあり、こうしたいまにして思えばおよそ貧しいことかぎりない
”アメリカのイメージ〃にひかれて、わざわざこの店に出かけていくことがあったからである。
たしかにアメリカン・ファーマシは、喫茶コーナーがないということをのぞげぼ、常時わたし
がいだいていた”ドラッグストア〃のイメージにぴったりだったし、店内のにおいは本物の
〃アメリカ”のように感じられた。
 ところが、六〇年代の後半ごろから、アメリカのイメージそのものが変わってきた。そして、
それまでに慣れ親しんだ言葉の意味も、急激に変わってきた。”ドラッグ〃という言葉も、大
幅に意味が激変した言葉で、新しく入ってきた映画、小説、レコードでふれる”ドラッグ〃と
いう言葉は、”ピル〃がもはや単なる丸薬を意味しないのと同じように1、アスピリンや消化剤
のような医薬品よりも、マリワナやコカイソなどの麻薬の方を意味するようにたり、そのおか
げで”ドラッグストア〃とい三言葉をきくと、わたしは頭のなかでそれを”麻薬販売店〃と翻
訳したいような気持にさせられた。
 むろん、ドラッグカルチュアが狂い咲いた六〇年代のアメリカでも、 ”ドラッグストア〃と
いう言葉に、”麻薬販売店〃などという意味はなかったと思う。しかし、アレン・ギンズバー
グやウィリアム.バローズなどがもてはやされ、ジャズ・ミュージッシャンの”麻薬禍〃がス
キャンダラスに伝えられる時代状況のなかで、ジャズやニューシネマにうっっをぬかしている
と、およそドラッグカルチュアとは関係のないドラッグストアまでが、麻薬と切りはなせない
もののように感じられてきたのである。おそらく、こうしたクレイジーな連想は、わたしがド
ラッグストアというものに過大な夢をいだいていたところから生じたのだろう。そういえば、
わたしにとってのアメリカン・ファーマシは、アメリカという夢を売る”麻薬販売店〃の役割
をはたしていなくもなかったのだ。
 ところで、最近、六、七年ぶりで、銀座のソニープラザとアメリカン・ファーマシに行って
みた。この二軒は、東京ではいまでも一番アメリカのドラッグストアの雰囲気をもっていると
言われている。しかし、久しぶりに訪れたこれらの店は、現地のドラッグストアを見てしまっ
た目からすると、やはり日本のドラッグストア以外の何ものでもなく、わたしがアメリカで若
千の生活体験をもっにっれ、日本にあるアメリカ風の店というものに関心を失っていったこと
が無理のないことだと、あらためて思った。
 ニューヨーク、バッファロー、セントルイス、マディスソ、ロサンジェルス、サンフランシ
スコといったいろいろた都市で利用したドラッグストアには、必ずしもコーヒーを飲ませるカ
ウンターがあるとはかぎらず、アメリカン・ファーマシによく似た店もあるし、ソニープラザ
のように、食器やコーヒーメーカーのような日用雑貨までならべているバラエティショップ風
の店もあり、その形態は多様で、そうした店をはたして、一律にドラッグストアと呼んでよい
ものか、迷うほどだ。そのくせ、薬はアスピリンぐらいしか置いてなくても、ドラッグストア
という看板を出しているところもあり、だんだんわたしは、ドラッグストアという名にこだわ
らなくなっていったのである。
 いま、あえて現地のドラッグストアを分類してみると、ひとつは純粋に薬品しか置いていな
い薬剤師のいる薬局で、この手の店には二四時間営業しているところもある。もうひとつは、
わたしがかって過大な夢を託したタィブのドラッグストアで、店の一角に調剤室と薬品のコー
ナーがあり、中央には石けん、歯ブラシ、クリーム、口紅、香水といった化粧品類、チョコレ
ートやキャンディなどの菓子、ノートや封筒などの文具類をたらべたタナがある。そして他の
一角には、どっしりしたカウンターがあり、そこでは、オムレツやホットケーキのような軽い
食事もできるようになっている。ただし、このタイプのドラッグストアは、みな”老舗〃のた
ぐいであり、比較的新しいドラッグストアは、アメリカン・ファーマシのように、薬局とバラ
エディショップとがいっしょになったタィブのものが多いように見えた。
 とはいえ、アメリカン・ファーマシとアメリカのドラッグストアとの間には、決定的に違う
点がいくつかある。それはまず、アメリカの店では、キャジャーのいるところがフロアより一
段高くなっていることが多い点だ。こうした傾向が圧倒的にニューヨークで目立つところを見
ると、万引する客を上から見張る必要からこうなっているのだろう。
 それから、アメリカではどんなドラッグストアに行っても、カード類のコーナーがかなりの
スペースをとっており、特にクリスマスの二か月ほど前になると、このコーナーは一斉に活気
づく。クリスマスカード、誕生祝い、病気見舞い、移転通知などのカードは日本にもずいぶん
入ってきており、日本のドラッグストアにもカードコーナーはあるが、ニューヨークでは同じ
目的のカードでも相手がキリスト教徒であるか、ユダヤ教徒であるか、無神論者であるか、そ
してまたホモセクシュアルであるかによって微妙なニュアンスがあり、そうした要求に応える
ためのカードコーナーは、どうしても相当のスペースをとることになる。
 アメリカでドラッグストアを利用するうちに、ドラッグストアというものは、日本で思って
いたほど夢多き場所ではなく、かなり実質的なところだということがわかってきた。これは、
イギリスのパブが、庶民を寄せつけない気どったところではなく、もっと庶民的なスタンドバ
ーであるのと同じことかもしれない。目木のドラッグストアは物を売るよりもイルージョンを
売る場所なのであり、だから客の方も他でも買える品物をソニープラザやアメリカン・ファー
マシで買うのである。
 といってもこのことは、アメリカの人々がイルージヨソを買い求めたりしないということで
はない。アメリカにはドラッグストアとは別に、夢やイルージヨソを売る専門店がある。とり
わけニューヨークの場合人々が夢を買いに行く第一の場所は劇場や画廊である。またマディス
ソ・アヴエニューやフィプス・アヴェニュー沿いの店も、それなりの夢をつくりだす。
 しかしニューヨークでは、わざわざ夢を買いに行かなくても、人々はいっもそういうものに
とりっかれているようなところがある。映画になったブラィァソ・ガーフィールドの小説『狼
よさらば』のなかに、ニューヨークについて「この街に住む者は程度の差はあれ大抵パラノイ
アにかかっているとみてまちがいない」という台詞があったが、都市というものはそれが過密
な構造をしていれぱいるほど人々にバラノィァを起こさせる。ここでいラバラノィァとは過剰
な夢やイルージヨソがとめどなくわきおこってくる偏執症のことだが、都会人のこうしたバラ
ノィァをコントロールし、治療することは、都市政策の重要な課題になっている。街路に立ち
ならぶ店舗や劇場は、こうしたバラノィァ症に鎮静剤を与える”ドラッグストア〃でなけれぱ
ならないわけだが、実際にはその逆に、興奮剤や精神剤を与える”麻薬販売店〃になっている。
 こうした傾向は東京の街でも目に目に強まっており、都市のバラノィァは昂進する一方だ。
とはいえパラノイアというものはへたに鎮静させるよりもある程度まで過激に昂進させてしま
う方がよいのかもしれない。しかしその意味では東京には、都市のバラノィァを思いきって昂
道させてくれるような”麻薬販売店”が少な過ぎる。





ポストモダン都市の政治



 街路のてにをは
 都市は治療的な装置であり、そこには管理と解放の両機能が混在しているわけだが、東京
の街路は、その遊歩者を現在という時間のなかにだけ閉じこめることによって記憶喪失症にし
てしまう。これは遊歩者を忘我状態にさせることであるから、多くの場合ひじょうな快感つま
りエクスターゼを伴うし、消費という現在的レヴエルのうえをすべるだげの交換には最適の意
識状態である。
 しかし、こうした記憶喪失症がいつまでも持続するたらぱ、ゾソピとなりはてた遊歩者は、
いささかもその消費や忘却のくりかえしを悔いることはたいのだが、ひとたび管理装置にゆる
みが出て、意識を現在のなかだけにおしとどめることができなくなると、遊歩者は管理の網目
をのがれてたちまち時間の全体性をとりもどし、自分がおかれている抑圧的な時間装置っまり
ここでは街路に、かぎりない欲求不満をいだきはじめる。それは、たとえば、交通マヒや停電
のような暫定的な事故でも起こりうるが、景気が後退して街がその表層をたえず”新しく”し
っづけることができなくなるときに、もっとも深刻な様相を呈するだろう。実はそういうとき
にこそ都市はその治療的機能を発揮しなげれぱならないのだが、東京の場合、街路は、もっぱ
ら遊歩者の消費的欲求の挑発と意識の一次元化のための魔術的管理の機能の拡大に奔走してい
るので、それは、解放はむろんのこと、治療の機能もはたすことができないのである。
 まったく同じことが、東京で受像できるテレビ番組についてもいえるが、東京の街路は、い
よいよそうしたテレビの映像と等質なものになってきた。とくに繁華街では、街の景観を電飾
広告、看板、ウインドウが決定しているので、電子の流れがとだえれば、街はたちまち無言の
白けた表情になってしまうのである。昼間の東京は、さしずめ惰性で作られた白黒のテレビ番
組といったところで、これならば、サーというノイズとともに光のこまかい粒子が走っている
放送終了後のブラウン管をながめている方がはるかにおもしろいのと同じように、街路になど
出ない方がよほどましなのである。
 建物も完全にテレビの映像の消費的な使い方と同じであって、いま建っている東京の繁華街
の建物で、十年後に民衆の歴史を追体験する一つのイコンとして機能しうるようなものがいく
っあるかあやしいものだ。というよりも、建物も、電飾広告と同じように、つねに過去と未来
を消去し、現在ただいまだげで生きているような建て方をされている。だから、少し古さが出
てくれば新装するというのがあたりまえになり、おかげで街はいつもピカピヵに輝いていると
いうわげだ。英語で”あかぬげした都会人〃のことをω茅訂hというようだが、讐果には
”げばけぼしい〃とか”ペラペラの〃、”党かげだおしの〃という意味があり、スリック・シテ
ィとはまさしく東京の街路を表現するためにある言葉ではないかと思うのである。
 ところで、歴史性が「……坂」といった標識や明治村のような”モルグ〃のなかにしか残ら
ず、自分のアイデンティティを保持するには表層をたえず”新しく〃していなければならない
という東京の街路のこうした性格は、都市だけでなく、日木語の特質にもなっているようにみ
える。日本では、翻訳された古典の生命はたかだか十年で、鉄筋の確物と同じように、まだ使
えても改訳される。たしかに、古い翻訳には、旧式の白黒テレビでカラー放送をみるような感
じがあり、それは現在へのリアルな関係を失いやすい。また、中学生的定義を講壇的にふりか
ざすまでもなく、同じ(I Am)でも、日本語訳ではそれがどんたツチュェィションでいわれた
かによって大幅に訳がちがってくるのであり、たとえばセックス・ピストルズによる”アナー
キー・イソ・ザ・UK〃の(I am an Antichrist)を”わたしは反キリスト者〃と訳しても、
さっぱり感じが出ないのである。
 日本語は不思議塗言語であって、極言すれば、てにをはと活用語尾だげあれぱその他は全部
外国語に頼っても何とかやってゆげるような完全に輸入超過的塗言語である。たとえば、「わ
たしは学校に行く」という言い方を「”アイ〃は”スクール〃に”ゴー〃する」といいなおす
こともできるし、その英語にあたる部分をアルファベットになおして、「IはSchoolにgo
する」と表記しても、これはちゃんとした日本語である。しかし、I go to schoolのそれぞ
れの単語の部分にドイツ語をあてはめ、Ich gehen zu Schuleといってみると、文法的に正
しくいえば、Ich gehe zur Schule だとしても、その表現はもはや英語ではなく、ドイツ語に
なってしまうのである。
 すでに時枝誠記は、『国語学原論』のなかで、日本語表現の構造を「風呂敷型構造形式」な
いしは「入れ子型構造形式」と呼んだが、このすぐれた洞察には、”風呂敷〃や”入れ子〃の
中身は何でもよいという含意も含まれている。つまり、すべては表現の”風呂敷〃すなわち表
現の現在的レヴェルによって決定されるのであり、どんな外国語でも、それを最低限てにをは
で包めば、それは立派な日本語になってしまうのである。
 どうやら、東京の街路が治療的さらには解放的側面をとりもどす可能性は、街路のてにをは
のなかにしかなさそうだ。It's terribleね。



 ゲットーのなかのシングルたち
 新聞広告にはあいかわらず住宅関係のものが多いが、そうした広告のなかで最近目立つのは、
”シティニフィフ〃をキャッチフレーズにした新しいタイプのマンションの広告と、郊外生活
を讃美したニログ建の広告とが同時に並存している一見矛盾した現象である。
 広告は、現状よりも広告主の願望を示唆することが多いが、実際に、日本では目下、一方で
生活圏が依然として郊外に向かって拡大しながら、他方では、都心に新しい生活圏が出来つつ
ある。言いかえれば、日本の生活圏の現状は、郊外生活志向が昂進すれば都心が過疎化し、都
市生活志向がたかまれぱ郊外に空屋や廃屋がふえるといった拡大と収敏の力学では説明できな
いのである。
 都心のマンションの広告はむかしからあったが、それがはっきりと”シティニフィフ〃の場
として注目されるようになったのはごく最近のことである。その場合、住居、オフィス、そし
て”マントル”まで雑居している従来型のマゾッヨソとちがって”シティニワイフ”を売りも
のにして新しく建てられるアパートメント・ハウスは、居住のためだけの専用空間であり、し
かもその空間が期待している模範的なライフ・スタイルは、ロビーに子供が遊んでいたり、ベ
ランダに三輪車があったりするような生活臭のあるイメージではなく、ブランド商品を身につ
けた独身貴族か子供をもたないヵツプルがバゲットやワィソのびんをのぞかせたショッピング
バッグをかかえてエレベーターに乗っているといったイメージのなかにあるポスト・ニュー・
ファミリー的なものである。
 これは、明らかに都心の居住空間のブルジョア化であるが、文化的にみると、中・高所得者
層の文化が家族的なものから独身者的なものに変わってきたことの一つの指標であると言えな
くもない。都市には、経済的な階層差に関係なく、多くの独身者が住んでおり、独身者文化と
いうものが存在する。しかし、これまで独身者文化はマイナーなものであり、家族文化によっ
て圧倒されてきた。現在でも、たとえば、原宿の竹下通り、渋谷の公園通り、新宿の歌舞伎町
がさまざまな”族〃たちの街であるように、都心では家族文化が支配的であり、独身者文化は、
ブルジョア的なものも”プロレタリア的〃なものも、あまり精彩がない。おそらく、戦後、東
京の都心の街路で家族文化が独身者文化を圧倒しはじめたのは、みゆき族の出現あたりからで
はあるまいか? それ以後、たとえばジャズ喫茶のような独身者文化の確固とした場が急速に
衰退していった。
 都心のホテルも、六〇年代の高度経済成長期に、独身者文化から家族文化への文化的なくら
がえを行なった。ホテルの泊り客の大半は、子供をっれない単身者やカップルであり、ホテル
という居住空間は、伝統的な意味での結婚とは裏腹の、何かしら非拘束的、非定住的なイメー
ジを身につけており、日本のホテルもかつてはそうだった。しかし、日本のホテルは、六〇年
代を通じて大きな変貌をとげた。それは、いまや、単なる宿泊所や居住空間ではなく、同時に
結婚式場、つまり家族文化の推進者でもあり、都心の有名ホテルのなかには、ホテル業として
よりも結婚式場としてより大きな収益をあげているところも少なくない。地下鉄や電車のなか
で目にするホテルの広告をみても、その大半が結婚式場の広告でしめられているが、それほど
に日本のホテルは、いつのまにか結婚11家族文化の側にまわってしまったのである。(ホテルの
独身者文化的な要素は、つれこみホテルに残されていると言えなくもないが、つれこみホテル
は一人だけの客を歓迎しないという点で、厳密には、家族文化蝿に属するとみるべきだろう。)
 しかしながら、こうしたホテルにも、最近、そこを長期的な生活の場として利用するシング
ルや子供のいないカップルの客が目立ちはじめているという。また、ホテルのなかには、”会
員制シティホテル〃と称し、賃貸マソシヨソと似たような契約をして、長期的に部屋を貸すと
ころも出てきた。しかし、ここで、こうした傾向が今後どんどん昂進して、ホテルが結婚式業
を廃業するようにはならないだろう。
 ニューヨークの場合、一九七〇年代にいわゆる”ジェソトリフィケイション〃が進み、アパ
ートメント.ビルディングが片っぽしからタウンハウス的なものにレベル・アップされていっ
たとき、古いホテルのなかには建物を改造・改築して”高級アパート〃に衣がえするところが
かなりあった。その結果、グリニッジヴィレッジのようなところには、ほとんどホテルという
ものがなくなってしまったが、これは、家族文化から独身老文化への方向転換では全くない。
これは、むしろ、独身者文化内部での質的変化であって、それまでボヘミアンや浮浪者のよう
な社会の底辺・周辺都の人々にも生活場を提供してきたホテルが、ある程度資産のある人々に
しか生活場を提供しない”高級マンション〃にレベル・アップしたにすぎないのである。いわ
ぽうっわ自身は変わっていないのであって、それまで経済的に下層の人たちが主体となってき
た独身者文化を、経済的に上層の人たち1とりわけ弁護士、医者、芸術家、美術商、大学教
授といった知識集約型のプロフェッショナルズーが”横どり〃L、それを口あたりのよいも
のに改良しながら享受するようになったという点で、独身者文化の全般化、制度化なのである。
 東京の郊外や周辺部では、依然としてニログ建の家が建てられ、そこに家族文化が根づきつつ
ある。都心でいま独身者文化が回復されつっあるとしても、それは、むしろ、家族文化にぐる
りととりかこまれ、もはや逃げ道のない独身者文化が、ゲットーのなかでそんな錯覚に陥って
いるにすぎないのかもしれない。都心が、ボヘミアンからホモセクッユァルにいたる独身者文
化の生産点になり、それが郊外や周辺部の家族文化に波及し、それを変えてしまうというよう
な、アメリカや西ヨーロッバでは実際に1起こったことが、日本で起こる可能性はひじょうにう
すいという気がする。



 ミドル・クラスの夢
 中村幼児監督の『ウィークエンド・シャッフル』をみて、この映画の原作を書いた筒井康隆
は、ある意味で、日本のミドル・クラスの平均的な夢を描いてきたのだなと思った。
 ホーテーゼ・パウダーメィカー『ハリウッド、夢工場』(一九五〇年)は、 ハリウッド映画が
アメリカの大衆の夢を生産する工場だということをライト・モチーフにした社会学的考察だが、
この場合の”大衆の夢〃は決してアメリカの民衆の願望ではなく、ハリウッドという文化産業
とその背景をなす政治・経済システムの欲望である。むろん、その欲望はみたされる場合とそ
うでたい場合とある。しかし、一九四〇~五〇年代のハリウッド映画で陰に陽に示された”欲
望〃の大半は、一九六〇年代以降に大衆の日常的欲望として実現された。たとえば、当時のハ
リウッド文化であった離婚、再婚、フリー・セックスは、六〇年代以降、アメリカのミドル・
クラスの平均的モラルとなった。要するに、商業映画は大衆の文化ではなくて、支配システム
の未来的文化装置なのである。
『ウィークエンド・シャッフル』には、閑静な新興住宅地に建った「ヨーロッバ式に靴を脱が
ないで上がる」しゃれた新築の家でファッション雑誌のグラビアに出てくるようなインテリア
にかこまれて生活している家族が出てくるが、この斑猫家の一人息子・茂(尾口康生)、その
母親・暢子(秋吉久美子)、夫・章(伊武雄刀)の行動と身ぶりは、ことごとく今日の日本の一
般大衆の潜在的な”夢〃を体現している。茂は、砂場で遊んでいてチリ紙交換の青年(新井康
弘)に出会い、彼を”誘拐犯人〃に仕立てあげ、誘拐ごっこを楽しむ。暢子は、たまたま家を
訪れ、返事がないのであがりこんでしまったセールスマン(泉谷しげる)にいなおられ、寝室
で犯されるが、秋吉と泉谷が実に息のあった演技で示したように、そうした事態へひきこんで
ゆくのは暢子自身である。章は、妻にたのまれたマヨネーズを買いに1行きがてら床屋に行くと、
そこに薬で錯乱状態になった半裸の女が飛びこんできて大騒ぎにたるが、彼にとっては迷惑で
あるよりも、むしろ刺激的なショーを見たようだ経験であろう。スーパーマーケットで背の女
に出会って喫茶店で話すなどというのも、平均化された日本人の平均化された願望だ。
 現代の風俗の研究はますます週刊誌のゴシッ。フ風になり、「現代の主婦は、浮気やスワッピ
ソグヘの待望があり……」といった安易な平均化をしがちだが、実のところ、こうした平均化
は”主婦〃自身の欲求の最大公約数であるよりも、むしろ彼女らの欲求をどのような方向へ向
げたいかというシステム白身の欲望、あるいはそうした欲望によってわれを忘れさせられてし
まった結果としての欲求なのである。『ウィークエンド・シャッフル』には、このへんのから
くりをなかなかうまく描いているところがある。泉谷が、暢子を犯したあと、「これは二人の
秘密にしとこうね」とか言って、家を出ようとするところに、彼女の大学時代の女友達が三人
遊びに来る。彼女らは、暢子の夫を知らず、泉谷を暢子の夫と勘ちがいする。このシーンで泉
谷と暢子がかわすやりとりは、とりっくろいと偶然から出来上がったものなのだが、平均化さ
れたミドル・クラスの夫婦の会話としては、かえってもっともらしくみえ、実際に一、テレビ・
ドラマの夫婦の会話ではこれが、現実の会話として提示されることが多い。暢子にとって泉谷
は、ただの聞入者にすぎないから、友達たちに向かって「いいの、こんな人とは何でもない
の」と言い、彼と寝たがる友達に向かって、「あの男でよかったらあげるわ」と言う。これは、
相手が泉谷であるから出た言葉であって、この映画のドラマ的論理では、相手が本当の夫つま
り章であれば、彼女は決してこんたことは言わないはずなのである。ところが、彼女がこうし
た状況に追いこまれたために、彼女の身ぶりは、かえって、われわれが一般に表象している日
本のミドル・クラスの平均的な夫婦の雰囲気をうまく表現してしまうのである。
”異常〃な事態のなかで”現実〃がよりリアルに現われてくるというのは、シュールレアリス
ムや表現主義に関してさんざん言われてきたことだが、その際忘れがちなことは”異常〃さの
なかでその”現実〃がリアルに現われたいような”現実〃は、すでにその”異常〃さの程度だ
け操作されているということだ。 ”操作〃と言うと、誰かが社会を背後からあやっっていると
いうことだげを思いうかべるかもしれないが、ここではもっと構造的にとってほしい。たとえ
ばシュールレアリスム的表現が、われわれの〃現実”をリアルに表現しているかのようにみえ
るときには、その”現実〃は、シュールレアリスム的な操作で方向づけられているのであり、
シュールレアリスムが一つの政治になっているのである。むろん、この政治はマイナーな反権
力的な政治であることもあるし、メイジャーな支配的な政治であることもある。しかし、シュ
ールレアリスム的表現に関して言えば、それは今日、一九二〇年代とはちがい、完全にメイジ
ャーな政治的テクニックに帰属している。
 それゆえ、『ウィークエンド・シャッフル』のおもしろさは、日本のアッバー・ミドル・ク
ラスの家庭で起こったつかの間の夢のような奇想天外な出来事が次々に起こる点ではなくて、一
奇想天外な出来事によってはじめてリアルな姿を示すアッバー・ミドル・クラスの生活が、い
かに操作されたものであるかを示唆するところだ。つまり、実際のアッバー・ミドル・クラス
の人々の個々の生活は、それぞれちがっており、多様であるはずなのに、いま彼や彼女らがこ
の支配的システムのなかで求められていることは、子供が「君んちは貧乏だからダメ!」と言
って金持の仲間だけで誘拐ごっこをやることであり、妻がセールスマンと寝、女友達ともども、
オージーにふげることであり、夫が外で(半裸の女にだきっかれたり、昔の女に出会ったりは
するものの所詮は傍観者以上の域を出ることなく、おまけに交通事故にまであって)ただぶら
ぶら時間をすごすことであり、しかもそういうことが自分自身のなかから出たものであるかの
ように思いこむことなのである。



 防災警報発令
 東京の街では、近年、夕方近くなると奇妙なチャイムの音がきこえてくる。わたしが住んで
いる渋谷区では、一週間まえから、夕方の六時になると、区の出張所の屋根にとりっげられた
四基のスピーカーからいっせいに時報とチャイムのメロディが大音響で流れるようになった。‘
この一時間まえには、近所の公園で”夕焼げ小焼げ〃のメロディが流れ、これは、公園で遊ん
でいる子供たちに帰宅をうながす(おせっかいな)合図だというが、六時のチャイムは、地震
法で制定された防災無線装置の作動テストだという。区の防災課の話では、地震や災害が起こ
ったとき、これを通じて(国家が)避難指令を出すので日常その整備をおこたらないように一
目一回電流を流すようにしたというのだが、問題は、そんな技術的なことではなく、これによ
って地区単位を中央集権的にすっぽりっっみこむネットワークが出来てしまったことだ。現在
渋谷区では六〇数地区に無線のこうしたスピーカー装置が設置され、同じメロディを同じ時刻
に流している。地区単位と言ったってただでさえ中央のコントロールが強い国柄なのに、これ
では”地域文化〃だとか”地域に個性を〃だとか言っても、ますます東京はのっぺりしたブラ
スティック・シティになってしまうのではないか。
 少しまえ、加藤秀俊は、『生活リズムの文化史』(講談杜)のなかで.現在の都市生活のなかで
は、共同経験としての時間体験はほぼ完全に消滅L、人々は、かつてのように起床ラッパやぼ
んぼん時計のようなもので一律に集団的に時を知って行動するのではなく、それぞれ個人が、一
電子時計で好きな時間にコール・サィソをセットして、自分流の時間を生きるようになった、L
と言って、今日の日本の社会の”多様化〃を肯定していた。しかし、民衆レベルではたしかに
そういう傾向は出てきているとしても、国家は全く逆のことをやろうとしているのである。少
なくとも防災無線装置のネットワークは、地域ごとのあらゆる意味での運動と多様な意識に対
する牽制であり、さらには、いま日本の都市住民のあいだにも、少しずつ関心がひろがりつつ
あるコ、、、ユニティ・ラジオや自由ラジオに対する弾圧を露骨に先取りしているのである。そう
いえば、地震は、日本ではいっの時代にも反動化の口実として利用されてきた。
 日本のマス.メディアが国家による文化管理の装置とたりやすい構造をもっており、現にそ
の機能を発揮していることにっいては、これまでしばしば指摘されてきた。ところが、一九八
○年代になって目立っ傾向は、こうした間接委託的な文化管理にしびれをきらしたかのように、
国家が直接地域住民の一人一人に管理の手をさしのべることができるような回路と装置がマス
.メディアとは別個に用意されはじめたことである。
 一九七八年に、大規模地震対策特別措置法、いわゆる「大地震法」が成立し、それまで町会
や自治体レベルで行なわれてきた「防災訓練」が、堂々と自衛隊まで参加する国家行事となっ
たが、これによって「防災訓練」は、年々、地震時の民衆の避難訓練というよりも、”内乱〃
や戒厳令の際に民衆をいかに統御するかをテストする管理体制側の統御訓練の色彩を強めてい
る。
 こうした国家総動員体制的「防災訓練」に反対する動きと関心は、地域住民・労働者、自治
体労働者、批判的知識人等のあいだで高まりつつあるが、「地震・防災を考える首都圏連絡セ
ンター」(東京都杉並区高円寺北三の一の二 現代史研究所内)の調査によると、去る九月一日に首
都圏で行なわれた「防災訓練」では「防災訓練」に反対するビラまき等を排除するやり方をも
含めた総動員体制がますます徹底し、地域住民を硬軟とりまぜた方法で統御する実験が盛大に
くりひろげられた。
 その際、主催者側は、白衛隊や警察のヘリによる空輸訓練を一つのショーとして演出し、
「炊き出し訓練」と称してジュース、バンなどを含む食べものをくぼったり、シートなどのみ
やげ品を与えて参加者をたくみに懐柔し、「防災訓練」全体を一つの”祭〃にしてしまうこと
まで考えた。こうなると人々は、自衛隊、警察、消防の隊員と年一回”楽しく〃一時をすご
すことによって、国家総動員の身ぶりを自己の身体的無意識のなかに沈殿させてゆくというわ
げである。
 さらに悪いことには、この「防災訓練」は、すでに”年中行事〃であることを越え、二四時
間体制として地域住民の生活時間のなかに侵入しはじめている。首都圏の各地で、夕刻になる
とどこからともなくきこえてくるチャイムの音は、時報の区民サービスなどではなく、「大地
震法」によって合法化された「防災無線システム」の作動試験として実施されているものであ
って、国家による時間管理の一つなのである。この装置は、中央のUHF無線送信機と地域の
数十個の受信・拡声装置からなり、地域の拡声器の音量は中央で自由にコントロールできるよ
うになっている。それゆえ、地域住民は地域や自治体の意志を越えたネットワークのなかで生
活をしているわけであり、ここからある目突然、”うら声の君が代〃なんかが流れてくること
もないとはいえないのである。



 SS隊員必殺の守リ
 レーガン米大統領が来日した。その目的の一つが、国際的な軍事環境の再編成(国際緊張の
場を東アジアでも強化しようとすることもその一つ)にあることは言うまでもないが、彼の来
日は、また、中曾根体制自身が必要としたものでもあった。
 表面上、それほど目新しい共同宣言が出されなかったところを見ると、両者は、たがいにこ
のチャンスを利用しあった側面の方が強かったと見ることもできる。すなわち、ABCの記者
が言ったように、レーガンは次期再選のための「絵をつくりに来た」のであり、中曾根の方も、
米大統領がわざわざ向こうから出向いてくれたということをさも権威があるかのように見せか
げることによって、白已の権威づけと田中問題の厄払いとをいっしょに済ませようとしたのか
もしれない。
 しかし、そうだとしても、日本政府側の対応は、その底にもっと多くのねらいがあったこと
を示唆している。というのは、レーガン報道を行なったマス・メディア、とくにテレビ・メデ
ィアの対応がひじょうに足なみがそろっており、レーガンの御用メディアでももう少しサチー
ルや批判のフレイバーをふりかげたであろうと思われるほど好意と善意にあふれていたからで
ある。
 空港や宿泊先に通ずる道路に戒厳令下と同様の厳戒体制をしかなければ来日できなかったと
いうのもおかしな話だし、それまでしても来なければならなかった理由の深さがはかり知れる
というものだが、レーガン来日の特集番組を報道しつづけた日本のマス・メディアも、ある種
の”戒厳令〃下にあった。それほどまでして報道しなければならない何かがそこにはあったわ
げだが、それは何だったのだろうか?
 わたしは、マス・メディアの背後に何か中央管理部のようなものが存在し、それがすべてを
操作しているといったような”陰謀操作理論〃には全く与しない。わたしは、むしろ、システ
ムの無意識にひそむ志向を顕在化しょうとしているにすぎない。むろん、そうした志向をちゃ
んととらえて、積極的にその現実化のために寄与する個人や集団というものは存在しうるし、
現に存在するのが普通である。しかし、こうしたシステムの無意識にひそむ志向は、たとえば、
われわれ自身の不注意や無関心によっても生きのびるのである。
 ひじょうに気になった特集番組があった。それは、十一月十一目の午後十一時にテレビ朝目
で放映された「TVスクープ、大統領SS隊員必殺の守り」である。これは、もうグロテスクと
しか言いようのないレーガン警護のためのシークレット・サービス隊員(二〇〇人も来た?)
たちの活動を特集したものだが、全体としてみると、それにかこつけて、日本側のシークレッ
ト・サービスの活動ぶりを紹介し、その存在意義をPRするような要素を多分にもっている。
 おそらく、まとまった形で日本のSS隊員のことがテレビで紹介されたことはなかったので
はないかと思うが、逆に、こうした本来は影の存在であるはずの警察集団が、堂々と明るみに
出たのは、決してテレビ局のスクープのためではない。この番組の一部には、レーガン来日を
まえにして、空港地図をひろげながらSS隊員たちが隊長から説明を受けるシーンがある。こ
れは、明らかに、来日後放映することを内約にして、警察との協力のもとで撮られたのではな
いかという気がする。いずれにしても、警察側の協力(ないしは要請)がなければ振れないと
思われるシーンがいくらもあった。
 こうした一必要とあれば、即座に疑しき者を射殺できる特権をもつ一集団の存在をテレ
ビを通じて誇示するということは、国民に対する一つの威嚇である。なるほど、そういう集団
の存在がテレビで報道されたことは、全く秘密のままにされるよりましだという見方もなりた
つだろう。しかし、公開しようがしまいが、その存在自体が変わらないにもかかわらず、それ
をしかも、批判ぬきで報道したこの番組は、むしろ”国家にはむかおうとしても、こちらには
これだげの用意があるよ〃という国家のおどしに手を貸していることになるのである。
 つまり、SSの存在は、国家の暴力装置の過剰化であり、その存在がマス・メディアで誇示
されたということは、国家が暴力による支配と制圧の姿勢を従来以上に強化しているという一
つの指標になる。この集団は、”要人警護〃という名目で、”破壊分子〃を片っ端から文字どお
り撃ち殺すことができるのだから、悔しい話である。
 それにしても、レーガン政権ほどアメリカのニヒリスティックな、末世的な状況を示唆して
いるものはない。レーガンは、役者として”大統領〃をやっているにすぎず、彼の演説は全く
の台詞読みだということはよく言われるが、こういう状況が生まれたのは、一つには、ウォー
ターゲイト事件がいままで以上に信頼感の薄れた大統領と国政によって、”政治なんて茶番に
すぎない〃、”大統領なんて大根役者にすぎない〃というシニシズムがアメリカ社会に浸透した
からだった。
 日本の場合、国家の権力者や政治に対するシニシズムは、もっと深く、それは、ウォーター
ゲイトが与えたアメリカ社会へのショックとロッキードが与えた日本社会へのショックの度合
と余波の大きさとを比較してみれば理解できようというもので、どんたに魅力のない政治家や
権力者が現われても、われわれは、それほどショツクを受けないほどしたたかになっているが、
あんまりくだらない茶番劇ばかり見せられていると、その反動として、救いようもなく深刻な
”芝居〃が再登場するのをおさえる歯止めがなくなるだろう。



 ビタミン文化論
 ピタミソをのむことがはやっているらしい。デパートでもピタ、・・ソのコーナーをつくってい
るところがあるし、ピタミソについての本も売れているという。
 ピタミソ一般ということなら、ピタミソは大分前からのまれており、「アリナミン」とか
「ポポソS」などはロングセラーの部類に入ると言ってよい。駅の売店でも売っているドリン
ク剤も、そこに何がしかのピタミソが入っているということが「看板」になっており、ピタミ
ソの一種とみることもできる。
 しかし、いま流行しつつあるピタミソは、これらのものとはちがい、たとえばピタミンE、
ピタミソC、ピタミソDといったそれぞれ特殊化されたピタミソであり、そののみ方も、綜合
ピタミソやドリンク剤ののみ方と大分異なっている。後者の場合、むろん人によって差がある
だろうが、人はあまりその構成要素を意識しない。そこにビタミンAやBが入っているからそ
れをのむというよりも、むしろそれが「精をつけ」てくれたり、「体にいい」という漠然とし
た信仰心からそれをのむ。そこにどんなビタミンが入っているかということよりも、その効能
の方が重要なのである。これに対して、いま流行しつつあるビタミン摂取の場合には、むろん、
それが体によいと思うからのむにはちがいないが、のみ手が最初に考えることは、どんな種類
のピタ、ミソかということなのである。旧ビタミンの場合は、いわば「適当にみつくろってよ」
の精神でのまれていたとすると、新ビタミンは、それをのむ者一人ひとりが、自分で選びなが
ら自分の必要に応じてのむということが基本になっている。このことは、文化的にもひじょう
に大きなちがいだし、社会の変化とも無関係ではないと思う。
 この種の新しいピタミソ摂取は、日本で突然はじまったのではなく、アメリカから輸入され
たものである。これは何もビタミンにかぎったことではなく、ダゥソ・ジャケットもディスコ
.バッグも、ネオ・バンクの髪型やファッションもアメリカから、あるいはアメリカ経由で入
ってきた。その意味では、ニューヨークあたりに住んでいると、一、二年先に日本ではやる風
俗や文化の傾向が予測できるわけで、日本の社会や文化がアメリカの傾向にふりまわされてい
る感じがしてばかぱかしくなることがある。とはいえ、ふりまわしているのは、実は日本人自
身なのであって、日本ほどアメリカの流行に好奇の目を光らせ、それをせっせと輸入する国も
少ないのである。日本の場合、アメリカやヨーロッパとはちがい、移民を極度に制限している
ので、異文化をまさにわが身にたずさえて外国から移民してきた人々と日常生活の場でぶっか
りあう機会はひじょうに少なく、「外人」という言葉が他国からやってきた人々の一般的呼称に
なっているくらい、異文化は、生まの文化的接触・交流によってよりも、国家や企業の「窓
口」を通じて入ってくる。
 アメリカでは、いま日本ではやりはじめているスタイルのピタミソ摂取が、ほとんど一般的
な習慣にまでなっている。本屋が一軒もないような街でも、スーパーマーケットに行けばビタ
ミンのコーナーがあるし、ニューヨークのマンハヅタソのような大都市には、ビタミンだけを
売る専門店が何軒もある。ビタミンの通信販売もさかんで、大量に注文すると市価の半値以下
で入手できる。(アメリカでは、ピタミソだけでなく、服でも家具でも、通信販売が実にさか
んであり、その価格は、店頭の小売価格より安いことが多い。)
 日本でも最近目にするようになったピル・ケースに各種のビタミンを入れて毎日欠かさずの
む人は多く、そのために日曜から土曜までの七目分のビタミンを入れるために七つの仕切りの
あるピル・ケースも売られている。その場合、老化防止にはE、カゼの予防にはC、日光の摂
取不足にはDといったぐあいにその人その人が自分の必要に応じて「調合」してのむわげだが、
毎日決めてのまない人でも必ず何種類かのビタミンを買い置きしてある。ビタミンや薬品類は、
たいていは、浴室の洗面台の鏡のうしろにしまってあるので、アメリカ人の家に一行ってトイレ
(浴室にあるのが普通)に行き、鏡の戸を開いてみれぱ、その人がどんな目的と好みでビタミ
ンをのんでいるかが推測できる。アメリカ人は一般に、薬品類を洗面所へおくが、ビタミンの
場合には、朝食後にのむ方がよいという説もあってか、台所においておく人も少なくない。
 こうした習慣は、一九六〇年代に起こったカウンター・カルチャー革命のなかから出てきた。
この時代にアメリカでは、既成のモラルや伝統に対する反抗が社会のさまざまな部分で起こっ
たが、コミューン運動などとともに「自然的な生活」への関心も急激に高まった。それまでは
きちんとかりこんでいた髪ものびほうだいにし、体を不自然にしめっける服やブラジャーをほ
うり棄てて、ゆったりとしたインド服やジーンズを身につける人々が出てきた。肉食を疑問視
する人々もあらわれ、自然食、植物食がはやりはじめた。
 七〇年代になると、こうしたカウンター・カルチャーは、マス・メディアや消費の回路にの
せられてアメリカ全土、さらにはオーストラリアやヨーロッパにまでひろまっていった。これ
は、それまでの社会や政治体制に対する異議や反省が起こってきたことと無関係ではないが、
カウンター・カルチャーが”商品〃として売れるものであるということに目をつけた企業が、
当初のカウンター・カルチャー革命のなかで出てきたものを次々と商品化していった面も見の
がせない。おそらく、それらの商品のなかで、最も成功をおさめたのが、ジーンズであり、そ
の次がビタミンではないかと思う。つまり、カウンター・カルチャー革命の時代には、ロコミ
や軽印刷のバンフレットなどを通じて一部の人々のあいだで、たとえば何々の種や葉にはピタ
ミソCが多分に含まれているといったような形で知られていたことが、製薬工場の実験室で技
術化され、どこでも誰でもが手に入れることのできる”商品〃として流通するようになるわけ
である。
 こうなると、はやるのは早い。すでにカウンター・カルチャーが生んだライフ・スタイルは、
少なくとも知識のレベルでは広く浸透しつつあり、人々は、たとえばファースト・フードや大
型キャデラックに象徴されるような、どこへ行っても均質の文化や強大信仰に疑問をいだきは
じめており、「スモール・イズ・ビューティフル」というE・F・シューマッハーの言葉がも
てはやされるようになりはじめていたので、そうした文化にみあった商品は、あっというまに
市場を席巻し、さらには国境をこえてひろまっていった。たとえば、オーストラリアでは、一
九七〇年代に入ってビタミン産業が軌道にのりはじめ、一九七一年には早くも、全国のピタミ
ソ消費量が前年に比して六六パーセントもふえた。ただし、この時代のビタミンは、いまとく
らべると種類が少なく、従って、消費老の選択の余地もかぎられていた。
 いま、ニューヨークのマンハッタンにあるビタミン専門店に行ってずらりとならんだ棚をの
ぞいてみるとすぐわかるが、ビタミンは、A,B,C,D,Eといった区別のほかに、植物性
のビタミンEと動物性のピタミソEといったように実に種類が多く、選択の余地も豊富で、ピ
タミソのコンサルタントを職業にしている人までいる。医薬品を極力使わないで、ピタ、・・ソの
投与で病気をなおすということで知られている内科医もいる。
 ただし、こうしたビタミンの流行の社会的背景には、少しでも自分の体を自分でコントロー
ルしたいという自律の欲求がはたらいているようにみえる。これは、もともとカウンター・カ
ルチャー革命のなかにあったものであり、日本でも以前に翻訳の出たことのある『地球のうえ
に生きる』にも書かれていたように、草や木の根を煎じて自分で病気をなおすような発想につ
ながっている。
 とはいえ、初期のカウンター・カルチャーのなかから出てきた発想とその後のビタミン摂取
ないしはビタミン・ブームのちがいは、前者の場合は、結局のところ、体や環境の自然た状態
を各人一人ひとりが自分の五感を最大限に発揮してとらえ、そこへ向かって自分の体や環境を
変えてゆこうとするいわぼ変革の姿勢があったのに対して、後者では、たとえどんなに多様に
なったとはいえ、所詮はカタログ化されている限られた選択肢を組みあわせたり選んだりして
体をコントロールする平板な受動的姿勢にとどまってしまうという点である。
 ただし、いずれにしても、他人や既存の組織に頼らずに何かをやろうという精神においては、
明らかに前進があるわけで、今日、「ドゥー・イット・ユァセルフ」文化と言われるものが世
界的に浸透しはじめているとすれぱ、ビタミンは、そのはしりの一つだったと言えるだろう。
これは、サービス社会化がどんどん進み、それまで無料で提供されていたようなことまでも有
料になり、金さえ出せぼどんなサービスでも手に入るようになった代わりに、人に何かしても
らうということがひどく高いものにつく時代になったということと大いに関係がある。つまり、
この「何でも自分でやる」「ドゥー・イット・ユァセルフ」文化というものは、必ずしも人々
が自律の精神に1めざめた結果生じたのではなく、産業構造の変化からやむなく生じた変化でも
あるわけだ。そのため、日本のように、他者依存の文化がながく根をはっていたところでさえ
も、サービス産業化が急速に進むなかでは、どうしてもこの種の「自律」文化が生まれざるを
えないわげで、わたしのみるところでは、いま日本で起きつつあるピタミソ・ブームの背景に
は、こうしたサービス社会化の深まりということがあるように思われるのである。」



 東京のニューヨーク・パラノイアー1一九八二年八月
 東京の街が”おもしろく〃なっているという。ストリートがとくに”おもしろい〃という記
事を特集した雑誌もある。しかし、本当にそうなのだろうか? むしろ、都市を”おもしろく〃
したいという行政や経営サイドの願望だけがマス・メディアのなかを独走しているのではない
のか?
 都市へのわたしの関心は、路地から路地への俳個をこととする遊歩者のそれであって、建物
の内部よりも外部、つまり街路が重要なのだが、いまの東京の街路は、わたしには全然おもし
ろくないのである。
 もっとも、〃おもしろい”とか〃おもしろくない”とかいうことは、きわめてイディオジソ
クラティック(体質的?)な判断であり、わたしが”おもしろくない〃と言ったところで、他
の人たちには依然〃おもしろい”ということはあるわけだから、ここで〃おもしろくない”と
言いはる以上、このイディオジソクラシーの出どころを話しておいた方がよいだろう。
 東京の街をほんとうにおもしろくないと思いはじめたのは、わたしが一九七五年にニューヨ
ークヘ行ってからで、その後マンハッタンで三年あまり暮らすうちに、わたしはすっかり”ニ
ューヨーク・パラノイア症〃にかかってしまった。その間の経緯については、『ニューヨーク
街路劇場』でくわしく書いたのでくりかえさないが、ニューヨーク(といっても、厳密にはマ
ンハッタンのダウンタウン地区)がなぜこのイディオジソクラシーを凝り固めたのかを別の角
度から考えてみると、その一つは、昼すぎから一日がはじまるわたしにとって、ニューヨーク
は東京よりもはるかに午後から深夜(そして朝方)にかけての時間に厚みがあり、それがわた
しの”体内時計〃とひじょうにうまくかみあったということではないかと思う。
 だいたい、ニューヨークという都市は、おそらく世界のいかなる都市よりも文化の多様性を
許容する度合が強く、どんな文化に属する者にも二応の自由を与えるようなマイナー志向の街
なのだが、東京にはまだマイノリティとしてのティト・ピープルがディ・ピープルと遜色なく
ふるまえる地盤はできていない。
 東京では、芝唐、コンサート、映画の試写、講演といった諸パフォーマンスは、たいてい夕
方の六時ごろはじまる。そのため、普通のサラリーマンが五時に仕事を終えて会場に行こうと
したら、ゆっくりと夕食をすませるひまは全然ない。わたしのような自由業の人問なら、少し
早めに夕食をとることも可能なわけだが、こちらの生活時間を大幅に変更しなければ芝居ひと
つ見れないというのは、ひどく貧しい感じがする。
 そのうえ、東京ではほんの宵の口にはじまった芝居や映画が終わって、街に出ると、商店の
大半はすでに閉まっており、たとえば、芝店をみていてふと思いうかんだ作家の本が読みたく
なって本屋へ行こうとしても、そんな本をおいてある店はとうに閉まっており、あいている
”本屋〃は、店がまえだげは最近ますます”優雅〃になってきたポルノ書店だけである。その
ポルノ書店にしたところで、その店の内部はみなどれも似たりよったりで、ニューヨークのポ
ルノ書店のように、店の奥にドアがあり、そのまた奥に秘密のドアが続いているといったある
種街路的なおもしろさや意外性には欠けるのである。
 そこで、行きっくところは、お定まりの地区の飲食街であり、街路の遊歩は放棄されて狭く
るしい飲み屋や喫茶店のなかへ-従って街路とは異質の室内空間のなかへ一吸いこまれて
ゆくことになる。
 おそらく、日本の飲み屋文化や喫茶店文化は、日本の都市文化のなかでは一番おもしろいと
いえるのだろうが、こうした室内文化は、街路文化のうめあわせとして活気づいているのであ
る。しかし、その飲み屋や喫茶店にしてからが、上から定められた閉店時間に拘束されて、そ
れらの文化を存分に狂い咲かせることができないでいる。
 遊ぶということは、時間を厳守することとは全く正反対のことだから、遊びながら時間を気
にしなけれぼならないというのは、ひどい拘束である。しかし、公共交通が終夜営業ではない
都市では、その遊びも、一定時間にこなすべき”仕事〃にならざるをえない。その点ニューヨ
ークでは、地下鉄もバスも、二四時間動いているので、郊外に住んでいて朝帰りしたくない者
でも、時間を拘束されずに遊ぶことができる。
 ただし、ここで重要なのは、ニューヨークの公共交通が便利だということではなく、むしろ、
公共機関が個々人の生活時間をおびやかしたり拘束したりしないという点である。実際上は、
ニューヨークの深夜の地下鉄やバスは本数も少ないので、深夜の帰宅にはタクシーや白家用車
を利用する者の方が多く、真夜中の地下鉄やバスにはあまり人がのっていない。
 しかし、それにもかかわらず、公共の”足”がいかなるときにも一応は確保されているとい
うことは、市民の自由を守るために公共機関が払うべき最低限の代償であり、市の政府は、市
民に対してそうしたサービスを行なう義務があるのである。
 この辺の問題になると、日本の現状は、もう悲惨というほかはない。いま、東京の街なかの
建物の内部でくりひろげられていることは、以前よりはるかに”おもしろく〃なっているのか
もしれないが、どうもそれはごく一部の人たちにとっての”おもしろさ〃にかぎられているよ
うな気がする。夜中の二時か三時すぎに、新宿あたりの深夜営業の喫茶店に行ってみると、終
電にのりおくれた人たちが、一杯一五〇〇円なにがしかのコーヒー代を払って、思い思いの一
とはいえ、みなきゅうくつそうな-かっこうをして仮睡しているが、せっかくのナイトニフ
ィフをこんな風にすごしてしまう人は意外に多いのではないか。
 ある都市がおもしろいと言えるためには、その街路がおもしろくなくてはならない。建物の
内部がおもしろさの基準になるのは、むしろ郊外の場合だ。アメリカでもマンハッタンのよう
な大都市をはなれると、とたんに街路がっまらなくなり、都市生活のおもしろさのウェイトが
室内に移ってゆく。
 たしかに郊外には、人家のまばらな地帯に最上質のレストランや高級な会員制クラブなどが
あり、ときには都心よりもぜいたくではてしない快楽を提供してくれる。
 日本で”モーテル〃と言うと、車でゆくっれこみホテルのイメージが強いようだが、アメリ
カでは郊外のモーテルは、都市のモーテルよりもアコモデーションとしては一段レベルが上で
あり、宿泊費も高いのが普通だ。こうしたモーテルも、郊外の街路のつまらなさのバランスを
とるために、その内部をめっぽう”おもしろく〃することに意を用いるわげだ。
 東京の街路は、近年ますます、遊歩するのには適さない街路になってきた。ひとむかしまえ
には、店の外観をたびたび新装するのは、喫茶店や美容院ぐらいのものだったと記憶するが、
このごろは、店舗はむろんのこと、住宅も、しょっちゅう新装改築しているようにみえる。そ
のため、街の景観は一年もたっとガラリと変わってしまい、そのっどはやりの新建材が街の景
観を決定することになる。
 リドリー・スコットの映画『ブレードランナー』では、未来のアメリカ都市が、現在の東京
に似た一種のキッチ文化郡市になっているのだが、現実にいまアメリカの都市で起こっている
ことは、実は、これとは全く逆のプロセスなのである。少なくともニューヨークでは、歴史的
景観の保存と歴史的建造物の保護がこれまで以上に留意され、そのため街の雰囲気は、むしろ
保守的なほどの落ち着きをとりもどしてきている。
 これは、刺激的なものを期待する観光客にとっては、街が活気を失っているかのように感じ
られるかもしれないが、そこに住みつき、その街路を毎日遊歩する者には、逆に、街路が身体
のエコロジカルな延長としての本来の姿をとりもどしっつあることが実感されるのである。
 その際、このような街路にたちならぶさまざまな建物の内部もまた、単なるショッピングや
レジャーやビジネスのためだけのプラグマティックな空間ではなくて、自由に遊歩できるよう
な一種の”街路〃であり、”広場〃なのである。



 東京のニューヨーク・パラノイア2一九八四年二月
 たった半年たらず日本を離れていただけなのに東京へもどってくると街がまぶしく感じられ
てLかたがないという症状に悩まされていた時期があった。街が浅焼きの白黒写真のように白
っぽく、街行く人々の姿ができたての真新しいアンドロイドのように見えて落ち着かなかった
のである。
 それを最も強く感じ、そのように変わってしまった東京に呪証を一番っのらせていたのは、
一九七七年ごろだった。そのこともあって、七八年に日本を離れたときには、もう二度と帰ら
ないっもりでいたが、結局は二年後に心ならずも東京に舞いもどり、”亡命生活〃を続けるこ
とになった。が、このときタクシーで成田から東京の街に入ってきたとき、街は以前ほど白々
しくはなく、幾分くすんだ色をしているように見えた。このときの感じは、それから何度か海
外から帰ってきたときにも変わらず続いており、最近ではむしろそれが強まっている。
 おそらく、それは、街並や店舗の作り方が以前よりも”成熟〃してきて、ポス上筒度成長期
までにすっかり消去されてしまった都市の記億を人工的にとりもどそうという動きが生じてい
るからだろう。同時に都市自身も”成熟〃し、かってそのうえに無造作に塗り付けられた”白
色〃がいまになって色あせ、くすんできた。それは、都市のエコロジーからすれば、まずいこ
とではない。
 都市にはどのみち”色〃がある。それを誰がどのように”着色〃するかのちがいがあるだげ
だ。マンハッタンはかって、なりふりをかまってはいられない移民者や亡命者がその生活のな
かで”自然着色〃する”色〃をその都市の色としていた。ジェソトリフィケーションが急速に
進み、プロフェッショナル・アッバー・クラスたちの都市になったいま、マンハッタンは、そ
うしたかつての”自然色”を失い、”洗練”された新しい住人たちによる”人工着色”の街に
たりつつある。
 東京は今後どの方向に進むのだろうか? わたしの夢は、東京が移民者や亡命者によって
”自然着色〃されたうさんくさい街になることなのだが、それは一体いつの日のことだろう
か?





遊歩の聖と俗



 路上の役者たち
 マンハッタンの街のうさんくささは、明らかに薄らいできたが、逆に最近の東京は以前より
も幾分うさんくささをとりもどしはじめたような気がする。これはよい徴候だ。他の都市では
どうだろうか?
 都市の歴史は、遊歩名無視の計画による管理化とそうして出来た非人間的な管理装置をうさ
んくさくする民衆化との往復運動であるが、その管理化がピークに達した一九七〇年代の前期
からほぼ十年たったいま、徹底的に管理化された都市11装置東京にも、ややゆるみが出てきた
のかもしれない。その最も端的た徴候は浮浪者やホームレスが活気づいていることだ。この一
ヶ月間、用事で通りかかった街角で、浮浪者文化とで空言うべきものの芽ばえを実感する経験
を幾度もした。
 新宿通りを歩きながら、要通りの角の路上で顔じゅう傷だらけの男が酔いっぶれて寝ている
のをみて、東京もいささかニューヨーク的になってきたと思っていると、随園別館という北京
料理店のまえで、英文の本を二冊ふりかざして何やらわめいている老人に出会った。片目はつ
ぶれたように閉じ、あいている方もまなざしがどこを向いているのか定かでないのだが、どうや
らわたしに向かって声をかげているらしいので立ちどまってみると、彼はアメリカのハイスク
ールの教科書のようなものとすり切れたペソギソのベィパーバックをわたしにっきっげた。こ
ちらはちょっととまどって、「おじさん英語読めるの?」などと問いかける。「英語ぐらい読め
たくてどうするんだい」と言って大きくあごをひいた彼は、一転して、「孫が英語勉強してる
んだ」圭言い、いきなりわたしの手を握って、「聞いてくださいよ、あたしは日露戦争で満州
へ行って、ああ、寒かったよ……ほんとに寒かった…・」とわからぬでもないが正確にはや
はりわからない話をはじめる。
 そのうち、わたしの方は、ちょっとっきあいかねる感じがしてきて、手をはなそうとすると、
片方の手でおがむようなかっこうをして、英文の本を二〇〇円で買ってくれと言う。これには
わたしはひどく感心してしまった。ただねだるよりも、ずいぶんと芸が細かいではないか。
 もう一っ感心したことがその二週問後に高田馬場の駅頭で起こった。新宿で約束があって切
符を買おうと急ぎ足で駅に入り、自動切符販売機の方に進むと、うしろでどたり声が聞こえた。
労務者風の身なりの男がわたしを追いかげてくる。駅の入口で地面に肴をひろげ、酒盛をやっ
ていた一団の一人らしい。この男によると、わたしは「せっかくいい気持で酒を飲んどるわし
らの盃を足蹴にした」という。全然気づかなかったが、入口の近くにもどってみると、牢名主
のようだ態度であぐらをかいている赤ら顔のおっさんのニメートルほど先に、ポケット一ウイ
スキーについているプラスチックのカップがころがっている。どうやら、わたしはそれを蹴と
ぼしてしまったらしい。そこで、それをひろってきてあやまりながら牢名主のまえの新聞紙
(そこに折っめ弁当などがならんでいる)のうえにもどす。
 しかし、牢名主は何やらわめき、先の男は、「気分がこわされてしもたから、千円ぐらい払
ううてもらわんと」あとへはひけないときた。まあ、すっかり感動させられた街路劇に自発的
に千円払うというならぼ納得がいくが、おどかされて強制的に千円払わされるのには断固抵抗
する。そこでこちらは、やや声を荒だてながら、その要求の不当さを論理的に批判し、ヵツプ
がわざと人の歩く場所に置かれていたらしいことを指摘する。が、男は「千円払え」をくりか
えし、「わしらは浮浪者やないんやで。関西では”組〃と呼んどるんじゃ」と言ってすごむ。
そのあげく、「先週も横浜で会社の社長がやられとるんだ」と言い、この場で千円払わないと
わたしは”組〃の者にぶち殺されなければならないことになってきた。こちらもめんどうくさ
くなってきたので、ちょっと声を落して、「おじさん、じゃあ、やる気?」と言ってメガネを
はずした。しかし、一はっぐらいなぐられるかなと思った瞬間、その男は、ニャッと相好をく
ずし、うって変わったやさしい小声で、「あのな、千日言うたけど、一〇〇円か二〇〇円でも
おいてってくれはりまへんか、おねがいします」と言いはじめた。その転調のあざやかさは絶
妙で、この男は支配と被支配のロジックを自在にバフォームできるのかと思った。
 むろん、これは一種のたかりであり、あまり常習化すると浮浪者一掃キャンベーンに口実を
与えかねないが、先のパフォーマンスが即興風だとすると、こちらは仕掛も凝っており、参加
者(客)の反応に応じた筋書きもよく練られている。
 数目まえには新宿で、浮浪者のではないが、別のスタイルのパフォーマンスをみた。夕方の
六時すぎ、ハルクの角をまがると、うすら寒い日だというのに、路上に-上半身裸で裸足の男が
頬をべったり地面にくっっげたかっこうで倒れている。そのまわりにはそんなによごれてもい
ない上着、シャツ、ソックス、口を開いたボストンバッグが散乱している。いっしょにいた友
人と、「あれ、死んじゃっているのかねえ」と言いながら声をかけ、ゆすってみると、男はか
すかに、「うるせえな、ねかしといてくれよ」とつぶやいた。そこで、おせっかいにも、上着
を彼の裸の上半身にかけ、立去ろうとしたら、道路の向かい側の酒屋の立飲み客のなかから、・
やや酩酊した男がこちらにやってきて、「あんたこの男、知ってんの?」と声をかけてきた。
 彼の話では、この路上で郎螂の夢をむさぼっている男は、酒屋でさんざん理屈をならべた末、
「てめえらにゃ、わかりゃしねえんだ!」と捨てぜりふを残こして飛び出してきたらしい。「口
はっかしでね、みてよこの本、インテリなんだよ」、と言いながらこのガイド役の男が路上の
ボストンバッグから本を数冊抜き出したのでみると、それは会社六法とか債券とか銀行業務と
かに関する専門書ばかりだった。この無言劇風パフォーマンスでは、路上の男はひたすら眠り
っづけていたが、まさにそれによって小道具が多くのことを語り、観客にかぎりない想像力を
かきたてた。



 改札の経済人類学
 地下鉄新橋駅で、夜の十時ごろ、やや酩酊ぎみの紳士が切符を見せずに入ろうとしたら、若
い駅員が大声で呼びとめた。が、その紳士は、「うるせえ!」と言って大股でホームの方に歩
きはじめた。すると、駅員は改札を放り出してその紳士のあとを追いはじめた。ここから事態
はいささか、いがらしみきおのマンガ風になり、「切符を見せなさい!」「うるせえな!」とわ
めきあう二人の男によるっかみあいがはじまった。こういうシチュェィションというのはよく
わかる。駅員にとってもこれはもはや職務への忠実さなどの問題ではない。こういうときには
行くところまで行ってしまうものなのだ。しかし、結果は、何とも駅員氏には気の毒なものだ
った。「見せりゃいいんだろう!」と傲然と言い放った紳士が、背広のポヶツトから定期を出
して駅員氏の鼻っ先にっきっげたので、彼は歯がみしながら引き下がらなげればならなかった
からである。
 近年、切符の入挾を省略する駅がふえてきた。全く入挾しない駅はないようだが、昼間の比
較的利用者の少ない時間を無検札にしている駅は多い。入挾だけではなく、下車した客の切符
をいちいちチェックしながら受けとるのをやめて、改札口に箱を置いて勝手に投入れさせてい
る訳もある。
 これらは、労働の合理化によって駅員が少なくなったためであるが、サービス社会化が進み、
サービス労働が高くつく時代になったからでもある。実のところ、入挾や切符のチェックを省
略すればキセルやタダノリの比率もふえてくることはたしかである。しかし、そういう分を計
算に入れても、サービス労働を最小限におさえる方が結果的に有利であるという認識が行きわ
たりっっあるわげである。
 その点、あいかわらずサービス労働を安売りしているのは国鉄で、山手線や京浜東北線では、
ラッシュ時に神技とで空言うべきスピードで切符を切り、二〇円の不足も決して見逃さない恐
るべきマシーンと化した古典的な駅員の姿を見ることができる。もっとも、ラッシュ時には私
鉄でも大同小異で、公共交通セクターでは、全体としてサービス社会化はそれほど過剰には進
んでいない。だから、国鉄だけでなく私鉄の駅でも、思い、職務に忠実な駅員はいるわけで、
乗換駅の改札を(さしせまった用事があって)急ぎ足で通過しようとすると、ちらりと見せた
切符に不審なところがあるとばかりに、ひどくきっい声で呼びとめられたりするのである。も
ともと改札には、交番や空港の通関に1通ずる雰囲気があり、駅員と客との関係は決して対等で
はありえないように思う。
 数年まえに、わたしは改札であることを発見した。それは、駅員が切符を切って渡すとき、
その手をほとんど動かさずに手首を回転させるか、あるいはその手を最小距離しかのぼさない
ということである。はじめ、これは、駅員とこちらのタイミングのちがいかなと思った。こち
らがあわててホー-ムにとびこもうとしているときにこれをやられると、何かいじわるをされて
いるような気がした。昔は、こちらが急いているときには、大急ぎで切符を切ってすぼやく手
渡してくれる駅員氏もいたと思うからである。Lかし、これはいじわるではなく、およそ填末
で非人問的な労働を強制されている人たちが自分をその搾取から守るしたたかな対応なのであ
る。だって、そのっどちがうぺースでとびこんでくる客に合わせて切符を切り、差し出してい
たのでは、とても身がもたないではないか。挾をもった右手はもっぱら握力運動に終始させ、
切符を受けとる際にも決して手をのぼさず親指と人指し指を開いてそこに客の方が切符をもっ
てくるようにさせ、わたすときにも、手首を四五度回転させるだげにとどめること1これが
彼らの狡知なのだ。
 私鉄の駅では、改札の駅員はホーム側を向いてすわっていることが多い。これも、駅業務の
合理化のためで、入ってくる客をチェックするよりも、出てゆく客の切符や定期をチェックす
る方が有利であるという計算からこういうシステムが生まれた。そのため、改札を出る客で混
みあっているときには、駅員は切符の回収に追われて、うしろから入ってくる客が切符を差し
出しているのに気づかないことがある。駅員の側としては、清算事務までやらされ、しかもう
しろ向きにされているのだからこれは無理もない。が、その結果、利用者に新しい対応が出て
くる。つまり、切符は買うげれど、入挾を省略していない場合でも、切符を全く見せずに改札
を通過するというスタイルである。ひと昔まえには、こういうことをすることがむずかしかっ
たという以前に一、挾の入っていない切符を下車駅で差し出すことがトラブルのもとになったこ
とを思うと、これは大きな変化である。
 合理化つまり理性の道具化は、つねに理性の狡知を深化させる。いままで無償で提供されて
いたこと-たとえばサービスーがすべて賃労働になると、人はそういう論理の支配する回
路のなかでは、賃金の支払われないような”不当な〃労働を一切拒否するという姿勢を身につ
ける。タダ働きするくらいなら、何もしないでいようというわげだ。現実に、いまのシステム
のなかには、”正当〃な賃金の支払われている労働などというものはありえないわけだから、
労働者の狡知としては、サービス社会化が進めば進むほど、怠惰文化に加担してゆくことになる。
 怠惰文化は、明らかに日本でも深まりつつある。働きすぎる駅員に出会って異和感をおぼえ
るのもそのためだろう。ただし、過剰さはしぼしぼ泰態を逆転させ、平板な日常を劇の場に転
化してくれる。最近、国鉄市ヶ谷駅の改札で、わたしのまえにいた老人が改札で何か文句を言
われたーようにみえた。その老人もそう思ったらしく、不本意そうな顔で、「え引何で
す?」とききかえした。するとその駅員は、そっぽを向いたままひどくなげやりな口調で、「ズ
ボン、ボタンがあいてんだよ」と言った。



 人気者カラ才ケおじさん
 国電五反田の街頭で、”人気者ヵラオヶおじさん〃というタスキをかけた老人に出会った。
小型のポータブル・カラオケを路上に置いて、マイクを片手に体を少し左右に振りながら歌謡
曲を歌っている。歌の方はあまりいただげなかったが、カラオケの装置を街頭にもち出してし
まったというところがいい。
 感心して立ちどまって見ていると、立ちどまっているのはわたしだげであることに気づいた。
人通りは多いのに、みんな失笑しながら通りすぎるのである。おそらく、この辺ではこの人は
有名なのだろう。もう、みんなあきてしまったのかもしれない。この老人がかげているタスキ
も色あせ、昨日や今日このパフォーマンスをはじめたのではないことが推察できる。通行人の
なかには、「まいっちゃうなあ」と言いながら通りすぎる人もいた。
 何に対して「まいっちゃう」のかはよくわからなかったが、そこには何か見たくないものを
見てしまったという響きがあった。たしかにその老人の姿には、プロの見せ物師の風情はなく、
むしろ、街頭でのパフォーマンスなどには縁のなかった”まともな〃勤め人ないしは家庭人が、
ひょんなことからそのアット・ホームな場を放逐され、見知らぬ人々がこの路上でたまたまみ
せるなさげにすがって生きているような趣がないでもなかった。つまり、安定した職場や家庭
を至上の価値とみなす者の目からすれば、この老人は、自分がいっその境遇に陥るかもしれぬ
負の可能性を体現していたのかもしれない。
 しかし、その老人が”孤独な老人〃だと仮定してみても、そういう人がポータブルのカラオ
ケ装置をかついで街頭に出るというのは、うちのなかでうじうじした気持をいだいて毎日を過
ごすよりは、ずっと人問らしいことではないか。孤独でも、若ければヵラォヶ・バーへ行くと
いう手もあろうし、若くなくても金に余裕があれば、レジャー・マーケットにはいまでは老人
用のレジャーが豊富にストックされている。しかし、現実には、孤独のなかで老化に身をまか
せるしかない老人たちの方がはるかに多数をしめているのである。もし、”人気者カラオケお
じさん〃が、そういう老人の一人だったとしたら、一人で街頭に出たというその姿勢に声援が
送られてしかるべきだと思う。
 ただし、この老人が無視されたのも、わからぬではたい。ニューヨークにもこの種の老人が
たくさんおり、およそ芸にならない芸を街頭で披露している。しかし、彼や彼女らは、必ず足
元に帽子や楽器ケースを置いているので、通りがかりに小銭を入れていく人がいる。彼や彼女
らの芸は、立ちどまって”鑑賞〃するには耐えられないものが多いから、小銭を与えるという
ことがたいと、この種の老人と通行人との接触は、わが”人気者カラオケおじさん〃の場合と
同じように、たち切れてしまうにちがいない。つまり、小銭とその容器とが、両者を結ぶコミ
ュニケーションのメディアになっているのである。
 彼や彼女らの目的は金だげではたいかという人もいるだろう。たしかに、彼や彼女らは、そ
ういうやり方で金をかせいでいるともいえる。しかし、ただ金をめぐんでもらうのなら、芸を
せずに乞食やショッピング・バッグ・レディになる手もある。現にマンハッタンには、通行人
にやたらと手を差し出してくる老人が多い。以前、ヴィレッジで友人の車を下りたとたん、ブ
ニュエルの『ビリデァナ』に登場する乞食の一人に似た老人が、手の平に小銭を三、四枚のせ
て差し出すので、わたしは面くらって、それをわしづかみにしようとした。彼は、その身ぶり
によってわたしがその手のうえに小銭をのせることを示そうとしたことがすぐわかったが、そ
のときの老人のびっくりした顔がいまでも忘れられない。
 人に手を差し出すだけの乞食にくらべれば、何がしかの芸をして金をもらうというのは、資
本主義の論理にみあっていると言えるかもしれない。しかし、コミュニケーションのチャンス
をつかむために”乞食〃をし、コミュニケーシヨソのメディアとして金銭を利用することもあ
るのだし、とくに芸にならない芸をしてささやかな小銭をもらっている街頭の老人たちのなか
には、地面にたらべた容器のなかに通行人が小銭を入れる身ぶりiたいていそのとき通行人
はその老人の目を見てほほえむだろう1やコィソが容器のなかではじげる音に、他者とのコ
ミュニケーションを感じている人だっているはずである。そうだとすれば、ただ手を差し出す
だけのニューヨークの乞食やショッピング・バッグ・レディの身ぶりは、それを単に金銭を獲
得するだけの経済行為とみなすことはできなくなる。人と接触したいために、人に声をかける
チャンスをつくるために、「チェィソジ?」(「小銭を?」)と言うこともあるわけである。
 だから、”人気者カラオケおじさん〃も、足もとに空カゾか箱を置けば、通行人は彼を無視
しなかったかもしれない。とはいえ、彼が無視されたもう一つの理由は、彼の用意した装置に
あったとも考えられる。それは、小型の音響増幅装置であるから、渋谷駅前や銀座数寄屋橋で
車上からガソガソやっている人たちのものとは音量も規模もちがうわけだが、われわれはこう
した電子装置に対して、ボードリヤールが言ったような意味で「永久に応答を禁じる」メディ
アというイメージをいだいている。それは、一方的に向こうから勝手におそいかかってくるも
のであり、こちらとしてはおそわれて立ちすくむか、ふり切って逃げ去るしかないものになって
しまっている。その点で”おじさん〃の装置は、パワーが弱く、逃げ切るのは容易なわけである。
 もっとも、これまで書いたことは、わたしが五分ほど”おじさん〃の芸を傍観しただけで考
えたことだからあてにならない。げっこうこの”おじさん〃は、路上で通行人と”ヵラォヶ・
パーティ〃をやっていることの方が多いのかもしれない。



 増殖するアンドロイド
 ァバートがたちならぶ路地を歩いていて、どこからともなくピッピッという電子音が鳴り続
けているのを聞くことがよくある。それは、明らかに、目覚時計のアラームの信号音で、おそ
らくは、その持主が時間をセットしたまま出かげてLまい、解除ボタンを押されることなく忠
実に義務を果し続けているのであろう。
 これは、はじめ、単なる機械上の問題だと思っていたのだが、幾度もこのような場面に接す
るにつれて、そうは思えなくなってきた。それは、風に吹かれた木が音をたてるのとは全然意
味がちがうのであり、そこにはもっと人問的な深刻な問題が介在しているのである。
 目覚時計のアラームは、誰かがセットしたければ機能しない。ある時間に音を出す時計は、
誰かによってプログラムされたのであり、(たとえ誤った動作をするとか、普通の目覚時計の
アラームは十二時間単位で作動するから、必ずしもプログラムした人の意志通りには動かない
とかいうことを考慮しても)誰かの意志を代表しているのである。言いかえれば、その時計は、
単なる機械ではなく、誰か具体的な人問の頭脳の一都の代わりをしているのであり、大げさに
言えば、そこではその人の頭脳が溶け出し、生き続けているわげである。
 未来小説がアンドロイド(人造人間)を描くときには、それは、場合によって頭が極度に大き
かったり、足がタコのように長かったりすることはあるとしても、概ね、人問と同じような形
をした一つの統一体として姿を現わす。しかし、アンドロイドは、必ずしもそのような一個の
統一体として姿を現わすとはかぎらない。むしろ、人問のさまざまな機能を分化させた形でア
ンドロイド社会が成立することだってあるわけだし、現に、そういう傾向は、われわれの身近
でどんどん進行しているように思われる。
 主人のいないアパートの一室で電子音を発し続ける目覚時計は、いわば従順な奴隷的アンド
ロイドであり、留守番電話もヴィデオ・コーダーのタイマーも冷蔵庫の温度調節装置も、やは
り奴隷的アンドロイドである。しかし、人問の思い通りに働かないアンドロイドもいるのであ
って、それは、たとえば銀行のコンピューター化された自動現金支払装置における口座である。
これは、表面的に見ると、銀行のコンピューターを預金者が利用しているだげのことのように
みえるが、実は、預金者が預金をして暗証番号をもらったとき、その人は自分の頭脳の一部を
コンピューターにゆだねたのである。この場合、口座が一つのアンドロイドになり、預金者の
ために銀行とのあいだで”忠実〃に働き続けるわけだが、目覚時計や留守番電話ほどその主人
に隷属することはない。それは、銀行というもう一人の主人をもっており、そちらのためにも
忠実に働いているからである。日本の場合、このアンドロイドは、夜中や休日には決して働か
ないから、預金者は、自分のアンドロイドに対してっねに主人づらをするわげにはいかないの
である。
 こう考えてくると、都市にはアンドロイドがうようよしている。人問と区別のつかないアン
ドロイドが無数にいる世界は、まだまだSFの世界の出来事だと思っているうちに、別の形で
世界がアンドロイドだらけになっていくかのようだ。あなたが新宿を歩いているとき、東京駅
のコィソ・ロッカーが、あなたのアンドロイドとして荷物番をしているかもしれないし、あな
たが家にいなくても外灯をつける光電スイッチは、完全にあなたのアンドロイドなのである。
行きつけの飲み屋にキープされているあなたのボトルだって、やはりあなたのアンドロイドな
のだ。
 いまのところ、こうしたアンドロイドは、自分の意志をもっておらず、いつも誰かに隷属し
ており、あなたの意のままにならないときは、誰か別の人の意のままになっている。それは、
いわばゾンビであり、はじめにセットされた同じ動きしかしない。しかし、それは、たまたま
道端にころがっているハンマーなどとはちがって、一定期問は確実に誰かの頭脳を代理する。
しかも、それらは、人問に対して従属以外の反応のしかたを知らないのだから、それらの”主
人〃でない者にとっては、薄気味わるい存在でしかない。名札がつけられたり、ラベルにサィ
ソされたりして飲み屋のタナにたらんでいるボトルが、みな誰かの脳髄だと思ってみると、ち
ょっと飲み屋に行けたくなることうけあいである。
 しかし、アンドロイドが全然いない社会というのは、明目のない、あるいは明日のわからな
い社会である。というのも、こうしたアンドロイドは、何らかの意味で明目や未来を先取りし、
プログラムするところから生まれるからである。だから、体外受精で生まれた子供は、そうで
ない子供よりはアンドロイド的であるということになる。ただし、リチャード・ドーキンスも
言っているように、生物の遺伝子というものは「わがまま」なものであり、その複合のしかた
はつねにバップニソグを伴っており、人問がどんなに厳密なプログラミングを行なったところ
で、そうした先取りをはずしてしまう。
 別に、遺伝子のこうした「わがままさ」に忠実にというわげではないのだが、街を歩いてい
て”おもしろい〃と思うのは、アンドロイドと出会うときではない。おそらく、あちこちにア
ンドロイドをばらまき、従えるということが行くところまで行ったとき、人問白身のアンドロ
イド化が完成するのではなかろうか? アンドロイドが一体できるたびに、あたたの脳髄は、
あなたの外に流れ出しているからである。



 ETの里
 京都郊外の加茂大橋に近い出町柳駅から京福電車叡山線に乗ったのは、ほんの気まぐれだっ
た。久しく行っていないこの沿線地域の変わり様を見てみたかったのと、新鮮な空気を吸いた
い気分になったためだろう。電車が鞍馬山麓に向かって進むにつれて、あたりには人家が少な
くなり、エコロジカルな世界に入ってゆくのを感じた。
 しかし、わたしには、この電車は何か日本の伝統的な世界に向かって進んでゆくようには全
然思えなかった。むしろ、それは、ニューヨークやバークレイやロンドンの郊外へ向かって進
んでいるようにみえた。終点の鞍馬駅には、駅長の奥さんらしい人が改札をしていたが、そっ
くり同じ光景をメルボルンの郊外駅で見たような気がした。
 一体白分はどこにいるのだろうと思いながら、駅前のみやげ屋のあいだをぬげて鞍馬寺の石
段を登り、順路に従って進んでゆくと、この「霊地」の由来を記した立札が目にとまった。そ
れによると、この山は、いまから六百五十万年前に「護法魔王尊(サナート・クラマ)」が金星よ
り「焔の君」たちを従え、「天草」に乗って降り立った所だという。
 立札のある広場には、この「天草」を模した「白砂盛」があるというので、ふり返ると、す
ぐ近くにそれがあった。が、石庭にあるような白砂を盛ったそれを見たとき、わたしは「あ
っ!」と声をあげそうになった。その「白砂盛」は、底面の直径が一メートルほどの円錐台だ
が、その形は、宇宙船の円盤にそっくりだったのである。説明によると、この「白砂盛」は、
日本庭園の原形をなすといい、そうだとすると、日本庭園にはETの円盤の記憶がひきつがれ
ていることになる、これはスゴイことではないか、と私は思った。
 こう思いはじめると、あたりが急に、佗びやさびの抹香臭い雰囲気から、『未知との遭遇』
に出てくる宇宙船着陸基地のテクノロジカルな雰囲気に変わってくるように見えた。「天草」
が着陸したという「奥の院魔王殿」までは、駅から測ってニキ口近くもあり、山道と石段を登
り続けなげれぱならないのだが、わたしは疲れを忘れて歩き続けた。
 奥の院の「木の根参道」に、また気になる立札があった。そこは、樹木がうっそうと茂る林
で、地面には木の根がアラベスク模様を描いて複雑に露出し、足をとられそうだ。立札による
と、ここは「極相称」と言い、何かの春情で樹木が完全に失われた土地に、まず光を好む草が
はえ、それから松、構などの陽樹、その日陰に一樫などの陰樹が生育し、やがてこの陰樹が陽樹
を圧倒して、最後に陰樹だけの林となって安定したものがこの名で呼ばれるのだという。
 では、なぜこの場所の樹木が一且完全に消滅したのだろう?「天草」が着陸の際にそのエソ
ジソの熱で地を焼きっくしたからではないか? やはり、ここに円盤が降りたのだ。
 鞍馬山には立木に対する信仰が盛んで、この山の開祖である蹴棚上人も騨蛾上人も・また牛
若丸源義経も、みなここの大杉の大木を通じて「霊験」をさずかったという。木の根参道の手
前にあった「霊宝殿」には、一九四九年の台風で折れてしまった古木「魔王尊影向の杉」の一
部が展示されていたが、それに巻いてある標縄を見ているうちに、「神木」というのは宇宙か
らの電子情報をキャッチするアンテナであり、標縄はそのマッチング・コイルをそれぞれ象徴
しているのではないかという思いを押さえることができなくなった。修行とは、杉=アンテナ、
標縄=整合コイル、身体=送受信器とのあいだをリンクさせるといった発想と関連をもってい
るのではないか? とすれば、「霊地」を神聖視する必要は毛頭なくたる。たかが、宇宙セン
ターではないか。
 奥の院には、粗末な建物があり、なかでは線香をたいて祈りをささげている人たちが何人も
いたが、ここは「天草」が着陸しだということを記念するために後になって作られたものであ
って、建物自体は大して重要ではないように思われた。そこで、わたしは鞍馬山を下ることに
したのだが、山を下りきったところにある貴船寺社が妙に気になって、疲れた足をひきずって
その「奥宮」に行ったとき、わたしはまたしても、鞍馬がETの里であった証拠を発見して驚
いた。
 それは、貴船神社の奥宮の庭にある苔むした全長八メートル程の石の造形物で、解説による
と、この「船形石」は、その昔、皇母玉依姫が浪花から鴨川、貴船川をさかのぼってこの地に
至ったときに乗った船を模しているという。しかし、彼女もETだったかどうかは別として、
どんなにパワーのある船でも、川をさかのぼるよりも下る方が楽である。むしろ、これは、鞍
馬山に降り立った円盤に装備されていた地上用の移動車を模したものではたいだろうか? 鞍
馬山の頂上の奥の院魔王殿から貴船の奥宮に移動車で下って、そこから貴船川にそって行けば
京都市内にたどりつく。というよりも、貴船川は、この移動車の通った跡がやがて水路になっ
たものかもしれない…・。
 京都から帰ってきて、この話を何人かの友人に吹きこんだが、いまのところ誰も関心を示さ
ない。ひょっとしてこの話は、半村長氏あたりによってすでに小説化されているのだろうか?
先目、ある人にこの話をきかせた。何度もやりたれて、相手が口をはさむ問を与えずにしゃべ
り続けるわたしの話を聞き終えたとき、そのわが親愛なる友人は、演技とも地とも受け取れる
表情でひとことこう言った。
「病院へ行こうか?」



 国分寺のニュー・メディア
 小雪がぱらっく王寺から奈良へ向かう。関西本線の車窓から斑鳩の里の重塔が見えた。それ
は、たぶん法輪寺の三重の塔である。このあたりの景色は、写真や映画でもよく目にする。二
十数年ぶりに奈良を訪れたので、なっかしい気がしないでもなかった。
 が、その三重の塔の屋根に垂直にそびえ立っ相輪を見たとき、なぜかわたしは、いにしえの
都や仏教のことではなく、ニュー・メディアのことを考えた。気まぐれと言えば気まぐれであ
る。しかし、その相輪は、まさしく縦に取り付けたUHFアンテナにそっくりであり、遠景の
なかに浮かび上がる塔の姿は、仏閣というよりも、エレクトロニクスの機器を装備したメディ
ア・センターを思わせた。『ヴァリス』を書いたSF作家フィリップ・Kニァィヅクが生きて
いてこの話を聞いたら、重塔が古代における極超短波の送信所か受信所ではないかと本気で疑
いはじめたかもしれない。
 そもそも塔という建築形態には、天空に限りなく近づこうとする願望がシソボライズされて
いると言えるから、塔のてっぺんにそびえる相輪が、宇宙の電波を受信(あるいは宇宙へ向か
って信号を送る)装置をなぞらえていると考えることもできなくはない。しかし、奈良てわた
しが考えたのは、六世紀以降日本に伝わった仏教が次第に広まっていったとき、それとともに
全国に続々と建てられていった仏教建築は、当時の支配層にとって、まさに今日のニュー.メ
ディアのようなものだったのではないかということである。
 周知のように、ニュー・メディア熱は、目下、加熱の一途をたどっている。日本電信電話公
社が一九八二年度から建設を進めている日本列島縦貫のINS(高度情報通信システム)は、一部
でそのモデル・システムの運用を開始する。CATVのネットワークも各地で形成されつつあ
る。一月二十三日には、実用放送衛星「ゆり2号a」が打ち上げられ、衛星放送も始まろうと
している。一九八五年をめどに、日本ではニュー・メディアの施設だけは確実に本格化する。
いまやニュー・メディアの諸施設の建設は、八世紀に聖武天皇の命によって推進された国分寺
建設の国家事業の規模をはるかに上まわり、政府や企業がそこに託する期待も、当時の支配層
が仏教に託したものと優るとも劣らないように見える。
 しかし、宗教施設の建造と宗教や宗教的信仰の浸透とは必ずしも一致しない。寺にとって宗
教の教えや信仰は、さしずめニュー・メディアにおける”ソフト”であるが、日本には古来か
ら施設や装置のような”ハード”を完備させれば、 ”ソフト”の方は何とかなるという発想が
あり、それは、ニュー・メディアのプロジェクトにおいて最も露骨に現われているように見え
る。現在のニュー・メディア熱は、もっぱらその”ハード〃面の拡充にそそがれており、そこ
に注入される”ソフト〃に対する展望は一たとえば、アメリカのCATV局と提携するとい
ったことぐらいしか一ほとんどないように見える。
 日本のニュー.メディア政策で見逃されているのは、アメリカの場合、ニュー・メディアの
”ハード”面の発展が、都市の文化政策や地域文化の活性化とともに進められてきた点だろう。
それは全面的に成功しているとは言えないにしても、日本ほどの”ハード〃偏重は見られない。
 奈良から帰ってから、ヘッドホン・ステレオを付けて歩いている人を街頭で党かけると、そ
の姿がわたしには電子機器を装備した”お遍路”を思わせてしまうのだが、それは”ハード”
信仰こそが日本の伝統的な”宗教〃であり、今日のいわば”電子宗教〃とで空言うべきものに
おいてそれが極に達したと思えてならないからである。『メディアの積木箱』を書いたエンツ
ェンスベルガーは、日本ではどこへ行ってもスピーカーの音楽が聞こえると不思議がったそう
だが、これも”電子宗教〃の一形態だろう。この都市で電子音から逃れることは非常にむずか
しい。無音や生の音よりも、電子音に身をさらすことの方が、敬塵な宗教的身ぶりででもある
かのような傾向が、近年とみに強まっている。こうなると、都市歩きは、あてのない自由な遊
歩ではなく、一種の”巡礼〃や”参拝〃になってしまう。
 これは、哲学という不信心た世俗世界に依然執着しているわたしとしては大変困ったことな
のだが、逆に宗教心の深い人にとっては好ましいことかもしれない。信仰の内実はともあれ、
状況は非常に”宗教〃的になっているからである。すでに一九六〇年代頃からアメリカでは新
しいタイプの宗教やオカルト主義が流行し、いまではそれが新聞の広告欄をにぎわすほど定着
しているが、日本でも似たような方向へ向かう気配がある。宗教や神秘思想の本のコーナーを
作っている書店もあるくらい、”霊性〃や”超心理〃や”念力〃などに関する本が増えている。
既存の宗教とは異なる宗教ないしは秘術を伝授する場所や集団も増加している。
 こうした動きが、ニュー・メディアやそれにうまく適合していない都市環境に対する反動と
して生まれて来たものなのか、それとも、これも所詮は”電子宗教〃の一種にすぎないのかは、
いまのところ断定できないが、それが、単にスウィヅチを切ったぐらいで止まってしまうほど
底の浅いものではなさそうなだげに、不気味な感じをおぼえもするのである。



 ”魂〃のショッピング・モール
 到着したのは夜遅くなってからだった。その村は深い雪に埋もれていた。と書くとカフカの
『城』の書出しのようだが、高野山駅でケーブルカ-を下りて外に出たとき、雪はますます降
り積り、ひと気のない駅前に白い湯気をはきながら停車しているバスに乗り込むしかなかった。
乗客は数人で、みな土地の者らしい。しばらくして走り出したバスは暗い雪道をうねうねと登
っていった。このバスがどのような所にたどり着くのかも、そこに泊まる場所があるのかも、
皆目わからない。
 高野山まで来てしまったのは全くの偶然だった。大阪で”ミニFM〃の集まりがあったあと、
かっての”自由都市〃堺にその痕跡でも見つげられればと思い難波から南海電鉄で堺市に足を
のばし、古めかしい建物がありそうな所をうろっいた。が、そこで発見できたのは、くずれか
げた土蔵や木造家屋であって、かっての街路文化の痕跡を想像させるものは、ほとんどなかっ
た。それはそうだろう。ここは日本であり、高度経済成長の娼をあびた都市だ。
 難波にひきかえしたら、隣のホームに高野山行きの電車が見えた。が、わたしはまだ都市の
ぶらぶら歩きに飢えていて、大阪の街にもどろうかと、しばらくホームのうえで達巡していた。
それから、わたしのなかでどのような決断がたされたかはよくおぼえていない。少し歩き疲れ
て、座席に腰を下ろしたかっただげかもしれない。高野山行きとは言っても、乗客はみな郊外
生活者風で、宗教のにおいが全然しなかったので、気軽に乗ってしまったのかもしれない。
 高野山行きと言っても、その電車の沿線には団地や住宅が多く、少なくともこのときの電車
にとって”霊峰高野山〃は付けたりであることを知ったのは、一時間ほどたってからだった。
大半の乗客が下りてしまった車輌には、寺詣をするらしい人が二人ほどいる。隣の車輌には坊
さんが一人。電車は、暗い山のなかを走っている。これは”霊界〃へたどりつくのだろうかと
思って期待していたら、電車はいやに近代的なケーブルカーの駅に着き、駅員にせかされて冷
えきったケーブルカーのなかに入った。
 バスのなかで壁の地図を見ると、このバスは一ノ橋という所に着くことになっている。その
途中には金剛峰寺をはじめとする寺がびっしりあるはずだが、窓のくもりを取って外に目をこ
らしても、あたりは夜の闇と雪に沈んでいる。もう少し行けば明るい通りに出るだろうと思っ
ているうちにバスは終点に着いてしまった。明かりのついている店は何軒かあるが、大半の店
はもう閉まっている。そこで、降りぎわにバスの運転士に宿のありかをたずねた。すると彼は、
「いっぱいあるげれどね、そこできいてみたらどうどす」と答え、バス停のすぐ先の寺を指差
した。
 その門には清浄心院という文字が見え、木戸からなかに入ると、ひと気のない大きな建物が
奥にのびていた。ここでわたしは一夜の宿にありっき、膳にパヅヶ-ジされた精進料理をたべ、
電気炬燵と石油ストーブの入った民宿風の部屋にくつろぐことになったのだが、東京に帰って
からこの旅のことを大島沖さんと話していたら、彼が「藤原新也の『全東洋街道』は高野山で
終っているよね」と言い、わたしは以前にこの本を書評したことを思い出した。そして、家に
帰ってからその本を開いてみて、わたしは少しあわてた。というのは、彼はこのなかで高野山
ではこの清浄心院に泊ったと書いていたからである。
 しかし、二年まえ、オーストラリア旅行の直前に読んだこの『全東洋街道』のことをわたし
がすっかり忘れていたのは、都市に対する彼のもの言いに全然なじめぬものを感じ、ほとんど
深い印象をおぼえなかったからだろう。わたしは、その書評のなかで、この本に「いたるとこ
ろにある種”完全犯罪”の雰囲気がただよっている」と書いたと思う。「四〇〇目問漂泊した」
記録がこの本だというのは宣伝文句にすぎないにしても、この人には都市がどうしてあのよう
にもったいぶったものに見える(と書ける)のかが納得できず、「よせやい」という気持の方
が先にたってしまったのである。
 翌朝、このあいだの鞍馬山のような体験をふたたびできるかもしれないというかすかな期待
をいだいて奥の院に行ってみた。鞍馬は、わたしにとっては、ETの夢をふくらませてくれる
”ディズニーランド〃としておもしろかったのだが、この奥の院について藤原はこう書いてい
る。
「高野山盆地の東の端には弘法大師の骨を納めている廟、つまり奥の院というところがあって、
それに至るニキロの道すじとその周辺は人家もない墓ばかりの世界である。千年来の墓地だ。
土の中に埋もれたものや朽ちた無縁仏も加えれば、その墓地に眠る墓は三十万体を越すと言わ
れる。……これはれっきとした都市であると言える。/この世に在る黄泉の国の都市である。」
 じょうだん言っちゃいげない、とわたしは思う。なるほどここは來だらげである。しかし、
その道を歩きながら墓碑銘に注意すると、曾我兄弟、伊達政宗、明智光秀、織田信長、筒井順
慶、陸奥宗光-…・と歴史のブランドがずらりとならんでおり、ここは、銀座やフィフス・アヴ
ェニューのようにブランド志向で人を集める生まぐさい街路-1”魂〃のショッピング・アー
ケイドとして作られていることがわかる。たしかに、ここでは普通の都市では買えないものを
買うことができる。とりわけ、今日のように、世界中の品物が都市のウィンドウにならんでい
るかのような時代には、そこでは入手できない”霊〃や”魂〃の商品を陳列している所の方が
貴重なものになる。
 しかし、藤原新也のもの言いには、そうした商品の一定の買い方を強制するところがある。
彼は、『東京漂流』で都市の遊歩を気まじめな参詣や巡礼に同化させてしまったが、遊歩者に
とっては、”ウィンドショッピング〃にすぎない(それだからこそおもしろい)参詣や巡礼を、
またしてもクソマジメに目的意識化しようとするのである。





都市諭の系譜
 日本で”都市論〃的な意識がたかまるのは、わたしの記憶では、アンリ・ルフェーブルの
『都市への権利』(森本和夫訳、筑摩書房)が訳出された一九六九年以後のことである。むろんそ
れ以前にも都市についての研究はあったし、都市を論じながら他の問題領域にも介入する都市
学者はいなかったわげではない。しかし、都市学者ルイス・マンフオードが文明について語る
というのではなく、まさに哲学者1つまり非都市学者1であるルフェーブルが都市につい
て語るというように、都市を専門領域にしていない学者たちが都市について語りはじめるのは、
日本では一九六〇年代末以後のことだったと思う。
 ルフェーブルの都市論は、一九七四年に邦訳の出た『都市革命』(今井成美訳、品文杜)も含め
て、六八年のバリ五月革命に触発されて書かれたものであるが、当時日本でも都市への一般的
な意識は変わりつつあった。すでに六四年のオリンピック東京大会以来、日本の都市は高層ビ
ルや高速道路の建設によって急速な変貌をとげはじめ、一方で核家族を中心とするマイ・ホー
ム的な都市生活への再編成が進むとともに、他方では都市が、はじめはジャズ喫茶やアングラ
劇場において、やがてはまだ敷石のはりっめられていた街路において、体制と権カベの異議申
し立ての闘争場になりはじめていた。一九六八年に相倉久人が訳した、『都市の黒人ブルース』
(音楽之友社)も、そこでは、みゆき族ーフーテン族ーフォーク・ゲリラという都市の遊牧民
の戦闘化という流れのなかで読むことができた。
 しかし、そうした都市の動きに対応する都市論は、ワルター・ベンヤミンの『路地論』の一
部分(川村二郎他訳『ボードレール』、品文杜)が一九七〇年に、ルイス・ワースの『ザ・ゲット
ー』(今野敏彦訳『ユダヤ人と疎外社会』、新京杜)が一九七一年に訳出されるといった形での、翻
訳を通じての間接的な形で現われただげで、ホームメイドではわずかに、ルフェーブルの都市
論の影響を受けた津村喬らが一九七二年に『TAU』(商店建築杜発行)という「現象としての
建築雑誌」を出した程度だったと記憶する。都市を問題にすることにおいて活気づいたのは、
都市の現状を批判する側ではなく、むしろそれを肯定し、エンジョイしようとする側であり、
一九七〇年には、のちに続々と現われるタウソ誌のはしりと空言うべき『東京25時』(アグレマ
ン杜発行)が創刊されている。ただし、この雑誌には、「ブレィガイド」のかたわらに平岡正明
の「東京をぶっこわせ」(創刊記念号)や足立正生の浅川マキ論がのっていたりし、七二年創刊
の『シティロード』や『ぴあ』にくらべると、都市の〃うさんくささ”を保っていた。
 一般的に、ホームメイドの都市論が活況を呈するのは、七三年のオイルショック以後であり、
都市自身が”うさんくささ〃を失ってからである。東京では、六九年の東大安旧講堂の闘争を
最後に、都市の遊牧民に対する徹底した管理が機能しはじめ、東京は、もはやその生活者や遊
牧民自身の意志によっては変えることのできそうにない都市H権力に硬直しつつあった。その
意味で、七三年のトイレットペーパー買いだめさわぎと七四年の三菱重工ビル爆破事件は、これ
らを都市の身体的無意識という観点からみるとき、ひじょうに暗示的である。というのも、前
者は、この都市がもはや消費に奔走するしかない装置にたってしまったことへのあせりを、後
者は、この都市が爆弾による破壊によって瓦礫と化す以外に変わりようのないものに物象化し
てしまったことへの批判を含んでいたからである。
 その後の日本の都市の歴史は、たとえばアメリカ合衆国が二〇年がけて行なった大最消費社
会化と脱工業化の道をその数分の一の期問で踏破することであり、都市そのものを、その表層
によってのみ意味づけられるもの-つまりは記号体系1にしてしまうことだった。渋谷の
公園通りは、まさにこうした記号学的都市のはしりであったが、こうした変化は都市論とくに
記号学的都市論を活気づけた。多くの記号学的都市論のうち比較的早いものでは竹山実『街路
の意味』(鹿島出版会、一九七七年)があり、記号学がたちまちポピュラーになるなかで、都市に
より精激な記号学的アプローチをほどこした典型的な例としては、門内輝行の一連の仕事(た
とえば「建築における記号現象-日本の伝統的家並みの記号論的分析」、『記号学研究1』、北斗出版)
をあげることができる。
 ところで、日本の都市に最も早く記号学的アプローチを試みたのはロラン・バルトである。
彼は、 一九七〇年に出た『記号の帝国』(宗左近訳『表徴の帝国』、新潮杜)のなかで日本の都市
のみならず日本のあらゆる文化現象が「純粋に記号だけから出来ている」と言い、欧米文化と
の根本的な相異を強調する。しかし、本書をよく読むならばバルトの記号学的都市論と、七〇
年代後半以後日本で雨後の筍のごとく現われた記号学的都市論とは基本的なところでくいちが
っており、これは、バルトの記号学を一つの文化理論として一般化しようとする記号学者が見
落しがちな点である。彼は、本書で「都市についてのある運動感覚(ツネステジァ)」を語っ
ており、東京という都市はこれをそこなわないと言っている。つまり、彼は、都市の遊歩者
-現にその都市を記号学的に分析している当事者一を不問に付した形でなされる通常の記
号学的都市論とは異なり、遊歩者そのものの身体を記号のゼロ点とし、その身ぶりを含む都市
現象を「記号体系」とみなすのである。
 それゆえ、バルトにとって東京という都市は、その遊歩者の身体によって「書きこむこと(ニ
タリチュール)の快楽」を与えてくれるわげだが、もし彼が「新品文化」(藤田省三『精神史的考
察』、平凡杜)のはびこった今日の東京をみた場合、依然として彼が『記号の帝国』の主張を維
持しっづげるかどうかは疑問である。バルトが、フランス政府の派遺文化使節として日本に来
たのは一九六六年で、当時はまだ東京にも一いまにくらべれば一都市の”うさんくささ〃
が残っており、遊歩の「快楽」はいまほど失われてはいなかった。東京は、もはや「俳個」
(窟田均)することも「漂流」(藤原新也)することもできないのであって、ただ「通行」(公安条
例)することしかできないのである。これがエコロジー的にいかにゆゆしきことであるかは、
身体自身がすでに都市であるという点からも基礎づけることができる。中沢新一は、「マンダ
ラあるいはスピノザ的都市」(『チベットのモーツァルト』、せりか書房)という一文のなかで、チ
ベットの密教理論が「身体のなかに都市が出現した」と記していると言い、身体自身の原初的
な都市性を示唆している。このようた存在論的な都市論に立脚するならば、あるのは都市だけ
であり、 「農村」や「田舎」と区別された意味での「都市」は、こうした原初的な都市性がご
く見えやすい形であらわれている場にすぎないということになる。実際、都市、都市と都市の
ことがとりたてて問題にされる時代というのは、狭義の「都市」が活気づいているよりも、む
しろ原初的な都市性が危機に陥っている時代であると言ってよい。
 おそらく、栗本慎一郎が、最近出た『都市は、発狂する』(光文杜)のなかで、 「都市こそが、
人間にとっての『自然』である」と強調しなければならなかったのも、このような危機感に根
ざしているのであろう。しかし、「都市を”明るい農村〃にしようとする運動」が進行しつつ
あることに強く反発する著者が、単に狭義の「都市」を援護し、保守することでこの動向を批
判できると考えているのは単純すぎる。もし、現在の日本で都市が”明るい農村〃になる動き
があるとすれば、同様に農村が”明るい都市〃になる動きもあるのであって、すべての危機は、
粟本が墨守しようとする農村11「生産および日常の秩序」、都市11「消費、蕩尽および非日常」、
そして「都市の光と闇」といった古典的た構図がもはや成立しなくなっているところから生じ
ているのである。
 産業構造が変化し、生産や消費は、農産物や物品よりもむしろ情報をめぐって行なわれると
いう傾向が強くなる状況のなかでは、従来のように生産の場と消費の場とを明確に区別するこ
とはできなくなるし、それは、情報が電子化されたものになるとき、ますます不可能になる。
まさにNHKの連続ドラマのように、マス・メディアで生産される情報が、 「都市」で生産さ
れ、「農村」で、「都市」においてよりもより盛大に消費されるということがありえるのであり、
ある意味ではマス・メディアこそが都市性を危機に陥れているのである。
 考えてみると、記号学的都市論は、「都市」に身体的な都市性の痕跡(”うさんくささ”)を
残す余地がなくなり、電飾看板やこげおどしの外装によってしか「都市性」を保つことができ
なくなるほど「都市」が表層化することによって活気づいた。しかし、今日の日本の都市は、
この表層化をもっとおしすすめ、もはや「都市」と「農村」との差異も、電子的な操作でどう
にでもなるほど均等化している。ここでは、記号学的都市論は、この限りなく均質化された表
層に”色〃をつけるために役立てられ、単に都市を解読する技術としてよりも、都市のデザィ
ソや設計のための実用学としてますます制度化されるようになる。
 それゆえ、問題は、栗本慎一郎の言う”経済人類学”的都市論のように、失われた伝統的秩
序をやみくもに回復しようとすることでも、記号学的な都市論のように、この失われた秩序の
うえに無批判に人口的秩序を構築することでもない。情報環境論的ないしはメディア論的な都
市論こそ必要なのであり、さもなければ、いまや個々人の身体的無意識(エコシステム)のレ
ベルに追放されてしまった都市性は、 「発狂」せざるをえなくなるだろう。





都市のフリー・ミュージック
 六〇年代のはじめからその終わりごろまで、わたしはジャズによって考え、ジャズによって
あやっられて街を歩いていた。どの街に行くときも、手がかりとなるのはジャズ喫茶の所在で
あり、輸入ジャズ・レコードの店だった。ジャズ喫茶のない街には行く気がしなかった。相倉
久人が司会をしていた新世紀音楽研究所主催の銀バリ・フライデー・ジャズ・コーナーには毎
週通いつめた。そこでは、まだ山下洋輔がピル・エヴァンズばりのリリカルなピアノを弾いて
いた。富樫雅彦は、ハィミテール中毒とかでよく休み、失望させたが、姿を現わしたときのプ
レイは、誰かが言ったように、エルヴィソ・ジョーンズの凄みをもっていなくもなかった。
 しかし、当時はジャズ・ボーカルの専門家だった大橋巨泉がNHKのジャズ・レコード番組
のなかで言ったように、日本においてはジャズはほとんどつねにレコード音楽だった。銀バリ
から移ってライブ・ジャズのコンスタントなスポットとなったジャズ・ギャラリー・エイトも
活動を開始していたが、新しいジャズのスタイルは、すべてレコードで入ってきた。ライブに
飢えて、ホテル・オークラや、はては目星州のセキティというホテルのラウンジまで行ってみた
が、そこで接することのできる邦人バンドのライブ演奏は、たとえば渋谷のティグで聴く新着
のレコードの演奏にくらべるとひどく大時代的だった。
 しかも、六〇年代のはじめから六〇年代の後半にかけての一時期は、アメリカのジャズ・シ
ーンにとって、文字通りの激動期だった。レコードを通じても、ジャズのスタイルが日毎に変
化しているのが感じられた。この時期ほど新譜レコードが期待とスリルを与えた時期はあるま
い。針を落してみるまで何が起こるかわからないようた新しい実験が次々に現われてきた。植
草甚一がアメリカやフランスのジャズ雑誌の情報をコラージュしながらっくりあげたジャズ論
は、この激動期の鼓動を日本に伝えるほとんど唯一の窓口だった。植草の『スウィング・ジャ
ーナル』誌の記事を読んで、すぐにレコード屋に走り、予約をしたこともあった。
 今日、ジャズについて語るのは遅すぎるという思いをわたしは抑えることができないが、そ
れは、セシルニァイラーとアルバート・アィラーがジャズを行くところまでもっていってしま
ったからである。実際、彼らの出現は、六〇年代のジャズ・シーンのなかでまさに革命的なも
のだった。ニューヨークにおけるニュー・ジャズの動きについては、すでに一九六四年の後半
には日本でも知られはじめており、当時のニュー・ジャズの主要プレイヤーがほとんど顔を出
しているESPレコードの第二弾(第一弾は、『エスペラント語で歌おう』という特殊レコード)とし
て発売された『アルバート・アィラー・トリオ』(ESPI1002)も、六五年には、当時新宿
の新田裏にあったマルミ・レコード店に入荷しはじめた。
 アィラーの存在が報じられてからそのレコードが入荷するまでのたった数ヶ月間にアィラー
はかなりの程度神秘化され、六五年のはじめ頃に池袋のヤマハで油井正一が新着の『アルバー
ト・アィラー・トリオ』と『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アィラー』(ファンタジー16
016)を解説しながら聴かせるという会が行なわれたときには、会場で油井が「今日集まっ
た人々はいつもと顔ぶれがちがいますね」(ここでは毎月、彼の司会で新着レコードの鑑賞会
が行なわれていた)と驚くほど多様な人問が集まった。わたしは、当時、エリック・ドルフィ
にひかれており、オーネット・コールマンもよく聴いたが、ジョン・コルトレーンはどうして
も好きになれなかった。時代の潮流は、コルトレーンに傾いており、アィラーなどもコルトレ
ーンの延長線上のプレイヤーとして理解されていた。マルミから分かれた青山のサソエスとい
う輸入レコード店を物色していたら、ジャズ評論家のK氏に会い、「何を聴いてるの?」主言わ
れたので、「アィラーです」と答えると、「アィラーを聴くにはコルトレーンを聴かないとだめ
ですよ」と言われ、反発をおぼえたこともあった。なるほどアィラーは、その活動が少し認め
られてからインパルス・レコードで録音した第一作『グリニッジ・ヴィレッジのアルバート一
アイラー』(AS19155)の最初に「ジョン・コルトレーンのために」という曲を入れてい
るが、アイラーの音楽は、コルトレーンとは対極のものだと思った。
 そのことは、『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アィラー』のなかに入っている「バイ・
バイ.ブラック、フード」、「サマー・タイム」、「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」と
いったスタンダード・ナンバーの演奏を聴けばすぐわかるが、そのサウンドの質は、コルトレ
ーン的であるよりも、むしろソニー・ロリソズ的であるように思われた。当時、ロリンズは、‘
コルトレーンにくらべるとほとんど沈黙状態であり、”現役〃のプレイヤーではなかったが、一
わたしは、ドルフィとはちがった意味で彼にひかれており、刺激的な新作に出会えないときに
向かうレコードというとロリソズのものだった。そのため、アィラーがコルトレーンとの関係
において語られることがほとんど常識化してしまった頃(といっても、アィラーについてはそ
れほど多くのことが語られてはいなかったが)、アィラーの吹きこんだ最初のレコード(これは、
一九六二年十月二五日にストックホルムで録音され、ひじょうにマイナーなレーベルで発売さ
れたが、一九六九年にイギリスのソネット・レコードで再発売されるまで、一般には幻のレコ
ードだった)のなかに、「ロリーズ・チューソ」という曲を見出し、そこに明らかに、ロリン
ズの強い影響と彼への共感を発見したとき、わたしは、アィラーをコルトレーンとは無関係に
聴いてきたことが理由のないことではなかったことを再確認した。
 しかし、アィラーは、単にロリソズのコンセプトを発展させただげではなかった。彼がコル
トレーンからも影響を受けていることは確かであるが、彼がコルトレーンをはるかに遠くまで
越えてしまったように、アイラーは、コルトレーンよりもはるかに強い影響を受けたロリソズ
をも越え、さらにはジャズそのものを越え抜けてしまった。アイラー自身、『ザ・ナショナル・
オブザーヴァー』誌(一九六五年7月7日号)の記者に対して、「ジャズというのは〃ジム・ク
ロウ〃(里一人の蔑称)だ。それは(自分たちとは)別の時代、別の時間、別の場所に属している。
ぼくらは、フリー・ミュージックを演奏しているんです」生言い、 ”ジャズ〃という語に対し
て距離を置いている。
 アィラーにおけるこうしたジャズの超克という観点からジャズを考えなおすならば、ジャズ
について語るのも、決して遅すぎるとは言えないだろう。それは、単にジャズを”フリー;・
ユージヅク〃としてとらえなおすことではない。”フリー・ミュージック〃という言葉は、形
式の自由な音楽という意味があり、アィラーたちがこの言葉を使ったときにも、そうした含意
があったことを否定することはできない。しかし、それでは、ジャズがフリー・ミュージック
であることの積極的な意味がかすんでしまうだろうし、フリー・ミュージックを演奏するとい
うアイラーたちがジャズの伝統から出発していることの意味がなくなってしまうだろう。
 考えてみると、ジャズの歴史は、つねに、フリー;・エーシックつまりは解放の音楽への運
動のなかで自己を更新してきた。モダン・ジャズの歴史においては、ビバップがすでに、ダン
ス音楽としてのジャズからの自己解放(たとえば、一九四〇年代にミソトソス・ハウスに集ま
った連中は、あえて踊れないようたスピードのリズムと複雑なフレーズを考案することに生き
がいを感じていた)であり、だからこそピバップの最もラディカルな部分にいたセロニァス.
モンクは、あとになっても”前衛的”なプレイヤーとみなされた(彼の演奏姿勢が一貫している
ことは、『ミソトソス・ハウスのチャーリー・クリスチャン』ーグローブ、MJ17066i
に入っている「スィソグからバッブヘ」を聴けばよくわかる)。ただし、バップからハード.
バップに至るジャズの歴史の影響力があまりにも巨大であったため、われわれは、 ”ジャズ〃
とい三言葉をきくとき、意識のどこかで、この時代に制度化された(ジャズ)音楽を規準にして
-それに忠実であるか、その変形であるか、そのパロディ化であるか、その破壊であるか、
といった旦一合に-すべてを判断する弊に陥るのである。その意味でも、今日ジャズについて
語るためには、ビバヅプ的な要素との決定的な訣別が明確にたるニュー・ジャズとりわけアル
バート・アイラーから出発する必要があるだろう。
 一九八三年十一月二五日、法政大学学生会館で相倉久人、川仁宏、木幡和枝、竹田賢一、平
井玄、そしてわたしをパネラーとする「アルバート・アイラーと未完の六〇年代」という集会
が開かれた。この席上、竹田賢一は、彼白身の長いアイラー体験にもとづき、さらにオースト
リアの批評家ヨースト・エックハルトの『フリー・ジャズ』を援用しながら、アィラーの音楽
の基本的性格を鋭くえぐり出してみせた。竹田が指摘したように、アィラーの音楽では、中問
の音域があまり使われず、低音と高音との音域を限界までおしひろげる。その場合、低音は、
ブルース奏者が好んで使う音域であり、この音域でゆったりした、ブルーなプレイをするかと
思うと、高音域に急に飛び移って、現代音楽風にピッチをくずした早いビブラートで演奏する。
こうした「極端な両極性」がアイラーの音楽の特徴をなしているが、その極端さのために、ア
ィラーの音楽は、単にアメリカの差別された黒人がそのゲットー生活のなかで日々経験する
”引きさかれた意識〃だけでなく、現代社会の矛盾に直面したすべての被抑圧者の意識に呼応
することができる。
 この集会の前日、久しぶりにアイラーのレコードを録音の古いものから順番に十四枚ほど聴
きなおしたとき、わたしはふと、アィラーの音楽と花田清輝の文章との親近性を感じた。六〇
年代にわたしは、まさにコルトレーンを避けてアィラーを聴いたように、吉本隆明を避けて
-というより無視して-花田清輝を読んだのだが、それは吉本と花田との思想的立場の相
異のためであるよりも、むしろ両者の文体のもつ性格のちがいが、一方をわたしから遠さげ、
他方をわたしに近づげたためだったようだ。花田が死んでから、一九七七年に花田・吉本論争
について一文を書く機会が訪れたときになってわたしは、やっと吉本の古い主要著作をまとも
に読みなおすことになった。依然として吉本の文体は好きになれなかったし、彼の思考過程は
いささかも刺激的ではたかったが、にもかかわらず、六〇年代の日本の社会・経済的な現状況
の把握の点では、明らかに花田よりも吉本の方がナウかった。だが、それは、現代(一九七〇
年代)を考えるためのいささかの刺激にもならず、新たな思考を触発する点では、花田の文章が
力をもっているように思われた。では、花田と吉本の文体の相異はどこにあるのか?「差異と
二者択一-花田・吉本論争の射程」(『主体の転換』、未来社)のなかでわたしは次のように書い
たことがある。
「花田のディスクールのウェイトが、イメージ、象徴作用、叙事的語り、調剤、諾講……にお
かれているのに対し、吉本のディスクールの重心が、観念、指示作用、拝情的詠嘆、・罵倒、深
刻さ……にある点は、概ね、両者の論争の全テクストにあてはまると言ってよい」。
 こうした対比は、あくまで抽象的なものであり、問題を鮮明にするための方法でしかないわ
げだが、アィラーの音楽の意味に近づく手がかりにはなるだろう。この論述で、わたしは、花
田の思考と表現と吉本のそれとを、それぞれコラージュないしは”廃品回収の技法”と内発的
な”白已表現〃とのちがいに関係づけている。コルトレーンの演奏には、どことなく吉本隆明
の文章に通ずる”拝情的詠嘆〃や”深刻さ〃があり、晩年の彼がますます宗教的な方向へ近づ
いてゆき、その演奏が一種宗教的な雰囲気をおびてくるのも、吉本の立脚する”白已表出”理
論のより具体的な現象形態をまのあたりにする思いがする。
 これに対して、コラージュや”廃品回収の技法”は、何か表現の原初的欲求のようなものが
蓄積されている”主体〃や”自己〃を外化することによって表現に達するというのではなく
て、それぞれに異なる”主体〃や”自己〃を横断的に短絡させるのであり、むしろたがいに対
立しあうものを対立しあったまま接続するような場を設定するのである。これは、ブレヒトと
ベンヤミンが”引用〃ないしは、”社会的身ぶりの引用〃という言葉で言ったことであるが、
アイラーや花田の技法のなかには、こうした方向が見出せると思う。花田は、わたしがそれほ
ど両者の理論的な親近性を意識せずに、しかし、実際にその新刊書を渋谷のティグや新宿のジ
ャズ・ヴィレッジでジャズを聴きながら両者を同じピートにのせて読んだはずの『恥部の思
想』(講談杜、一九六五年)のある個所で、彼がそれまでたびたびくりかえし語ってきたテーゼ
ー異質なものの対立を「対立させたまま、統一しようとした前代未聞の実験」一をもち出
し、豊島与志雄の『白蛾』という短篇集のなかに、「近代以前の説話文学をスプリング・ボー
ドにして、近代小説から飛躍したいという作者のはげしい意欲のようなものがうかがわれま
す」(「転形期の論理」)と言っているが、アィラーにおける民謡、黒人霊歌、マーチ等は、まさ
に花田の言う「前近代的なもの」とみたしてさしつかえない。
 しかし、こうした”廃品回収〃の技法、あるいは”引用〃としてのコラージュという技法に
おいて、アィラーが花田の理論を実践してしまっているだげでなく、それを一歩踏みこえてい
るのは、花田の場合、こうした技法のいわばタテ軸の面を強調するあまり、ヨコ軸のコラージ
ュが脆弱にたっているのに対して、アィラーは、前近代と近代との火花をちらす接合だけでは
なく、同時代のヨコ軸のレベルにおける異質なものをたがいに対立したまま出会わせることに
成功している点である。アイラーを一躍有名にした曲に「スピリチュアル・ユニティ」という
のがあるが、この曲をそのさまざまなヴァリァソトとともに聴くたらぱ、ここで言われている
「スピリット」が、単に、”黒人霊歌〃とか”聖霊〃とかいうような言い方で表象される形而上
学的.宗教的なものではたく、もっと世俗的・民衆的な記憶や欲求であることがわかる。従っ
て「スピリチュアル.ユニティ」とは、単にアフロ・アメリカンの霊的な統合・団結ではなく、
むしろ、民族的にも文化的にもメデイア的にももっと小いがいいか、7、沙則ハブ小、7、な統一を意
味する。
 その点でひじょうにおもしろいのは、アィラーが一九六八年九月五~六日にインパルス一レ
コードに吹込んだ『ニュー・グラス』というアルバムであり、とりわげそのなかの「ニュー一
ゴースツ」というチューソである。アィラーは、このチューソのヴァリアントを数多く録音し
ており、『ゴースツ』(フォンタナSFON17054)というレコードも出しているが、この「ニ
ュー.ゴースツ」では、冒頭に彼白身のヴォーカルが入る。その声と歌い方は、いわばカフカ
の「家長の心配」という短篇に出てくるオドラデクというアンドロイドの声を思わせ、いま聴
くとその--黒人的でも白人的でも、男性的でも女性的でもない一不思議な声がひじょうに
新鮮に感じられる。それは、まさに電子時代に生き残ることのできるホモ・ルーデンスの声な
のだ。
 残念なことに、わたしは、このLPを一九六九年に入手したとき、今日の印象とは全く逆に、
アイラーもダメになったと思った。実際に、このレコードに対する当時の批評は冷く、このレ
コードを最後にアィラーとインパルス・レコードとの短い蜜月時代(つかのまの人工的否定
性)は終わる。このレコードのなかでアィラーは、自ら歌うとともに、ザ・ソウル・シソガー
ズを起用し、エレクトリックのピアノ、ハープシコード、オルガン、ベースを積極的に使用し
た。それは、当時のわたしには、アイラーのジャズ・ロックヘのあまり成功しない進出、イン
パルスのボブ・シールの商業主義的辣腕にはまった結果に思えたのだったが、それは誤りだっ
たと思う。このレコードでアィラーは、まさにスピリッツのヨコ軸的(社会的)側面とタテ軸
的(歴史的)側面における立体的なユニティー対立するものを対立したまま関係しあう場を
つくること1を求めようとしているのである。
 もし、この試みが十分に認められ、この方向をもっと推進するチャンスが与えられたならば、
彼のフリー;・ユージヅクは、彼の言う〃ユニヴァーサル;・エーシック”への道をよりラ
ディカルに進んだにちがいない。しかし、彼の試みは早すぎたのであり、彼白身は、このころ
から、コルトレーン的な姿勢を示しはじめる。しかし、彼がいくらコルトレーン的な〃メディ
チイション”や宗教的合一のようなことを口走っても、彼の演奏白身には、極度に電子化され
た社会における身体(肉体と精神)の解放をつかのま可能にする脱形而上学的・脱宗教的な要
素が現に躍動してしまうのである。
 アィラーは、「ヴァィフレーション」という彼のチューソについて、「ハーレムに住んでい
る時そこに住んでいる人達からわたしは美しい電波を感じたものであるが、この曲はそうして
生まれたのです」と語ったことがある。これは、メタファーとしてよりも文字通りに受けとる
必要がある。”スピリッツ〃や”ゴースツ〃が電波であるか、それとも形而上学的た観念であ
るかは別として、アィラーにおいてそれらが電波11電子的情報との関係でとらえられているこ
とをあえて誇張して受けとることが、アィラーの今日性をとらえなおす鍵になるのではなかろ
うか?
 一九七〇年十一月二五日にアィラーの死体がイースト・リヴァーで発見されて以来、わたし
は、アィラーの亡霊(ゴースト)だけをジャズ・シーンに求めてきた。七五年になってはじめ
てニューヨークヘ行ったときも、各地のジャズ・スポットにアィラー的な音楽をさがし求めた
が、いまはなきアリス・アレイでフランク・ライトの演奏をきき、バァーで彼からアィラーへ
のオマージュをきき出すことができたにすぎなかった。七八年に、はじめてデイヴィッド・マ
レー、ビリー・バソグ、ジョージ・ルイスのライブ演奏をニューヨーク大学やパブリック・
シアターで聴いたとき、そこにアィラーのゴーストとスピリッツが蘇生されているのを実感し
た。しかし、その問にマレーは幾分トラディショナルな方向に回帰し、ルイスは、より現代音
楽的な方向につき進んだ。バソグは依然スリリングなのだが、あまりめぐまれた演奏活動をし
ていない。その意味では、平井玄から教えられたジェイムズ・ブラッド・ウルマーが、アィラ
ーの『ニュー・グラス』の可能性を継承しているような気がするが、ただ、彼が『ブラック・
ロック』で実現したスピリチュアルな横断性は、たとえば、ヒヅブ・ホップ・ミュージックの
ひじょうに電子化された疑似横断性に簡単に足をすくわれる恐れがあるような気がする。
 今日、依然としてジャズに地域的、民族的た実体性を与えようとする傾向があり、ジャズの
専門誌はそうしたメディア操作でやっとジャズなるもののアイデンティティを保とうとしてい
るわげだが、すでにヒップ・ホップ・カルチャーがそのありもしない”起源〃として”ブロン
クスの貧民街〃なるものをひっぱり出してきたように、ジャズのアイデンティティを”黒人〃
や”ニューヨーク〃(ハーレムてなければブルックリンのベッドフォードーースタィヴサントにす
るか?)に求めることはできない。エスニシティもコミュニティも、今日のアメリカではマス
・メディア化され、電子情報化されているからである。ジャズは終ったと言わなげればならな
いのもそのためだが、新たに増殖しつつある電子的な人種差別主義と電子的ゲットーのなかに
とじこめられた電子的細民たちは、早晩その解放のための音楽を歌い出さずにはいられないだ
ろう。アィラーは、ジャズの終末であり、電子時代におけるフリー・ミューシックの端初であ
る。



難民の記憶--Lost Lost Lost
 ジョナス・メカスの『LOST LOST LOST』を見ながら、わたしは自分を〃難
民〃の位置に置きかえていた。難民とは、メカスがその感動的た一文のなかで定義しているよ
うに、「他人の力であれ周囲の状況であれ、とにかくカによって自らの故郷から追い立てられ
た人たち」(西嶋憲生・編訳『フィルム・ワークショップ』、ダゲレォ出版)であり、それは、平和な
日本でのうのうと暮らしているわたしたどがたとえ仮そめにも身を置くことのできないもので
あるはずだが、にもかかわらず、われわれは、今日、みな大なり小なり”難民〃であらざるを
えないし、とりわけ日本の都市で生活する者は、たえず”故郷〃から追い立てられる生活を強
いられているかぎりにおいて、こういう言い方が許されると思う。,
『記憶の技法』の著者フランシス・A・イェィツの「都市と記憶術」(玉泉八州男訳、『現代思想』、
八三年7月号)、によると、印刷メディアが浸透する以前には都市が記憶体系の役割をはたして
おり、古代の人々は、街路の間隔や建物の細部に自分の知識や記憶をたくわえるのをつねとし
た。都市とは、ペソをもった手先でだげでなく、そこを遊歩することのたかでからだ全体です
べてのものを”書きこむ〃ことのできる”ぺ-ジ〃であり、書物よりもはるかに長い歴史をも
った記憶術の場だったのである。このような都市は、ほとんど失われてしまったし、とりわけ
東京という都市での生活は、都市のそのような機能を全く不可能にする。東京という都市には、
遊歩者が何かを”書きこむ〃まえにすでに何かが”書かれ〃ており、そこを遊歩する者はつね
に記憶を喪失していなげれぱならないのである。その意味で、東京に住む者は、都市の記憶か
ら排除された”難民〃であらざるをえない。
『LOST LOST LOST』と同じようたやり方で撮られ、まとめられた『リトァニァ
ヘの旅の追憶』を見たケン・ジェイコブスは、メカスに、この映画が何よりもある種の難民体
験を描いている点で興味ぶかく、自分が子供時代を送ったブルックリンのウィリアムズバーグ
がもはやなくなっており、その意味で自分も似たような難民体験をしているのだと語ったとい
う。しかし、難民体験とは、決して失われた記憶の再生ではない。むしろ、失われてしまった
ということの痛烈な再確認である。
 メカスは、前掲の文章のなかで、「自分の映画日記を見直していくと、そこにはニューヨー
クになかったものばかりがあふれていました。……実際には私が撮っていたのは、ニューヨー
クではなく、自分の子供時代だったのです。それはファンタジーのニューヨークであり、フィ
クションなのです」と言っているが、メカスの映像は、まさにフィクションとしての映像のこ
ちら側に生ける難民を存在させる。それは、決して映像のなかで対象化されることのない”主
体〃であり、映像を見る者の一人ひとりが自分で生きるしかないところのものである。
『LOST LOST LOST』は、一九四九年から一九六三年にかけて撮影され、一九七
五年に発表されている。ということは、これらの映像は、撮影された時点においてすでに失わ
れたものへの難民的意識をその超越論的な極にもっていたと同時に、発表された時点において
は、その”完成された〃映像がその原形をなす映画目記ないしはノート・スヶヅチの断片に対
する失われた難民的意識を措定するということである。言いかえればこの映画は、メカスがボ
レックスで映画目記を撮る以前の失われた世界(リドゥァニァ)と、映画目記がたどる時間と
ともに失われていった世界(”現実〃のニューヨーク)と映画が”完成〃するなかで知わかわ
世界(”ファンタジーのニューヨーク〃)という三つのロスト・ワールドに関わっているわげで
ある。
 その意味では、この映画には、メカスの故郷リドゥァニァヘの愛惜だけではなく、彼が若き
日々を過したニューヨークヘの愛惜、そして、さらに、そうしたニューヨーク(や折にふれて
訪れた土地)を映画目記に撮ったことへの愛惜があふれている。メカスは、映画のナレーショ
ソのなかで言っている。 「わたしをセンチメンタルだと言うがよい。あなたたちは自分の生ま
れた国にいる人達。わたしは異国なまりの英語をしゃべり、どこから流れてきたヤツだろうと
思われている人問。これは、国を追われた誰かが採っておいた映像とサウンドたのだ」 (飯村
昭子訳)。
 こうした重層化された喪失感と愛惜が、通常の--「”正しい”露出、”正しい”カメラワー
ク、正しく適正なあれやこれやといった型にはまった」1商業映画では決して表現されない
ということは、『LOST LOST LOST』のリールーとほぼ同じ時代のブルックリンを
舞台にしているアラン・J・バクラの『ソフィーの選択』をみれぱわかるだろう。それは、観
客をあたかも一九四〇年代末から一九五〇年代のブルックリンベタイム.トラベルさせようと
するかのようにブルックリンを映し出す。一九四七年に安いルー、、・シグ.ハウスを求めてブル
ックリンにやってきた作家志望の主人公スティンゴ(ピーター・マクニコル)と、一九四九年
にブルックリンのロリマー・ストリートの友人宅に身を落着けたメカスとのあいだには、その
生活状態の点でそれほど差があったとは思えないが、メカスのカメラに映るブルックリンの街
頭と彼のアパートは、『ソフィーの選択』の世界よりもはるかにみすぼらしく、うさんくさい、
それは、単に映画に映る人々や物たちの貧しさやうさんくささのためではなくて、むしろ時代
のもつ無味乾燥さのためであり、そうした時代に生きることとそれを記憶することの味気なさ
のためである。こうした屈折は、たとえピーター・ボグダノヴィッチが『ラスト・ショウ』で
やったような手のこんだ操作をしたところで、通常の商業映画の技法では決して表わすことが
できないもののように思われる。
 メカスが住んだブルックリンのウィリアムズバーグ地区は、黒服を着てアゴヒゲをはやした
ハシディズム派のユダヤ人が集中的に住んでいるところとして有名であり、いまでもそれは続
いているが、メカスが実際に住んだミゼロール・ストリート、フィフス・ストリート、ロリマ
ー・ストリート、マスペス・ストリートは、その中心地から少しはずれている。これらは、現
在、ニューヨーク市における最大のスラムの一つとして有名なベッドフォードーースタィブサン
トに隣接する準スラム地区である。メカスの映像からみるかぎり、これらのストリート(ロリ
マー・ストリートと、ロリマー・ストリートと隣りあわせのウォルトン・ストリートがはっき
りと映っている)は、今日とは全くちがう雰囲気だ。ただし、この時代でも、街のアコーデオ
ン弾きや通りがかりの人々の姿から判断して、これらの地域はロワー・クラスの街であったこ
とがわかる。
 唯一のちがいは、今日この地域に住んでいる人々は、その大半が貧しい黒人たちやウェスト
・イソディァソたちである点だ。メカスのブルックリンの街頭の映像に黒人の姿を発見するの
は難かしいが、それは、ブルックリンに貧しい有色人種が移り住んでくるのは、ずっとあとに
なってからだからである。
 ブルックリンに住みながら、メカスはしばしばマンハッタンに出かげていたようだ。いまで
もまだブルックリンは、マンハヅタソにくらべると夜の生活が短かいところが多いが、メカス
は、孤独な夜、マンハッタンに出かげ、街を放浪した。彼はモノローグしている。
「長い、孤独な夕ぐれがあった。長い、孤独な夜があった。マンハッタンの夜を、どこまでも
歩きつづげたことがあった。あんな孤独だったことは、はじめてだった……」
 おそらくメカスは、極度の貧しさのなかにいたのだろう。彼のカメラは、この孤独な放浪の
なかで、タイムズ・スクウェァーのネオン・サィソを映し出す。ポルノ館の看板の一つには、
”フィーマル・セックス”という文字が見えるが、これはいかにも五〇年代風だ。大量消費主
義と朝鮮戦争と冷戦的軍拡の浪費主義をつき進むアメリカがむき出しに現われているタイムズ
・スクウェァーを金もなく、やくざな心ももたずに歩くことほど孤独なことはたい。メカスは、
ヘンリー・ミラーの『南回帰線』のなかの”わたし〃のようにやくざにはなれない。彼は、メ
カスを孤独に陥しいれるタイムズ・スクウェァーの街の俗悪さに激しい呪誼をはきかげること
でその孤立感を解消できた。
「……聖トマス・アキナスが彼の生涯の最大の傑作のなかに入れ忘れたタイムズ・スクェアか
ら五十番街にいたる区域……にともなって、もろもろの事物が発生した1たとえば、ハンバ
ーグ・サンドイッチ、カラー・ボタン、プードル犬、自動販売機、灰色の山高帽、タイプラ
イターのインクリボン、オレンジ・ジュース、公衆便所、月経線、……チューインガム、サイ
ドヵー、酸性飲料……すべてが人の心を熱病的な妄想に似た期待へと駆り立てるのだ」 (大久
保康雄訳、河出書房新杜)。
 しかし、メカスは、 「世界のはての、ブルックリンの、とある場所」で孤独の身をかこつよ
りも、この暴力的に別の孤独を押しつけるマンハッタンに住むことを選ぶ。それは、ある意味
で、リドゥァニァヘの失なわれた追憶の重荷からのがれるためであり、またそれは同時に、リ
ドゥアニアヘの追憶の代わりにブルックリソヘの追憶をいだくことによって過去への記憶を逆
に重層的に深めるための旅への出発だった。人は、何かを深くもっために、何かを捨てなげれ
ぱならないことがある。思い出すために、一度すべてを忘れること。
 マンハッタンのメカスの新しい生活はオーチャード・ストリートではじまる。メカスはユダ
ヤ系ではないようだ(西嶋憲生「ジョナス・メカス物語」、『月刊イメージ・フォーラム』一九八四年-月
号)が、おもしろいことに、彼はふたたびユダヤ人地区に住む。このオーチャード・ストリー
トは、十九世紀からすでにユダヤ人の街として栄えた所であり、ミロシュ・フォアマンの『ラ
グタイム』にも、オープン・マーケットでにぎわうこの通りが出てくるし、ジョージ・ミクリ
ソ・シルバーの『ヘスター・ストリート』(一九七五年)では、ヘスターとオーチャードが交叉
する、この地区で最もにぎやかだった場所がドキュメンタリー・タッチで描かれている。
 一般に、ニューヨークの人々が家やアパートを見づける場合、親戚や同じ民族間の情報に頼
ることが多く、貸家の主人がユダヤ人であると、そこに住む人もユダヤ人であるといったケー
スが多い。とくにオーチャード・ストリートの場合、いまはここはプユルト・リコ人たちの居
住区になっているが、一九五〇年代までは少なくとも、ユダヤ人の独立区の趣きがあり、従っ
て、メカスがオーチャード・ストリートに住んだということは、メカスがそうしたユダヤ・コ
ネクションをもっていたと考えることもできる。メカスがユダヤ人ではないということがどこ
まで根拠のあるものであるかはわからないので言うのだが、彼がユダヤ人であってもよい条件
はかなりある。『LOST LOST LOST』の最初のリールで、クリスマスの晩の味げ
なさを映しているシーンがある。メカスは独白している。
「あのクリスマスの夜を、忘れることはないだろう。私達は家の中に居たたまれなかった。あ
まりにも孤独だった。通りはガランとしていた。ギソクスの菓子屋に立ちよった。誰もいなか
った。ギソクスだげはいた。みんなで冷いビールを飲み、クリスマスの飾りの目立っ通りを眺
めた。ちょっと風があって、新聞紙が吹きとんでいた。世界のはての、ブルックリンの、とあ
る場所でのことだ」。
 映画にはウォルトン・ストリートの標示板が見える。実の所、このシーンには、わたしは身
にっまされた。ニューヨークで、クリスマスをすごたびに、わたしも同じような気持を味わっ
た。異教徒にとって、クリスマスの晩ほど、つまらない時間はない。チェルシーのナィソス・
アヴェニューに住んでいたとき、窓からみえるクリスマスの夜の2ーストリートのたたずまいは、
まさにウォルトン・ストリートのそれにそっくりだった。
 ちなみに、リドゥアニァにはユダヤ人が多く、彼や彼女らのことを”リトヴオック〃と言う.
ユダヤの民衆作家ショーレム・アレイヒェム(『屋根の上のヴァィォリソ弾き』の原作者)は、い
ささか辛辣に、「リトヴォヅクは、あまりに聡明すぎるので、淀を犯すまえに悔い改めをす
る」と言っているが、”リトヴオック”には、懐疑的で無情な合理主義者という醐実的な意味
があるように、現実に対してつねに距離をおく姿勢がこの語に含蓄されている。
 メカスが、 ”リトヴオック〃であるかどうかは別にして、カメラを使って日常生活を”ノー
トし、スケッチ”するという姿勢には、明らかにこの〃リトヴオック”の精神がひきつがれて
いるようにみえる。ただし、メカスは、 ”リトヴオック〃の「ベダソティックで浅薄、ドライ
でユーモアに欠ける」(レオ・ロステソ『イーディッシの悦び』)性格を、逆にカメラを使うことに
よってのりこえたのである。メカスは、「私は自分のフィルムを記憶やノートと考えている」
(『フィルム・ワークショップ』)と書いているが、ショーレム・アレイヒェム流に言うならば、
メカスは、あまりに聡明すぎるので、フィルムに定着させるまでは記憶できないのである。
 これは、一つの病い1現代病一であり、すべての文化的”難民〃の持病ともいうべきも
のであるが、メカスの場合、彼は、ユダヤ人地区を離れることによって、この病を超克したよ
うにみえる。彼にとって、映画は、一つのセラピーであるが、彼の本格的な映画活動がはじま
るのは、アヴェニューBに近い13ストリートに住んでからである。チャーリー・ユイハンの
『ワイルド・スタイル』にも出てくるトソプキソス・スクウェアに近いこの一帯は、最近はイ
ースト・ヴィレッジの東端として金のあるプロフェッショナルや芸術家のコミュニティになっ
ているが、メカスが移り住んだ一九五九年には、雑多な人々が住む、どちらかと言えば貧しい
人々の多い地域だった。その意味で、メカスのブルックリン脱出ーマンハッタン行一は、
逆説的な”故郷〃への回帰だったのである。‘



”亡命体験〃としての高度経済成長
 東京で生まれ育った者の目には、東京オリンピック以後に起こった都市の変化は呪うべきも
の以外の何ものでもない。都市が都市計画によって作られるのはしかたがない(都市はもとも
と管理装置として作られた)としても、上から与えられたものを黙って受けいれるしかないと
いうのは最悪だ。都市のうさんくささとは、一方的に与えられた都市を、そこに住んだりそこ
を使用したりする者がどこまでこちら側にとりこむことができたかということの尺度でもある
のだが、街路にのしかかるようにして遊歩者の手のとどかない中空に出現した高速道路に対し
て、遊歩老はどんな抵抗をしてそれをうさんくさくできるだろうか? 遊歩者はその下を小さ
くなって歩くぐらいしかなすすべがあるまい。 ”暴走族〃だって、その壁にスプレーで落書す
るぐらいのことしかできないのだ。おまけに、高速道路建設による遊歩都市の破壊に加えて、
「集団行進を規制する公安条例」(東京都道路規則一四条一号)の無原則的な適用という暴力が遊
歩者を威嚇することになった。
 こうなると、街を生活世界とみなすことなどほとんどできなくなる。それは、何かのために
通行するための単なる手段でしかなくたり、無目的にぶらぶら遊歩したり、街路を遊びの広場
にしたりすることーつまりは街を生活世界とすること一は現状に逆う形でしかできなくな
る。
 藤田省三『精神史的考察』(平凡杜)を読みながら、わたしは本書の諸論文が高度経済成長
期に極度の変貌をとげた日本の都市と都市生活に対する著者の怒りと批判を推進力にしている
という印象を受けた。藤田氏は、本書所収の「批判的理性の叙事詩」のなかでアドルノの亡命
生活を、「自分を自分として育成した文化から離れてそれとは全く異った文化の中で、したが
ってほぼ完全な孤独の中で、しかも独力では何一っ出来ない環境において1すなわち自分自
身の持っている生活・文化・行動の諸能力からさえも孤独である環境の中で11、異文化の世
話になることによってやっと生物学的に暮らすことが出来るという生活状況」と言いあらわし
ているが、ある意味で、藤田氏が高度経済成長のなかでほとんど強制的にとらされた身体状況
の変化こそ、まさにこのようなものであったと言えるかもしれない。
 むろん藤田氏の場合、三〇年代の亡命知識人にくらべれば、「生物学的に暮らす」ために「異
文化の世話」にたらたげればならないという度合は、はるかに低かったにちがいない。ほかに
行く先のない三〇年代の亡命者とはちがって、藤田氏には、その「新品文化」を逃がれてゆく
こともできたのである。また、アドルノをそうした亡命知識人の標準にすることにも問題がな
いわけではない。かつてニューヨークでわたしは、アドルノのようにはじめから亡命地のアメ
リカ合衆国で仕事ができた人たちよりはるかにめぐまれない極貧の生活をしていた亡命知識人
の幾人かの生き残りや友人から直接当時の生活について話をきいたことがある。彼らの言語を
絶する当時の生活ぶりからすると、アドルノに対して「自らは満身創療となりながらなおも欄
欄たる眼を見開いて」とか「たとい我身を滅ぶとも認識の盲にだけは絶対にならない」とかと
いう形容を用いることは、たとえば才能にめぐまれながらも極度の吃音のために実際上教職の
ポストにっくことができず、ミュージアム・オブ・モダン・アーツの客員研究員のような資格
で文字通りの極貧のなかで生活し、本を書いていたジークフリート・クラカウァーのような人
に対して気の毒である、と思えなくもない。
 しかし、著者自身、アドルノの『ミニ一マ・モラリア』には、「生活経験そのものは現われず、
それを規定する客観的諸力に対して批判的に格闘している弁証法的理性の奮闘だけが描かれて
いる」と言い、ここでは、「弁証法的理性の戦いの記述だけが現代に在りうる唯一の叙事詩で
あり、その批判的理性の活動だけが現代における偽りなき本物の『事件』なのである、と著者
は言っているかのように思われるのである」(傍点引用者)と言っているように、このような表
現は、著者の方法論だとみなすべきだろう。つまり本書は、高度経済成長が生み出した強制的
た状況をみずから一つの”亡命生活〃と化し、その状況を支配している道具的理性ないしは
「理性たき合理性」(ブロッホ)を批判し、そのあたかも脱出不可能にみえる状況のなかで生き
続けているいわぼ機能しつつある理性の歴史、つまりは藤田氏の言う「精神史」を鮮明化しよ
うとする試みなのである。
 その際、本書の最も力強い点は、本書が史的考察である以上当然のことであるかもしれない
が、高度経済成長のなかであらわれた諸現象の根を「戦後」のはじまりにまでさかのぼって鮮
明化するとともに、さらに、そのようなはじまりとしてそれ自体は両義的な可能性をもってい
た「戦後」の一時期と同種の理念型を江戸末期から明治にいたる激動の一時期のたかに鋭く見
出していることである。「過去を思いかえさない者は、過去のあやまちをくりかえすことにな
る」という有名塗言葉があるが、今日の出来事を反省するためには、少なくとも、この社会と
国家装置の端初にまでさかのぼって反省しなければならないし、さもなければ今日あきもせず
続けられている政治的・社会的なあらゆる悪循環が未来永劫にくりかえされるだげなのであ
る。
「批判的理性の叙事詩」を読むならば、藤田氏が、「自らは満身創漢となりながら」とい三言
い方で言わんとしていることは、数ページ先にちゃんと記されているように、「異文化の真只
中で負い目を負った異物として生活するということ」であって、「単に言語が違うとか食い物
が違うとか地理をよく知らないとか社会組織や制度の細部について無知であるとか、総じて言
えばそういう生活に不便をもたらすものLのなかで翻弄されるということではないことがわか
る。しかし、そうした俗なるレベルとイデァールなレベルとは別々に存在しているわけではな
い。藤田氏も、そんたことは百も承知のはずである。では、それにもかかわらず、なぜここで
はアドルノの具体的な生活がぬげてしまうのか? それは、具体的な生活というものを空虚に
してしまうのがまさに亡命生活というものだからである。
「或る喪失の経験-隠れん坊の精神史1」は、高度経済成長のなかでトラスティックに変わ
ってしまった都市の文化を、かっては都市の大抵の路地でみることのできた子供の隠れん坊遊
びの喪失という出来事から説きおこしている。そこで破壊されたのは、「隠れん坊がそれとは
たしに遊戯的に形造っていた相互主体性の世界」であるが、こうして生まれた文化が、本書の
最終章のタイトルとなっている「新品文化ーピカピカの所与1」である。今日、街の構造
は「新しい装いを以て」一変し、延造物も乗物も、人の着るものも手にするものもことごとく
「新品化」したと藤田氏は言う。 「こうした新品化の世界においては、一つ一つが天地の間に
初めて発こる物として出現する生成経験を私たちの前に明かにすることはない。それらは買い
取りうる所与の物として、すなわちピカピヵの所与性として目前に在るにすぎない」わけであ
る。
 こうしたアメリカ合衆国でならばすでに一九四〇~五〇年代に起こったことが、日本で一九
 六〇~七〇年代に、アメリカよりも一層徹底した形で生ずる。それは、直接的には、日本の産
 業構造がこの時代に大量生産と大量消費を内的論理とする高度資本主義体制に再編成されたか
 らであるが、にもかかわらず、このような産業構造の変化にほとんど無抵抗と思えるような形
 で「新品文化」が形成され、この構造変化を積極的に補完してしまったのは、なぜであろう
 か? 藤田氏は、「『昭和』とは何か」のなかで、この原因をまず、「『戦後』の処理の仕方」
 つまり「天皇制を廃止できたかったことと、もう一つは天皇を退位させることができなかった
 ことの二つ」に求める。しかし、「戦後」の処理のなかにあった「精神における『不決断』」や
 無責任な「依存体質」そして「それを許した国民的な『批判力の欠如』」といったものは、決
 して第二次世界大戦の終末の一時期にたまたま生じた偶発事ではない。藤田氏は、この間の複
 雑な状況を本書の各章で見事に解明している。
  わたしはかって、高度経済成長のなかで露出してきた文化の動向を「天皇制文化」と呼び、
 その構造の分析を試みたことがあるが(「天皇制11文化装置の構造」、『批判の同路』、創樹杜所収)ま
 さにこの「天皇制文化」の歴史的由来を解き明かす藤田氏の論述は、ことごとく説得力にと
 んでいる。「元号批判」という副題をもつ一章「『昭和』とは何か」のなかで藤田氏は、「昭和」
 という元号のもつ特殊性を指摘している。明治以前には、何かちょっとした事件があるたびに
 「改元」が行われたのに対して、明治以後、二代二兀号」が制度化され、すでにこの時点に
 おいて二人の人間の存命信号によって全国民のカレンダーや従って時間感覚が決定されるよ
うにな」る基礎がすえられるのだが、一九二六年に「昭和」という新元号が「物色」され命名
されたプロセスを一瞥するならば、 「明治」や「大正」の元号製作過程にくらべても、「昭和」
のそれがいかに「末期的衰弱段階」に陥っていたかがわかる、と藤田氏は言っている。これま
でにも、 「昭和」という元号の決定過程のうさんくささについては、多くの人々によって指摘
されてきたし、最初「光明」と決定されたものが、新聞によってすっぱぬかれたために、急邊
「昭和」に改められたという説もある。いずれにしても、「百姓昭明、協和万邦」からとられた
らしいこの元号が、 「万邦協和」とは正反対の中日戦争、太平洋戦争を通じて明々白々となっ
た「戦後」という時点において、 「その由来を更めて想い起こすことを通して戦後の処理を責
任あるものにしようとする精神」がいささかも処理の当事者のなかにあらわれなかったことに
はかわりがないのである。
 しかしながら藤田氏は、ここで歴史の宿命を語っているのではない。その反対に彼は、歴史
がつねに両義的た選択の可能性をはらんでいることを力説している。彼が本来的な意味で「精
神」と呼ぶものは、まさにその一方の可能性であり、支配的な歴史は、事実上、この可能性を
監禁し、それを「理由なき合理性」へと物象化しできたわけである。それゆえ、歴史の解放と
は、この監禁された「精神」を解放し、顕在化することであるが、藤田氏は、幕末から明治中
期にいたる日本の大きな歴史過程のなかで、こうした「精神」がどのように監禁され、忘却さ
れていったかを「或る歴史的変質の時代」のなかで詳細に追跡している。藤田氏によると、明
治時代とは、少なくとも諸制度の確立する二〇年代前半までは、 「天皇の世紀」などとい三言
葉では決して言いっくすことのできない「色々な次元と色々な側面と色々な要素とそしてそれ
らから成る色々な傾向を包含した構造的な時代」であって、「明治」という称号も、「宮廷の都
合の結果として生まれたものではなく、維新の社会変動の結実として発生したものであった」。
そこでは、「民権」を核にした「国民主義的独立」の立場と、「国権」を軸にした「国家主義的
独立」の立場とが、「対立しながら双方互いの中に入り混じって交錯し合っていた」。
 それは、一方に維新の成り上がり者がおり、他方に反乱する「士族」や維新後の社会のなか
で日陰者として不遇た毎日をおくっている「落武者」の群れがいるという国内的た権力の力学
からいっても、また、諾々の列強の諸勢力がこの小さな地理的空間において戦略的・戦術的な
権力劇を展開していたという国際的た力学からいっても、当時の日本は、そこから新たな解放
が生まれる可能性をも秘めた「混沌」のなかにあった。そこでは、福沢諭吉の「立国は私なり。
公に非ざるなり」という言葉に端的にあらわされているように、「立国」すらも、国家や国民
だけを重視するナショナリズムとは反対に、公的なものと私的なものとが弁証法的な統一を保
持できるのである。
 しかし、そのような統一は、やがて二極分解し、「立国」は、アジァヘの 「膨脹意欲」 へと
一元化し、「国家」は、「混沌の中から作り出すべきものとしてではなくて其処に先験的に与え
られて在るもの」となる。それゆえ藤田氏は、明治三〇年代以降出現する「国体論」は、決し
て明治維新の連続線上に生じたものではなくて、「国家についての日本社会の精神が立国期の
具体性を失って抽象的欲望へと解体し去った所に生まれたものである」と言う。かくして、目
本国家は、「敵勢力」や「中立勢力」や「味勢」のひしめきあっている一個の国際社会である
ことをやめて、挙国一致の国家主義的体制の準備をととのえるのであり、この構造は、アジア
においてとりわげ露骨にあらわされている日本の国家H企業の進出において今日でも継承され
ているのである。
 最近わたしは、日本においていわば〃民権的なもの”と〃天皇制的なもの”とが少しずつそ
の対立を激化させはじまっているような気がしている。それは、企業による文化事業への介入
や、高度経済成長を通じて形成された利已主義のなかから生まれたある種の個人主義文化の伸
張が、依然として進行しつづけている一方で、教科書検定の強化、道徳教育の重視、文化・政
治活動への公安の監視強化、天皇公園の建設遂行、すでに獄中では開始されている、反天皇制
的表現の検閲強化といった〃皇国”的な諸傾向が現われはじめているということのなかに見出
すことができるが、この状況を、しばらく企業の背後に身を隠していた国家という一枚岩的な
権力が、ふたたび前面に姿をあらわしたものとして解釈することはできないように思われる。
 わたしのみるところでは、ロッキード事件とは、高度経済成長を通じて肥大化した企業活動
が、従来の一つまりは天皇制的-曲家のわく組みをこえてしまい、トランス・ナショナル
な企業へと変貌するなかで生じた目的理念の衝突の最初の象徴的な事件である。従ってこの事
件の処理には、まさに「戦後」の処理におとらず重要な意味が含まれており、それは、日本の
大企業にとって、天皇制的な国家のわく組みをこえたもっと本格的な「フランチャイズ国家」
(そこでは国家は単なる「フランチャイザー」になる)へ変身をとげることができるかという
問題をはらんでいると同時に、やはり高度経済成長のなかで”国民〃の意識と身体のなかにつ
ちかわれた利己主義がもっと、自律的た1つまりは相手を自律した一個の個人として尊重し
ながらたがいに連帯できる1個人主義にまで発展することができるかという問題を含んでい
るよう一にみえる。
 すでにみてきたように、『精神史的考察』は、「戦後」の意味するものを明治維新にまでさか
のぼって問うと同時に、両者のあいだに共通する精神史的構造を別挟しようとしている。その
際、藤田氏がくりかえし力説していることは、明治維新においても「戦後」においても、われ
われはいずれも決定的な二つの可能性のまえに立たされていたということであり、それにもか
かわらずわれわれはいずれの場合にも、その可能性を消極的た方へ閉ざしてきたということで
ある。
 明治維新や「戦後」が、それ自体においては、いかに力強い潜勢力をもっていたかは、本書
の「市村弘正『都市の周縁』をめぐって」と「戦後の議論の前提-経験について-」のな
かで熱っぽく語られている。ここでも、前者で論じられている「嚢店」つまり江戸社会が末期
的症状を呈してきた文化・文政・天保の幕末期に江戸へ流れこんできた「細民」たちの生活場
は、後者で言及されている「闇市」と対比させてとらえることができるのであり、藤田氏の歴
史認識の根底には、歴史的変革の条件を準備する者は、支配の歴史のなかではつねに「細民」
としてしか姿をあらわすことのたい人々であるという洞察がある。それは、「江戸社会の末期
に、もし、右に述べられたような生活様式の地底での変動素の蓄積が行なわれていなかったな
らば、『勤王の志士』なんかがいくら暴れて見ても、それだけでは一つの大社会が倒壊すると
いうようなことは起こりえなかったことであろう」とい至言葉に端的にあらわされている。
 では、今日、もしわたしが先に述べたようなある種の歴史的変動がわずかに起こりはじめて
いるとしたら、今日の「細民」とは誰であろうか? それは、新たなコ暴店」に流入しつつあ
るのか? しかし、そうだとしたら、新たなコ異店」はどこにあり、どのような形態をしてい
るのだろうか? わたしは、いま、ふと電子的な「細民」と電子的な〕曇店」という概念を思
いついた。



高度成長の代償
 この一〇年間に支配と管理の様式はどのように変わったか?
 ハードな管理からソフトな管理へ、あらゆる暴力を国家が独占し、民衆の反権力的・批判的
暴力を犯罪として葬り去る技術の向上へ、国民の九割以上に「中流」という漠然とした画一的
な国家意識を与えることができるような情報環境の整備へ、「政治的に去勢されているかのご
とく、焦眉の政治問題に対しても、みずからはなんの力も情熱ももっていない」 (Cニフィト
ミルス『ホワイト.カラー』)「新中問層」の拡充によって現状肯定的な保守政治をスムーズに
やりぬくことへ…:といった具体的な諾動向を羅列することはいくらでもできる。しかし、い
まここでは、こうした動向のより本質的な、より構造論的な側面について考えて1みよう・
 支配ということを問題にするとき、そのような問題意識は、「ブルジョワジー」と「プロレ
タリアート」というような二分法的な古い実体概念にしがみついた教条的で不毛な思考にもと
づいているといった批判に出会うことがある。むろん、そのような支配論が完全にのりこえら
れたわげではない。しかし、ここでは少なくとも、われわれが依然として二分法の時代に生き
ており、二分法が支配原理として、権威的な力をふるっていることを思考の前提とせざるをえ
たい。「支配者」、「被支配者」というような近代主義的な概念は、すべて操作的概念として使
用されるべきなのであって、そのとき、この方法的な二分法は、これまでの二分法そのものと
はちがった機能を発揮するはずたのである。
 ライト・、・・ルスのものを含めて、中問階層論の大半は、「ミドル・クラス」や「中問層」、
「中流」等々を実体としてとらえ、袋小路に陥っている。つまり、「中閉層」論は、それがどん
なに批判的であっても、ほとんど誰一人としてそれを自分のこととみなさないでいられるよう
た構造をもっているのである。というのも、「中問層」や「中流」は決して幻想ではないが、
実体でもないからである。むしろ、それは、テクノクラシー的な管理社会に生きるわれわれの
ほとんど全員がわれわれのある部分をもちよることによって構成している地平的構造であって、
それに対してわれわれは、表面的な意識のうえでは無責任でもいられるような地平的両義性の
なかにあるわげである。
 こうした支配の構造を問題にするには、無意識から出発する必要がある。無意識(ただし、
それはフロイト的な「無意識」ではなく、ガタリ的な「機械状無意識」でなければならないだ
ろう)のなかで、支配と解放の弁証法がさかまいている。その際、このダイナミズムの一つの
テリトリーを「システム的無意識」、もう一つを「身体的無意識」と呼ぶならば、支配とは、
身体的無意識をシステム的無意識へ二兀化しようとする運動であると言えるが、管理技術が高
度化した今日でも、身体的無意識は、解放の最後の拠点としての潜在的可能性を失ってはいな
い。だからこそ、サイバネティクスやコンピューター化を含む支配が、身体的無意識をどのよ
うにして攻囲してきたか、システム的無意識がどのように自己増殖してきたかを開示したげれ
ぱならないのである。
 国家とは、システム的無意識の「極理念」である。従って、支配様式の変化は、国家形態の
変化をたどることを一つの手がかりとすることができる。が、日本のこの一〇年間に国家形態
が変わったなどと言うことができるのだろうか?
 アラン・ウォルフは、『正統性の限界』(一九七七年)のなかで、アメリカの独占資本主義的
な国家形態のいくつかのバターンをあげているが、「フランチャイズ国家」とコ一重国家」と
いう概念は、ひじょうに示唆に富んでおり、一九二〇年代以降のアメリカだけでなく、戦後の
日本の支配様式についても、新しい視角を提供するように思われる。
「フランチャイズ国家」とは、フランチャイズ・システムにおいて、主宰会社がその独自の販
売方法を義務づける代わりに自社製品・サービスの独占販売権を与えるのと同じように、政府
が企業や私法人に対する”フランチャイザー〃の役割を果し、自らは表面に出ないで国家活動
をコントロールする支配形態であり、アメリカではニューニァィールにおいて姿を現わす。こ
れは、ウォルフによると、「民間機関に公的権力を授与することによって階級内部の、そして
階級間の抗争を共に解決しようとするものであったが、それは、来るべき抑制しがたい抗争を
遅らせることを期待しながら強制と権威に関する難問をうやむやにするためのものであった」。
ここでは国家は、独占資本の完全なパートナーとなり、民間の機関が資本蓄積の主役を演ずる
代わりに、その活動を背後から援助し、コントロールするわけである。従って”主宰会社〃と
しての政府機関の規模は、ますます大きくたり、公共支出は増大する。コ一重国家」とは、「国
家のなかの国家」や「見えない政府」をもった国家に一脈通ずるものであり、何らかの形で国
家はそのような性格をもっていると言うことができるが、そうした二重性が公然と現われるの
が「二重国家」であり、ウォルフは、冷戦からウォーターゲイト事件までの時期に顕著な支配
形態をこの名で呼ぶ。
 こうした国家形態は、それに先立つ資本主義的発展のなかから生まれた諾矛盾を資本蓄積の
論理ではコントロールできなくなって、「正統化」つまりは社会統制のための別の論理と諸装
置をもちこみ、分裂した支配を貫徹してゆこうとするところに生ずる。国外でのCIAの工作、
国内での「赤狩り」はその典型的な例であり、前者のタイプの支配はヴェトナム戦争において、
後者のタィブはウォーターゲイト事件において一応の破綻をみるわけである。
 さて、きわめて大ざっぱに紹介したこれらの概念は、なるほどアメリカの政治に則して構成
されたものだが、これらは、日本の資本主義的支配にもあてはまる側面をもっているようにみ
える。むろん、そうした適用のなかで抜け落ちる部分は少なくないはずだが、テクノロジーの
地球的規模での浸透によって支配技術がますます共通性と連動性をもってくる現代においては、
共通項をつかむ努力は有効であり、それによって全体状況をっかむことなしには、差異もみえ 一
でこないはずである。
 日本の場合、一九五五年(昭和三〇)から一九七三年(昭和四八)のあいだの高度成長は、あ
る意味で「フランチャイズ国家」の形成過程であり、そこにおいて本格的な独占資本主義体制
が完成された生言うことができる。それは、まさに国家資本から民間資本への移行のプロセス
であり、国家に代わって企業や法人が前面に出てくる過程であるが、その際、反戦、権威主義
的権力装置への異議中し立てという点で、アメリカのニュー・レフトと同じデロスを共有して
いた日本の学生・大衆叛乱が、システムの無意識という点からみると、アメリカとはちがって、
いままさに企業や法人の背後に身を隠そうとしていた国家がより速やかに〃フランチャイザ
ー〃としての仮面をかぶる手助けをすることになった。
 こうした”フランチャイズ・システム〃は、一九七〇年代を通じて整備され、やがて企業の
文化戦略ないしは文化ビジネスとして顕在化されるようなソフトな支配様式が社会システムの
なかに分泌されてゆく。それは、国家がやれぱハードになってしまう支配をソフトに行使する
支配であり、「オイル・ショック」のときにはまだ多くの不確定性を伴ったが、「文学者の反核
宣言」においては、一切の民主主義的、造反的要素を単なる空騒ぎとして空無化できる情報環
境と支配装置の完成をみることができるのである。
 しかし、その問に、別の国家形態も形成されつつあった。一九七六年のロッキード事件は、
一見、ウォーターゲイト事件に似ているようでいて、その意味するところは全く正反対である。
すなわち、ウォーターゲイトは合衆国のコ一重国家」的支配の衰弱の徴候を表わすのに対して、
ロッキード事件は、日本における「二重国家」的支配が公然と制度化されたことを意味するか
らである。
 このことは、中曾根内閣の成立に際して、田中角栄と田中派が演じた機能が最も象徴的に表
わしているが、問題は、その〃黒幕政治”そのものではなく、こうした「国家のなかの国家」
の存在を公然と知らされていながら、反対派も反対党も、そして大衆一般もそのことをたかだ
かシニシズムの冷笑とともに是認し、受けいれざるをえないという現状である。
 ロッキード事件において、丸紅が”フランチャイズ・システム〃を逸脱してしまったのは、
”フランチャイザー〃としての国家がもはや海外における独占資本の活動をコントロールでき
なくなったからであり、国家フランチャイザーが”販売契約〃に違反したフランチャイジー
(丸紅)に制裁を加えるだげにとどめることができなかったのは、高度成長期を通じてシステ
ムの内部に逆説的に蓄積された民主主義的欲求のためでもあった。しかし、この時期に確実に
根を張った広告産業と文化産業は、システムの内部に文化的非合理性への欲求をも分泌させた。
ロッキード裁判は、まさにそうした非合理性を国民的規模に浸透させる国家ショウであり、こ
のショウによって、デモクラシー的欲求の方は非合理性の身ぶりとルサソチマンにすりかえら
れ、それらが、その後の大衆文化のシニシズムを方向づげているのである。
 深刻なことは、こうした「二重国家」の出現が、世に言われる「政治倫理の低下」というよ
うなものから生じたのではなく、資本蓄積の国内的かっ国外的発展の結果、それを蓄稜の論理
自身ではおさえることができなくなったところから生じた点である。つまり、日本国家のシス
テム的無意識は、その外部に強権的ないしは権威主義的な力を要請しなければコントロールで
きないところまで行っているのであり、内閣においてその「二重国家」のコントロール機能が
田中角栄という形で現われているとすれぱ、企業の海外進出のレベルにおいても、われわれの
日常生活のレベルにおいても、国家を代理している民間組織ないしは民間組織の仮面をかぶっ
た国家-こうしたものと同時に、「もう一つの国家」ないしは「国家の影」が姿を現わして
いるということである。
 こうした二重拘束状況においては、どんなに反権力的・批判的潜勢力をもつ身体的無意識も、
まさに知らず知らずのうちに、それ自身を二方向に分極させるシステム的無意識によってひき
さかれかねない。「もう一つの国家」は、田中角栄のような人問の姿をしたものとしてだげで
はなく、すでにいたるところに遍在しはじめていることを暴露してゆくべきだ。



 アメリカン・コピー・オブ・ライフ
 アメリカ人が一九二〇年代から五〇年代にいたる三十年問に経験した文化的・社会的な変化
を、われわれ日本人はこの十年間ぐらいのあいだに猛スピードで経験しているような気配があ
る。これまで日本は”集団主義〃の国だと言われてきたが、最近はある種の”個人主義〃が会
社のなかでも家庭のなかでも浸透しつつある。コンピューターを導入したオフィスでは、事務
仕事も、おのずから孤独な作業になってくるので、集団的チーム・ワークは弱まってくるし、
年長者の経験よりもコンピューターの記憶の方が尊重されるようになる。家庭内でも1特に
若者のあいだではーテレピを居間でよりも自室でみる習慣が根づきっっあり、また、ウォー
クマンに最も典型的に現われているように、日常的な世界で集団のなかの孤立化が進んでいる。‘
 問題は、このような〃個人主義”が、一方ではたしかに、かつてのムラ的集団性からの解放
感を与えるものの、他方では、あらゆるストレスを自分一人でひきうげなければならないよう
な孤立感を生み出すことである。精神分析は、まさにこうした孤立感をコントロールするため
にあるわげであり、また精神分析の流行は孤立感の増大がその一因だが、こうした孤立感が今
後ますます昂進してゆくならぼ、やがては精神分析にも手におえない事態が生じてくるだろう。
現にアメリカでは、一九六〇年代頃からそういう事態が出てきているわけで、そのことは、新
興宗教への関心とか、ウッディ・アレンの映画に、みられるような、精神分析学的発想そのもの
への痛烈な批判のなかで示唆されているが、 ”サムの息子〃殺人事件、ジョン・レノンの暗殺、
その他の”理由なき〃無差別殺人などとも無関係ではないだろう。
 日本では、いま精神療法はやりである。とくに女性雑誌は、人問関係(交際、愛情、セック
スなど)から文化一般の問題を精神療法の立場からとりあつかう傾向がひじょうに強くなって
いる。女性週刊誌に付きものの占いも、結局、精神療法の一種なのだが、人生相談なども、こ
のごろは精神分析学者や心理学者そしてもう少し宗教がかった〃霊学者”の仕事になっている。
セラピーにも関心が高まっており、有名なセラピストのところには、一時間六〇〇〇円以上の
費用を払ってやってくる”患者〃がひきもきらず、しかも最近の傾向は、”精神異常〃の人よ
りもひじょうに軽度の神経症の人-以前だったら酒をのんで忘れてしまうだろうような悩み
や精神的トラブルの持主-が多く来るという。
 アメリカにも似たような流行があった。今日の日本に似た傾向は、アメリカでは、一九四〇
年代から五〇年代にかげてひろまってゆき、今日では、『普通の人々』で息子(ティモシー・
ハットソ)がふさぎこんでいるのを心配した父親(ダーナルド・サザーランド)が、セラピス
トのところに相談にゆくよう息子に忠告するように、心の悩みは親や友人に相談するよりも、
セラピストに相談する習慣が確立してしまった。
 この映画のなかで、母親(メリー・タイラー・ムーア)が祖母に向かって、息子がいまセラ
ピーを受けていることを話すと、祖母が”そのセラピストはユダヤ人かい?〃とたずねるシー
ンがある。アメリカではセラピストはユダヤ人に限るという”信仰〃があり、実際にセラピス
トの多くはユダヤ人である。(似たような”信仰〃に、洗濯屋は中国人に限るというのがあ
る。)これは、ひとつには、精神分析の創始者ジークムント・フロイトがユダヤ人であるという
こともあるが、それ以上に、アメリカの精神分析学や精神分析療法がユダヤ人によってヨーロ
ッパから導入されたという歴史がからんでいることによる。
 ビリー・ワイルダー監督の『フロント・べージ』で、死刑因のウィリアムズ(オースチン・
ベンドルトン)が、ウィーン出身の医師エンゲルホッファー(マーティン・ゲィベル)から精
神分析がらみの質問を受けるシーンがあった。ここでエンゲルホッファー博士は、ウィリアム
ズがなぜ警官殺しをやったかを俗流フロイト主義の図式を使って解明しようとするのだが、ウ
ッディ・アレンをややうさんくさくしたような感じのウィリアムズとドイツ語なまりの英語を
しゃべるこの医師とのやりとりが何ともおかしい。『キネマ旬報』(一九七五年4月上旬号)の岡
山徹氏による「分析採録」から一部を引用してみよう。
  エンゲルホッファー「父親を殺したいと思ったり、母親と寝たいと思ったことはないか
   ね?」
   ウィリアムズはキョトソとした顔をして、傍の保安官の顔をみる。
  ウィリアムズ「この人猿談が好きたのかな?」
   医者はだんだん乗ってくる。
  エンゲルホッファー「中学校の頃に、自慰に耽ったことはあるかね?」
  ウィリアムズ「いいえ、自分も穣さないし、他の人も積した覚えはありません。皆をとて
   も愛していました」
  保安官「じゃあ、あの警官は自分で自分の頭を撃ったってのかい?」
  エンゲルホッファー「話を手淫.の方に戻すことにしよう。父親に見つかった事はないか
   ね?」
  ウィリアムズ「親父は家にいつもいなかったし、電車の車掌でしたから」
  エンゲルホッファー「うん、そうか、これは重要だ! その制服があの警官の制服と結び
   つくじゃないか。警官がピストルを抜いた時、それは男の一物に見えたに違いない。そ
   れで母親をいじめる光景と結びついて……」
   エンゲルホッファーの真剣な顔を見ながら、
  ウィリアムズ「変なんだね」
 これは、俗流化されたエディプス・コンプレックス理論を茶化したものだが、『フロント・
べージ』の原作は一九二〇年代にペソ・ヘクトとチャールズ・マッカーサーによって書かれ、
ニューヨークのタイムズ・スクウェア劇場(アラン・モイルの『タイムズ・スクェア』の終わ
りの方でこの劇場の昔ながらのファサードをみることができる)で大ヒットした戯曲だから、
このシーンはおそらくビリー・ワイルダーの脚色だろう。ただし、映画の医者エンゲルホッフ
ァー博士の故郷とされているウィーンでは、フロイトがすでに精神分析の世界的権威としての
不動の地位をきずいており、その亜流や俗流もふえっっあったわげだから、ひじょうに時代批
判の精神にみちたこの戯曲が、俗流フロイト理論をパロディ化しても不思議ではない。しかし、
一般的には、フロイト主義がパロディの対象になるのはもう少しあとのことである。
 アメリカの社会に精神分析が浸透した直接の原因は、一九三〇年代にナチの大虐殺をのがれ
て大量のユダヤ人がヨーロッバからアメリカに渡り、そのなかに第一線の精神分析学者や精神
科医がいたからである。が、もっと根本的な原因は、一九二〇年代を境としてアメリカの社会
が急速に変化したことと関係がある。とりわけ、大量生産の技術が発達して今日流の消費社会
の基礎が出来、また、新しいタイプのマス・メディアが日常生活のなかに次第に浸透していっ
たことが、アメリカ人の生活様式を根本的に変えることになった。ラジオ放送は一九二〇年に
営業開始され、テレビ放送は一九四一年に一般化されたが、これらのマス・メディアが広告・
宣伝技術と結びつき、消費社会の形式に拍車をかけた。ダニエル・プアースティンは『幻影の
時代』や『アメリカ人』のなかで、そうした変化を詳細に記述しているが、最も重要た変化は、
欲望をかきたてたり、一定の行動に走らせるために考案されたメッセージや暗示が、マス・メ
ディアや教育機関を通じて個々人の生活や意識のなかにいや応なしに入ってくる条件が確立し
たことである。子供は親が教えなくても家でコマーシャル・ソングを口ずさむようになり、親
よりも教師、さらには映画スターやスポーツ選手が日常生活の価値規準となってゆく。サラリ
ーマン社会の層が厚くなり、職場と家庭との分離も完全に制度化するが、日常生活の分業もま
すます進み、出産や軽い病気も、祖母や年長者の智恵によってではなく、近代医学をおさめた
専門医にたよるのがあたりまえのことになる。そして最後に、個々人の心の内奥までもが、外
部から医学的に操作できるものとされ、”内面〃のトラブルは、精神分析医や精神病理学者の
仕事となる。
 しかし、アメリカの精神療法は、一九七〇年代になって、以前ほどの力を発揮できなくなっ
てくる。精神分析学的であるよりも神秘主義的な精神療法に人々の関心が移る傾向も出てきた。
 その点で、デ.ハルマの『殺しのドレス』は、アメリカ人の平均的なバラノィァ(妄想)を
あらわしていると同時に、明日の日本で起こりうる事態をえがいている生言えなくもない。デ
.ハルマが好んでとりあつかラバラノィァは、孤立化された意識が陥る代表的な精神障害であ
る。『殺しのドレス』の冒頭に出てくる中年夫人ケイト・ミラー(アゾシーニァィッキソソン)
の妄想は、セックスを含むあらゆる人問関係から彼女が疎外されている不満を代償している。
精神分析医は、患者の妄想をときほぐし、”正常”な人問関係を回復させる手びきをしなげれ
ばならないが、その疎外が必ずしも特定の人物からの疎外ではなく、もっと漠然としたもので
ある場合には、精神分析医の手にはおえない。ケイトが精神分析医ロバート・エリオット博士
(マィヶル.ヶイソ)にうったえる不満は、まさにそうした漠然とした不満である。便宜的に、
柴田京子氏の「分析採録」(『キネマ旬報』一九八一年4月上旬号)を使って示す次の箇所には、あら
ゆる現実にうんざりし、人問関係を変えたくてうずうずしているケイトの気持がよく出ている。
 「で、マイクとは?」
 「うまくいってます」
 「そりゃ結構だ」
 「いえ、そんたにうまくは:…・今朝、例の一バツ特別サーヴィスがあったんだげど、もう頭
 にきちゃって。わたしペソなのかしら?」
 「で頭にきたこと、言ったんですか?」
「もちろん言いませんよ。さわられたから岬いてあげたの……男の人ってそうされるのがう
れしいんでしょ?・」
「さあ……そうなんですか?」
「こんな話、させないでよ」
「カミつくならご主人にしてくださいよ。怒ってること、彼に言いたざい」
「あなたってベットで最低よって?」
「そうなんですか?」
「ええ」
「じゃそう言いなさい」
「でも……わたしの方に問題があるのかも……わたしに魅力感じます?」
「もちろん」
「わたしと寝たい?」
「ええ」
「じゃなんで試してみないの?」
「……どうしてって、ぼくは女房を愛してるし、あなたと寝ることで結婚生活を危険に晒し
たくないんですよ。あなたは晒してもいいんですか?」
「わからないわ……」
 これは、精神分析医の待合室での雑談ではたく、アメリカでは実際によくあるセラピーの一
こまである。セラピーだからといって、別にそれほど”高級〃なことをやるわげではないのだ。
こんな会話にっきあうだげで一時間ソ十ドルももらえるのなら、セラピストほどわりのよい商
売はないように思われるかもしれないが、実際問題として、このような〃患者”の精神的トラ
ブルを解決する気でも起こしたら、それは、もはやセラピストの仕事の範囲を越えてしまう。
だが、社会のなかでの個人の孤立化が全般化し、なんとなく満たされない不満をいだいたケイ
トのような”患者〃は実際にふえているのであって、それに比例してセラピストの方にも、そ
れを解決できないいらだちが強まってゆくことにたる。その意味では、『殺しのドレス』は、
まさに、そういう”患者〃にとりまかれているアメリカのセラピストのストレスをズバリ表現
したものだと言えなくもたい。直面する問題が、精神分析医自身を含めた他者との新しい人問
関係のなかでしか解決されないことを知りながら、分析医は”患者〃とのあいだにつねに一線
を引いておかなげれぼならないのだから、分析医ほど断絶の欲求不満を日々蓄積しつづけてい
る者はいたいからである。このような毎日をすごしていれぱ、エリオット博士でなくても、カ
ミソリをふりまわしたくなろうというものである。
『普通の人々』がアメリカで封切られたとき、「この物語は教科書風の心理学に出てくること
を色々あっかっているが、青年ハットンの精神医学的”治療法〃は……いささかきれいごとで
ありすぎる」(『シネァステ』、一九八○年秋季号)という批判があったが、精神障害の要因が多
様化し、複雑になっている今日では、ジャド・ハーシュが熱演したセラピストのように劇的に
患者のトラブルを解決できる場合は少なく、そのために、最近とみに、精神分析医そのものの
機能を疑問視する声がアメリカではよく聞かれる。(これは日本ではまだ起こっていない事態
だろう。)たぶんそのためか、最近のアメリカ映画に登場する精神分析医にはマトモな人問は
いない。
『ハウリング』のジョージ・ワグナー博士(パトリック・マクニー)は、まさにその格好の例
だ。この人物は、はじめ、精神医学の権威者然とした顔で登場するのだが、やがて、彼の管理
する精神医療コロニーが猿人間の巣窟であることがわかる。わたしは、一見こげおどしのホラ
ー映画にもみえかねないこの作品をみおわって、その現代風刺にすっかり感心してしまった。
大ざっぱに言って、わたしは、猿人間こそ現代人の置かれている姿だと考えるのであり、従っ
て、精神分析医がまとめ役になってそうした猿人問を管理し、しかもその管理役がその役目を
もてあましているというワグナー博士のコロニーほど、現代のアメリカ社会の一面を象徴して
いるものはないと思うのである。そして、そういう社会のなかではセックスも、もはや個々人
を相互に結びつける媒介ではなく、個人と個人とが断続したまま擬制の相互関係を体験する行
為でしかなくたる。『ハウリング』に出てくるセックス・シーンで、行為がたかまるにっれて
男と女の姿が狼に変貌し、性のあえぎが狼の稔り声になってゆくというのがあったが、これは、
今日のセックスの実に鋭い-しかも風刺精神にあふれた1とらえ方だ。
 アメリカで精神分析に対する批判が徐々にたかまってきているのは、これまでの人問関係や
個人の状況が少しずつ変わってきているからである。すでに、いくつかの映画のなかにそのよ
うな徴候がみられる。たとえば、『タイムズ・スクェア』のなかで、トリニ・アルパードとロ
ピソ・ジョンソンが演ずる二人の少女は、病院の精神科で出会うが、二人は意気投合してそこ
をぬげ出す。ここでも、精神医学はバカにされているわげで、病院をぬけ出した二人のその後
の生活は、ニューヨークの狼雑な街で浮浪者、ホモ、薬中、異民族にとりかこまれながら自由
奔放に生きる方が、精神医学のやっかいになるよりよほど健康なことなのだ、と言わんばかり
に生き生きしている。
 これが、『サンフランシスコ物語』になると、これまでのアメリカ映画があまりまともには
あつかってこなかった庶民的連帯感のようなものが強調され、それぞれに心に深い傷のある登
場人物たちが、セラピストではなく仲間たちとの接触のなかで、その傷をいやしてゆくわげで、
ちょっと、ひと昔まえの日本映画の世界を思い出す。これは、映画においても文学においても、
ある種の〃個人主義”のなかにナウい側面を見い出す傾向のある最近の日本とはひじょうに対
照的なことだと言えるだろう。



ミドル・クラスの”文学〃的事件
 文学とはいまや、書くこと、読むことに主として関わるパフォーマンスの総体なのであって、
たとえば街頭でくばられるチラシを読むことも、アンケート用紙に署名することも、やはり
”文学〃(的パフォーマンス)なのだと受取るべきだろう。その意味てば、「文学者反核」運動
は、一九八二年における最大の文学的事件であった。それは、”文学者〃によって署名される
ことによってはじまり、そのことが新聞や雑誌に書かれ、人々によって読まれることによって
広まった。
 この”反核〃を文学の側から問題にする場合に重要なのは、”文学者の政治責任〃などでは
なく、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に署名した”文学者〃たちの署名しかたであり、
その後続出した類似の署名に対する署名者・非署名者の対応しかたである。”文学者〃の世界
では、この声明が一月二十日に発表されてからニケ月ほどのあいだに四〇〇名以上の”文学
者〃がこの声明に一応の讃同を示したが、この声明を「文学者」に対する”踏絵〃であるとす
る異議もあらわれ、必ずしも”反核〃の足なみはそろったとはいえなかった。しかし、「文学
者」による〃反核”署名が触発した〃反核”運動1というよりも〃反核”署名熱は、マス・
メディアの積極的なキャンベーンとあいまって急速に加熱してゆき、小学生が”反核〃の署名
を集めるといった話題も新聞紙上をにぎわした。
 こうした”反核〃署名熱に特徴的なのは、十年まえであったならば、かなり政治的ないしは
党派的な意識の強い人々しかしなかったであろうような行為を、人々が比較的気楽に行なった
という点である。”文学者〃たちの場合も、あとにたって色々な弁明やコメントが出されたが、
全体として、その署名の動機は、”文学者〃としての”政治責任〃からであるよりも、むしろ
一市民としての生活感覚から発していたようにみえる。
 署名を集めるということは、一九六〇年代にはまだ”左翼〃的パフォーマンスの一つであっ
たが、その後住民運動などを通じて、市民の生活のなかに浸透しはじめ、八○年代には、ミド
ル・クラスの人々が既得権を保持するために行なうごくありきたりのパフォーマンスにまでな
ってきた。その意味で、”反核〃署名熱には、高度経済成長期を通じて営々と築きあげてきた
ものを核戦争で一瞬にして失ったのではたまったものではないという日本のミドル・クラスの
生活感覚が期せずしてあらわれており、政治意識ではなくて生活感覚がこの”運動〃を推進し
たため、それは〃党派”やイデオロギーを越えてひろまった。ただ、こうした生活感覚にとっ
て”核〃は、ヨーロッバのように、ミドル・クラスの生活を持続的に脅かすものとしてはとら
えられていないので、”核〃の脅威を訴えるマス・コミ・キャンペーンが下火になるにつれて、
”反核〃署名熱の方も次第におとなしくなっていった。が、いずれにせよ、一九八二年の”反
核”は、日本のミドル・クラスーつまり個人の市民的欲求の充足を主要た工-トスとする階
級一がどの程度まで成熟しているかということの重要な指標である。
 ミドル・クラスの成熟、市民的欲求の拡大という点で見逃すことができないのは三越事件で
ある。この事件には、当然、さまざまな偶然的要素が介入しているが、この事件に対するマス
・メディアと大衆の反応は、明らかに旧タイプの百貨店経営が転機にさしかかっていることを
確認させた。実際、一九八二年度上半期の総売り上げで日本橋の三越は池袋の西武にはじめて
追い越されたが、これは、購買者の主要部分を占めるミドル・クラスの欲求の変化と無関係で
はない。
『昭和五七年度国民生活白書』によると、一九八一年度もひき続き勤労者世帯の「可処分所
得」は減少しているが、それにもかかわらず、家屋、冷暖房、自動車などの耐久消費材の維持
費や、インテリアの購入、レジャーといった高級消費は減少してはおらず、この傾向は一九八
二年度も続いている。高度経済成長期を通じて、実質的な生活に必要な消費材はひととおり浸
透し、その後は生活の質の向上が消費の主要部分を占めるようになった。百貨店もこうした傾
向に敏感なものは、販売の重心を実質的な商品から高級商品さらには文化商品に移し、消費者
のターゲットをそうした商品の主要な購買者層であるミドル・クラスにしぼる傾向がみられる。
 こうした傾向は、単に百貨店においてだげでなく、都市の現象全般のたかにあらわれている。
むろん、実質的な商品を売る店が街から姿を消したわけではないが、乾物屋や食料品店が”グ
ルメ・ショップ〃に、酒屋が”リカー・ショップ〃や”ワィソ・セラー〃に、食堂やレストラ
ンが”ビストロ〃や”リストラソテ〃に、古道具屋が”アソティク・ショップ〃に、洋品店が
”ブティック〃になり、いままでなかった自然食品店、高級な入浴用品専門店、香水専門店、
額縁や模写プリントを扱う店などが街の外観を一変させつつある。これは、確実に高級消費が
根づいていることを意味すると同時に、高級消費を持続的に行なうことのできるミドル・クラ
スの層が厚みをましていることを意味する。
 そうした変化にともなって、ミドル・クラスのなかには郊外よりも都心の生活を好む老も少
しずっふえはじめた。すでに一九八○年ごろから”シティニフィフ〃や”アーバンニフィフ〃
をキャッチ.フレィズにした新しいタイプのマンションが都心に建てられるようになったが、
これらは、従来のアパートやマソシヨソのように便利さと効率だけを追求したものではなく、
文字通り”シティニフィフ〃や”アーバンニフィフ〃を楽しむミドル・クラス以上の階層を対
象にして設計されている。また、独身者用のユニットも多様になり、ホテルを住居として利用
する者もふえてきている。
 都心に住む独身者の数はますますふえており、これは、結婚しない女性の増加、労働市場へ
の女性の進出、家庭環境の変化、さらには物品生産からサービス生産に産業構造のウエイトが
変化したこと等々と無関係ではないが、この傾向が今後このまま続くならば、郊外と都心との
文化的相異は相当はっきりしたものになるだろう。郊外生活者の大半は、長期の住宅ローンに
よって得た個人の持家に住む人々である。統計では、住宅ローンの新規貸付件数と貸付金額は、
一九七九年をピークに二年連続の減少を示しているが、ローンの返済期問が最低二〇年はある
ことを計算に入れると、住宅ローンで入手した家に住む郊外のミドル・クラスの生活感覚と文
化は、都心に住むミドル・クラスのそれよりもはるかに保守的なものにならざるをえないこと
が理解できる。事実、文化的には、「都市」と「田舎」といった対概念はもはや有効性をもた
なくなっており、都心の都市文化とともに郊外の都市文化が確実に形成されつつある。
 ロッキード裁判も、ひき続きマス・メディアで書かれ読まれた欠きた文学的事件の一つであ
った。もともと裁判とは、エクリチュール(書くこと)とレクチュール(読むこと)をめぐる
社会的・政治的パフォーマンスであるが、いまこの事件の調書がどう読まれ、それにもとづく
判決がどう書かれるかはひとまず描くとしても、この事件が、田中角栄元首相を含む政治家た
ちの「政治倫理」や多国籍企業化した総合商社の管理者たちの「社会道徳」の問題以上のもの
であることは明らかである。ロッキード事件で明るみに出た政治的・経済的パフォーマンスは、
日本の政治・経済システムが高度経済成長を通じて昂進させたものの帰結であり、このシステ
ムが成長主義を墨守するかぎり不可避的に生ずる事態であったと言うことができる。
 田中角栄は、高度経済成長を最も積極的に推し進めようとした政治家であり、イデオロギー
的にも人格的にも高度成長のアンチヒーローであった。従って、田中角栄は、高度成長を通じ
て大なり小なり成り上った日本人1一とりわけミドル・クラスの代表的人格であり、日本のミ
ドル・クラスは、程度の差はあれ、自己のうちに田中角栄の分身を宿していると言えるわけで
ある。その意味で、ロッキード裁判において田中角栄に下される判決は、システム全体からみ
ると、高度成長をとげてきた日本の政治的・経済的、さらには文化的なシステム自身が、白ら
露呈させた諾矛盾をどのように解消してゆくか、要するに低成長を事実として受け入れなげれ
ぼならたくなったシステムが、依然いたるところに残存している高度成長のお荷物をどのよう
に処理するか、という問題に通底しているのである。高度成長の歓迎すべからざる生き残りが
自然消滅することを期待してロッキード裁判をうやむやにしてゆくか、それとも高度成長をき
っぱりと解消するためにこの裁判を活用するか、それは中曾根新体制のきわめて深刻た課題と
なるだろう。ただし、中曾根内閣がいずれの方向をめざすにせよ、今日の世界-とりわけア
ジア諸国1に対して日本がとっている政治的・経済的姿勢が本質的に不変であるかぎり、高
度成長のツケは、どこかに回されっづげるだろう。
 教科書検定問題は、その意味で非常に示唆的である。教科書検定とは、教育に対する国家介
入である以前に、書くことと読むことに対する国家の干渉であり、民主主義国家にはあるまじ
きことであるが、一九八二年に問題になったことの核心は、当面これとは無関係である。検定
問題は、ほとんど常にその執筆者の側から出され、その「読者」の側から提起されることが少な
い。これは、検定問題が執筆者の言論の自由にかかわる問題であるからであると同時に、教科
書が現在の受験競争、塾学習熱の状況下では「読者」にとっての重要性をますますもたなくな
っているからだということもあるだろう。そしてその意味では、教科書検定の問題には、高度
成長期の後半からますます強まった国家管理と利己的た競争主義の矛盾が露骨にあらわれてい
るとみることができる。
 しかし、そうした矛盾が、教科書の国内における「読者」によってではなく、国外一とり
わけアジアー-の「読者」によって厳しく批判されたという点は、よく考えてみる必要がある。
すなわち、教科書検定問題は、高校社会科教科書における歴史的事実の「書き方」の問題をめ
ぐって中国と韓国が抗議したことによってピークに達するわけだが、同様の批判は他のアジア
諸国からも出され、この検定規準がいかに白国中心的なものであるかが暴露された。
 言うまでもなく、検定教科書の「書き方」に対するこうした批判は、単に歴史的な事実関係
に対する真偽の問題から発しているというよりも、高度経済成長期を通じて飛躍的な規模で行
なわれ、そしていままだ続いているアジァヘの日本の経済進出に対するアジア諸国民の潜在的
な反感や反発にもとづいている。この進出は、ロッキード裁判で疑問視されているのと同質の
政治的・経済的拡張主義の必然的結果であるが、ここにおいても日本の政治的.経済的システ
ムは大きな難問に直面しているわげである。
 IBM産業スパイ事件は、日米のコンピューター産業問の熾烈た競争を浮きぼりにしたが、
日本の産業システムが低成長の時代における効率のよい新しい産業として大いなる期待をかげ
ているのがコンピューターである。その浸透は、実に急速に行なわれ、管理機構の情報化、オ
フィス・オートメィション(OA)にはむろんのこと、電算植字やワードプロセッサーのように
文学の世界にも異変をまきおこしっっある。いまや、明らかに量的な成長主義に代わって質的
な効率主義が台頭しはじめたわげだが、このコンピューター化された効率主義が昂進する場合、
産業システムの効率はますます高くなるから、人手はそれだけ不要になってゆく。そこでは、
高齢化して働けなくなった老人だけでなく、働いてもらっては困る「余分」な労働者群がます
ますふえてゆくため、これまでのような仕事中心主義や働き中毒は通用しないだげでなく、有
害なものとなってゆくだろう。
 しかし、その場合、産業システムの最も効率の高い部分で働く者のあいだでは、いま以上に
強度の働き中毒が維持される可能性がある。言いかえれば、高度の技術をそなえて過剰に働く
上流専門職の階層と、極度の怠惰を強制される階層との格差が極端にならざるをえないかもし
れない。その結果、社会の大きな部分に怠惰文化がひろまってゆくと同時に、他方で羽田沖に
墜落した日航機の機長のように、知識・情報集約型の労働に従事する者の精神病理学的なトラ
ブルがますますふえてゆくはずである。
 高度経済成長は、同時に脱工業化社会ないしはサービス社会の形成過程でもあったが、サー
ビス社会が移成されるにつれて、あらゆる労働1たとえば主婦の家事労働や女性社員の「笑
顔」-すらが有料になり、人はタダ働きをしなくなる。サービス社会では、金を払いさえす
れぼほとんどいかなる労働でも購入することができるが、その価格はますますっり上がってゆ
くので、それを購入できる階層は限られてくる。大半の人々は、 「ドゥー・イット・ユァセル
フ」の文化に習熟して、いままで主婦や助手にやらせていたことを自分でやらなくてはならな
くなる。
 フェ、・二一ズムや外食産業の伸張も、こうした状況と無縁ではないが、「ドゥー・イット・ユ
ァセルフ」の文化を徹底的に発展させることのできない日本のような社会では、サービス社会
化が進めば進むほど安い非知識集約型の労働-従ってミドル・クラスのいやがる労働が
不足してくる。すでに都心では、東南アジアから入ってくる一種の「ゲスト・ワーヵ-」が、
セックス産業やその他のサービス産業で目立つようになっているが、この問題は、今後日本の
社会・思想的環境のなかで深刻さをましてゆくはずである。



収容所のうちそと
 今日では人々は、都市を解放空間であるよりも、ある種の強制収容所だと思いはじめている。
日本の狭小空問的都市文化を愛する者でも、都心と郊外のベッドタウンとのあいだを往復する
電車のラッシュ・アワーの恐るべき身体的密着度には、アウシュヴィッツヘ向かう列車の車内
もこんなふうだったのではないかと思うことがあるはずである。
 しかし、都市を収容所と見なすことと、都市が現に収容所であることとは同じではない。た
しかに、アドルノ空言ったように、ファシズムの強制収容所は、後期市民階級白身の歴史の帰
結であり、そこで起こったことは、後期市民社会で起こっていることの集約的表現である。だ
が、多くの場合、現代の社会装置を収容所と同一視する発想のなかには、そうすることによっ
て、日常の最も目立たない権力装置から最も強制的な権力装置に至る「大いなる監禁連続体」
(フーコー)を発見するのではなく、むしろそういう連続性を表象のなかでだげもてあそび、そ
の現実をうやむやにしてしまうような意識がひそかにはたらいているような気がする。
 これは、シカゴ派の都市論者ルイス・ワースによる研究『ゲットー』(一九二八年)以来ひろ
まった大都市=ーゲットー説について空言えることで、ゲットーとしての都市という発想は、収
容所としての都市という発想よりも一層ポピュラーだろう。日本語の「収容所」という言葉は、
ソルジェニーツィンの長篇小説が『収容所群島』として翻訳されることによって、ナチスの「強
制収容所」という言葉のもつ意味を越えて使われるようになったのであって、都市の狭小空問
的、拘禁空間的、閉塞的性格を表わす言葉としては、それまでは、「ゲットー」の方がよく使
われてきた。しかし、その場合にも、われわれがゲットーの実体をどこまで知っているかとい
うと、それはかなりあやしいかぎりなのである。
 収容所にしても、ゲットーにしても、これらが何かとして見なされるとき、そうしたイメー
ジの源泉は小説や映画から来ていることが多い。ゲットーや収容所のステレオタイプというも
のがすでにわれわれのマス・メディア化された意識のなかにある。かって武井昭夫は、『批評
の復権』(晶文杜)に収められた一文のなかで、高橋和巳が『憂欝たる党派』のなかで描いてい
る警察署の描写がいかに非現実的でうそっぱちなものであるかを克明かっ痛烈に批判したこと
があったが、ゲットーや収容所で実際に生活したことのある者にとっては、ゲットーとしての
都市、収容所としての都市といった発想は、たいていの場合、ひどく甘っちょろいものにみえ
るはずである。とはいえ、実生活だけが思考と表現の現実性を決定するわけではない。一度も
ゲットーや収容所で生活をしたことがなくても、その生活を別の形で共生することはできるは
ずだ。
 都市を収容所としてとらえる場合、問題は、収容所を都市から切り離された特殊な場所とし
てではなく、都市と連続性をもった社会装置として、しかも収容所の側からとらえることがど
こまでできるかである。近年わたしは、東アジア反目武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう
支援連絡会議によって編集・発行されている『支援連ニュース』にのっている獄中者たちの手
記を日本語で書かれた他のいかなる論文の現実把握よりもリアリティを感じながら読むことが
多い。また、「滝田事件」救援会が発行している『エヌ無限大』に毎号連載されている滝田修
こと竹本信弘氏の「どぜう庵通信」の極度に日常的な身辺記述に、わたし自身の惰性化した日
常生活のなかで見落している権力の語形態とそれが生み出す矛盾を発見して驚かされることが
よくある。
『支援連ニュース』第22号(一九八三年5月)で大道寺将司氏は、「最近ムチャクチャにエスカレ
ートしてきている報道管制」について書いている。五月二目に記されている彼の手記によると、
最近東京拘置所内では、外国語に対する検閲が特に厳しくたり、来信の文章のなかにある日本
語の対訳や説明のついたアイヌ語やシャイアン語も全都黒くぬりつぶされるという。また、。
「天皇ヒロヒトについて触れたもの」に対しても検閲はより厳しくなっているという。発信に
対しても検閲は強化され、外国の友人に宛てて書かれた手紙のうち獄中生活、獄中闘争、過去
の闘争について書かれた部分がゴッソリ抜きとられるといった有様だという。
 これらのことは、直接的には、「獄中と獄外の団結、連帯を妨害しようということ」である
が、大道寺氏が指摘している次の点こそ締めっげの強化が本来意味するところである。
「獄中のあり様は、市民社会のあり様の先取りです。獄中での弾圧の強化は、明日の市民社会
での弾圧の強化にっながっていきます。」
 すでにミッシェル・フーコーは、『監視と処罰-監獄の誕生』(田村傲訳『監獄の誕生』、新潮
杜)のなかで、監獄と市民社会、監獄と近代都市との関係を従来のスタティックな権力論をほ
とんど無効にするすぐれたアプローチを展開した。フーコーによれば、市民の住む都市があり、
その中心に権力中枢があるのではなく、都市には、「各種の構成要素-障壁、空間、制度、
規則、言語表現-1-から成る多様な網目」としての権力が支配しているのであり、従ってそれ
自体において「監禁都市」である都市に存在する「監獄は法律や法典や司法装置の所産ではな
い」。それは、裁判所に従属するのではなく、むしろ裁判所が監獄に従属するのである。が、
監禁的権力の中心的な位置を占める監獄は、「孤立しているのではなく、他の一連の《監禁》
装置すべてとっながっており」、しかもこれらの装置はそれぞれのやり方で監獄同様に「規格
化の権力をふるうことを目ざす」。だから、「これらの装置が適用される対象は《中央部の》法
律への違反事項なのではなく、生産装置《商業》や《工業》をめぐる多種多様なすべ
ての違反行為」なのである。
 監獄をこのように、いわば権力の中心的「仕-組」とみなすことができるとするならば、監
獄で起こっていることは、すべて都市のなかでも何らかの形で起こっているはずだ。それは、
どちらかが他方の”縮図〃であるといったようなことではないし、必ずしもどちらかが他方の
動向を先取りしているとも言えない。権力の動向を監獄の方がより顕在的に、あるいはより早
くあらわす場合もあれば、逆に都市の方がそうである場合もある。とはいえ、都市にはその監
禁の機能を見えにくくし、その衝撃をソフトにするさまざまな装置があるため、多くの場合、
権力の動向は、監獄のなかの方が都市におけるよりもより早く、よりはっきりと認識されるよ
うにみえる。
 ところで、監獄はある種の収容所であるが、収容所は必ずしも監獄ではたい。精神病院のよ
うな収容所もあるし、ニューヨークには、都市のどまんなかに浮浪者を収容するパブリック・
シェルターがいくつもある。 一九二九年に、N・コルビュジェは、「浮かぶ収容所」号という
船を設計して就航させたが、これはセーヌ河に浮かべられた浮浪者収容所だった。つまり、収
容所には、文字通り”強制収容所〃としての監獄から”保護施設〃という美名に隠されたもの
まであり、その監禁機能も、文字通りの監禁から治療的なものにまでまたがっている。こうし
た監禁的収容と治療的収容とは、多くの場合、分業化され、都市は後者の機能を積極的ににな
うことになるが、こうした二つの機能は、それぞれ別のものではなく、収容所が存在する場合
には、それが一見”監禁的〃ないしは、”治療的〃にみえるとしても、必ずこの両者の機能を
並存させているのである。
 一般的に言って、先進産業国では、監禁の強制的機能は狭義の国家権力によってになわれ、
監禁の治療的機能は広義の民間的権力によってになわれている。そしてその際、この国家権力
は人々の労働の自発性を強制的に監禁するのであり、この民間的権力は人々の消費の自発性を
ソフトなやり方で監禁する。しかし、これらのことは、一般に考えられているほど別々に行な
われるのではなく、両者はいりくみあっており、国家権力も民間権力もそれぞれに、労働の自
発性を監禁する機能とともに消費の自発性を監禁する機能をあわせもっている。
”既決囚〃と”未決囚〃とでは条件が大いに異なるが、先進産業国では監獄にも消費は存在す
る。浦和拘置支所に在監させられている竹本信弘氏は、先の「どぜう庵通信・別荘篇4」で、拘
置所内での消費の様式を克明に記述している。所内で購入できるものとして彼がリスト・アッ
プしているものは、大体食品類が多いが、その種類は、病院の売店や田舎の雑貨店にならべら
れているものの種類に近い。しかし、根本的なちがいは、その購入方法であり、注文してから
現品が”消費者〃の手もとにとどくまでに「早くて一週間、ややもすると二週間も」かかる点
である。竹本氏によると、その売買方法には「時間にしろエネルギーにしろたいへんな無駄」
があるわけだが、商品流通の徹底的な計画化と管理化という点では、原理的には、ひじょうにー
効率が高いのである。この方法によれば、消費されないものを寝かさないですむだろう1実
際にはそうしていないとしても。少なくとも、監獄の消費システムには、現在の支配システム
が都市において実現したくてもできないことと、今日の都市においてすでに現われていること
とのあいだの矛盾・対立が集約されている。
 同じことが労働について空言える。日本国憲法第二十七条によると、「すべての国民は、勤
労の権利を有し、義務を負う」。この意味は、すべての国民は労働の権利をもっているが、も
しそうだとすればその場合には、その権利に対する義務を負う、ということであって、国民は、
すべて国家によって労働を強制されているという意味ではない。しかしながら、われわれの都
市生活は、大抵の場合、「勤労の権利」を自分で決定することを奪われているのであり、一方
的に勤労の「義務」だけが課せられているのである。そして、それは、監獄において最も純粋
な形であらわれることにたる。
 一九五二年以後目本で獄中者が炭鉱の坑内作業にかり出されることはなくなったが、この変
化は、決して”人道主義〃的な理由にもとづくものではなく、原竜次氏が『監獄』(ご二書房、
一九六一二年)で指摘しているように、エネルギー源が石炭から石油に転換されたという産業構造
の変化によるものである。原氏は、本書のなかで「刑務所における懲役の作業」を克明に報告
しているが、それはまさに、一九五〇年代から一九六〇年代にかけて つまり日本の高度経
済成長期において都市のあらゆる労働現場で行なわれたこととそれがはらんでいる諾矛盾
との集中的表現である生言える。原氏は、「資源の需要度が、低くなり生産が、過剰となり、
労働が機械によって、充分捕なわれる方向をたどると、囚人たちは最も退屈で手間ばかりかか
る手工業をやらされる」、と言っている。その意味で、いま最も必要なのは、高度経済成長以
後、産業構造がハィニァクノロジーと情報操作に集中するようにたった状況下における刑務所
労働の労働を強制されている獄中者の側からの現場報告である。
 情報資本主義化された都市で顕著になってくるのは、失業者や浮浪者の増大に象徴されるあ
る種の怠惰文化であるが、これは、一九三〇年代の大不況のなかで起こったこととは異なり、
産業システム自身の構造変化のために、もはやかつてのような労働力を必要としなくなったと
いう内的必然性にもとづいている。つまり、現代の失業と怠惰は、システム自身から要請され
るのであり、権力が”労働の拒否〃や”反労働〃を強制したり、勧誘したりするのである。こ
こには、働きたくても働けないという不白山が存在すると同時に、働かないということを”国
民〃の権利として新たに主張できる逆説的な解放可能性が存在するが、この両義性とアンヴィ
バレンツは、都市においてだげでなく、監獄のなかにも存在する。
 イタリアで一九七〇年代後半に燃えあがったアウトノミア運動は、強制された労働の拒否、
労働の自発性の監禁に対する反対闘争を主軸にしていた、といまでは言うことができるが、こ
の運動が一九七九年に国家11民間権力によって全面的に弾圧されたとき、政治学者のアントニ
オ.ネグリはこの運動の中心人物として「国家権力反逆罪」に間われて逮捕され、ミラノ郊外
のレッピビァ刑務所に収容された。彼は、『ラ・レハブリカ』(一九八二年3月24日号)のインタヴ
ユーに対して、その独房生活の本質を、「権力の遍在化」とい至言葉で言いあらわしている。そ
こでは、獄中者は、「監獄の一部分」、監獄の「付属肢」となるように強制され、「自分をまも
るためには、何も経験したいようにしなげれぼならない」、つまり一切の自発的労働を放棄し
たげれぼならないのである。ネグリ氏が入れられたレヅビビァ刑務所は、決して高度に進んだ
刑務所とは言えないが、特報資本主義化されたシステムに見あった”先進的〃な刑務所で獄中
考がいかに孤立化させられ、労働の自発性を監禁させられるかは、マルガレーテ・フォン・ト
ロヅタ監督の映画『鉛の時代』でもある程度表象できるし、また、『支援連ニュース』第8号
に掲載されている片岡利明氏の「第二種独居房」(通称「自殺促進房」)についての報告でもか
たりイメージできるだろう。
 こう考えてくると、大逆寺将司氏が『支援連ニュース』第22号で、最近の監獄内の状況変化と
して指摘している現象は、監獄の外部でもすでに起こっていることの集中的表現だと一言わなけ
ればならない。すでに述べたように、監獄とは単に一枚岩的な権力が抑圧を行使する手段では
なく、諦権力が矛盾をはらみながら集約される場であり、その集約度の強度がそれを都市や他
の”収容所〃と区別しているにすぎないわげだから、監獄における天皇や外国語に関する表現
の検閲強化は、単に”国粋主義〃的なものの復活と強化を意味するのではなく、”国粋主義〃
的・天皇制的な国家権力と脱”国粋主義”的・トランス・ナショナルな企業権力との矛盾・相
剋という権力構造全体の変化に対応していると言えるかもしれない。ロッキード事件は、まさ
にこうした構造変化を露骨に示したものであり、天皇制的な国家権力をトランス・ナショナル
た企業権力の従属下に置こうとした田中角栄の”有罪〃または”無罪〃の確定が依然としてあ
いまいにみえる現状は、この権力構造全体の変化が、都市から監獄にいたるあらゆる収容所に
おいて依然進行中であることを意味している。従って今後は、ナショナルな”収容所〃におい
ては、より天皇制的なものが強化され、トランス・ナショナルな”収容所〃においては、何ら
か脱天皇制的なものが強められ、全体として両者の相剋が激化してゆかざるをえないわげであ
る。



 ミクロ都市としての身体
「花鳥風月」という言葉を仏訳するので辞書をひいてみたことがある。その和仏辞典にはあい
にく「花鳥風月」の項はなく、そのかわり「花鳥風月を友とする」という日本語の仏訳とし
て、aller planter ses chouxがあげられていた。これは、直訳すれば、 「田舎にキャベツを
植えに行く」という意味だが、慣用句として「田舎に隠退する」さらに転じて「自分に合った
素朴な仕事に専念する」といった意味で使われる。あきらかに、これでは「花鳥風月を友とす
る」の訳になっていない。いま仮に、「花鳥風月」を日本語の辞書の月並な定義に従って〃自
然の美しさ〃と受けとるとしても、フランスの田舎と日本の田舎とは条件が違うし、また、田
舎へ行げば”自然の美しさ〃に接することができると思うのは単純すぎる。自然は、それが白
然のまま見られ対応されるときは”美しく〃も何ともないのであって、まして「花鳥風月」の
ようなある特定の歴史的・社会的美意識は、自然に対する何らかの特定の視角や姿勢なしには
形成されることがない。言いかえれば、自然それ自体が、「花鳥風月」的であるのではなくて、
自然に対するある時代、ある社会の人々のパフォーマンスが「花鳥風月」という美意識や身ぶ
りを形づくるのである。が、そうだとすれば、「花鳥風月」を論じるためには、まず、この「花
鳥風月」的パフォーマンスがどのようにして形成されたかが考察されなければなるまい。
 江原恵は、『まな板文化論』のなかで、明治中期以降の日本料理の動向にふれながら、「新し
い料理の技巧を考え出しても、何かに見立てる際のモチーフは、きまって『花鳥風月』てあっ
た。丸ビルや飛行機やゴッホの絵に見立てることはなかった。古風な美の濡れ髪であり、つく
ぼねであり、小川であり、網笠であり、ほくろであり、夕暮であり、うちわであり、遠山であ
った」と言い、「花鳥風月の美は、理屈抜きで誰にでも美であるという、伝統的な美意識が、
その類型的な見立ての美学の土壌にはある」ということに異議をとたえている。
 たしかに、これは料理においてだげでなく、芸術から日常生活にいたるあらゆる”日本的〃
パフォーマンスを意識化する際に立ち現われる傾向だと言えるだろう。きわめて人口に廠灸し
た説によると、それは、「日本人の生活文化は、古来、世界のどの民族よりも風土性が濃厚で
あった」からだという。すなわち、西田正好『花鳥風月のこころ』によれば、「衣食住のすべ
てについて、日本人ほど自然環境に敏感な民族はいたい」のであって、「また日本料理も、自
然のままの素材をできるだけ活かし、盛りっげにはっとめて原形をこわさないように配慮する
ものが多いLのであり、「通風のきいた開放性のある和風建築は、自然と生活の結びつきを大
事にするための可能な条件をそなえ」、「自然との一体感を室内のひとたちに与える」。また、
「障子によって庭の自然をへだててしまうことにさえ不満な日本人は、室内にまであるがまま
の自然を取り込んで草花をいげるのだ。華道の古い伝書を見ていると、いずれも自然をそっく
り写し取ることが、いけばなの本来の心であったということがわかる」という。
 しかし、はたしてこのような「花鳥風月」的パフォーマンスは、西田の言うように「ひたす
ら自然に同化し没入しようとする願望」が日本的な伝統のなかで強かったために生じたのだろ
うか。衣に関して西田は、「自然の変化に対応して生じた日本人の生活習慣や生活儀礼のきび
しさは、まったく強迫的でさえある。冬に平気で夏服を着ている無頓着な外人とは、話がだい
ぶん違うようだ」と言うが、日本人が自然環境に敏感ならば、なぜ”衣更〃の厳密な時期など
に拘泥しないで、たとえば現代のニューヨーカーのように、秋期でも暑ければ夏着にならなか
ったのであろうか。”衣更〃というのは、きわめて人工的なパフォーマンスではないのか。
 食に関して西田は、日本料理が格別「しゅん」を重んじてきたと主張するが、これも条件付
でしか認めることができない。江原恵は、前掲書のなかで、「米のめしが主食で料理(惣菜)
は副食であるというのが、階級の上下を間わず、古代からの伝統的な習慣である」ことを詳細
に指摘し、欧米の肉料理をもってシュンがないというのなら、日本の主食である米だってシュ
ソはないのであって、日本の副食のシュンを問題にするのであれば、たとえばフランスのカキ
料理のように、向こうにもシュンを認めなければなるまい、と言っている。江原によれば、
”シュン〃とは、「徳川幕府の安定した統一政権と鎖国による封建的な島国の単一民族的文化の
伝統のなかで、はじめて形成された価値観である。それ以前の時代には、支配階級の食膳にさ
えシュンの美学を読みとることはできない」のであって、シュンもやはり、日本人が昔から自
然にめぐまれ、国土に敏感であったためにもっていた何か先験的な伝統ではなくて、ある時代
のなかで、ある特定の社会グループによってきわめて意図的に形成されたパフォーマンスなの
である。
 日本的住いの「花鳥風月」という俗説については、少し詳しく論じなければならない。とい
うのも、まさにここにこそ「花鳥風月」的パフォーマンスの由来を解明する鍍がかくされてい
るからである。俗説によれば、「紙の障子一枚で庭と接している和室は、気候・風土の異なる
欧米人の常識や感覚からいって、おそらく驚異的であろう。雪見障子などはむろんのこと、障
子紙の白さは、部屋を閉ざしてもなお庭の草花の色どりをほのかに反映し、自然との一体感を
室内のひとたちに与える」(西田正好、前掲書)、ということになる。しかし、ここで想定されて
いる建物は、自然の荒野にむき出して建てられているわけではなく、庭に囲まれており、この
庭は一たとえ”自然〃の山紫水明を模したものであれ一構成されているのである。また、
日本の伝統的な建築が”自然〃との接触にきわめて寛容であったとしても、居住空間として跡
まれたードィツ語で”空間〃を意味するヵ彗昌の語源は”囲いをする〃から来ている1
自然は、もはやありのままの自然ではない。ワルター・ベソヤ、ミソは、 「カメラに語りかける
自然は、眼に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ、人間の意識に浸透された空間
の代りに、無意識に浸透された空間が現出するところにある」(田窪.野村訳「写真小史」)生言
っているが、まさに問題の伝統的な日本建築と自然との関係は、カメラと自然との関係に相当
するのであり、そこでは自然がどんなに”写実的〃な像を結ぶとしても、それはやはり何らか
の構成を受けているのである。
 その意味では、カメラが”視覚的無意識〃を発見させたように、自然はむしろ建築の存在に
よってはじめて発見されるようになったのであり、日本の「花鳥風月」的な自然も、たとえば
「書院造り」という建築的パフォーマンスによってはじめてその像を結ぶことができたのであ
る。このことは、中世の「わび」や「さび」や「幽玄」の美意識が、「市中の院」つまり都市
のなかに人工的につくられた「草庵」と密接な関係をもっていたことに最も明快なパラダイム
を見い出すことができるであろうし、また、それ以外の古代や近代、さらには現代の建物と美
意識”リアリティ”の意識一とのあらゆる関係についても同じことが言えるだろう。
 すでに岩本素白は、『日本文学の写実精神』(一九四三年)のなかで、日本文学を貫いている
二つの欠きた流れ」である花鳥風月への執着、つまり「写実精神」が都市と深い関係をもっ
ていることを鋭く指摘していた。岩本案白は、大和、平安時代を例にとりながら、「大和は、
殊に橿原を中心とする大和は、まことに程よい広さを持った明るい平野の中に、数個の愛すべ
き小丘陵を据えて、その周囲を和高く峻しい連山に取巻かれた所であるLこと、そして「その
後文化の中心は山城に遷ったが、此処は説明するまでもなく明媚清澄な土地である」ことを認
めたうえで、にもかかわらず、「日常棲息する地域が当時の人々の気質性情、延いては文芸に
対する態度傾向を支配し限定する力の、多く又強かった事」に注目する。
「平安京を中心とする時代に於いては、作家は殆ど貴族という隈られた階級の人々であり、而
してそれらの人々は又殆ど狭い基格に限られた都市を出なかった人々である。都会というもの
は、其の性質上、如何なる時代に於いても極めて狭苦しいものである。而して常に問近に物を
観、身近く物を感ずる事は、人をして知らず識らず日常の言語に於でさえ写実的表現を為さし
むるものである。都会的という事と写実的という事とは、切り離し難い繋がりに在ると一言って
よい。山城の京を中心とする文学は実に久しきに亘って居たが、後年これが江戸に移ってしま
っても、その江戸という都市を載せて居る土地そのものこそ、古の広漠たる武蔵野ではあった
が、それは市民の気分の上に快活澗達を齋しただけであって、都市そのものに至ってはいよい
よ更に狭階雑沓、所謂土一升金一升の土地である。息苦しいまでに身近く迫るところの物象と
行動、その自然と人事とを写した文学が、更に更に精細紋密な描写になって、やがて思想内容
の方面が漸く稀薄となり、極力形態と感覚とを描写する写実の文学を生じた事は極めて自然の
事である」。(『岩本案白全集』第三巻)
 岩本案白のこの指摘は、単に〃写実文学”と都市との関係についてのみならず、文化が都市
ないしは都市的なものと不可分離な関係にあることへの洞察にまで発展させてもよいだろう。
日本の伝統的文化は、自然にはぐくまれた文化であるという通説とは反対に、むしろ、都市と
いう反自然のうえに構築された人工物であり、その美意識は、ある意味で都市のパラノイアな
のである。従って、しばしばそこに”自然のありのままの〃描写がみられがちの『源氏物語』、
『枕草子』、『徒然草』なども、むしろ都市文学なのであり、そこでは都市の記憶と都市のバラ
ノィァこそが反都市的なものへ向かわせたのである。
 このことは、西行や芭蕉のように”自然を友とした”歌人や俳人たちの場合もかわりがない。
彼らが反都市的なものを柄としたのは”自然〃への無媒介的な回帰をはかるためではなく、む
しろ、都市的なものを純化し増幅するためではなかったろうか。その際、彼らの言語が、都市
や建築の反自然的な限定空間iディテールヘの執着と「花鳥風月」へのパラノイアを醸成す
る場-の、ミクロ・モデルとなるだろう。遍歴放浪とは、要するに、言語と身体性(意識と身
体との総合)としてのミクロ都市をもち歩くことである。
 おそらく、このような見方は、西洋と異なり、自然が人間に対立せず、人は自然のめぐみの
なかで生きてきた-というようなことが白明とみなされてきた文脈のなかでは、牽強付会に
響くだろう。しかし、忘れてはならないことは、古代日本の主要都市は、聚落から自然発生的
に形成されたものではなく、きわめて人工的に構築され、しかもそれはニューヨークのマンハ
ッタソのように格子状の街路をもった幾何学的な形態をしていた点である。たとえば奈良の平
城京の場合、それは次のようなきわめて人工的たやり方で建築された。
「発掘の結果からその工事量を算定すると、削りとった丘陵などの高地の面積は約四〇万立方
メートル、埋め立てした面積は約八○万立方メートルと考えられる。埋め立てした土の厚さも
八○センチメートルから一メートルにも及び、丘陵上に位置していた巨大な前方後円墳も完全
に削り取られ、埋め土に利用された。しかし、埋め土の絶対量は削りとった土量では不足で、
さらに北の奈良山丘陵から運ぶ必要があった。」(坪井清定・鈴木嘉吉編『埋れた宮殿と寺』)
 これは千年後にマンハッタンで起こったことを先取りしている。バーナード.ルドフスキー
は、マンハッタンについて、「まれに見る凹凸の多い地表であったことは、この大規模な平準化
が始まる以前の地形図を見ればわかる。ディベロッパーにとっては十字軍戦士の剣にも等しい
ブルドーザーは、当時はまだ存在したかった。したがって丘を削り取ることは そうして丘の
名前だけが残ったのだが一池や水域を埋め立てるのと同様、気長た事業であった。しかしセン
トラル・バークにあったいくっかの丸石を別とすれば、自然の風景はすべて跡形もなく消され
てしまった」(『人間のための街路』)一と言っているが、これと似たようたやり方で難波京、藤
原京、平城京、平安京も造営されたのである。今日のマンハッタンは、ルドフスキーが言うよ
うだ「うんざりするほど画一的」で「街路しかない荒野」ではなくなってきていると思う(拙
著『ニューヨーク街路劇場』参照)が、まだ歴史のよごれをまとっていなかった十九世紀の新生
都市マンハッタンは、おそらく、その画一性ばかりが目立っ無味乾燥な街であったことは予想
に難くない。同様に、平城京や平安京も、その人工性はマンハッタン以上にグロテスクであっ
たにちがいない。竹山実は『街路の意味』のなかで平安京について次のように書いている。
「街路のうちでも主軸をなした”朱雀大路〃はいわば、都市構造を左右に等分割した脊椎に当
り、儀礼的空聞として幅十丈(八五メートル)の威容をほこったものだという。それはむしろ
左京と右京を分割するのに役立ちこそすれ、全体を縫合する作用を十分果たしえなかったよう
である。一般の大路も、各坊をたがいに孤立させてしまったようだ。つまり各坊は大路に面し
たところで約四メートル、小路に面したところで約三・三メートルの築地でかこまれ、その
『坊城の垣』を切り開いて門屋を設けることが許されるのは、三位以上四位の参議に限られて
いたからだ。つまり、古代京都の街路は殺バツとした百鬼横行の無人の生活空間だったという
わげだ。しかも、こうした都制における大路・小路の坊条制は、弾正台や左右京職によって厳
しく監察され、その形式が固く守られた。」
 このような都市空間のなかで生きる者は、それ特有の文化とライフ・スタイルを形成する。
ルイス.マゾフオードは、マンハッタンに関し、「その画一性は視力・筋肉・神経の反応など
がもっと幅の広い変化を要求する有機体にたいして、生理学的問題を提起している」(『都市の
文化』)といっているが、難波京、藤原京、平城京、平安京のようなホモロジー的空間のなかで
その生活者たちの意識と身体が強制されたオフセッシヨソとバラノィァは、確実にその後の目
本文化のなかに支配的伝統として蓄積され、それは、まさに日本人の日常の〃貧弱”な、ある
いは抑制された身ぶりとして、また、美的世界における「花鳥風月」的パフォーマンスとして、
われわれの言語や身ぶりの歴史的記憶のなかに生き残っているのである。
 郡司正勝は、『おとりの美学』のなかで、日本では”かぶき〃以前の舞台は「狭いのをよし」
とし、たとえば「おどり」は「野放図に大きくおどり廻るのを嫌い、ことに上方の山村流の地
唄舞などが、畳一畳のなかで踊るをよしとして訓練する」ことを指摘しているが、その源流は
ひょっとして、郡司が言うように1「はじめに〈御座の舞〉と称して、一畳の莫藤をもって
清めの舞をなし、次にこれを敷いて次第に巫女の舞に移る行事」を行なう出雲地方や隠岐の島
の神楽ではなく、むしろ、日本古代都市のなかで形成された一支配者階級の広場恐怖症
的感性と論理と関係があったのではたかろうか。が、ここで問題にしたいことは、「おどり」
の起源が神楽であったか否かではなく、たとえ起源が何であれ、日本の「おどり」は、ホモロ
ジー的空間の都市が政治と文化の中心であった時代に、少なからずその影響を受け、根底的な
変質をこうむっただろうということだ。
 ところで、平安時代後期になって律令制がゆるみはじめると、街の厳しい規制も弛緩し、街
の雰囲気も次第に変っていった。ここからのちに商人や手工業者の階層を形づくる「京童」が
現われるのだが、都市形態の側からみると、こうした変化は、「巷所」と「辻子」という現象
としでとらえられる。「巷所」とは、公用地であった街路を勝手に田畑や宅地にしてしまった
ものであり、「辻子」とは、坊条制のもとでは大路、小路によって囲まれたブロックであった
所に、坊条制を無視して作られた小径である。これは、まさに形式主義から実質主義への変化
であり、竹山実が前掲書のなかで言うように、「グリッドに組みこまれた大路・小路があくま
で構造形式の系であったのに対し、『辻子』は生活領域を縫合させて、そこに地縁的な一つの
生活の場を形成した」。これは、マンハッタンが1街路の形態こそ変わらなかったが-そ
のスラム化によって逆に都市として活性化したのに似ている。
 当然、こうした都市空間の新たな変化は、文化すなわち人々の言語と身ぶりを変様させずに
はおかない。その際、そうした文化的変様に対して「散所」がはたした機能に注目する必要が
ある。「散所」とは、律令制の弱体化・崩壊とともに隷属から解放された「賎民」や土地を捨
てて逃亡した農民たちが漂泊のはてに身をよせる”ドヤ〃であり、それは新しく台頭した荘園
領主たちに労働力を提供する場にもなるのだが、文化的にみると「散所」はさまざまな地域か
ら集まった、さまざまな職種の下層民衆による混成文化の場であった。民衆文化の開花する時
代には、日本にかぎらず都市のスラムがしばしば民衆文化の醸成場にもなるのだが、「散所」
もまた、当時の大道芸人や見世物師、旅芸人や遊芸者たちの拠点であり、彼らは雑役に服する
一方で、都市の街頭や寺、村だどで諸芸を披露した。
「京都では北野杜の西京散所も清掃の雑役をつとめるとともに、経堂前一に仮屋をうってアヤツ
リなどの興行を行ったことがあり、東寺でもその東門前に散所の聚落があり、寺の掃除などの
雑役にしたがったばかりでなく、東寺鎮守八幡宮の猿楽などにはその演技の一部を担当してい
た。」(林屋辰三郎『歌舞伎以前』)。
 京には、こうした芸人たちが一堂に会する劇場もすでにあったらしく、数少ない資料として
しばしば引証される藤原明街(九八九~一〇六六)の『新猿楽記』によると、そこでは呪師、小人
の舞踊(休儒舞)、田楽、人形つかい(俺偶子廻)、唐術、ジャグル(品玉)、輪鼓、独相撲、独
双六、無骨有骨延動(アクロバット)といった見世物のほか、風刺劇や風俗劇が演じられたらし
い。
 こうした多様な民衆芸能がそれぞれどのようなルーツをもっているかはそれなりに興味深い
問題だが、いまここで重要なことは、あきらかに朝鮮、中国、ヨーロッバ、日本各地の農村と
いった多様なルーツをもつ多彩た民衆文化が都市に結集し、相互に混りあい、そしてそのよう
な混成文化のプロセスのなかで都市の民衆全体のものの考え方、感じ方、ライフ・スタイルが
ラディカルに変っていった点である。おそらく、ここには、中世以降に町人文化として開花す
るもののあらゆる端初があるはずであり、とりわけ「花鳥風月」的パフォーマンスの伝統とは
異なるもう一つのパフォーマンスの伝統の端初があるようにみえる。守屋毅は、『町衆から町
人へ』のなかで次のように言っている。
「われわれは日本文化の伝統というと、ついっいわびであるとか、さびであるとか、幽玄であ
るとか、そういう系列のものに市民権を与えてしまいがちになるんですげれども、そうではな
くて、風流とか、バサラとか、傾きとかいった系列の伝統が厳然としてあるわげです。古く永
長の大田楽以来、祭礼の集団的雰囲気のなかで狂騒をともなって自己主張をしていく、表現を
強調していく美の伝統を無視できないですね。自己主張というのは、この場合必ずしも個人的
な自己主張である必要はないのですが、町なら町という単位、そういうものが主張する、競い
あう、表現する文化としての風流の伝統というものの根強さ、力強さみたいなものに、風流の
伝播を考えるときに私などはいっもとらわれてしまうのですが。」
 ロラン.バルトは、現代の日本の大都市-従って、盛時の平安京のようにきわめて人工的
な繭一さをもってはおらず、多数の裏路地がいりくんだ都市一について、「ある場所を初め
て訪れるということは、その場所を書きはじめることである」(『表徴の帝国』、新潮杜)と言って
いるが、古代の幾何学的なホモロジー的空間のなかで受動的・観照的とならざるをえなかった
パフォーマンスは、都市が複雑さと有機性をとりもどすにっれて活性化され、演劇性を回復し、
単に物質的な構築物としての都市がではなく、それと有機的にからみあった身体性が都市を
”書く”、すなわち構成するようになるのである。
 ただし、今日の日本の都市は、その外見上の複雑さにもかかわらず、バルトの考えるほど可
能性にみちているわげではない。そこには、いたるところにマス・メディアとマーケッティン
グと交通法規の網の目がはりめぐらされているのであるが、これは平安末期や中世の都市が決
して知らたかったことである。が、いずれにしても、都市と身体性とがかわしあうバフオーマ
ソスによって文化が形成されることにかわりはなく、文化の伝統はそうしたパフォーマンスの
彪大で多様な蓄積を内含しているのである。従ってそこでは、「花鳥風月」的パフォーマンス
も、「風流・バサラ・傾き」的パフォーマンスも、そうした多様さのなかのごく一部でしかな
いわげである。



白夜のナショナリズム
〃電気”という言葉は、不思議なことに、電気の浸透・普及とともにその意味が一義化してき
た。たとえば、一九〇三年に浅草雷門で開業した神谷バーは、自家製のブランデーに”電気〃
とい三言葉を冠して「電気ブラン」なるものをっくり出したと言われているが、「電気ブラン」
にとって”電気〃は、電気的ショックをこの酒のまわりぐあいにたとえている含意はあるもの
の、それ以上に何かわけのわからぬ意味あいがこめられていた。植原賂郎『明治語典』(桃源
杜)によると、明治時代には、「電気応用」という言葉は新しいものや不思議なものにかぶせ
られる形容詞であり、映画(活動写真)も「電気応用」というキャッチフレーズを使って客足
を引いたという。
 今日、”電気〃というのは、大抵の場合”エレクトリシティ〃と同義であり、”電気的〃と
 エレクトロニック
〃電子的”とはたがいに区別される。音を電気的に合成する楽器の一つとしてエレクトロニ
ック・オルガンがあるが、これは電子オルガンであって電気オルガンではない。電気オルガンと
いうのは、発音機構は従来通りであるが、その送風装置が足踏み式ではなく、電気モーター式
になっているオルガンのことである。つまり、今日では”電気〃は、力学的メカニズムの単な
る動力としか考えられない傾向があり、その空隙を補完するものとして〃電子”や〃電子的”
とい至言葉が動員される。 〃電子”とい三言葉は、明治期の〃電気”のように、実質以上の効
果的な意味を表わす表現として好んで用いられ、”電子ビーム〃というにはあまりにもおそま
つな電気放電を応用したにすぎない電気点火のライターを〃電子ライター”と呼んだりするの
である。
 このように、今日、電気の気が電子の方に移ってしまったので、東京を電気の観点から語る
となると、電燈や電飾看板の話に終始しそうである。が、今日では”電気的なもの〃がすべて
”電子的なもの〃に転化する傾向があるとすれば、電気的なものを当面の手がかりとすること
によって電子的なもの一つまりはさまざまな気のうちの一つとしての電気の気的側面-に
近づくことができるかもしれない。
 関西や東北に行って夜の東京にもどると、都市の明るさに驚かされる。近年、スカイスクレ
ィバーに色とりどりのイルミネーションを装置するのがはやりのニューヨークとくらべても、
東京の街ははるかに明るく照らされて、建物が夜の闇のなかに浮かびあがっている。丸の内、
銀座、日本橋、渋谷、新宿といったビルの街だけではない。住宅街も、真夜中まで街燈で照ら
され、映像のないテレビの画面のように白々と光り続けている。商店やオフィスでも、アメリ
カのまねなのか、それとも治安がアメリカ並みにたってきたのか、夜中じゅう煤々と電気をっ
げておくところがふえ、そこでは白熱燈よりも螢光燈が多く使われているので、街はますます
白く輝くことになる。
 おそらく、都市の照明のために使用される電気量からすると、東京はニューヨーク市におよ
ばないだろう。が、その白く輝く明るさは、ニューヨーク市をはるかにうわまわる。それは、
ニューヨーク市の街燈が、一様に暖色系のオレンジ色に統一されており、それが建物のチョコ
レート色とまじりあって、全体を薄日の漏れ入るジャングルのなかのような色合にしているか
らである。ケネディ空港に向かう飛行機は大抵マンハッタンの上空を通過するので、晴れた目
には、夜のマンハッタンを脩鰍することができるが、その姿は明るいというよりも、いたると
ころで火が燃えているように見える。
 その意味では、東京の夜の明るさは、火の明るさ一赤さ-ではない。数ヶ月まえ、京王
線の幡ヶ谷駅まえて火事があった。大抵朝まで起きているわたしは、消防自動車の音が間近に
近づいてくるのを聞いて通りに飛び出した。数百メートル先に格と煙が見える。しかし、その
火は、夜の闇を明るく照らし出す力はなく、二階建ての木造家屋を全焼させたその火を消防ホ
-スの重層する通りで間近に見たが、駅前通りの街燈の白っぽい光のなかで色あせてしまうの
だった。それは、言わば、テレビの画面のそばでマッチの火をっげるようなものであり、その
リアリティはテレビ画面のなかで出演者がタバコに火をつけようとして擦るマッチの火に一
たとえ全く同じマッチが擦られるとしても1およぱないのである。
 こんなことは、東京がまだこんなに白っぽく輝いてはいなかった頃には考えられないことだ
った。十五年前、同じ通りの反対側の店で火事があったとき、その火はもっと猛々しく、都市
を焼きこがし、照し出す力をもっているように見えた。それは、今日と十五年まえとの消防技
術の変化のためでもあると思う。先日、京都タワーに登ってみて気づいたのだが、京都の夜は
意外に暗く、駅前と大きな通りを除くと、都市全体を夜の闇が支配していた。それは、十五年
以上もまえに東京タワーから東京をながめたときにはわずかに残っていた闇であるが、今日の
東京には、もはやそういう要素は少ないのである。
 古い言葉に「紅燈街」というのがあった。この”紅〃は「紅蓮の烙」の紅であって、火と関
係がある。いまの東京にはかつての紅燈街はないが、事実上の紅燈街がいたるところにある。
が、その街路の雰囲気には火が燃えているようなうさんくささはなく、カラーニアレビに映る
テスト・パターンのような多彩さがあるにすぎない。ある意味で”健康〃であっげらかんとし
たこの雰囲気は、セックスが闇ではたくて光の世界のビジネスとなったことから来るだけでな
く、紅燈が明るい”白夜〃のなかに浮かぶようにたったために生じた。東京の街のネオン・サ
イソや電飾看板の多彩さは、他のいかなる都市にも類を見ないが、にもかかわらず、この街の
ネオン・サィソほど”健康〃な色をしているところはない。紅燈街のうさんくささは、紅燈の
技術が燈油ラソブから電気に変わったことによって失われたのではなく、その背景をなす闇の
暗さの度合に応じて薄れていった。
 メルボルンやシドニーのマッサージ・バーラーでは、赤いスポットニフィトをその標識にし
ており、この手の店では昼間からそれをっげているが、そのうさんくささは歌舞伎町のトルコ
やのぞき部屋のもっと大がかりで多彩なネオン・サィソをはるかに凌駕している。たった一つ
か二つの赤いスポットニフィトが、夏の暑い日射の照りつける建物の入口にともっているとい
うのは、およそ無力なように思われるかもしれないが、その背景の白い明るさは、夜間の東京
よりははるかに暗い街路の闇の記憶によって補完され、スポットニフィトの赤い光によってた
だちに暗転させられてしまうのである。メルボルンのある商社に単身赴任した某氏は、週末に
セント・キルタ・ロードのレオポルド・ストリートにあるマッサージ・バーラーに行くのを常
としたが、日本に帰ってきてから、しばらくのあいだ、街頭の赤い信号を見ると欲情をおぼえ
てしかたがなかったという。それは、彼がメルボルンでたぐいまれなる時をすごしたためとい
うよりも、現実のコンテキストと切り離されてパラノィアックに肥大化した彼の記憶が、東京
の消去された闇の空隙に人工的な”闇〃となってこの都市の色彩の質を一瞬狂わせたからであ
る。
 東京の闇の”白夜化〃は、セックス産業で東南アジアやその他の”第三世界〃からやってき
た”外人女性労働者〃が占める率が急速に高まってきたことによって平衡を保っている。高度
経済成長を通じて東京の街路が明るくなり、それがテレビのブラウン管の色調と照度を暗黙の
モデルとして限りたくテレビ化するにつれて、さまざまな人工的”闇〃が導入された。”ニュ
ーヨーク文化〃もそうであったし、いま浮上しようとしている”アジア文化ブーム〃もそうで
あるが、結局のところ”ニューヨーク文化”のうさんくさい部分はすっかりふるい落され、ポ
スト・モダンを気どったカフェ・バァや”ニュー・メディア〃路線をつっ走る新タイプのテレ
ビ放送(CATVや衛星中継番組)のなかにちんまりとおさまってしまったように、輸入された
文化が都市の白い夜に対抗できるカは限られている。その点で、セックス産業の”外人女性労
働者〃たちは、そのいまだに白夜化されない身体の異質性によってこの電気的に白夜化された
都市とその住人たちの電子化された身体の白夜にっかのまの闇をそそぎこむことができるので
あり、セックス産業はまさにこのからくりを巧みに利用して荒かせぎをしているわげである。
 しかし、ここには奇妙な逆説がある。都市の光度的た明るさは、経済力の指標であるが、そ
の昂進が、日本のように国民一人ひとりに天皇家の”家風”を強制し、それに率直に従えそう
にもない異文化圏の人間を”外人〃としてあらかじめ排除しておくような国家においてさえ、
”外人労働者〃の一必ずしも合法的ではない一導入を許容せざるをえなくなったというこ
とは、ポスト・サービス社会ないしは電子情報化社会の逆説だ。一般に、サービス労働や情報
労働が高度化するにつれて、中間層の一部は高級サービス労働者や高級情報労働者として上昇
し、全体としても労働の質が底上げされ、手や肉体を〃汚す”ことを嫌うようになる。〃外人
労働者”は、こうした中問層の底上げされた部分を補完するものとして導入されるわけだが、
日本の政府は、一方でサービス経済や情報経済を加速させながら、この側面の対策には積極的
ではないのである。
 が、それは天皇家的因家体制を固執しようとする政府にとっては首尾一貫したことであろう。
アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、そしてEC諾因は、ポスト・サービス社会化への
プロセスのなかでみな「ゲスト・ワーヵl」を導入し、未熟練労働力の不足を補ってきた。そ
の結果、これらの国々は、国家経済の発展とともに、国家の内部にその否定票囚としてのサブ
カルチャーを増殖させたからである。むろん、資本主義システムにとってこれは必ずしも不利
なことではなく、実際上、そうしたサブカルチャーはこれらの国々の社会・文化システムを活
気づける役割をはたしもした。しかしながら、日本の場合には、天皇家的国家が存在するため
に、そうした資本主義的発展すらもが抑制されるわけである。
 とはいえ、天皇家的国家が存続するこの日本でも事実上の「ゲスト・ワーヵー」が増えてい
るように、資本主義的発展を一方で求めながら、その他方でそれを拘束しっづげることはでき
ないだろう。七〇年代に先進産業国で起こった欠きた変化の一つとして女性の社会的機能の変
化があるが、これは国家論的に見ると、これまで”家〃つまりは国家の前近代的要素に従属さ
せてきたテリトリーの一つである女性をそのようなものとしては最終的に-つまり制度的に
ー放棄したことを意味する。それゆえ、女性はようやく国家から解放され、その文化を”家〃
文化としてではなく1つまり”ヴァナキュラー・ジェンダー〃の文化として--展開できる
可能性に臨むわけだが、”家〃を依然として自己に癒着させている天皇家的国家は、女性を
”家〃から、つまりは国家から白山にすることが原理的に不可能である。しかし、それにもか
かわらず、この天皇家的国家のなかでも、女性の”社会的進出〃つまりは”家出〃が勢いを増
している。これは、ポスト・サービス社会化、電子情報社会化の泌一説であり、東京という都市
に最も鋭く現われている逆説である。そしてその意味では、東京は、いままさしく資本主義の
ふるえる端末都(「先端部」ではない!)に立っていると言うことができるだろう。



電子都市の”スクウオッター〃たち



1
 都市についての考察は、すでにプラトンの諾著作のなかにも散見されるが、都市が明確な総
合的主題として論じられるようになるのは、二〇世紀になってからのことである。すなわち、
マックス・ウェーバー、ゲオルク・ジンメル、オズワルド・シュペングラーと続く、いわゆる
”ドイツ学派”と、一九二〇年代にシカゴ大学を中心にロバート・バーク、ルイス・ワース、
アーネスト・バージェスらを主導者として社会学的な都市論を展開した〃シカゴ学派”は、通
常、都市論の古典的な出発点とみなされている。その後、都市論と都市論的発想は、学問的な
分野でますます活発になっただけでなく、政策決定や社会管理においても欠くことのできない
ものになったが、”ドイツ学派〃や”シカゴ学派〃の都市論とても、そうした政治的含蓄から
自由であったわけではない。
 マックス・ウエーバーの諾理論は、つねに支配体制の最も先進的た部分における反省を代表
しており、その点で、彼の理論は時代を肯定し擁護する側面と、時代を批判的に越える側面と
をあわせもっていたが、彼の都市論もそうした両義性のなかを動いている。ウェーバーが一九
二一年に「都市」というタイトルで『社会科学および社会政治学紀要』(第四七巻)に発表した
論文は、現在、『経済と社会』第二都第九章「支配の社会学」の第八節「非正当的支配(都市
の類型学)」におさめられている。これは、ウェーバー自身によって行なわれた処置ではなく、
彼の最初の計画に従って行なわれた事後の編集によるものであるが、これは、この論文を書い
た時点におけるウェーバー自身の意図と彼自身の問題意識全般にかなっていると思われる。ウ
ェーバーにとって政治はすべて支配であり、社会はつねに何らかの支配装置をともなうが、彼
がこの論文を書いたとき、彼は、都市が支配装置として従来とは全くちがった意味をもちはじ
めたことをはっきりと意識していた。
 ウェーバーは、一九〇四年の九月から十二月までアメリカ合衆国を訪れ、とくにニューヨー
クで多くの時間を過すが、妻マリァソネ・ウェーバーの伝記を読むと、合衆国の諸都市から、
彼がいかに多くのイソスバィアーを得、また、彼が都市のダイナミズムを社会体制全体のなか
で分節することのできるすぐれた都市論者であったことがわかる。それゆえ、ウェーバー伝に
豊富に引用されている彼の手紙のなかで彼が合衆国の都市について生き生きとした観察と鋭い
批判を行なっているのをみたあとで一九二一年の「都市」を読むと、これがあくまでも論文と
いう形式で書かれていることを前提としても、それが一見彼の同時代とは直接関係のない歴史
的な学問的考察であるように見えてくる。
 しかし、「都市」は、ヨーロッバの古代および中世の都市をあつかい、近代の都市について
は意識的に言及をさけているようにみえながら、その実、きわめてアクチュアルな同時代的問
題意識のなかで書かれたと、わたしは思う。むろん、「都市」は、その体裁からしてもその実
質からしても、ヨーロッバの中世および古典古代における都市の論述であることにはかわりが
たい。しかし、この論文のライト・モティフは、「都市の自 律」であり、この論文は、「中世
の都市発展において都市の白 律という歴史的間奏曲が生み出されたのは、古典古代における
のとは全く別の事情によるものであった」(世良兇志郎訳『都市の類型学』、創文杜、三一五ページ)
ということをくりかえし執鋤に力説している。ウェーバーによると、古代ギリシャにおける
「その支配階層、その資本主義、その民主制の利害関係、これらはすべて第一次的には政治的
・軍事的関心によって方向づけられていた」。
「門閥の崩壊と民主制への移行とは、軍事技術の変化によって招来されたものであった。貴族
に対する闘争を担い、軍事的に、次いでは政治的にも貴族を排除するに至ったのは、武装自弁
の、規律立てられた重装歩兵軍であった」(三一日五ぺ-ジ)。
 これに対して、「特殊中世的な都市-市民的・工業的な内陸都市-一は、そもそも原理的

には経済的な関心によって方向づけられていた。中世における封建的諾権力は、原理的には都
市王や都市貴族ではなかった。これらの権力は、古典古代の貴族とはちがって、都市が都
市としてしか提供しえないような特殊な軍事的手段を、自分たちに奉仕させようというような
関心はもっていなかったのである」(二二八ページ)。いわば、古典古代の市民が、軍事団体と
しての「政治人」であったのに対して、中世の都市市民は、「経済人」であり、権力〕者が
彼らによせる利害と関心は、彼らからの貨幣収入であり、従って彼らが権力者のこうした利害
と関心を満足させるかぎりは、権力者は市民たちの問題に干渉することはせず、そのかぎりで
彼らの”自律〃は保証されたのである。言いかえれば、「都市の白 律が最盛期にあった時代」
と言われる中世のヨーロッバ都市の自律は、決して丸ごとの自律ではなく、むしろ権力によっ
て許容され、また、看過された結果であった。ウェーバーは、きっばりとこう言っている。
「発展が、西洋中世の特徴をたす都市の自 律一ただしこの自律の範囲は広狭さまざまであ
るに到達したのは、もっぱら次の理由によるものであり、またその限度だけにとどまった。
すなわち、都市外的な権力保有者がドそしてこの点のみが唯一の一般的な決定困子であった                                 、 、 、 、
のであるが」都市の諸問題の管   理の要求を、都市の経済的発展に寄せる彼自身の利
害関心が要請する限度においてすら満足させるに足るたけの、訓練された官吏装置をまだもっ
ていなかった、という理由によるものであり、またその限りにおいてであったのである」(三
二二ページ)。
 いまここでは、ウェーバーの指摘が歴史的な事実に合致するかということ、つまりこの論文
の学問的な妥当性、の問題について検討するつもりはない。問題は、むしろ、このテキストの
同時代的な機能とその政治的な含意である。いうまでもなく、ウェーバーがこの論文を最終的
に仕上げた一九一〇年代の後半期は、ヨーロッバの激動期であり、彼がアメリカから帰因した
年に起こったロシア第一革命(血の日曜目事件)をかわきりに、第一次世界大戦とロシア革命が
起こり、ドイツでは、敗戦の危機と混乱のなかで、一九一八年十月のキール軍港の水兵の叛乱
に端を発する”ドイツ革命”が起こる。しかし、ウェーバーの目からすると、レーテ運動は革
命運動ではなく、つかのま樹立されたバイエルン・レーテ共和国は、いささかも自律的な都市
国家ではなかった。彼は、”ドイツ革命〃を、「革命という名誉ある名に値しない血なまぐさい
カーニヴァル」と呼んではぼからなかった。ただし、ここでウェーバーを単なる反革命の知識
人として切り捨てることは当を得ない。彼は、つかのまのドイツ革命が指し示した方向とその
意義を理解することは決してできなかったが、一九一〇年代末期の権力配置とその構造にっい
てはきわめて冷厳で確かな認識をもっていた。実際、.彼が一九一八年十一月に記している危倶
は、やがてナチズムの伸張とともに現実化するのである。
「この恐るべき敗北と屈辱の所産としての新秩序は容易に根を張れないだろう。たしかにこの
〈信念〉(社会主義的未来への)を見て喜びをおぽえることはあるかもしれぬ、たとえ自分はそ
んな信念を持ってはいなくても。しかし、私白身にとって社会主義的なわれわれの未来への信
頼がいかに確実であるように見えても、人々はまさにこの信念を分ってはいないのである。そ
して私は倶れる、この信念がたとい山は動かしても、財政の破産や資本の不足を償うことはで
きないと判明したとき、ほかでもなく一番信じていた人々のうちの多くの人にとってそれ
まですでにいろいろのものを奪われて来ているのだから一幻減はあまりにも堪えがたいもの
となり、彼らを精神的に破産させてしまいはしないか、と」(大久保和郎訳、マリァソネ・ウェー
バー『マックス・ウェーバー』、みすず書房、四七一ページ)。
「都市」のある個所で、ウェーバーは「今日」とい至言葉のかたわらに、二九一八年以前」
という傍注を付している。これは、彼がこの論文を書くことのなかで、いかに現在を意識して
いたかということを示唆するさりげない合図だと言えないこともない。いずれにしても、ウェ
ーバーは、ドイツの郡市の類型がギリシャの古典都市にではなく、中世の都市のそれに属し、
それゆえ、ドイツの都市における自律は、少なくとも資本主義経済の支配下においては、たか
だか、支配権力の空隙のなかでしか生じえないと考えていた。ウェーバーによれば、「古典古
代の都市の基礎の上には、近代資本主義も近代国家も成長しなかった」(二五八ぺージ)のであ
るが、レーテ運動は、近代資本主義と近代国家が依然として延命し、力を失っていない状況下
で、そこに強引に古典古代の都市を再現しようとする試みであるかのようにみえた。ウェーバ
ーは、「平和主義者」であったがために、武装蜂起に反対したのではなく、構造上、経済的機
能をこととしている都市を武力によって占拠しても、それは権力全体への痛打にはなりえない
と考えたがために、たとえばスパルタクス・ブントの綱領に示されているような武装的自律の
思想を否定したのである。ちなみに、ローザ・ルクセンブルクの「スパルタクス・ブントは何
をのぞむか」には、「プロレタリア住民の成人男子全員を、労働者民兵として武装させること。
この民兵のうちの活動的部分をプロレタリア赤軍に編成し、反革命の陰謀や策動からつねに革
命をまもること」(野村修練『ドィッ革命』、平凡杜、三五〇ページ)という一項がある。



2
 ウェーバーが決して理解することがなかったのは、資本主義の発展だと彼がみなした合理化
と官僚制化のプロセスのなかで起こる突然の逆説である。すでにわたしは、ウェーバーを敷術
しだから、「中世のヨーロッバ都市の自律は、決して丸ごとの自律ではなく、むしろ権力によ
って許容され、また、看過された結果であった」と述べたが、ウェーバーは厳密にはそうは言
っていない。自律を看過し、許容するためには権力はそれだけの余力をもっていなければなら
ないが、当時の「都市外的権力保有者」は一般にそれほどの力をもってはいたかったというの
がウェーバーの認識である。しかし、資本主義の発展が都市のこうした相対的な”自律〃を通
じて達成されたのだとすると、それが個別的権力の弱さの結果であるとしても、資本主義の全
体権力からすると、それは体制全体の余力を意味するのである。
 その意味において、ドイツ革命においてつかのま達成されたドイツの諸都市の自律が奪取さ
れざるをえなかったということは、ドイツの資本主義体制が発展のための余力をもっていなか
ったということであり、ナチズムは、ドイツ革命の「酩酊と狂乱」のために招来されたのでは
なく、むしろドイツ革命を許容できなかったからこそそのようなシステムの硬直化を招いたの
である。言いかえれば、資本主義はコミュニズム(その語の本来の意味における)によって危
機に陥らせられてきたのでも、転倒されうるのでもたく、むしろ資本主義の発展白身がコミュ
ニズムを必要としているにもかかわらず、それをはたすことができなかったために危機に陥る
のである。
 アントニオ・ネグリは、『マルクスを越えるマルクス』のなかで、「資本主義的発展の転倒力、
つまりその発展のダイナミズムとプロセスの転倒力がコミュニズムを発動させるのであり、そ
れは巨大である」(フェルトリネリ出版、一九七九年、一一ぺ-ジ)と言っているが、資本主義の歴
史は、その意味では、その発展を後退させ、抑止してきた歴史であり、それは、むしろ、はか
らずも発展してきたのである。コミュニズムは、資本主義の歴史の終末にあるのではなく、そ
れはっねにすでに資本主義の発展のダイナミズムと発展過程に潜在し、奔出する機会を待って
いる。コミュニズムあるいはコミュニズム的なものが通常持続しない(「歴史上、革命は二、三分
しか続かなかった」ーソル・エーリック)のは、「資本主義的発展の転倒力」がまだ十分ではない
ためではなくて、むしろ資本主義の急激な発展を恐れる権力層がそれを逆行させようとするか
らである。このことは、コミュニズム的革命の反動としてあらわれるものは、決して資本主義
の先進灼な形態ではたく、ナチズムやスターリニズムのようだ反資本主義の語形態であること
を説明。するだろう。
 コミュニズム的革命の基礎は、「生活世界」の白 律である。どんなに抑圧的た体制下にお
いても、何らかの形での「生活世界」の自律が保証されなければ、体制はもはや資本主義シス
テムとしては機能しなくなる。生活世界の自律を剥脱されたアウシュヴィッツは、何らかの政
治的た機能をもちえたとしても、その経済的機能は全く反資本主義的であり、いかたる利潤も
生み出さなかった。
 資本主義の矛盾は、資本主義的発展を管理しようとすることの矛盾であり、資本主義の歴史
は、そうした管理の失敗の歴史であるが、生活世界の具体的な場としての都市の自律は、そう
した管理の矛盾のなかで強められたり、弱められたりした。それゆえ、近代都市の都市政策は、
ことごとく都市の自律をいかに管理するかということのうえを動いている。
 都市論と都市政策は、いまでは分かちがたく結びついており、ひとつの都市論の流行はその
支配体制の都市政策を示唆すると空言えるが、大都市を生活世界として批判的に叙述する試み
が一九世紀の後半から活発になるのはひじょうに興味ぶかい。たとえば、ロソドソに関しては、
ヘンリー.メイヒューの『ロソドソの労働とロソドソの貧民』全四巻(一八五一~六二年)やチ
ャールズ.ブースの『ロソドソにおける民衆の生活と労働の研究』全九巻(一八九二~九七年)
があり、ニューヨークに関しては、ロワー・イースト・サイドのユダヤ人コミュニティの生活
を観察したハッチンス・ハブグッドの『ゲットーの精神』(一九〇二年)、ジュニアス・ヘンリ
.ブロウソの『大都市』(一八六九年)、チャールズ・ローリング・プレイスの 『ニューヨーク
の危険た階級と彼らのあいだでの二〇年間の労働』(一八七二年)などがある。
 こうした問題意識は、一九一五年にシカゴ学派のロバート・バークによって都市論の中心課
題に位置づげられることになる。すなわち、彼の「都市-都市環境における人問行動の研究
のための提言」(『アメリカン.ジャーナル.オブ・ソツォロジー』誌)は、都市を生活世界として総
合的に論じた最初の論文であり、それはコミュニティの研究の重要性を認識させただけでなく、一
”ヒューマン.エコロジー〃や”都市のエコロジー〃という新しいパースペクティブを開く端
初になるのである。
 いうまでもなく、これは新しい都市管理の端初でもあり、それは、都市環境の変化と、それ
をうながした産業構造の変化に対応していた。アメリカの場合、一九一〇年代以降、都心の職
場と郊外の生活場との分割が急速に進むようになり、郊外都市が発達する。これは、他所(「自
動車文化」『朝日ジャーナル』一九八二年7月23日号/「怠惰文化の戸口で」『遊歩都市』、冬樹
杜)でも述べたように、交通機関とりわけ自動車の普及によって可能となるのだが、これは、』
生活世界の自律をいわばバート・タイム化したものであり、生活世界そのものの自律化にはほ
どとおい、高度化した管理なのである、ここで許容される自律は、まさに車に乗った核家族の
自律であり、妻と子供は夫から自律しておらず、夫は職場から自律しておらず、そして全体と
して軍とその関連機関に完全に従属しているといった体の自律なのであった。
 それゆえ、このようた自律は、資本主義の発展が一段高まると、たちまちその限界を露呈し
てしまう。資本主義的発展は、その本性上、生活世界の自律を必要とするのであり、その発展
が高度化すればするほど、その自律の要求の度合も高くならざるをえないのである。産業構造
のウェイトがサービス労働や情報労働に移行しはじめると、労働と生活との質的な差異が問題
になってくる。というのも、サービス労働や情報労働は、家庭で日常行なっている活動と実質
的には大差がないものであり、ここから逆に、家庭が、バート・タイム的に職場から自律して
いるところか、むしろ完全に職場化していることがあらわになってくるからである。脱工業化
社会において家族の再編成がさかんになり、いわゆる”シングル・ハウスホールド〃が激増し
てくるのは、このことと無関係ではない。
 しかし、自律-管理された自律-の単位がコミュニティから核家族へ、そして個人へと
微細化してゆくにっれて、そうした自律の単位を遠隔操作する技術も高度化せざるをえない。
資本主義的発展とはディレンマである。それは、発展をのぞみながら、それをみずから抑制し
なげればならたいからである。都市はそうした技術のための最も伝統的な装置であったわけだ
が、自律の単位が微細化するにつれて、その補完装置が続々と開発されることになる。という
よりも、都市がその補完装置を完備させてゆくにつれて、生活世界の自律を操作する技術が高
度化するのである。活字、写真、電話、ラジオ、テレビなどは、まさにそうした補完装置であ
るが、ラジオやテレビは、いまや単なる補完装置であることをこえて、都市に代わる代表的な
管理装置になってしまった。都市は、コミュニティの自律を一単位として管理することはでき
るが、コミュニティの構成員の一人ひとりの自律性を規制することは難しく、それゆえ、「都
市の空気は自由にする」ということが言えるのである。しかし、活字メディアやエレクトロニ
クス・メディアは、その端末を個々人に結びつけ、その根幹を操作することで端末を自由にあ
やつるということが可能であるから、問題の個々人は、都市のような一定の”容器〃のなかに
まとまって定住している必要はなく、彼または彼女がバラバラに広野に孤立して住んでいても、
その自律を確実に管理できるのである。
 だが、マス・メディアがこのようなものとして発達した場合、都市の機能はいかなるものに
なるのだろうか? たしかに、ここでは古典的な意味での都市の機能は、マス・メディアによ
ってとってかわられる。それは、都市の廃棄ではなく、都市の機能変化であり、都市のマス・
メディア化である。それゆえ、最も都市らしい都市とは、街路だけでなく、さまざまだ交通・
通信同路をもった都市のことであり、こうした新しい都市化に対応できない都市はますます広
野化し、都市全体がそれを必要とする。その典型的な例が、ニューヨーク市のサウス・ブロン
クス地区である。



3
 都市のマス・メディア化は、生産と交換が物品の論理にではなく、情報の論理に従って行な
われるということと相補的である。今日の生産と交換は、物品よりも情報をより多く生産し交
換するというよりも、物品の生産と交換白身がすでに情報のそれと同質のやり方で行なわれる。
大最生産の物品は、もはや手仕事やクラフツマソシップの対象としての物品とはちがい、すで
にそれ自体が情報となっているからである。情報とは、本質的に言って、複製されたものであ
り、複製可能な技術によって大量に複製されるものは、すべて情報であらざるをえない。
 このため、大量生産と大量交換を追求する社会・経済システムは、複製可能な技術を高度化
しなければならないが、それは、究極的に、情報を複製する技術の高度化にゆきつく。マス・
メディアとは、まさにそうした複製技術のシステムであり、それは印刷術の発明とともにはじ
まった。印刷術が含蓄する複製技術は、マックルーハソが詳述したように、印刷物だけでなく、
自動車や罐詰のような新しい大量生産品を作り出した。しかし、大規模た複製を可能にする技
術としては、印刷術は電子的な複製技術にはおよぼない。今日では、電算写植のように、印刷
術自身が電子化されているが、印刷術と電子的た複製技術とのあいだには、極度に質的な飛躍
が横たわっている。印刷術は、印刷物の生産過程がどんなに電子化されても、その交換過程の
すべてを電子化することはできない(テレックスやファックスは最終的に利用者の意識的な
!電子の過程でない一解読行為をまたなければならない)。これに対して、電子的複製装
置は、原理的に生産から交換にいたるすべての過程を電子化する1というよりも、それは生
産過程と交換過程を同じ電子の流れのなかで統合する一ことができる。そのため、電子的複
製技術では、物品の場合のような意味での過剰生産も消費インフレィションも起こりえない。
 電子的複製技術は、原理的に、資本主義の究極理念にかなっている。それは、当面、インフ
レィションもデフレィションも気にせずに生産をエスヵレイトさせることができる。しかも、
電子的複製技術による”生産物〃つまり電子情報は、貨幣のようだ媒介がなくても、そのまま
で資本として蓄積可能である。というのも、電子情報は土地や金庫がなくても蓄積可能であり、
まさに個々人の身体的無意識のなかに限りなく蓄稜されうるのである。
 しかし、電子情報は、蓄積されただげではまだ資本ではたい。それを蓄積した身体的無意識
が差異のシステムとして組織されるとき、それは資本どたり、利潤を生み出すのである。
 アルヴィソ・W・グールドナーは、『知識人の将来と新階級の台頭』(オックスフォード大学出
版局、一九七九年)のなかで、「新階級とは、歴史的かつ集団的に生産された文化資本の利得を
私的に専有する文化的ブルジョワジーである」(一九ページ)と言っているが、「新階級」つまり
「知識人と技術的インテリゲンチァ」は、まさに、情報を自らその身体的無意識のなかに蓄積
すると同時に、それを組織的に差異づける者のことである。
 こうした情報資本主義的な蓄積と差異づげにとって、都市は必ずしも必要ではない。しかし、
都市が存在する以上、情報資本主義の時代には、都市も「新階級」の組織化と”育成”に貢献
するように再編成されるだろう。それは、本来「新階級」に属さない人々がそこに滞在するだ
けで、情報=資本の差異づけに貢献してしまうような都市構造に変貌せざるをえないだろう。
つまり、情報の蓄積と非蓄積とをできるだげきわだたせるような都市が求められるのである。
 ニューヨーク市のマンハヅタソとブロンクスとの関係が、まさにその格好の実例である。他
所で詳述したように(『グラフィヶーシヨソ』、一九八三年7月号、四六-五一ページ参照)、マンハ
ッタソと他の地区との情報環境論的差異は年々極端化している。劇場、美術館、図書館、文化
機関、銀行といった古典的な情報複製装置が集中しているマンハッタンは、近年、ケーブル・
テレビやデジタル・コミュニケーションなどのネットワークを完備させ、ますますマス・メデ
ィア化された電子情報都市になってゆくのに対して、ブルックリン、クイーンズ、とりわけブ
ロンクスは、ごくその一部ではマンハッタンに追従する動きも見られるが、むしろマンハッタ
ンとの情報環境論的差異を強めるために意図的に荒廃させられ一情報環境論的に”貧しく〃
させられ-ている感がある。その意味では、文字通りの廃撞と瓦礫が連なるサウス・ブロン
クスは、ニューヨーク市の都市計画の失敗の結果なのではたくて、その情報資本主義的繁栄の
あかしなのだ、
 このことは、また、今日流の都市論がたぜ記号論的なのかを説明するだろう。いうまでもな
く、記号論の実践的概念は、諸現象をできるだけ多様に差異づけることであり、諸現象を”主
体”といったようだ不分明なエンティティから解きはなち、そうした〃主体”をも含めてすべ
からく「差異のシステム」として、つまりは「記号」としてとらえなおすことである。それは、
物を記号にうっしかえるのではなく、物とは全く別個に記号のシステムをっくりあげようとす
ることであり、つまりはシミュラクルとしての記号のシステムをうちたてることを求めている
のである。このシステムにとって、貨幣と同様に、すべての価値は差異であるから、ここでは
差異を発見し、差異をつくり出すことだげが追求されることになる。
 その意味では、東京という都市は、こうした差異をかぎりなくっくり出そうとする記号論的
=情報資本主義的理念を、都市の表層都市の身体的意識-一の部分でだけ満そうとしてい
る。すなわち、とめどもなく多様化し増殖する電飾看板には、都市の表層をかぎりなく差異づ
けようとする欲求が露骨にあらわれている。しかし、ニューヨーク市のように、記号論的=情
報資本主義的差異づけが、単なる表層にとどまらず、文化や個々人の好みのレベルーつまり
身体的無意識のレベルーにまで侵入しているのにくらべれぱ、東京の情報資本主義度はまだ
低いと言わ淀げれぱなるまい。実際、ニューヨークでは、エスニシティ、オーダナティブな文
化(たとえばフエミニズム、ホモセクシャル)、料理などのレベルで、近年、ますます”多様
化〃が進んでいる。それは、たとえばエスニシティのようなものでさえ、何か本来の民族性の
ようなものがよみがえったところに生ずる多様性では決してなく、むしろ、そういうもののか
たわらに一種のシミュラクルとして新たにつくりあげられたものの”多様性”たのだというこ
とである。そして、 ”多様化〃と差異化はますます微細になってゆきそうな気配である。
 とはいえ、ここでも資本主義の一その本性に由来するーディレンマが露呈する。情報の
複製技術が高度化し、情報が過剰に(これは形容矛盾だ!)生産=交換されるにつれて、それを
蓄積すべく期待されている身体的無意識は破綻をきたしてくる。情報の複製技術が資本主義の
一つの終末形態をあらわしているのは、それが論理的に資本主義のあらゆる理念を体現してい
ながら、にもかかわらず、その一見肯定的とみえるものが、すべて資本主義そのものを否定する
ようなものとして機能する点である。すでに述べたように、資本主義システムは、それをささえ
る主体一とりわけ”ブルジョワジー〃の自律を必要とする。その自律が完全であればあ
るほど、そのシステムは発展する。しかし、この発展が持続するならば、そのシステムはもは
や資本主義のレベルにとどまることができず、それを転倒させてしまうところまで進むだろう。
 かくして、資本主義システムは、その本性上不可避的に”ブルジョアジー〃および市民の自
律をコントロールせざるをえない。その際、情報の複製技術は、その一つひとつの単位として
はあたかも”自律〃しているかのように機能しながら、全体としては一つに統合されていると
いった自律的=管理的ネットワークを可能にする点で、資本主義の現実的利害にかたってい
る。しかし、このネットワークは、生産と支配の権力システムを個々人の身体的無意識に直結
させるので、それが多様化し、増殖すればするほど身体的無意識は自発性を失ってゆく。だ
が、身体的無意識の自発性とは個々人の生活世界の自律の源泉であるから、これは全くのディ
レンマである。そこで、マーヴィソ・ミンスキーやハーバート・A・サィモソが理論化した
「人工的知性」(AI)や「認識的・シミュレィシヨソ」(CS)に期待がかげられる
わげだが、人問のあらゆる自発性がコンピューター化できるときとは、まさしくバラドキシカ
ルな世界である。なぜなら、それは、ロボットが”自発的〃にうまく資本主義システムを管理
するが、そこでは人間が人問らしく生きてはならないといった不可思議な世界だからである
-もしそこで人間がいささかでも人間らしくシステムに手出しをしたならば、その自動的な
自律=管理システムはたちまちテンポをくずしてしまうだろう。
 身体的意識のレベル、つまり都市の可視的環境のレベルでは、情報資本主義の昂進は、エレ
クトロニクス・メディアの浸透した情報環境論的に”豊か”な区域と、実際に廃撞や放郵さ
れた家屋もある情報環境論的に”貧しい〃区域との差異を強めるから、後者の区域では、近代
都市では久しく見られなかったような”前近代的〃な出来事が起こる。これも、一種のシュミ
ラクルなのだが、こちらでは情報環境が”貧しい〃がために、それだけ住人各自の身体的無意
識の差異化が進んではおらず、管理をはずれた自発的なリァクシヨソが起こる可能性がある。
それに、情報資本主義の発展は、身体的無意識のレベルと身体的意識のレベルの両面をかぎり
なく微細に差異づけなければならないから、少なくともシステムが資本主義的発展をのぞむか
ぎり、都市においても、たとえばマンハッタンとサウス・ブロンクスといったように明確に情
報環境的差異を設定することができなくなり、たとえばマンハッタンの内部に入れ子状に”貧
しい〃地域を作ってゆかなげればならなくなる。これは、ある意味で、 ”近代的〃に管理され
たシステムが、それ自身のうちに”前近代的〃な爆弾をかかえることである。
 実際、一九七〇年代になって侵出しはじめた”スクウォッティソグ〃(家屋占拠)は、そうし
たリアクションの一つであり、情報環境論的な変化が急激に起こった地域では、バリ、ローマ、
チューリッヒ、ニューヨーク、メルボルンといった西欧都市においてだげでなく、コンゴーーキン
シャサ、サンティアゴ、ホンコンなどのアフリカやアジアの諸都市においてもスクウォッティ
ングが起こっている。チューリッヒでは、スクウォッティングの運動をきっかけにして一九八
○年九月から一九八一年四月まで、首都のどまんなかに解放区が出来、そこでイタリアのアウ
トノミアと同じような反労働の運動が展開されたし、またサンティアゴでは、一九七〇年に、
郊外の市の所有地を占拠し、木材とダンボールで「ポプリァチオーネス」と呼ばれるバラック
を建てる運動が起き、三、四年のあいだに、そこに市の全人口の六分の一を収容する新しい
〃自律的”都市が出来あがった。
 スクウォッタリングは、こうした可視的なレベルたけの問題ではなく、身体的無意識のレベ
ルの問題でもあるだろう。エレクトロニクス・メディアの浸透によってわれわれの身体が支配
システムの侵略を受けている以上、その”白 律”を獲得しようとする努力は必然的に”スク
ウォヅタリング〃の形態をとらざるをえない。われわれは、っねにすでに潜在的な”スクウオ
ッター〃なのである。






 あとがき
 最近、広島市に行き、街を歩きながら考えたことがある。それは、街の景観がめまぐるしく
変わり、「都市の記憶」が急速に失われてゆく傾向は、決して日本の都市がもともともってい
た性格などではなく、第二次大戦とりわけ広島と長崎への米トルーマン政権による原爆投
下-以後に制度化したものではないかということである。
 広島市の街は、原爆によって歴史「都市の記憶」を消された。単に街の景観や歴訪たけ
でなく、人々がその身体に刻みこんできた歴史そのものを消去された。だから、広島市は、戦
後、歴史をゼロからはじめなげれぱならなかった。むろん、いまでは広島市の街路とその人々
のたかには新たな「都市の記憶」が沈殿している。
 しかし、戦後の歴史は、いわば都市と都市住人のおのが身体にミクロな”核爆弾〃を投げつ
け炸裂させ、肉体の痛みを伴わずに「都市の記憶」を喪失させるプロセスであり、それは、高
度経済成長期にーピークに達した。そのため、戦後に沈殿した「都市の記憶」とは、偶然の産物
であって、本来は記憶なしで行くべきところがたまたま沈殿してしまったといった体のものな
のである。
 東京は、そうした傾向を最も強く示している都市であり、まさにここでは、広島・長崎の原
爆から四〇年近くたったいまでもミクロな”核爆弾〃が常時爆発しつづげているのである。
 わたしは、東京の街路を歩きながら考えることがある。それは、文明の歴史はたかだか二、
三〇〇〇年だと言われているが、ひょっとすると、この二、三〇〇〇年という期問は、広島が
原爆以後に新たにはじめなげれぼならなかったような期間であり、人類は二、三〇〇〇年まえ
に一旦その記億を何らかの仕方ですっかり喪失させられたのではないか、ということである。
 記憶を失わせるには、別に都市や生体を破壊しなくてもよい。そうした技術は、原爆以後、
ひじょうに高度化した。すなわち電子テクノロジーである。われわれが、都市の街路よりも電
子メディアをより日常的な生活場とするようになるにっれて、「都市の記憶」は不在にたって
ゆく。人は、次第に,街路を遊歩するのではなく、テレビのチャンネルや電話回線のなかを”歩
く〃ようになるだろう。
 本書は、そのような世界の手前にあるうさんくさい世界に執着している人々の物語であり、
この国の都市にはからずも沈殿してしまった記憶のほんの一部を定着させようとする試みであ
ればよい、とわたしは思っている。
 しかし、それは、ゲラを読みながらいだいたわたしの印象であって、工藤強勝氏が装丁して
最終的に出来上がる本書が、どのような機能を果し、どのように読まれるかは、わたしの予測
をこえている。本書を創林杜の和田成太郎氏が計画してから二年以上の月日がたったが、その
間にも、本書は、和田氏が計画したものとも、氏の期待をあえて裏切りながらわたしが構想し
たものとも、全くちがった形態をとることになった。
 わたしは、原稿を書く際、担当の編集老と十分打ちあわせ、出来上ったものについても忌陣
のない意見を言ってもらい、その仕事自体を共同作業にしたいという欲望をもっているが、本
書の素材になっている長短の文章は、概ね、そのような共同作業のなかで生まれた。本書が和
田氏の熱意と忍耐のたまものであることは言うまでもないが、鈴木隆、高橋敏夫、大橋久美子、
三上豊、服部滋、高島直幸、山本和子、小澤英治、柳川時夫、横田紀子、西館一郎、植草信和、
福地一義、小倉一夫、中西昭雄、斉藤公孝-諸氏の協力がなければ、わたしは都市について
持続的に思考することはできなかっただろうと思う。深くお礼申し上げたい。
     一九八四年六月一九目
                                    著 者