もしインターネットが世界を変えるとしたら



デジタロン物語――ある20世紀研究家の手記

第1話

九〇年代後半には、通信衛星、高速通信網、光ファイバー・ケーブルが多重にリンクされたグローバルなネットワーク、ディジタル化された大容量の電子情報をコンパクトにパッケージしたディスク、どこでも使える軽便なマルチメディアのコンピュータと送信機がグローバルな規模で普及しはじめた。これによって、人々は、いま自分がどこにいるかには関係なく、世界中の人々とコミュニケートすることができるようになったわけだが、そのようなシステムが物理的に可能になってみると、人々は、コミュニケーションというものが、「地球的」とか「宇宙的」とかいう規模の大きさとは無関係であることに気づいた。
コミュニケーションを意味あるものにするのは、質であり、差異であって、量やサイズの大きさではないことがわかったのである。このことは、世界を一元的に支配できる情報を把握することを究極の目的として世界的な電子ネットワークの拡充に努めてきた国際的な金融機関や政治機関にとっても同様で、物理的な世界ネットワークが実現してみると、それは、「資本」や「利潤」の論理を無意味にし、特権的な組織が大多数の人々を政治的に操作するようなそれまでの支配方法を危うくすることが明らかとなった。
グローバルな直接民主主義やその語の本来の意味における「コミュニズム」は、『1984年』や『未来世紀ブラジル』の懸念とは裏腹に、むしろ「メディアの世界制覇」(の逆説的な結果)によって可能になるのであり、それゆえ、世界の歴史――つまりは世界の権力――は、決してそのような選択が取られないことに努めたのだった。
アメリカの「情報ハイウェイ」を初めとするグローバルな電子ネットワークがある程度の形をとる二〇世紀末には、すでに、そうしたネットワークのなかにさまざまなカオスを作ることが試みられ、ネットワークは、通りのよい一元的な回路よりも、あやしげな路地が入り組んだスラムのような「多形的」(ポリモーファス)なものが好ましいという考えが支配的になっていったのである。
しかし、このことは、無機的な電子回路が人間の頭脳にも似た有機的な矛盾に満ちたものに進化することを意味しない。電子回路にはそのような可能性もあり、そのレベルに固執するアーティストやメディア・アクティヴィストもいないわけではなかったが、少なくとも、政治権力や金融権力にとっては、グローバルなネットワークのなかに忍び込ませる「電子スラム」や「電子路地」は、まさに競争力や資本の格差を保持するための予備軍的な場として役立てられた都市のスラムや「開発途上国」のように、都合がわるくなれば解体可能なものでなければならなかった。
しかしながら、ポリモーファスな回路は、それが一旦形成されると、細胞のように自己増殖する性格がある。そのため、二一世紀の後半になると、グローバルな電子ネットワークは、一面で、世界中の個々人の神経組織をリンクしてそこに「ビッグ・ブラザー」が単一情報を流すという危険、あるいは、人工的に構築された「異分子」がばらばらになり、ネットワークがブロック化して抗争・離反するという危険が増大するというよりも、むしろそれぞれに細かく自律した単位の情報集団や個人が相互にコミュニケートしあうような電子コミュニティーを作るという動きが出てきた。
これは、身体的な世界をエイズ・ウィルスに占領された時代の人間にとっては救いとなった。電子メディアは、『デカメローネ』(デカメロン)の人里離れたフィエソーレの別荘のような避難所となり、そこで取り交わされた文字・映像・音のヴァーチャルな「物語」は、今日では、『デジタローネ』(デジタロン)としてデーターベースにおさめられている。そこには、レトリックが駆使され、コケットリーやペダントリーにあふれた話法が横溢しているとしても、言いたいことを言わずに上辺をとりつくろう日本的「間接話法」はなく、人々は、つねに直裁に語っていてすがすがしい。

第2話

二〇世紀末には、死ぬということが恐怖だったが、いまでは死ねないということが恐怖になった。
 今日の最高の刑罰は、死刑ではなく、永世刑である。かつて、死刑の次に重い刑は「終身刑」だったが、永世刑にくらべれば終身刑の方がはるかに楽であろう。終身刑の場合、病気や事故で死亡した受刑者に「延命術」や「蘇生術」を執拗にほどこすということはなかったが、現代の刑務所では、徹底的に蘇生術がほどこされる。その度合は、むろん、地域によってことなり、「グローバル」な統一性はない。
 二〇世紀末は、以前の「国」に代って、「地球的(グローバル)」とか「無国境的(ボーダーレス)」といった単位がもてはやされたが、一見「グローバル」で「ボーダーレス」な傾向を昂進させるかに見えた二〇世紀の技術が、実際には、それとは逆の――ゾフィ・プシエクールの言葉では――トランスローカルな方向が激化した。
 わたしはいま、ウカティク (ukatik) という地区に住んでいるが、すぐとなりのウクオイヌブ (ukoynub) やウコティアート (ukotiat) のことですら、あまり知らない状態である。これは、二〇世紀的な発想からすれば、交通の便が悪いためだろうと考えられるかもしれないが、もっと歴史・文化的な問題のためである。われわれは、二〇世紀人とはちがって、「外」にあまり関心をもたないので、「外」のことがほとんどわからなくなってしまったのである。
 ウカティクは、たぶん、近隣の地区のなかでは、二〇世紀の要素を一番強く残しているところであり、だからわたしは、二〇世紀史の研究家としてこの地域に移り住んだわけだが、聞くところでは、ウカユビス (ukaybis) のような地区の刑罰は熾烈をきわめ、永世刑の受刑者のなかには、「生前」の脳のいまわしい記憶をすべて保持したまま(犯罪者の場合、脳のメモリー変更は許されないことになっている)ほとんど体全体を人工臓器に換えられて、ふるい言葉を使えば、「サイボーグ」(「サイバネティクス」と「オルガン」との合成語)として永世にわたる労働の刑に服させられている者が多いという。
 人工臓器というのは、二一世紀の初めぐらいまで流行した医療技術で、いまでは、主として刑罰の技術として使われている。その語の一般的な印象は、恐怖である。二〇世紀に子供たちの英雄的サイボーグであった「ロボコップ」は、ここでは恐怖の代名詞であり、「ロボコップにされるよ」というのは、子供を脅かす常套句である。  すでに、一九九〇年代に、医療技術の最先端では、人体を人工的なメカニズムで代替する技術はかなりのところまで進み、ある限界内であれば、脳から性器にいたる各器官を人工物に置き換えることが可能になっていた。そのため、技術的には、死は存在しなくなり、身うごきできないほど体に無数の機械を接続してもよいというのであれば、「永世」は可能になっていたのである。
 こうした永世技術は年々進み、老人の多くが何らかの意味で「サイボーグ」であるという状態が一般化しはじめたが、それに対する反発も急速に高まっていった。「なぜそんなにまでして生きなければならないのか」「人生はながいきに値するのか」といった古典モラリストたちのせりふが復活し、激しい論争がくりかえされた。
 それとともに、「安楽死」や「死の賛美」がはやりはじめ、学校へいくのがいやだというので首をつってしまう子供、レストランの食事がまずかったというのでのどにフォークをつっこんで自殺してしまう料理評論家、筆者が逃げまわっていてなかなか原稿を書いてくれないというので、「ああめんどくさい」と一声叫んでビルから飛び降りてしまった編集者等々、「気分的」な自殺が流行になった。
 行政府は、そうした自殺者に対して、当初は、「人道的」立場から対処し、彼や彼女らの蘇生にこれつとめたが、その数がふえるにつれて、政治的に対処せざるをえなくなってきた。すなわち、自主的な死を法律的に禁止するとともに、一度死んでも必ず生き返らせるという「死後の恐怖」をうえつけたのである。
 これには、当時台頭しはじめた人工臓器産業の要請もあった。犯罪は、どんなに禁止しても、その要因が解決されなければあとをたたない。安楽死と自殺の流行は、規制や「死後の恐怖」のプロパガンダにもかかわらず、とどまることをしらなかった。だが、これは、人工臓器産業にとってはまたとない機会だった。自主的に死んだ者は、どこまでも蘇生の対象となるということが法制化されれば、人工臓器産業の将来は保証されたも同然である。こうして、先進的な地区の刑務所は、次第にサイボーグの収容所になりかわっていったのである。これは、残酷というほかはない。
 「死は生命活動の一部的な途絶にすぎない」という見解が支配的になった現在、受刑者でなくても、永世が万人に強制されるわけだが、犯罪者でない場合には、頭脳部分の「バージョン・アップ」が許されるため、出費さえいとわなければ、生き返らされたたびに、別の人格をもち、「前世」をすべて忘れてしまうということも可能だからである。

第3話

 かつて「未来学」とか「未来論」といういうものがはやった時代があった。「いま」はもう誰も「未来」のことなど語らない。そこには何もないことがわかってしまったからである。時間を意識する者は、もっぱら「過去」について語る。
 しかし、二十一世紀のなかごろまではまだ生き残っていた「未来論」が本来果していた機能は、「未来」をきっちりと予測することではなくて、「いま」よりましな時代が将来必ずあるということを信じさせることだった。そんなことが全くのまやかしであること、「未来」よりは古代や中世の方がよっぽどましであったことが歴然としてしまった「いま」、「未来論」の役割は終ったのである。
 先日歴史資料館から借りてきた『二十一世紀の未来技術』(一九九二年刊)という本によると、二十一世紀の「未来」には、人々は、腕時計のように小型の無線装置をもち、それでいつでも世界中と交信することが出来るようになると書かれている。
 たしかに、一九九〇年代後半の、いわゆる「先進産業国」では、かなりの数の人々が手の平に収まるぐらいの大きさの携帯電話機をもち歩いていた。そして、飛行機から自転車にいたるすべての乗物には無線電話機が装備され、いつでも誰とでもコミュニケートする物理的条件だけは百パーセントととのった。
 しかし、問題は二つの方向からやってきた。一つは、電波の問題である。この時代、波長の短い、強力な電波を出す技術は年々進み、電子的なコミュニケーションの「夢」は最終的に実現されたかに見えた。ところが、一九九五年ごろを境にして、ストレスや低血圧症などの体調不振現象の多くはむろんのこと、ガン、脳内出血、精神病なども、日常知らぬ間に「被爆」する電波が引き金を引いていることが明かになってきた。
 その結果、二〇〇〇年には早くも、一部の国では空中にまき散らされる電波を、かつての鉱毒やばい煙と同じように公害源として厳しく規制する動きが出てきた。そして、二〇一〇年を期して、アメリカや日本を初めとする電波「先進国」は、微弱な電波以外の空中での電波使用を中止したのである。
 電波の恐ろしさについては、まえまえから専門家のあいだで指摘されていたが、半世紀もたってからこうした処置がとられたのは、ようやく空中波に代る通信方法が普及したからである。代案が確定してから規定を改めるというのは、政治の常道なのだ。  二〇〇〇年までに、「エレクトロニクス文化」の象徴だった電波塔やパラボラアンテナの姿は消え、代って、地上や地中をグラスファイバー・ケーブルが縦横に張りめぐらされるようになった。
 しかし、人がケーブルを引きずって歩くわけにはいかないので、街や建物のあちらこちらに送受信の「ノッド」が設置され、微弱な電波による二~三〇〇メートル四方の限定電界のなかでのみ無線の送受信が行なわれるシステムがつくられた。これは、非常に洗練された技術を利用したので、強力な電波で遠距離を直接結ぶ従来のやり方とくらべて、機能的にはいささかも劣ってはいなかったが、もう一つの問題が足を引っ張った。  それは、特に電話において著しい現象であったが、人は、電話をいつでもどこでもかけられるようになるにつれて、逆に、電話をかけることがおっくうになりだしたのである。
 ある文化史家によると、そうした兆候は、すでに「留守番電話」と「コードレステレフォン」が普及しはじめた一九八〇年代後半から一九九〇年代の時期に早くも見られたということだが、人は、自分の部屋に二十四時間体制で外部の回路が侵入してくること、それどころか、自分の神経回路が有無を言わせず外部にに接続されてしまう電子の暴力にうんざりしてしまったのである。
 一九九八までに、電話は、四十年まえにそうだったように、ふたたび廊下や部屋の片隅に押しやられ、裕福な者は「交換手」を雇うなどして、極力電話に出ない方策をめぐらすようになった。一九九〇年代の映画には、まだ、ベッドサイドの電話に起こされる探偵、街を歩いている最中にポケットベルで呼び出される「企業戦士」、たがいに携帯電話をかけながら腕を訓で歩くカップルなどの姿が出てくるが、このようなライフスタイルは、じきにすたれたのだった。
 むろん、極端と極端とが共存するのが世の常であるから、極度に電子機器を嫌う階層が生まれる一方では、ほとんどやけっぱちに電子機器に接近する階層も生まれる。一九九九年ごろから、音や映像の信号を直接神経回路に流してしまう方法がはやりはじめた。それまではヘッドフォンやモニターといった外部の装置でがまんしていたのだが、強い刺激を求めるあまり、この方法を選ぶ者が増えてきたのである。日本のような「儒教道徳」の強い国では、早速、法律を作って取締りにあたったが、「魔界医師」のところでこっそり電子装置を体内に埋め込んでもらう若者はあとをたたず、規制は徹底出来なかった。
 こうして、保守階級=電子離れ、下層・パンク=電子中毒という階級関係が二十一世紀の前半を支配したのである。

第4話

「金がすべて」というのは、一八世紀から二〇世紀ごろにかけてはやった風潮だが、二〇世紀から二一世紀にかけては、「情報がすべて」だと考える人が増えた。
貨幣は一部でしか使われなくなったから、金のために人を殺したり、金のためにあくせく働いたりすることは、次第に一般的ではなくなり、かつては深刻に受け取られたその手のエピソードも、喜劇や笑劇にギャグを提供する程度の役割しか果たさなくなった。
情報がすべてだと思われるようになったとき、その鑑とされたのは「スパイ」と「コレクター」だった。情報局出身の政治家が次々に大統領に選ばれるような国もあったし、物や人の生臭い操作にたけていることが政治家の必須条件であった前時代に対して、この時代には、人や物よりも情報をあやつる方が得意であることが政治家の条件となった。
しかし、いまにして思えば、金か情報かという対比はあまり意味がないのである。二〇世紀の資料を調べていると、「金がすべて」だと考える人の典型として、「守銭奴」がおり、守銭奴とは、金をせっせと貯め込むことに熱中することになっている。だが、貯め込まれて使われない金は金ではない。金は流通され、利潤を生んでこそ、その名にあたいするものであったからである。
二〇世紀には、これと同じ論法で、「情報がすべて」だと思う人物は、「スパイ」のように情報をせっせと「かき集める」ものと考えられたが、情報は流れなくては意味をなさないわけだから、そのようなことに精を出している人は、その実、「情報がすべて」だというような世界からは程遠かったと言わなければならない。
実際には、「守銭奴」も「スパイ」も金/情報をただかき集めていたわけではなくて、金や情報を媒介にしてそれらの回路づくりをやっていたのだった。「貯まった」金や情報は、そうした回路づくりの過程を示す残骸でしかなかった。金や情報の蓄積が権力を作るのではなく、それらが流通する回路の拡充が権力となるのである。
とはいえ、金で回路を作るのと、情報で回路を作るのとでは大きな違いがある。その点を明らかにしなければ、歴史家としては失格だろう。
金であれ、情報であれ、それらが流れ、回路を形成するためには「差異」が必要である。水溜に落差をつけてやれば、水は流れ出す。金の時代には、そうした差異を貨幣と物との落差で作り出していた。貨幣の単位は一定にしておいて、それに対する物の関係度を操作するわけである。
情報の場合、物との差異も回路を作りうるが、情報はそれ自身とのあいだにも差異を作ることが出来る。たとえば、火事が起きる。これは物の出来事だ。これに対して、それが「放火である」という情報を対置するならば、この火事という物をめぐって、一つの回路が出来上がるだろう。これは、「ニュース」と呼ばれた。
他方、この場合、火事が物として「物在」(二〇世紀の用語では「実在」とも言う)しなくても、どこどこで「火事があった」「それは放火らしい」「過失という説もある」等々の情報を作り、互いに対置させるならば、そこにうわさや憶測の回路が出現し、ときにはそれがとてつもない増殖を行なうだろう。
このように、金による回路の形成と情報による回路の形成とは違うため、二〇世紀末には、両者のあいだである種の相克が起こった。二〇世紀後半から、政府や企業は、やれ情報の時代だとばかり、それまでの金に代わって、情報の収集と蓄積に精を出し始めた。しかし、やがて、彼らは、金を集めていたときには、金を蓄積すればするほど、行使できる力の方も増大するのを目の当たりにすることが出来たが、情報の方は、いくら集めても何の力にもなってくれないという事態に直面した。
しかし、彼らが気づかなかったことは、彼らが大抵の場合、情報を金で「買う」ことによって集めていたことである。情報は、それを「集める」としても、あくまで情報的に「集め」られて初めて情報の回路を作り出し、権力となるのだが、彼らは、情報を集めながら、その実、金の回路を操作しているにすぎなかったのである。
情報は、「買う」ものではなくて、捏造するものである。それは、「盗む」ことも「奪う」こともできない。いわゆる「機密情報」が価値をもつのは、すでにそれを流す回路があるときだけである。価値があるのは、その回路の方なのだ。
しかし、情報の回路は、水道管のように出来上がっていて、問題は流れる中身だけだというような形で機能するのではない。つまり、「機密情報」というものは、情報の回路をあえて固定することによってしか成り立たないのであり、そのような情報がいくら増えても情報的に豊かになったとは全くいえないわけである。
このことがわからずに、「価値ある」情報をせっせと「買い集め」ていた二〇世紀の政府と企業は、ひたすら既存の金の回路の萎縮に貢献することになり、彼らとは別のところに依拠する人々の新たな台頭を容易にしたのだった。

  第5話

 文明の進化を信じる者はもう何世紀もまえから少なくなっているが、文明の退化を信じる者はますます増えている。
では、歴史の進行過程のなかで一貫して退化しつづけてきたものは何だろうか? ゾフィ・プシエクールによると、それは記憶力だという。確かに、われわれはもはや「暗記」や「暗算」などという技術をもちあわせていない。情報装置を一切取り上げられた状態で、自分のことを説明せよと言われて、それがよどみなく出来る者は例外であろう。二〇世紀には、まだ友達の電話番号をすべて暗記している人間が少なからずおり、芝居の役者は、舞台でテレメモリーの装置なしにせりふをあやつっていたというから、驚きである。
が、記憶を身のうちで処理出来ない傾向が始まったのも、実は二〇世紀であって、今日では信じられないような記憶人間が多数いたのは、むしろ前世紀のなごりであり、すでにこの時代に、すべての記憶をコンピュータなどの電子装置にまかせてしまおうとするさまざまな試みがなされていた。したがって、その後、われわれが記憶の能力をすっかり失ってしまったのは、偶然ではなくて、むしろこの時代の願望の必然的な結果であった。
近年、記憶の能力をとりもどそうという運動がさかんで、数世紀まえとくらべると、われわれの記憶能力は幾分回復したわけだが、二〇世紀に始まった忘却主義は二一世紀には一部では早くも極端な事例を生み出していた。
「ねえ、君、いまぼくは何て言ったっけ?」
これは、二〇世紀には「健忘症」を表す典型的なせりふの一つと見なされたが、二一世紀には、これは、「君は気がきかないね」という意味である。つまり、二一世紀後半になると、いま自分が言ったことも覚えないことがイキとされたので、相手が言ったことを再度取り上げなおすようなしゃべり方や態度は、ヤボというよりも非常に失礼なことと見なされたのである。
記憶しないということは、ある意味では気楽なことである。すべてがいつも新たなるくりかえしであるから、どんなに陳腐なことでも、新鮮に見えるのだ。この数世紀間に何度も現れては消えた「忘却主義」「ネオ忘却主義」「ネオネオ・・・」は、すべて、こうした一回性信仰にもとづいており、記憶こそが人生の最高価値たる一回性を反復に低落させてしまうのだと主張した。
しかしながら、ちょっと冷静に考えてみればわかるように、単語やシンボル化された映像のようなパッケージ単位の記憶ならば、まさに電子的な記憶装置の記憶のように、何度引き出しても毎回同じであるということが起こりえる。これも、実は、同じものにしてしまっているのは、記憶そのものではなくて、記憶の仕方なのだが、記憶というものはもっとしたたかなものであり、単語を全然覚えていなくても、その指標にあたるものを漠然と覚えているものなのである。
忘却主義がかなりはやった二一世紀に、新しい専門職として「記憶サービス」というのが登場した。これは、記憶を捨て切ってしまうところまではいっていない過渡期に特有の職業で、要するに人の代わりに記憶を引き受ける職業である。この時代には、情報的なものはすべて電子的な記憶装置にまかせていたから、記憶の特殊能力は、もっぱらパッケージされた記憶の引きだし方や配置方法を覚えておくという面で発揮された。 一般に、記憶は、非常に漠然としたものになっていたから、記憶の専門家は、依頼人が、たとえば、「あのね、あれどうなってたっけ? あそこの・・・あれさ」といった言葉から的確に「あれ」が何を意味するかを判断しなければならなかった。「あの人のあれを調べて、それをあれしてくれない」と言われたら、すぐコンピュータを操作して、情報を引き出し、仕事をするようでないとこの仕事はつとまらない。 当然のことながら、「アイデンティティ」とか「生産」とか「組織」といった観念にとらわれていた旧産業の世界では、こうした記憶の専門家への依存度が過剰に高まり、ときにはばかげた(いまから思えばの話だが)事件が発生する。
社長がしきりに「あれ、あれ・・・」と言っているにもかかわらず、その「あれ」を全く違うものにすりかえて、いいように会社を振り回すということはめずらしくなかったが、ときには、悪辣な記憶プロフェッショナルズの手にかかって、あの漠然とした記憶(これこそが忘却主義時代の最後の救いだったのだが)までもすりかえられてしまう者も出てきた。
よき時代には、電話サービスで、「わたしは誰でしょう?」と尋ねると、DNAのID番号を確認したのち、「あなたは、名前を・・・と言い、たったいままで演劇の仕事についていました・・・最も親しい友人の名前は・・・で・・・」というような信頼できる情報を得ることができ、記憶サービス・センターで毎日自分が誰であるかを確認してから職場におもむくというのがかなり一般的な習慣になっていた。
 しかし、それが一挙にあれし、あれが始まったのである。

第6話

二〇世紀末の日本で作られ、流行した「発明品」展というのが二一世紀の初頭に開かれたことがある。いまその記録を参照してみてわたしが特に興味をおぼえたのは、「トーカー」というバッジサイズの電子マシーンである。
マルチメディアだ、バーチャル・セックスだ、エレクトロ・サウナだと、やたらと電子テクノロジーに依存した発明品が登場したのが二〇世紀末の特徴だったが、これらは、所詮、既存の技術を能率化したものにすぎなかったし、アイデアも大抵は外から来たものばかりだった。
これに対して、「トーカー」は、およそ日本でしか考えれない製品であり、発明品である。この機械、一九九六年に発明され、商品化されるや、爆発的に広まり、二〇世紀中に全人口の六〇パーセント以上が腕時計のように持ち歩くようになった。 トーカーは、最初、「こんにちわ」とか「さよなら」といった決まり文句をメモリーしたおもちゃの音声マシーンだった。もとをたどれば、スウィッチを押すとけたたましい笑い声や「ファック・ユー」といった卑猥な言葉を発するおもちゃに端を発するのかもしれない。また、当初は、喉頭ガンで声帯を切除してしまった人の会話を助ける目的で作られたという説もある。
が、いずれにせよ、ある時期からこのマシーンは、一般の人々のあいだに浸透し、日常生活のなかで使われるようになっていった。そのため、最初は、手の平サイズで、ポケットに入れて携帯されていたトーカーは、やがてボタンサイズになり、ペンダントのように胸につけて使用されるようになった。
どのような使い方をするかというと、(これにも変化が見られるのだが)ポケットサイズのトーカーのときは、人に会って別れるとき、ポケットからトーカーを取り出してスウィッチを押し、トーカーから「では、また」とか「ありがとうございました」といかいうせりふを発声させて肉声に代えるといった省力的な使い方がなされた。
これは、二〇世紀の七〇年代以後、次第に「ゼロ・ワーク」(労働をかぎりなくゼロにして働くのをやめようとする運動のスローガン)の意識が高まり、決まったことを繰り返したり、紋切り型の言葉をしゃべったりするのは人間のやることではないという考えが広まったこととも関係がある。

それならば、不毛な反復やクリシェそのものをやめてしまえばよいわけだが、そこは日本であり、二〇世紀である。人々は、道で知り合いに会うと、ポケットからトーカーを取りだして、スウィッチを押した。トーカーは、「大分暖かになりましたね」とか、「御忙しいですか」とかいったあいさつの言葉をはじめ、一〇〇ぐらいのフレーズや文章をメモリーしていたので、単なる近所つきあいのレベルであれば、自分では一言も発せずに、トーカーだけで済ませてしまうこともできた。 やがて人工知能を内蔵したトーカーができ、ある程度まで、トーカーのセンサー自身がその場に必要な言葉を判断して自動的にしゃべってくれるようになり、人々は、トーカーをペンダントのように胸につるしたり、衣服に付たりするようになった。
機種の選択肢も増え、多弁型、寡黙型、わざとタイミングをはずした反応をするマヌケ型など、さまざまな機種が発売されたが、こうした傾向に反抗して、トーカーを使おうとしないひねくれ者のために「バウバウ・トーカー」という製品を売りだした会社もあったという。これは、人を感知すると、「バウバウ」という音声を発声するだけなのだが、決まり文句を几帳面に発声してくれる標準型よりもよほどユニークであるといって愛用する者が、少なからずいたらしい。
ただし、このマシーンに対しては、国語審議会と文部省からクレームがついた。会話を「バウバウ」だけですませてしまうというのは、日本語の「豊かな伝統」を壊すものだというのである。そのため、各社は、一斉に自主規制し、この製品は大きな市場からは姿を消すことになったが、街のディスカウント・ショップなどでは長らく売られていた。
その点、トーカー志向がさらにエスカレートして、「アレ・コレ・トーカー」というのが登場したときには事情が違った。発売後一か月で当局は、このマシーンの製造と発売を禁じたのである。これには、女性たちの反対が功を奏したという説があるが、わたしの見るところでは、このマシーンほど日本女性の言語使用を正しく引き継いでいるものはないのである。
「アレ・コレ・トーカー」というのは、実に天才的なまでにシンプルなマシーンであり、要するに日本語の会話を「あれ」と「これ」との二語を中心として再構成し、この二語に微妙な抑揚やリズムを加えるほかは、「ええ」、「まあ」、「んー」といった「内臓言語」(声帯や口唇よりも内臓の運きを使って表現される言語)や「パッ」、「バサッ」などの擬態語・擬音語だけですべてを表現してしまおうというのである。 これは、日本語の本質を鋭くとらえている。実際に、二〇世紀の日本の女性たちの多くは、サブカルのレベルでは、たとえば、「んー、アレ、ほら、なんつーか、やっぱしアレじゃない」というように、会話をすでに「アレ・コレ・トーカー」のやり方で行なっていたのである。
もっとも、こうした言語使用のために政治が深刻な危機に直面していた当時の日本では、「アレ・コレ」言語と手を切ることこそが必要であったのかもしれない。

第7話

 「資本主義の勝利」ということがしきりにくりかえされた時期があった。二〇世紀の初めにロシアから始まった「共産主義政権」が次々にその名を撤回したのは、一九九〇年代のことだたが、何をとりちがえたか、当時の歴史家は、この事態を、「冷戦時代」の保守主義者たちが夢見ていたことの実現と錯覚し、「それみたことか、共産主義や社会主義などというものは、資本主義の先を行くものなどではなくて、結局、世界には資本主義しかなかった」と考えたのだった。
 しかし、いまでは明らかなように、「共産主義政権」の崩壊は、同時に、資本主義の終末の端緒でもあった。両者は、同じものの二つの側面でしかなかったのであり、同じことを実現するのに、「西側」では「自由主義」で、「東側」では「共産主義」というやり方でやっていただけのことであった。
 当時の歴史家のなかで、このくらいのことを予見していた者はいなかったのだろうか、と不思議に思い、わたしは、先日、歴史資料館でひねもす一九九〇年代の資料を徹底的にあさってみた。やはり、事態を正しくとらえている歴史家はいるにはいた。  イマニュエル・ウォーラースティンというアメリカの学者は、『ポスト・アメリカ』(一九九一)という本のなかで、はっきりと次のように言っている。
 「レーニン主義の挫折は、ウィルソン的自由主義の勝利であると解釈されている。ところが、実際には、一九八九年という年が描き出したのは、レーニン主義の死滅のみにとどまらず、二十世紀における二大対立イデオロギーであるウィルソン的終末論とレーニン主義的終末論の双方の終焉なのである。東欧に見出しえたのは、一七七六年アメリカ独立宣言や一七八九年フランス革命の精神であるよりは、一九六八年『プラハの春』の余震だったと言うべきである。」
 二〇世紀にはフランス二月革命の一八四八年は、時代を区切るまさに画期的な年代であったが、二一世紀になると、歴史は一九六八年から語られるのが一般化した。しかし、一九九〇年代には、一部の歴史家を除いて、「パリの五月革命」の年である一九六八年の重要性を見過ごすきらいがあった。レーニン主義的な「共産主義」といっしょに「ニューレフト」のアクティヴィズムやラディカリズムをも流し去ってしまったのである。
 この点で最も深い歴史忘却に陥っていたのが日本であったというのは、決して偶然ではない。もともと日本は、西欧諸国が経験した「一八四八年」を経験せずに、いわばその「要旨」(すなわち「進歩」と「蓄積」は善なりという観念)だけを無批判に受けつぐことによって、短期間に「奇跡」の成長をとげた。その際、日本が「一九六八年」を経験しなかったのは当然である。なぜなら、「一九六八年」は、もともと、「一八四八年」の総括であったわけだから、「一八四八年」からその好都合な部分だけを取り出して受けついだ日本にとっては、総括すべきものは何もなかったからである。
 ということはつまり、一八四八年から始まる世界の終末の主役を務めることはできても、一九六八年から始まる世界では、端役すら務めることができないということである。
 実際、「日本の世紀」は、一九七九年から一九八九までのわずか一〇年であり、その凋落はやがて一気に進んだ。
 この時代には、どこの国でも「世界市民」的な文化が広まり、人はほとんど国家というものに執着しなくなっていたので、国家の衰退という観念自体があまり話題になりにくかったが、日本の場合は例外で、その衰退が実にあざやかに現れ、そこで多くの歴史家がこぞって『日本帝国衰退史』を書いたのだった。
 日本が「一八四八年」から省略したもの、したがって、「一九六八年」の経験としてとらえなおし、先に進めることができなかったものは、「市民性」と「パブリック」という観念であった。人々が個人として、自分たちの意志と責任で共通の場(都市であれメディアであれ法律であれ、そして国家であれ)をもつということの欠如。「パブリック」なものは、「公共的」なものとして、いつも、上から与えられること。そのため、「公共的」なものは、日本では、いつも天から降ってきた天運か天災のように、ただ受け入れるしか「しかたがない」ものなのだった。
 一九九〇年代をさかいに、「一九六八年」を経験した国々では、この「パブリック」なものを国家のわくのなかにとどまっている「空き地」から、国家そのものを越えた世界の「空き地」つまりは「フリー・スペース」へ拡大変容する動きが強まり、やがて、「世界市民」という発想が広まるわけだが、日本では、そういう国家内のフリー・スペースとしてのパブリック・ドメインという発想がないために、それを広げようにも広げようがないのだった。
 この時期に、日本で、「小市民」風のひどく明るい顔をした教祖をたてまつる新興宗教が現れ、急速に勢力を延ばしたが、彼らが信仰のなかで満たされるとしたことは、本来は、みな「パブリック・ドメイン」のなかで満たされるべきことであり、それを宗教という形で二重にうやむやにすることによって日本は、一層、衰退の速度を早めたのであった。

第8話

日本が完全に国家ではなくなったのは、二〇八四年だと言われている。議論が分かれるのは、それを滅亡ととるか、発展的解消とみなすかである。
民族や一定の土地と密接に結びついた意味でのネイション国家は、すでに一九八〇年代に終末の兆しを見せ、その後の一〇年間にいくつかの国家が解消ないしは解体し、二一〇〇年代に依然としてネイション国家のままであった国は、ごくわずかにすぎなかった。一説では、日本は、この流れに長らく逆らったのち、ついにそれを受け入れたという。その点で、日本は、他の国よりも長く伝統を保持したとして評価されることもある。もう一つの説では、日本は、国家の解消という時代の流れにうまく対応できなかったので、時代に取り残され、最後はその流れに飲み込まれたというものである。
しかし、いずれにしても、国境を失った日本人が、それを喜ぶよりも、その後、長きにわたって過去をなつかしみ、現在を呪うナルシシズムの病から抜けられなかったことを考えると、それは、はなはだ割の合わない伝統だったと言わなければならない。 そもそも、日本の伝統とは何か? 果たして日本には守るべき伝統などあったのだろうか? そこでは外部からやってくるものに順応し、何も守らないことが伝統だったのであり、伝統はたえずすり替えられるのだった。
この点で、九〇年代を飾る最大の伝統行事は、九〇年代末に始まった教育改革だった。それまで「読み書き」にウエイトを置いてきた教育が、何を思ったか、急に「見る見せる」を重視する教育に転換されたのである。
おそらく、この転換の発端は、二〇世紀最大の映画作家のジャン=リュック・ゴダールの発言から始まったのだと思う。彼は、あるとき、さりげなく、キューバ革命の失敗は、キューバが、革命後、アメリカと同じような「読み書き」教育を始めたことにある、と言ったことがある。ゴダールによれば、音楽やダンスを初めとするオーラルな文化が横溢していたキューバでは、映像メディアこそがその豊かさや柔軟性を発展させるのであり、逆に文字メディアは、せっかくのオーラル文化を破壊してしまうという。そして、「カストロは、子供たちに鉛筆よりもカメラを持たせるべきだった」と。
社会主義や共産主義という名の「革命」が、所詮は、工業化や近代化の別名でしかなった二〇世紀には、キューバ革命にそのようなことを期待しても無理というものだが、それが二〇世紀末になると、それまで「革命」を恐れてきた国々で「読み書き」教育の廃止と新たな「見る見せ」教育が実施されるようになったのは、歴史の皮肉である。歴史はもともと皮肉なものであり、教育が文化や感性の育成であったためしなどないのだが、「見る見せ」教育の方も、エレクトロニックスの産業が新しいマーケットを生み出すために加速されたのだった。
すでに二〇世紀人は大分まえから本を読まなくなっていたし、字を書かなくなっていたが、だからといって、その分オーラルな文化が豊になったわけでもなかった。人々の文字離れは、テレビを初めとする電子メディアの過剰な普及と無関係ではないが、これらの機器はオーラル志向のメディアだとしても、それ自体がオーラルな文化を生み出すわけではない。それらは、みな発信される情報を受け身で見たり聞いたりするためのものだったので、逆に、電子メディアの浸透以前からあったオーラルな文化を骨抜きにしてしまった。
二〇世紀末になって日本の産業界が過剰な期待をかけたマルチメディアが、期待に反して、あまり利潤を上げなかったのも、それらが「見る聞く」の受動メディアであり、また、それを活かす豊かなオーラル文化が乏しかったからである。皮肉なことに、オーラルな文化に恵まれた「後進産業国」の方は、そんなものに金を費やす経済的余裕がなく、産業界はディレンマに苦しまなければならなかった。産業界の連中は、こうした国々にマルチメディアを持っていくと、途方もなく創造的な効果を発揮することを知っていたが、それは、商売にならないだけでなく、商売にとって潜在的に危険な結果を生みかねないことも知っていた。
何か策を講じなければならなかったわけだが、やがて彼らが見出したのは、当時、意気もたえだえながらも生き延びている活字メディアを敵に祭り上げることだった。「こいつこそ、映像メディアの発展をさまたげている」というわけである。さらに彼らは、現在の教育が、この敵をのさばらせている元凶であることにも気づいた。メディアをどう使い、どうアクセスするかを子供たちに教え、植えつける教育は、確かに、「読み書き」主導型で行なわれていた。
彼らは、本当は、即刻、読書や作文を禁止したかったのだが、そういう強権的なやり方が得にならないことを熟知していたので、まず、「もう、読み書きの時代ではない」というスローガンをブチ上げることから始めた。そして、この発想が広まった段階で、初等教育のカリキュラムからすべての「読み書き」教育を外していった。その間に、世界のあちこちで、書店や図書館が不審火で燃え落ちたり、小説家や出版社の社主が失踪したりする事件が連続的に起ったのは偶然ではない。
こうして、二一世紀の日本には、やたらと身ぶりや表情ばかりが過剰で、喜怒哀楽は裸体や性器を露出することでしか表現できない人々が登場するようになったのである。