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アメリカ映画の〈手抜き〉

 アメリカ映画といっても、ここでは、ハリウッドの商業映画のことである。アメリカ合衆国には、よく見ればまだまだ色々な抜け道や横道があり、映画でもテレビでも十把一からげにあつかうことは出来ない。
 その点、ハリウッドの商業映画の方は、むろん例外はあるとしても、流行に敏感である。フェミニズムが時代の流れだということになると、とたんにどの映画も映像やプロットにフェミニズム的含蓄をしのばせ、ドラッグが政府のキャンペーンになれば、それに同調する。おかげで、アメリカの商業映画は、「社会主義国家」の官製映画よりも忠実に社会を「反映」してくれるというわけである。
 わたしは、最近のアメリカ映画に〈手抜き〉が多くなったような印象をもっている。が、それは、アメリカの観客のあいだでは問題になっていないところを見ると、このことを一つの社会的傾向と考えなければならないのかもしれない。
 ジェリー・ザッカー監督の『ゴーストニューヨークの幻』は、アイデアとしては悪くない。死んだけれども、死人の方は、透明人間のように体を失ったまま、もとの俗世をさまよっているという設定や、霊媒師を通じてやっと生身の人間とコミュニケイションできるようになるというのも、思いつきとしてはおもしろい。
 アメリカでこの映画が当ったのは、夜道で暴漢に襲われた恋人を助けようとして逆に殺されるという、ニューヨークあたりなら誰でもが抱く不安を土台にしているからであり、また、そうして殺された者と再会するという、これまた誰でもが一度は夢見ることをうまく映像にしたからである。
 しかし、犯罪を犯した人間が死ぬときには、ゴーストバスターズのおばけのようなのが現われてたちまち地獄につれていかれてしまうというのは、あまりに安易ではないか。それも、一回だけならともかく、二度もそのパターンを見せられると、こいつは子供映画なのかいと言いたくなる。
 映像として新鮮なのは、ソーホーの路上でパトリック・スウェイジの演じる主人公が絶命し、路上に倒れた死体としての彼と、いま幽霊(ゴースト)となった彼とがスクリーンの上を猛烈な勢いで交錯するところぐらいだ。これ以後の映像は、〈手抜き〉であり、黒い布でもはおってやっているのではないかと思わせる前述のシーンまで出てきてしまう。
 もっとヒドイのは、マーロン・ブランドが「十年ぶりに主役を演じる」というふれこみの、アンドリュー・バーグマン監督『ドン・サバティーニ』である。
 この映画は、明らかに、『ゴッドファーザー』のパロディを意識しているのだが、パロディとしては成功していない。第一、ブランドがこんな映画に出ること自体〈手抜き〉ではないか。ドン・コルレオーネのパロディを自ら演じるだけでなく、明らかににわか仕込みのスケート(わたしは、ブランドが倒れて見せるのかと思った)までご披露するのだから、この映画出演には何か特別の理由があったとすら考えたくなる。
 最初、マフィアとして登場するリトル・イタリーの「帝王」ドン・サバティーニは、最後に、実は、環境破壊や組織犯罪の反対者であることがわかるが、いくら時代のトレンドとはいえ、いいかげんにしてくれと言いたい。
 おそらく、〈手抜き〉は、かつての「へたうま」のように、いまや、一つのスタイルになろうとしているのかもしれない。その証拠に、あのスコセッシまでもが、?鮪阡イき〉の作品を発表した。「実話にもとづいて」撮ったという『グッドフェローズ』である。
 五○年代のトニー・ベネットから七○年代のザ・ドミノスまでのヒット・ナンバーをバックに使い、最後をシド・ヴィシャスの「マイ・ウェイ」で締めくくるやり方は、音楽には気をくばることを常としするスコセッシとしては、どう見ても〈手抜き〉である。
 ローレンス・ハーヴェイの冷たいクールさとゲイリー・クーパーの熱いクールさとを合わせ持ったレイ・リオッタ、狂暴で臭みのある雰囲気を見事に出しているジョ−・ペシ、そして、三人のなかでは一番年上で、屈折もゆとりもあるアイルランド系のギャングを巧みに演じるロバート・デ・ニーロ。この三人ならさぞかし「味わい」のあるマフィア映画が出来そうだが、スコセッシは、そうした「味わい」を一切排除する。
 結果は、それぞれに違った個性を強烈に持っている人物たちが、マフィア・ギャングとしては、金とその場かぎりの感情にマシーンのようにワンパターンに反応する不条理と味気なさがストレートに表現されることになった。
 マフィアというと、その本場はシシリーやナポリで、アメリカのマフィアはその出先機関のように考えられがちだが、「マフィア」は、極めてアメリカ的な産物であり、アメリカ的なテクノロジー(武器と通信・交通手段)によって力をつけ、マス・メディアを通じて定着した。マフィアは、むしろアメリカ的「近代」によって作られたのであり、アメリカなしにはマフィアは存在しなかったのである。
 スコセッシは、マフィアにとって一番の関心は、「金を儲けることだ」と言っているが、その金は、増えれば利潤をもたらす「近代」資本主義の「金」であって、貨幣が情報と同化し、必ずしも量が利潤を生むわけではない〈脱近代〉の情報資本主義的「金」ではない。また、その集団性も、自我と集団との一体化を夢見る「近代」ロマン主義の集団性であり、「前近代」社会との一貫性はない。
 マフィアにとって、シシリーやナポリの古い因習は、そうしたウルトラ「近代化」に好都合であったから利用されたのであって、それは、アメリカ的な機械と物のロジックで換骨奪胎されている。
 従って、マフィアを「忠実」に描こうとすると、それは、従来の「マフィア映画」のように「前近代的」な義理人情的結束やファミリー性などにこだわってはいられないのであって、むしろそういうものが極めて「合理的」に(つまり都合のよい部分だけ)利用される「近代的」利己主義の味気ない極致が描かれなければならないだろう。
『グッドフェローズ』は、その意味で、極めて意識的にワンパターンのスタイルを使っていると言えなくもないが、〈手抜き〉が今後アメリカ映画の流行スタイルになるとしても、それは、スコセッシ程度にしておいてもらいたいものである。
[ゴースト ニューヨークの幻]監督=ジェリー・ザッカー/脚本=ブルース・ジョエル・ルービン/出演=パトリック・スウェイジ、デミー・ムーア他/90年米[ドン・サバティーニ]監督・脚本=アンドリュー・バーグマン/出演=マーロン・ブランド、マシュー・ブロデリック他/90年米[グッドフェローズ]監督=マーティン・スコセッシ/脚本=マーティン・スコセッシ、ニコラス・ピレッジ/出演=レイ・リオッタ、ロバート・デ・ニーロ他/90年米◎90/ 9/10『月刊イメージフォーラム』




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