国際化のゆらぎのなかで 2

エスニック・ストリート

「国際的」ということは、国外への人的・情報的・物的通路を持つということである。その通路は、こちら側から出て行くだけではなく、向こう側から入って来る通路でなければならない。  では、「国際都市」と言われる東京のなかで、最も「国際的」なのはどこだろうか? あるいは、東京のなかで、最も「国際的」な雰囲気や外観を持った所はどこだろうか?  千代田区や中央区には、証券取引所、商社、航空会社などが集中しているから、情報の通路の点ではこちらの方が「国際的」かもしれない。また、東南アジアからの「出稼ぎ」の人々がたくさん住み、そして客としての日本人と「交流」する所になっている新宿区は、ビジネスライクな情報交換にとどまらない人的交流の多彩さから言えば、最も「国際的」かもしれない。  しかし、観光的な「常識」においても、また、日本で「国際的」という言葉につきまとっている雰囲気を最も典型的に表している所としては、港区ということになるらしい。  では、その「国際」度はいかなるものであろうか? それには、自分の目で確認してみるにしくはないというわけで、わたしはまず六本木に行ってみた。このあたりは、かなりまえからよく知っているが、「国際化」の問題意識を持って歩いたことはなかった。わたしは、つとめて異邦人になったつもりでその街路を歩いてみた。  千代田線の乃木坂駅で降り、外苑東通りに出ると、ファショナブルなデザインのビルやショウインドウが目を引く。英語をしゃべりながら通りすぎる白人の女性が二人。店名がイタリア語で書かれている喫茶店のガラスの向こう側にも幾人かの白人が座っている。黒人やアジア人は少ないが、あたりを見回せば、どこかに必ず外国人の姿を発見できる。 輸入されたインテリアを並べている店のガラスにはアルファベットの文字しか見えない。それは、一見ニューヨークかロンドンの路地裏にある小店舗の雰囲気だ。一体に、このあたりの店が出している看板の英文字は、ただ装飾的に英文字を使っていることが多い他の場所に比べると(あくまでも程度の差ではあるけれど)「国際的」である。それは、客に外国人が多いからだろうか、それとも経営者が国際的だからだろうか?   防衛庁の正門前を通りかかったとき、その塀のなかからアメリカ合衆国のマーチが聞こえてきた。どこかで聞いたことがある曲だが、題名は知らない。たぶん、壁の向こう側では何かの儀式が行われているのだろう。あるいは、日米合同訓練のときに演奏する音楽を楽隊が練習しているのかもしれない。いずれにしても、防衛庁という一見〈国粋的〉な組織が、実はアメリア合衆国と連動しているということをはからずも教えてくれる音のパフォーマンスであった。  六本木の交差点のあたりの雰囲気は、それほどめずらしいものではない。「国際都市」にはどこにでもある建物を持ってきて並べたように見えながら、そのあいだの路地に入ると、低い屋並が急に現われたりする日本的・アジア的風景をここに発見することもできるが、そのために特にこのあたりがおもしろいというわけでもない。その点では、銀座の方がシャープな対照を見せてくれる。  もっとも、いま防衛庁がある場所に米軍が進駐していた終戦後の一時期は、この一帯も、なかなか活気に満ちた場所だったらしい。  一九六一年に出た『東京風土記 城南・城西篇』(社会思想社)によると、「赤坂と麻布の両部隊跡が米軍に接収されたので、戦災を受けた六本木通りは、全く米軍のためにできた町といってよい。バー、カフェー、だけでも十軒以上、べたべたと横文字で書かれた看板、真っ昼間でも奇声が聞こえ、付近のホテル、アパート、民家の二階貸間には、たいてい女が住んでいて『都心の基地』であった」という。  そうした痕跡を辿るのは別の機会に譲り、六本木交差点を後にする。「極左暴力取締本部」といういささか古びた木製の看板の下がっている麻布警察署のまえを通りすぎ、二四時間営業の青山ブックセンターとWAVEのまえを通過して、「テレビ朝日通り」の先を左に入る。このあたりは、以前は「材木町」といわれていた。わたしは、その昔、この道を歩いて高校に通った。通りには、そのおもかげは全くない。以前と同じ仕事を営んでいる店はあるが、建物がすべて立て替えられている。  中国大使館(ここには以前は中華民国大使館があった)のまえを通ったとき、ある記憶がよみがえってきた。通学のある朝、この通りで若い「外人」に会った。彼は、わたしの十数メートル先を歩いている通学生に向かってたどたどしい日本語で「オハヨーゴザイマス」と言っている。すれちがうたびにそうして来たらしい。しかし、そう言われた通学生は、いぶかしげな顔を返すだけで何も言わない。遂に彼がわたしとすれちがうときになって、わたしに笑顔で「オハヨーゴザイマス」を言ったとき、わたしも無言で通りすぎてしまった。別に悪意や敵意があったわけではない。「外人」に慣れていなかったのだ。それが、都会でも三〇年まえには普通だったのだ。ところで、この「外人」と数日後再びすれちがったとき、わたしは「おはよう」を言おうとして身構えたが、彼はそっぽを向いて早足で通りすぎた。もう誰にも挨拶をするのをやめてしまったらしかった。  さて、中国大使館のまえを通りすぎたとき、電柱に英文字の立て札が縛りつけてあるのを発見して立ち止る。そこには次のように書かれている――    Thanks to take a roundabout way for the water works construction. Traffic suspended on this passage!  これは、東京水道局の注意書きであり、この道を真っ直ぐ行った仙台坂の途中で工事があるので、車は迂回せよということを言わんとするものらしい。日本語がほんの付けたりのように書かれていたのがおもしろかった。このあたりには、英語を話す人が住人の大半を占めるのだろうか?むろんそんなことはないが、外国人居住者の数が多いことは確かである。   歩きながらふと前方の電柱を見上げると、そこに「MAID SERVICE」の看板があった。最近は、働く女性が増えたためにベビー・シッターやメイド・サービスを派遣する会社が増えているが、この看板は明らかに日本人向けではない。この付近に住む「外人」を対象とした広告であり、それだけこのあたりにはそうしたサービスを要求する階級や職業の「外人」が多く住んでいるということを意味する。  愛育病院の角を左に折れ、麻布高校の方に歩き始めたとき、後ろから英語でしゃべる元気な声が聞こえ、アメリカ人らしい二人の少女がわたしを追い抜いて行った。背中にカバンをしょっているが、それは八〇年代の初頭から日本の大人のあいだではやり始めたスタイルのものではない。アメリカの子供達が何十年もまえからやってきたそのままのスタイルである。それゆえ、古い洋風の家があるこの通りを彼女らが歩いて行くの後ろから見ているを、ある瞬間、自分がいま日本以外の場所にいるのではないかと思う。  しかし、これは実に日本の現状に特有の心理状態であることに気付かなければならない。本当に国際化している国の街路では、一本通りが違えば別の言語が聞こえてくるなどということはあたりまえである。それが、日本ではまれなため、ちょっとそんな状況が出現するともうそれだけで映画か小説に使えそうな「日本ばなれした」雰囲気だと受け取られてしまうのだ。  仙台坂上の十字路を左に曲がるり、一五〇メートルほど進むと、西町インターナショナル・スクールがある。ここは、都心のインターナショナル・スクールとしては、唯一の学校であり、大使館員や外国企業の支店に勤める在日外国人の子弟や海外帰国子女たちが通学している。もっとも、最近は、海外の日本人コミュニティーでは帰国子女たちの〈復帰〉対策に熱心なので、日本人でこの手の学校に子供を入学させるのは、子供を「国際人」にしようと望むタイプの親が多いようだ。問題は、インターナショナル・スクールで育った子供が、日本のなかで国際人でいられるかどうかである。  海外生活が長かったため、日本語よりも英語に慣れてしまった子供をインターナショナル・スクールに入れたことのある知人の話では、たしかに、そこには子供が海外で過ごしたのと類似の環境があり、海外生活をそこである程度〈延長〉することが可能なのだが、学校の外にはそことはあまりに異なる教育と遊びの環境があるので、結局、子供は、日本に住みながら〈外国人特殊区〉に住んでいるかのような孤立感を味わってしまうことが多いのだという。  仙台坂にもどり、そこを下って行くと、坂の途中に「国際家畜病院」という看板のかかった木造の家がある。いまではペンキもはげているが、昔は「ハイカラ」な部類に属したのではないかと思わせる建物である。が、なぜ家畜病院に「国際」が付いたのだろう? ここに連れてこられる犬や猫の持ち主に外国人が多かったのだろうか? 「国際」を何にでも付けてしまうのはこの国の習慣なのかもしれないが、場所柄とこのときわたしがいだいていた問題意識とを考えると、奇妙な符合を示していて、なんともおかしかった。  その先の右手には韓国大使館がある。一見アメリカ大使館の建物と形が似ているが、決定的な違いは、窓の多くが透明であり、外から部屋のなかが見えることである。アメリカ大使館の窓は、盗聴やマイクロ波によるマインド・コントロールを防ぐために完全にシールドされている。まあ、「北」と対峙している国の大使館がそれほど無防備であるはずもないから、何か仕掛があるのかもしれない。。いずれにせよ、建物のハデさの点では、韓国大使館は、このあたりに多い大使館や領事館の建物のなかでは群を抜いている。  しかし、韓国大使館を通り過ぎると、あたりはとたんに、下町風になる。家々の高さは低くなり、古い木造家屋も残っている。どこでも大体そうなのだが、川が近づくとあたりの雰囲気が急に〈庶民的〉になる。仙台坂を下りきると、古川に突き当たる。少しまえまでは、川沿いに廃品回収業やクズ鉄を商う店があり、川をはさんだ高台に大邸宅や領事館の建物が立ち並んでいるのと極端な対照をなしていた。 仙台坂を下りきった二の橋で珍しい店を発見する。それは、ビデオカセットのレンタル・ショップなのだが、そこに並べられているビデオカセットのケースの文字はすべてハングル文字なのである。アメリカ映画の韓国語サブタイトル入りもあるが、歩道に向けて置かれているモニターの画面に映っているのは、韓国のテレビ局が極く最近放映したとみられるテレビ番組の録画である。  日本には、朝鮮・韓国語人口が一〇〇万人以上いると思われるが、日本中どこを探しても朝鮮・韓国語のエスニック放送局はない。英語にしても、アメリカ軍が行っているFENがあるだけだ。これは、「国際化」を旗印とする国としては不可解な状況である。  ところが、最近、こうした状況を別な方向から(つまり放送局の開設という方向からでなく)一挙に乗り越えてしまう方法が広まりつつある。ビデオカセットである。エスニック・レストランに行くと、最近は、店のなかで故国からとりよせた音楽カセットやビデオカセットを流しているのに出会うことがよくある。とりわけ韓国料理店では、もはや必ずと言ってもよいくらい韓国のテレビからの録画を見せている。つまり、そこにはソウルのテレビ環境が数日遅れで出現しているのであり、韓国語のエスニック放送局がなくてもそれと同等の状況が生みだされているわけである。電子テクノロジーは、地理的な国境を軽々と飛び越えてエスニック・コミュニティを活性化してしまうのである。  二の橋には戦前から朝鮮人のコミュニティーがあった。いまでもこのあたりには韓国料理の店が少なくない。いまのビデオレンタル店の裏手にも韓国料理店がある。おもしろいことに、この通りには韓国の食料品や野菜を売る店、韓国人経営のふぐ料理店、韓国宮廷料理の店、手打ち冷麺専門店がずらりと並んでいる。昨年の夏、たまたまこの通りにまぎれこんだわたしは、道路に並べられたベンチで韓国語を大声でしゃべる客たちが酒を飲み、うまそうな料理を食べているのを発見し、東京にもようやくエスニック・ストリートが出来始めたのだなと思った。  それは、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアといった国々で見たことのあるエスニック・ストリートに比べれば、奥行きがない。それは、たかだか最近の「国際化」のゆらぎのなかでつかのま活気を得ているものにすぎないかもしれない。しかし、こうした街路やコミュニーの存在と活性化なしには、国際化は言葉だけのものになるだろう。たとえその活性化が、単一民族幻想に慣れすぎた日本人にはハードな経験を要求することになるとしてもである。 



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