メディア牢獄
「言語とエレクトロニクス

1
 カフカは、言語自身のなかにひそむ権力の構造を熟知していた。すなわち、文字を書くということ、 言語を物質として身体に対置するということが身体に対する抑圧と支配となり、言語は、それが一旦 書かれると、そこには支配と被支配の権力闘争を生み出すということを洞察していた。" 作者"と"作 品"、"主体"と"客体"といった依然支配的な関係はまさにこの権力闘争の産物であり、広告言語の 支配という1920年代以降の新しい現実も、"作者"が"作品"を支配し抑圧する——旧来の文学に おいて有力だった——支配関係を逆転しただけで、この支配構造を根底から組みかえることはむろん できなかった。この闘争と支配構造は、身体が言語を制圧すること——その極限には焚書がある——によってはもちろん、言語が物質として増殖して身体を完全に包囲してしまうこと(モートン・シャッツマンは、ある文化のなかで身体的病気と言語的慣用句とが相互関係をなしていることを指摘している——岸田秀訳『魂の殺害者』草思社)によっても止揚されはしなかった。
 友人に遺稿の焼却を依頼したカフカの遺言の帰結は、まさにこうしたディレンマを反映している。
カフカのねがいは、遺稿を単に焼却することであるよりも、むしろ遺稿につきまとう文字と身体、 "作品"と"作者"という関係を止揚することであり、"作者"が"作品"の支配者になることの、 そしてまた"作品"が"作者"を制圧することの根源的な拒否を表明することであった。カフカの最 後の女友人ドーラ・ディアマントは、彼の遺言を"忠実"にまもり遺稿を焼却したが、それは単に、 文字と身体との根源的な権力闘争に目かくしをすることでしかなかった。マックス・ブロートをはじ めとする遺稿の編集者たちは、カフカの遺志を"無視"しはしたが、それもこの闘争の最終的な調停 を未来にひきのばしたにすぎなかった。
エリアス・カネッティは、カフカにとって「あらゆる形の権力を寄せつけないことが彼の生涯の本 来の関心事である」(小松・竹内訳『もう一つの審判』法政大学出版局)と言っているが、カフカは自分の書い たものの"作者"として"作品"に支配的に君臨することを最もおそれた。だが、すべてが支配と被 支配のなかで進行している世界においては、彼のような「あらゆる形で権力から逃がれようとする無 力者のこの不屈の試み」ですら、別の形の——より高度の——支配のなかに統合されてしまう。カフ カにとって書くということは、支配ではなく、支配と被支配の関係から自由になることを意味するは ずであったにもかかわらず、この書くということが、特定の身体=他者に向けられるとき、彼を支配 と被支配の関係のなかにひきずりこむのである。
 この逆説は、今日『ミレナヘの手紙』(1952年)、『手紙——1902〜1924年(1958年)、 『フェリーツェヘの手紙』(1967年)、『オットラと家族への手紙』(1974年)として公刊されている  カフカの膨大な量の手紙群のなかで姿をあらわすが、それはとりわけ『フェリーツェヘの手紙』(城山 良彦訳『決定版カフカ全集』第10〜11巻、新潮社)において顕著である。カフカが1921年から1917年ま でに「二度婚約しそれを二度とも解約した女性」フェリーツェ・バウエルにあてて書いたこの500通以上の手紙群は、彼が「あらゆる作家のうちで権力の最も偉大な専門家である」(カネッテイ)こと、 従って性、夫婦、家族といった(身体的に)直接的な支配装置にうったえることなく人を支配する新 たな様式——全面的な管理の貫徹する社会において一般化するであろう支配様式——を洞察し、しか も彼白身がそうした支配の"すぐれた"行使者であったという逆説のドキュメントになっている。む ろんこの支配は、あらかじめ自分を安全なコントロール・ルームにかくまったうえでなされる計算づ くの操作ではなく、「あらゆる形の権力を寄せつけないこと」(カネッテイ)をねがうカフカが不可避的 にまきこまれる構造的・自己増派的な支配にほかならない。
 カフカはフェリーツェとの関係を持続させたいとねがう。が、その関係には、性や家族の関係—— つまり身体的な人間関係——は含まれない。文通をはじめてから50日後に——まだ"貴女。(Sie)と 呼びあっていた段階で——すでに彼は「大きな距離をおいて親しくわたしを甘受してください」と書 く。8ヵ月後にはこの含意はさらにはっきりする——「君がぼくにとってどんな意味をもっているか を君に一度でもわからせたい!がそれは、ぼくには、近くからよりも遠くからそうする方が楽なの です。」
 あきらかにカフカは、手紙の関係——つまり純粋に言語的な関係——の永続を、恋に恋文を代置す ることをのぞんでいる。彼が求めているのは、文字だけが増殖しあう関係であり、そのためには"作 若"(手紙の書き手)と"読者"(その受取人)とはたがいに身体的に孤立していなければならない。
しかし、「健康で快活で自然のままの、たくましい娘」であるフェリーツェは、身体が文字を圧倒す るような世界により近く住んでいる。カフカにとって身体約な近さは文字的な速さだが、フェリーツ ェにとっては文字的な近さが身体的な速さとなる。「書くことにだけ合わされている」カフカとはち がって、フェリーツェは身体と文字の両世界にまたがって生きることをむしろ当然と考える。それゆ え、カフカとフェリーツェとの関係は、文字的なものが身体的なものを制圧するか、それとも逆に、 身体的なものが文字的なものを圧倒するかという支配と被支配の熾烈な権力闘争にならざるをえない。
その際、身体による文字の支配は暴カへと加速しうるが、文字による身体の支配は、距離をおいた支配すなわち遠隔操作という形態にゆきつく。
 フェリーツェヘのカフカの手紙は、こうした権力闘争のミクロ・モデルであり、ここではカフカは、 文字によってコミュニケイトしあうよりも、むしろ二人が文字の増殖機械と化すことへのパラノイア 的な欲望をもかくさない。その欲望は、今日存在するいかなる形態のコミュニケイション機械に向け られた欲望よりもはるかに過激である。彼はすでに今日の音声タイプや声の郵便、留守番電話などの 機械装置をおどろくべき正確さで予測し、また、プラハにいる彼がボタンを押しさえすればベルリン のフニリーツェからの手紙が細いテープになってあらわれる機械の夢をみるが、カフカが手紙の機能 のなかにみていたものはこれらの機械よりもはるかに過激で有力なものだった。というのも、この一種のテレ・タイプの場合、「ベルリンの君を機械のそばに連れてこなければ返事が来るわけがない」 のに対して、カフカの"欲望機械"としての手紙は、フェリーツェが自分の意志で書き、しかもそれ がカフカ白身のコントロールから決してはずれないものでなければならなかったからである。
 その意味で、フェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズが、「カフカのなかにはドラキュラ的なも の、手紙によるひとりのドラキュラがいる。手紙は、手紙の数だけの蝙蝠である。……彼が恐れるの は、家族という十字架と、夫婦生活というニンニクだけである」(宇波・岩田訳『カフカ——マイナー文学のだ めに』法政大学出版局)というのは全く正しい。カフカー=ドラキュラにとって、文字の増殖をおびやかす ものは、身体の近さとしての性や家族であり、手紙の遅延や途絶という文字通りの言語的破局である。
 彼は一目でも手紙が来なければ、「なぜあなたはわたしに書かなかったのですか?」、「そんなにわ だしを苦しめないでください!あなたは今日の土曜日も手紙なしでわたしを放っておきました」、 「では、これで終わりなんですね、フェリーツェ、この沈黙で君はぼくを追い払い、ぼくにとってこ の世で可能な唯一の幸福に対する希望に終末を与えるのです」と書きおくり、他方でまた、「わたし の手紙とは関係なしに自分で書きたいとお思いになったときでも、晩にはもう長いこと書いてはいけ ません」、「あなたはもうわたしに手紙を書いてはいけません。わたしもあなたにもう書かないでしょ う」とも書く。
むろん彼はまた、「あなたは嘆かわしい、ひどく煩わしい恋人を持っている。二日間あなたから手 紙が来ないと、言葉だけにせよ、周りを盲滅法に打ってかかり、そのときあなたが辛い思いをしてい ることが分からない」と手の内をあかしたり、「ぼくの手紙が邪魔にならないだろうか、フェリーツ エ?ぼくは邪魔をしているにちがいないし、それ以外には考えられない」と言ってへりくだりもする。カフカの欲望は、自ら手紙を書き、相手から手紙をうばいとることであり、しかもその手紙が、、 「すばらしい、長い、途方もなく過分なほど長い手紙!」であることによってしかみたされない。
こうしたカフカの欲望は、究極的には、文字が世界と一体をなすところまで増殖する——すなわち 文学のなかで——か、あるいは文字が身体世界を全面的に制圧しつくす——すなわち最高度の官僚制 によって——か以外の方法でみたされるほかないだろう。しかし、増殖する文字が一体化すべき世界 とは、カフカにとって、文字が身体世界を抑圧するような世界にほかならないのだから、カフカのこ の欲望の解消は、官僚制的な世界を文学の文字的世界のなかにからみとってゆく方向に向かわざるを えない。『審判』や『城』は、まさにこうした文字増殖的な欲望のすぐれた帰結だった。そこでは、 作中人物——文字人問——の行動、その身ぶりのひとつひとつが文字の増殖であり、かつまたこの人 物たちは、たとえば『審判』のヨーゼフ・Kが"訴えられている"という言語表現に、『城』のKが "城から招聰された"という言語表現に対して"返事"を"書き"つづけることになるというまさに 官僚制の原理そのものなのである。
2
二年ほどまえ、リリアン・ヘルマンの「母、父そしてわたし」という芝居をニューヨークのダウンタウンにあるWPA・シアターへみにいったとき、その小さな劇場のロビーの壁に奇妙な掲示をみい 出した。それは、一枚の紙に『ニューヨーク・タイムズ』の切抜、タイプ原稿のカーボン・コピー、 タイプされた便箋をはりつけたもので、その手紙によると、差出人である劇評家は、『タイムズ』に 送った原稿ではこの舞台をほめているのに、活字になった段階では全体が大幅にカットされたために、 あたかも自分がこの舞台を酷評しているかのような印象を与えてしまい、自分としては不本意なので、 ここにもとの原稿の控とそれが活字になったものとを同封する、というのであった。
なるほど、両者を読みくらべてみると、『タイムズ』の編集部がやったかりこみはすさまじいもの で、原稿の半分がカットされている。むろん日本でも記者が書いた原稿にデスクが大幅な手を加える というのはごく普通に行なわれているらしい。が"高名"な演劇評論家の書いた署名入りの原稿を無 断でカットするというようなことは日本ではあまりやられてはいないのではないか?
しかし、考えてみると、編集者は執筆者と読者とのあいだのただの媒介にすぎないというのはおか しな話だ。いやしくも、編集ということが主体的な創造活動であるとすれば、編集者が執筆者に従属 したり屈従したりするのは不条理である。編集者は、原稿を企画し、執筆者を扇動して書かせ、原稿 を集め(強奪し?)活字にするだけでなく、原稿そのものに大幅に介入してもよいはずだ。ところが 実際には、編集者と執筆者との関係は、きわめて精神病理学的なものであり、わけても編集者が執筆 者との心理的関係のなかでその"内面"にうっ積させる抑圧は会社の営業マンや接待係のそれをはる かにうわまわるとさえ言えるのである。
その点では、欧米の新聞や雑誌の編集者がもっている編集権の強さは"健康"なものだと言えるか もしれない。しかし、他面では、そうした編集権の強さは編集者の属する出版企業の権力を代表して、 いることもあり、逆に、先の『タイムズ』の劇評の場合のように、編集権の強さが執筆者と読者を抑 庄することにつながる場合もある。それゆえ、編集者と執筆者との関係の"正常化"が本来の意味でり 可能になるのは、大きなメデイアではなくて非営利的・非教条的な小さなメディアにおいてであろう。
ところが実際には小さなメデイアにかぎって、編集者による、スターリニズム"的独裁が行使された り、その反対に、書いたものは何でものせるといった編集不在の"アナーキズム"に陥りやすいので ある。
最近、わたしが関っているアメリカの社会哲学の小雑誌『ティロス』の関係者のあいだでこうした 編集権の問題が熱烈に論議された。(ところで"テイロス"というタイトルは、ギリシャ語で"目的"、 "終極"などを意味するtelosに由来し、テロルterrorやテロリズムterrorismとは何の関係もない)。
論議の発端は、国外メンバーのアグネス・ヘラーとフエレソク・フェーヘルが英訳したハンガリアの サンドール・ラドノッティの論文に編集都が注文をつけたことにはじまる。編集者ポール・ピッコー ネによると、ラドノッティの論文にはジャーナリスティクすぎる面があり、また英訳にも問題がある。
が、ともにルカーチの弟子で"国際的な名声"に輝くヘラ—(現在はメルボルンのラ・トゥルーブ大 学の教授)とフェーヘルは、歯に衣着せぬピッコーネの指摘に逆上してしまい、ついには『ティロス』 との絶縁宣言を出すところまでエスカレートした。
ヘラー/フェーヘルとピッコーネとの手紙を通じでのやりとりは、すべて、関係者に回覧される "ニュースレター"で公開されたため、『テイロス』メンバーのあいだでこの問題をめぐる議論が闘わ された。ピッコーネ派の主張では、編集者は受動的であるよりもむしろ"構成的"であるべきで、 従って「執筆者をある種の一貫したラディカルなディスクールのなかに統合する」ために原稿に手を 加えることがあってもよいという。これに対して、ヘラー/フェーヘル派の主張では、編集者の仕事 は「原稿の依頼と査定、問題の構造を方向づけること、読者の意見を執筆者に伝えること」にとどめ るべきであり、統合されたエディターシップではなくて"多元主義"こそ思想雑誌の歩むべき方向だ という。
しかし、ヘラー/フェーヘル派の主張は、そうした受動的な編集作業のさなかで編集者が投げこま れる味けない経験の病理を無視している。『ティロス』の場合、編集者は同時に執筆者でもあるから、 編集者の方が当の執筆者よりもよりよい書き手であることもざらである。にもかかわらず、編集者は 依頼や仕掛の段階でしか執筆に介入できないというのは何とも精神衛生上よろしくない。第一、そん なことをしてまでなぜ執筆者をたてまつらなければならないのか? とはいえ、執筆ということをいわゆる執筆者と"構成的"な編集者との共同作業にした場合、現実 には、仕上げの最終決定は、両者の力関係——つまりは、どちらが強引か、どちらが妥協するか——で決まってしまうことも事実である。結局、問題は、編集/執筆の分業体制にあるわけで、もともと 電子メデイアのように同じ人間が編集(操作)も執筆(発言)もやれるようにはできていない印刷メ ディアでは解決不可能なのである。それに、編集者と執筆者との関係だけではなく、それらと読者と の関係も考えると、印刷メディアから権威主義的関係を完全に取り去ることは無理であり、むしろ印 刷メディアは分業と権威主義的関係によってはじめてなりたっような古いメディアであることがわか る。ガタリがミクロ革命の可能性を電波に求める理由もここにあるわけだが、そうした可能性をもっ ている電子メディアも、現実には、活字メディアの延長として、分業的・権威主義的に使われている のである。
3
"ラディオ・リーブル"つまりフランスの自由ラジオ放送は、はじめ非合法の"海賊放送"として全 国にひろまったのだったが、その後、ミッテラン政権の成立によって、"電波法違反"が事実上黙認 状態となり、それまで国営放送局によって独占されていたFM放送帯に、日本の民放にあたるもの、 市の自治体による放送局、運動や趣味の私設放送局などがどっとなだれ込み、いまやフランスのFM 放送は、百花繚乱の観を呈することになった。新聞報道によると、ミッテラン政権成立後の数ヵ月間 にパリなどの都市に放送設備を売る店が何軒も開かれ、最低5000フランで送信機がそろうといった広 告を出しているという。現に、1981年7月現在でパリだけでも2500以上の"ラディオ・リー ブル"局があり、その数はますますふえつづけているらしい。
政府側の対応は、これまでに通信相ジョルジュ・フィリウが新しい電波法の草案を提出しており、 1982年の春には国家による電波の独占が撤廃され、「ラディオ・リーブルのほとんど絶対的な無 管理」(『リベラシオン』)が達成される模様である。その際問題は、ガタリも言っているように、短波の 自由化が結局は電波の商業化や新たな道具化を利するにすぎないものになりかねない点である。とは、 いえ、これまで決して電波の送り手になることを許されず、表現の自由を拘束されてきた民衆にとっ て、電波の自由化ははかり知れない可能性となるであろうし、少なくとも、民衆にとって当然の権利 でありながら世界の大多数の国々ではまだ達成されていない権利が保証されることになるのである。
"ラディオ・リーブル"において主要なのは、単に電波が多様化されることではなく、いかなる個人 も集団も、自由に電波という表現メディアを使用できることである。単に電波の多様化ということで あれば、それは、極度の中央集権化によって一次元化し、硬直化してしまった文化と社会をふたたび 活性化するために行なう多元的な政策の一つでしかない。
それは、メディアの送り手(国家、企業)と受け手との関係を従来通りに——つまり受け手が送り 手になることはほとんどできないように——固定したまま、受け手の方に若干"多様"にみえる受け 取り方を許すにすぎないのである。こうした受け取り方の"多様化"によって利益をえるのは国家や 企業の送り手であり、それは、いかに微妙な情報でも伝達できるような一方通行のネットワークを作 ることによって、"網状組織的な支配"を貫徹することができるようになる。日本で目下、VTR、 ホーム・ファクシミリ、パーソナル・コンピューター等のニュー・テクノロジーが日常生活のなかに 浸透しつつあるのは、まさにこうした支配の貫徹過程であり、また、われわれは受け取り方の過剰な "多様性"に翻弄されて、自分が送り手にもなりうることを忘却させられてしまう危険のなかにいる のである。
電波の自由化は、イタリアによって先鞭をつけられた。イタリアでは、1976年以降、電波の到 達距離が15キロメートルをこえず、十万人以内の視聴者の放送局であれば、所轄の警察に登録するだ けで誰でも開設できることになった。その結果、自由ラジオだけでなく、自由テレビも出現し、1977年にはTV局がおよそ100局、ラジオ局が1000局も出現し、今日では4000局ものTV/ラジオ局がイ。
タリア全土に存在するという。 アウトノミア運動の主要なオルガンとなったボローニャのラディオ・アリチェ局もそのうちの一つ であり、モー口事件等の不当な嫌疑を理由にした弾圧にもかかわらずこの局は健在であり、その他の "政治放送局"も依然活動を続けている。
ところで、こうした電波の自由化は、単にラジオやテレビの視聴者を受け手から送り手に変えるだ けでなく、集団性や連帯性の意味を根底から改める衝撃力をもっている。1974年にはじまり、1977年にピークに達した工場、都市、学校、他のさまざまなイソスティテューションで起ったイタ リアの"アウトノミア"の運動は、アントニオ・ネグリが言っているように、「決して一つの組織で はなく、むしろ、諸々の組織のしばしば変動する総体(アンサンブル)であり、組織のレベルではそ れは存在していなかった」のだが、まさにこうした新しい"連帯"と"組織"の形態は、自由放送局 によって拡大した。
自由放送は"アウトノミア"の性格を集中的に表現しているのであり、この運動のあらゆる人間関 係、コミュニケイションのモデルになったのである。
かってレーニンは、「雑誌の編集者と協力者は……唯物論者、ヘーゲル弁証法の同志からなるある 種の社会と同等のものになるであろう」と言ったが、運動としての雑誌が決してこのような理念をな しとげることができず、逆に、程度の差はあれ、編集者と執筆者によるスターリニズム的・権威主義 的ネットワークを形成しがちなのは、雑誌はつねに完成されたものとして読者に与えられるため、そ れは、さまざまな運動がそこに流れこむ流動的な総体(アンサンブル)としてではなく、そうした運 動を一点集約的に統合してしまう機能をより多くもつからである。
これに対して、自由ラジオがつくり出す場は、電波の個々の送り手と受け手とによって自発的につ くり出される多元的な場であり、それを唯一の中心や極に集約することはできない。
あきらかに、こうした方向は、資本=情報の論理に敵対する。資本=情報もまた、あらゆるものを 多様手細分化するが、それは、多様化=細分化された各ユニットに真の自律(アウトノミア)を与 えることはなく、むしろ総体のすみずみまで一つの論理を貫徹するために多様化し、細分化するので ある。
従って資本主義の高度化とは、社会と文化が一面で"多様化"しはするものの、その各ユニットは すべて一つの極に集約されているというマリオネット的な事態の昂進を意味する。これは、個々の人 間的主体にとっては自由の拘束であり、支配の抑圧を加重されることにほかならない。
それゆえ、抑圧は全般化し、抑圧に対するリアクション(改良運動)も激化し、また抑圧の解消=忘却装置(福祉と文化産業)も発達するが、他面、それらの射程からはずれた部分では、従来とは比 較にならない規模で抑圧が昂進する。たとえば、子供、老人、家掃、病人、ゲイといった、しばしば 資本の回路から保護され隔離されてきた人々における抑圧の蓄積はますますひどくなる。こうした抑 圧は、彼や彼女らがその"解消"手段を奪われているかぎりにおいて蓄積されるのだから、"老人パワー"やゲイ・パワー"のようなものに期待をかける——かつての"搾取された労働者"のかわり命 にこれらをもってきたにすぎない——旧態然とした"革命論"のやりかたで解消されるものでは決し、 てない。
重要なことは、子供、老人、家掃、病人、ゲイたちがその意識・身体のなかに蓄積している抑圧は、 われわれ自身の無意識のレベルにおける抑圧であるということだ。われわれは抑圧を一次的に解消= 忘却する手段をもっているためにそうした抑圧の遍在に気づかないのである。従って彼や彼女らの抑 圧は、われわれ自身も解放されるのでなければ決して解消されはしないのである。
かってガタリは、自由放送という手段は、一種の"スキゾ分析"つまり「ミクロ的階級闘争の分析」、 「政治的に破壊的なものとして存在する最小要素の分析」(『分子的革命』)であると言い、自由放送が「欲 望の唯一性(サンギュラリテ)を尊重する手段」としてきわめて有効であることを主張した。今日、 ますます分子的反革命が昂進し、われわれの無意識がすみずみまで組織されようとしているとき、 ガタリの言う"分子的"レベル——つまりは無意識的レベル——における諸動向を顧慮した諾投企をの ぞいては、変革へのいかなる展望をもっこともできないだろう。その際、自由ラジオの運動は、そう した投企の一つのモデルを提供していることはまちがいないと思う。




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