メディア牢獄
「流言蜚語」考

流言蜚語やパニックという言葉には依然、民衆の自然発生性への願望や思い入れがまとわりついている。それらはしばしば、祝祭や叛乱と同様に、世界の総体的な変革に展開しうる潜勢力をもったものであるかのような思いをこめて語られてきた。だが、はたして准言蛮語やパニックは、少なくとも管処的支配の昂進する後期資本主義の今日の状況下で、それが依然民衆の自然発生性に根ざしていると言えるであろうか。
清水幾太郎は、一九三七年に発表された『流言蜚語』のなかで、流言蜚語を「潜在的公衆」による「潜在的輿論」と定滋する。清水によれば、「輿論が社会生活において根源的な役割を果している因々、すなわちデモクラシーの発達した国々においては極めて多くの潜在的輿論が顕在的輿論に発達する機会を持つのであって、それだけ潜在的と顕在的とは二つの段階として存在するのであるが、デモクラシーのあまり発達していない国々においては潜在的輿論のうちで顕在的輿論に発達し得るものは秘めて少数である」(引用は、「大体旧版のまま」だという一九四七年の岩波書店版により、また、引用に際して表記を現代表記に改めた)という。というのも、そのような国々においては、潜在的世論は、法律や制度、公権力の介入によって顕在的世論になることをはばまれているため、流言蜚語という「アブノーマル」な形で自已を現わすしかないからである。「タブーの多い国は流言蜚語の多い国」なのであり、公衆はそういう形で「現実の与えられた社会に対する不満ないし否定的な評価」を提示するのだと清水は言う。
だが、こうした組織されていない、"自然発生的"な——と一応呼んでおく活動は、一面で被抑圧者の心理的不満を現わしているとしても、支配体制を根底から批判し、それを変革する端初となりうるものであるかどうか全くうたがわしい。むしろ、大抵の場合、流言蜚語やパニックは最終的に支配体制をうるおしてきたのであり、累積する矛盾をうやむやにする装置として機能してきたのである。
たしかに、清水の『流言蜚語』がはじめて発表された時代には、支配体制による統制の技術は今日ほどは進んでおらず、それに対応して、支配勢力と反対勢力との区別もはっきりしており、支配勢力はまだ十全的な意味での支配体制としてその支配を全体化し貫徹させてはいなかった。それゆえ、支配の側は反対勢力を暴力や強権の行使によるハードな手段によって抑止せざるをえなかったし、そうすることもできた。また、反対勢力の方も"非合法"な活動や"自然発生的"な叛乱との"連帯"を通じて支配勢力にダメージを与えることができた。が、そのような状況下においても、支配勢力が人工的に組織した——ないしは動機づけた——流言蜚語やバニックや叛乱、暴動はあったし、囮しての"非合法活動"もないわけではなかった。また、"非合法"な活動の方も、少なくとも日本では、支配勢力の体制化をつきくずすことはできず、全体として無力であらざるを、えなかった。
とすれば、流言蜚語を清水のようにただちに「潜在的輿論」であるなどと臆断することはあまりに単純すぎるのであって、いま仮りに「潜在的輿論」などというものを仮定するとすれば、それが支配勢力に正しく拮抗する形で顕在化したものと、逆にそれを帯助してしまう形で顕在化したものとを区別しなければならないし、それに応じて流言蜚語の方も前者に属するものと後者に属するものとを、区別しなければなるまい。しかし、この点において清水の『流言蜚語』は、三木清の絶讃にもかかわら ず、全くあいまいな位置に立っている。本書は、その一九四七年版への序文によれば、流言草沽の社会心理学的分析につきるものではなく、「その分析を通して一種の抗議を試みた」のであり、検閲の目 をのがれるために「随分手加減をして書いた」という。そんな努力のかいあってか、本書は検閲の憂目にあうこともなく、清水はこの時代を(自分では"左翼"として)見事泳ぎきったというわけだが、今日になって本書をよく読んでみると、その基本姿勢にあえて手加減を加えなくても支配勢力の眉をひそめさせるような点はどこにもないことがわかる。そもそも本書は、流言蜚語を支配勢力の立場から論じているのであって、それを支配体制の転倒のためにではなく、逆に支配体側の"円滑"な機能のために論じているのである。彼は次のように言っている。
「政治に関係するものあるいは社会を統制するものは、もし流言蜚語の発生を防ごうと欲するならば、先ず民衆の信頼を得なければならぬ、とわれわれは言った。しかし——いまやこれに付け加えねばならぬ——もしすでにして流言蜚語が発生したならば、それを一つの潜在的輿論として受取るべきである。……流言蜚語を潜在的輿論として取りあつかうことは、第一に民衆のために幸福である。第二にこれを統制しようとするものの幸福である。そして流言蜚語そのものは急速にその姿を消すであろう。」 だが、もし流言蜚語がこれほど"貴重"なものであるとしたら、「急速に姿を消した」流言蜚語は必要なときにふたたび姿をあらわし民衆と支配勢力とを「幸福」にし、そうした循環を無限にくりかえさなけれぱならないだろう。いずれにしても清水はここで、流言蜚語を操作と正統化の手段とし て活用する方法を説いているのである。が、そうだとすれば、そのような本が支配勢力にとってどうして危険なことがあるだろうか?その意味では清水の『流言蜚語』は、戦後になってそれがもともと"左翼"的な含蓄をもっていたかのようなジェスチャーを清水白身が強調しているにもかかわらず、本文で正直に言われているように「流言蜚語のアポロギアではない」のであり、むしろそれを支配に役立てるために「科学的に究明」したものなのである。ただし、その支配は"進歩的"な支配であり、反対勢力を支配体制のなかにとりこもうとする全体的な管理的支配である。思うに清水幾太郎は、戦前から戦後まで一貫して"進歩的"な支配のために意を用いてきたと言えなくもないのであって、とりわけ彼の二十世紀研究所が戦後の"進歩的"な支配に対してどのように"貢献"してきたかはあらためて調べてみる必要があるだろう。(一昨年ごろジャーナリズムでさわがれた彼の"国家論"も、"先進"諸国の「右傾化」に歩調をあわせようとする彼一流の先取りだったのかもしれない。) ところで流言蜚語には、一面で支配体制が設定したのとは異なる——一見"無秩序"の——コミュニケーシヨツ回路をつくり出す積極的な側面があるようにもみえる。一九三八年十月三〇日の夜、アメリカのCBSが放送した番組によってひきおこされた"火星人来襲"の流言蜚語とパニックは、ある意味で、放送マス.メデイアの既知のコミュニケーション回路を解体し、その既知の機能をマヒさせ、民衆の——混乱してはいるが——"自然発生的"な独自のコミュニケーション回路をつくりあげたとみることもできなくはない。が、問題はそのプロセスであり、その機能である。それは支配体制を批判し揺がす機能をはたしたであろうか?実際には、この流言蜚語とパニックから生じた新たなコミュニケーション回路は、既存のマス・コミュニケーション回路のアメーバ状の網の目を増殖させることの方に役立った。チャールズ・ジャクソンは、「火星人の襲来した夜」(『アスピリン・エイジ』所収)という一文のなかで、「戦時における一般民衆の心理状態を調査する上で、陸軍省がこれ以上安あがりで、かつ広い範囲の調査をしようとしても到底不可能だろう」(木下秀夫訳)と言っているが、この事件がただちにアルバート・H・キャントリルの主宰する調査グループによって分析され、定式化されたつまり支配の道具としてすぐ使えるものにされたように、支配体制側の反応は、"産・軍・学複合体"という概念が出現する以前のこの時代に、あたかも産(放送局)軍(情報局)学(大学の研究機関)がはじめからグルになってこの事件を仕組んだかのようにぬかりがなかった。その意味ではこの事件は、流言蜚語という新たなコミュニケーション回路をつくりはしたものの、結局、既存マス.メディアの機能をチェックし、支配体制の"耐性実験"をすることに役立てられたのである。
考えなおさなければならないことは、民衆の自然発生性というものを想定する場合、それを流言蜚語、バニック、暴動といったすでに顕在化・対象化・述語化されたもののなかに求めるやり方である。
自然発生性それ自体は——それが自然発生性であるかぎり——決して対象としてはとらえられないものであって、それは、一且対象化されてしまうと、もはや自然発生性のアナーキーなダイナミズムを失ない、今度はその対象化の論理に従って動いてゆく、それゆえ重要なのは、自然発生性それ自体を とらえるという妄想を捨てることであり、理論的実践にできることは自然発生性が支配体制によってどのように対象化・客体化されたかを暴露し、それと質的に全く異なる対象化の道を準備することである。"流言悲語"や、"パニック"という対象化はすでに支配体制の操作の掌中にある対象化つまり客体化であって、支配体制を根底から批判し揺がすような対象化はこのような実体化.客体化された対象化とは質的に全くちがったものになるはずである。それは、少なくとも、"流言輩語"や"パニック"といった既存の概念によっては決してとらえることのできないものになるはずだ。
そうだとすれば、自然発生性を"無意識"や"感覚"のレベルに求め上うとするやり方もおぼつかないことがわかる。全面的管理が進み、それが個々人の意識のレベルにまで侵入する「意識の柵民地化」(ジョエル・コヴェル「後期資本主義におけるセラピー」「日本読書新聞』二〇九三〜五号参照)の時代においては、自然発生性を精神分析学でさんざん膜踊された"無意識"に求めることもできないのであって、"無意識"は支配体側によってすでに客体化されていることを前提すべきである。まさしく、「無意識は言語として構造化されている」というジャック・ラカンのテーゼは、支配体個に属する凧諭が支配体制の理念を正高にあるいはあけすけに失明したものであり、このテーゼを批判し挫くためにまフェリックス・ガタリの「機械的無意識」のような方向と戦略が必要なのである。
それゆえ、たとえば一九七三年十二月十三日から十四目にかけて愛知県主炊郡小坂井町で起こった豊川信用金庫をめぐる取りつけ騒ぎに関して藤竹晩が、「流言輩語はどこにもやり場のない庶民の気持、不安、抗議の姿勢を反映し」ているのだから「この抗議と抵抗の姿勢を、水泡に帰してはならない」と称し、「流言輩語において民衆の抗議と抵抗の姿勢を見せるとしたら、それは暴動にまで発展させなければならない」(『日本人のスケープゴート』講談杜)と言っているのは、全くナンセンスである。無意識のレベルの客体化が進んでいる状況では、「庶民の気持、不安、抗議の姿勢」すらもすでに支配体制による客体化から自由ではなく、あらかじめ支配体制の"構造"のなかに組みこまれていると考えな ければならない。"不安""気分""予想"のようなものは、もはや自然発生的なものではなく、裡造されコントロールされたものなのであって、問題にすべきはまさにそうした無意識的なものをさりげな く客体化する支配の手口と装置なのだ。
現代の都市は、こうした客体化の有力な装置として機能している。エドガール・モランは、一九六九年五月以降、フランスの地方都市オルレアンで広まった流言蜚語(この街の中心地にある婦人服店が女性誘拐をやっているという)を分析した『オルレアンのうわさ』(杉山光信訳、みすず書房)のなかで、このオルレアンが「急速に変貌している都市であり、しかも首都パリにごく近いということで、この変貌はさらに拍車をかけられている」と言い、その構造を次のように論述している。すなわちこの都市は、その十年間に「地方の古典的なきちんとまとまっている都市」から「現代的なごたごたの集合へ」急激に変貌していったのであり、「伝統的な都市の中心、地方の上流ブルジョアの社会などが崩壊し衰退し、しだいしだいに都市の中心が空っぽになってきている」そのため、「すべての人にとってこ の都市の中心そのものには、完全な真空の部分がある。モラルの真空、政治の空白、いろいろなことに満足することがない感情の空虚さ、存在感のなさ、これらはひとつの巨大な空しさの感じのなかに合流していく。そして、すべての人のもとにおいて、この空しさが不安をかき立てていく。」 いうまでもなく、これは近代化・管理化の帰結であり、支配体制はこうした合理化を推進することによってこの都市の住人の無意識を"不安"、"空虚"、"退屈"、"不満"といった諸現象の方向へ"構造化"してきたのである。そしてこうした「構造化された無意識」は、人々をたえまないフラストレーションのなかにおき、より"目新しい"もの、より"熱狂的"なものへのあこがれを増強し、あらゆる合理化を円滑に推進させる。"不安"や"いらだち"は民衆の批判や抗議の漠然とした潜在形態などではないのであって、とりわけそれは、限りない消費を保証し、それを通じて体制の合理化をおしすすめる必要条件となっているのである。
だが、都市は他方において、こうした合理化に逆う要素を残しており、それは古い都市、古い民衆をもった都市であればあるほどなおさらである。まさしく、モランが言うように、「古い都市というものはすべて自分のうちに地下通路の網の目をもっている」のであり、「明るく輝きにぎやかな外観をしているが、人々がたくさん集まりいかにも活気を呈しているようであるが、また、市民の権力がまちを支配しているとされているが、この大都市は、実は不思議な勢力が支配している地下の迷宮を隠している」のであり、ときとしてこの"迷宮"が突如姿をあらわすことがある。オルレアンの事件は、一方で、街の若い女性たち——つまり都市の古い記憶を忘却している人々——が新しさや消費や女性の解放を象徴する都心の婦人服店に対していだくあこがれやあせりを、他方でそれは、伝統的な人々——つまり都市の古い記憶を保持している人々が——その婦人服店に対していだく——伝統からひきはなされるという——不安やいらだちを、一挙に統合し、それらの"起源"につかの間接触させたとも言える。しかし、この都市の記憶、この都市の民衆の無意識は、もはやそれほど古い"超源"に向かってっき進むほど、"粗野"ではなくなり、すでに近代の網の目にからみとられており、従って起源とのつかの間の接触も、前近代的なものが再生する本来の祝祭には昂揚せず、支配体制が前近代の最後の残りかすを忘却するための痙撃的発作でしかなかった。
支配体制が都市として行なうこうした消去=忘却作用は、日本の都市の場合、他のいかなる国のそれよりも強いように思われる。それは、普通考えられているのとは逆に、「意識の植民地化」がヨーロッパやアメリカよりも進んでいることを意味する。われわれは、都市の古い記憶を容易に捨て去るように慣らされているのであり、このことと日本の現代都市の目くるめくような変転とは根源を同じくしているのである。
取りつけ騒ぎのあった小坂井町は、古代の遺跡や古墳、火山や五杜の稲荷を残してはいるものの、戦前は軍需工場地帯として、戦後はさまざまな工場の進出と新興住宅の林立にみられるように、都市の古い記憶を相当蹂躙してきた街である。が、新興住宅地に流れ込んだ住人たちのなかには他の都市の古い記憶(たとえば昭和の初年の金融バニックや終戦直後のどさくさ)を保持している者も多数おり、これと現在中心主義的な無意識(その最強のものは消費・金銭意識であり、石油ショックがたきつけた危機意識である)とがたがいに入りくみあい増殖しあって取りつけ騒ぎという無意識=都市の"叛乱"が形成された。しかし、この都市はオルレアン以上に"起源"からひきはなされた都市であり、その記憶と民衆の無意識は昭和の初年より先までつき進み回帰する可能性ははじめからなかった ように思われる。
都市が前近代的なものを都市=無意識から解放させてゆく最も典型的なプロセスは、うさんくさい場末の通り、スラム、ゲットー、広末保の言う「悪場所」などが、"健全"な非特殊地帯に変わることであり、それまで民衆の多元的・非公的な所有に帰せられていたコミュニケーション回路が中央集権的・公的な所有=支配に転化することである。とりわけ、テレコミュニケーション(たとえば電話)や、スス・コミュニケーションの浸透は、急速に都市からその"古層"を取りのぞき、古い記憶の再生を封じこめる。都市は記憶=想起の街から消費=忘却の街になる。が、前近代のヴァーバル・コミュニケーション(くちコミ)は依然生き残っているし、その度合は都市の古い記憶の度合に正比例する。小坂井町の事件がくちコミと電話という前近代と近代の"起源"をもつコミュニケーション回路 を通して拡大したのは実に暗示的である。とはいえ、重要なことは、この事件によって前近代のそうした不可視な非公的な部分が可視化され、もはや前近代的なものとしての衝撃力をもたなくなることである。小坂井町の事件も、やはり、この都市の合理化をチェックする"耐性試験"であり、それを大衆的規模で印象づけるキャンペーンとして機能したと言わざるをえないのである。
このことは、また、極度に合理化された都市においては、流言輩語やパニック(またときには暴動までも)が、"民主的支配"に好都合な適度のダイナミズムを都市に与えるという点を指摘することによってはっきりしてくるだろう。すでに今日では、このような都市政策が支配のプログラムのなかに組み入れられているのであり、それ実行している都市あるのである。ニユーヨーク市のコミユニティ発展計画に積極的なコミットメントを行なっている社会学者リチャード・セネットは、暗示的なタイトルをもつ『無秩序の活用』(今里筒俊訳、中央公論杜)のなかで、ショッピングとビジネスには最適でも人が住むには味気ない傾向をますます強くしているアメリカの大都市に対して「ある種の無秩序がさらに都市生活のなかに付け加えられるべきだ」と主張する。セネットは、現代の大都市が、「オスマン男爵によるパリの仕事以来の前提、すなわち、都市計画は全体としての都市に秩序と明断さをもたらすように方向づけられるべきだ、という考え方」に毒されており、都市の機能をとりわけ文化的に非生産的にしていること指摘し、「機械生産の観念に基いたこの考えに代って、都市は首尾一貫してコントロールできるような全体的形式をもたない、諸部分のあいだの社会的秩序」つまり「アナーキーなシステム」になるべきと言っている。その結果、都市における集団的葛藤は激化するかもしれないが、人々はこの葛藤を通じて新たな"連帯性"と"安定"をつくり出してゆくだろうとする。
「もし、都市における[民族、社会階級、人種などの]直面と複雑な葛藤を分極化させるのではなく、増加させることができれば、攻撃性は残っても、人々は少なくとも互いに生き残ることを可能にするような方向へ自分たちを導いていくであろうということである。これは一見したほど厳しい見通しではないと考えられる。というのも、首尾一貫した目的の達成に失敗し、何か"純粋で単純な"ものを擁護しようとしても、自分に突き当ってくる複雑さがあまりにも多すぎてうまくいかないとき、最終的な失敗は、彼の社会的表意を失わせるものではなく、革命的葛藤を経験した少数の者たちのみに開かれているあの精神状態をもたらすからである。」ここで注意しなければならないのは、セネットの「アナーキーなシステムとしての都市」という考え方が、マルクス主義はもとより毛沢東主義、アナーキズムの諸戦略をたくみにとり入れた新しいタイプの支配、ポール・ピツコ一ネが「人工的否定性」と名づけたものである(拙訳『資本のパラドックス』せりか書房参照)。ピッコーネによれば、資本主義体制が独占資本主義の度合を強めてゆくにつれてその社会・政治・経済システムは一次元的に合理化されてゆくが、この合理化は決してそのままフランケンシュタイン的な機械システムを生み出してしまうのではなく、ある臨界点において 逆転を起こし、システム自身が人工灼に自分自身の内部に自分と拮抗する否定性をつくり出し、自己活性化をはかる。システムがあまりに一次元化してしまうと、まさにベトナム戦争においてアメリカの支配体制が自己露呈したように、システムは崩壊と死滅に向かうしかなくなるので、システムは自己防衛のために方向転換し、それまでコケにしてきた側面をふたたび顧慮するようになる。ピッコーネによれば、七〇年代後半に急速にたかまってきたコミュニティの再建や都市生活への新たな関心も、枯渇しかけた支配体制が体制自身を再編成しようとする試みとして受けとられるべきであるというが、そうだとすると、このように全体化した支配の状況のなかには、この支配に対抗する余地は一体どこに残されているのだろうかピッコーネは、左翼の危機について論じた一文(『テイロス』46号所収)のなかで、「資本主義的合理化の最も先進的な形態」の逆説を戦略的に利用することに期待をかけているようだが、はたしてそれは可能か?思うに、資本主義の最も今目的な状況は、そうした逆説を利用されることを察知したかのように、いっせいにその"先進的な形態"をそれ以上昂進させないように不況を恒常化させ、むしろ極力後退しようとさえしているのである。




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