国際化のゆらぎのなかで 17

《うさんくささ》の活用

 いつもは点と線の関係でしか訪れることがない大阪をゆっくり歩いてみようと思い立ったのは、最近、「大阪こそ二十一世紀の国際都市だ」とする主張を耳にすることが多くなったからである。  政治にせよ経済にせよ、依然としてすべてが東京を中心に動いていることは確かだが、都市を単に産業の頭脳的部分として見たとしても、東京がすでに限界に達していることは事実である。産業自体がいま《多焦点化》しつつあるなかで、過度の集中は逆に反生産的になるからである。  まして、都市を生活場としてとらえた場合には、東京は都市としてむしろ衰退している。ビジネスや消費の場は活気づいているとしても、〈猥雑な〉〈うさんくさい〉界隈や街路がなくなったことによって、東京は、生活文化を秘かに活気づけるエネルギーを失なったからである。  その点で大阪はどうなのか? 大阪も、東京やニューヨーク同様、《ジェントリフィケーション》の浄化過程を五年遅れで追っているにすぎないのか? それを確かめるために数年ぶりに西成区に足を向けた。  梅田から大阪環状線に乗り、新今宮で下りる。この駅には南海本線と南海高野線も乗り入れており、また近くには地下鉄御堂筋線の駅がある。東京なら、このように複数の線が乗り入れしている駅の周辺には、大きなビジネスビルやショッピング・モールが建ち並ぶのが普通だが、新今宮駅の周辺は、まだ(?)昔とあまり変わっていない。  安い料金(現在は、一は、遅い時間に電車にのると、かなりの数の外国人に出会うし、わたしがいま住んでいる東京北区の王子駅を夜遅く下りると、前から中国語、うしろからベンガル語と英語が聞こえるというということがよくある。  しかし、それにもかかわらず、東京があまり「国際的」な印象を与えないのは、「国際性」とは、人種の多重さを現わす概念ではなくて、まずは異なる文化をもつ人々の交流の多様さを現わす〈コミュニケーション概念〉であるからである。  コミュニケーションが多元的でないところには国際性は生まれえないのであり、そのような意味でもともと国際的でないところにいくら外国人がやってきても、そのこと自体はいささかも国際性を促進することにはならないだろう。  大阪は、すでに国際的であり、そのままで「世界都市」として通用する。これは、リドリー・スコットが大阪のミナミを舞台にして作った映画『ブラック・レイン』がはからずも証明した。  しかしながら、このことは、大阪に今後外国人が多数流入した場合に、大阪がますます国際的になりえるか、あるいはいまの「国際性」を保持しえるかを保証するものではない。大阪の都市文化の多様性は、鶴橋のような例はあるとしても、大半は、日本人だけで生み出されてきた。それは、実に多様な〈多焦点的〉な面をもっているが、それが外国からの異文化と共存出来る柔軟性をあわせもっているかどうかはわからない。  結局、いま、日本は、国際化に関して、東京と大阪がそれぞれ代表している二つの困難に直面している。すなわち、一方は、外国人が〈避難所〉として住み着く〈うさんくさい〉場所をますます狭めているが、他方は、〈うさんくさい〉場所をたくさんもっているにもかかわらず、それは「よそもの」が入り込む余地をもたないほど「完成」されている。そしてこの困難は、東京と大阪の内部でも複製され、状況を複雑なものにしている。   こうなると、国際化の都市的な可能性は、東京でも大阪でもない両者の中間的存在のなかにあるということになるのだろうか?



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