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マダム・スザーツカ

 シャーリー・マクレーンが演じるマダム・スザーツカと、ナヴィン・チャウドリーが演じるインド系の少年マネクとのあいだの屈折した愛がこの映画の劇的な部分を作りだしているとしても、わたしは、この映画のなかに挿話としてちりばめられているロンドンのさまざまな生活断片が特におもしろかった。
 ロンドンは、もうとうの昔にエスニック・ミックスの都市になっているが、この映画ではベンガル地方出身のインド人の生活がたびたび登場する。マネク少年が母(シャバーナ・アズミ)と住んでいるアパート・ビルの家主は、いつも民族衣装をまとい、ヒンディだかベンガリーだかの(わたしにはわからない)言語のテレビを見ている。実際にロンドンにはこうしたエスニック向けのテレビ放送がある。
 マネクの母親は、生活を支えるために仕出しの下請けだか孫請けだかの仕事をやっている。ちゃんとした契約の仕事ではないから、納めた食べ物に髪の毛が入っていたと難癖をつけられて一方的に仕事を切られることもある。
 彼女は、インドでは由緒ある家柄の出だと自分では言う。が、彼女らにとってロンドンの生活は厳しい。だから、息子がピアニストとしてデビューしてくれるのが夢だ。彼が芸術家としてすぐれた仕事をするよりも、まずは世間の注目を集めることであり、それにはスポーツで成功しても、芸能人として有名になってもよい。そのために、子供に多額の投資をし、学校や教習場に通わせる。これは、移民者の多い都市ではどこでも見られる現象であり、彼や彼女らが底辺からはい上がる有力な方法の一つなのである。
 スザーツカの住むアパート・ビルの住人たちの生活もおもしろい。才能のない歌手志願の女ジェニーのわびしい感じをツイッギーが好演しているが、彼女のような女はロンドンにはまさに掃いて捨てるほどいる。彼女らは、他国や田舎から「女優」や「歌手」を夢見てやって来るが、夢を実現できるのはごく少数だ。
 こういう女性たちのかたわらには、プロデューサー業を自称するあやしげな男たちがいる。ジェニーが同棲している男は一応プロデューサー業をしているようだが、オフィースでの電話のやりとりを聞くかぎりでは、相当きわどい商売をしている。
 一階でカイロプラクティックを開業している老人は、夜道で二人組の若者に襲われ怪我をする。そのとき彼らが、「おかま野郎」と老人を罵っていたところをみると、彼はゲイなのかもしれない。そして、何かのきっかけで、彼は通りがかりの若者を誘ったのかもしれない。このシーンは、単にロンドンの治安が悪くなって、老人が生きにくいというようなことを暗示しているだけではないように思える。ちなみにシュレシンジャーはゲイである。
 スザーツカにしたところで、生活はそう楽ではない。ピアノのレッスンを受ける問い合わせの電話に出た彼女は、「秘書が留守ですので」と言って体裁をつくろう。むろん秘書なんかいないのだ。
 ロンドンには、スザーツカたちが住んでいるようなアパート・ビルやフラットが沢山あり、それぞれにコミュニティを作っていた。しかし、いまではその数は限られている。ジェントリフィケイション(ヤッピー向きに街が変わっていくこと)をニューヨークに先駆けて始めたロンドンは、いま第二次、第三次のジェントリフィケイションの進行中である。
 この映画で、不動産屋が電話のついた高級車を乗りつけ、スザーツカたちのアパート・ビルにやってきて、地上げの画策をするくだりがあるが、彼は、一押ししてうまくいかないとわかると、今度は市の役人を買収して搦め手から追い出そうとする。建物が老朽化しており、修理をしないと危険であると役人に言わせ、とても修理代など払えはしない家主がそこを放棄せざるをえないように仕向けていく。
 この映画は、古い、スラム化しそうな建物がどんどん壊されていくロンドンの変化と、すでに人生の終末期にさしかかろうとしている人々の心のゆらぎとを重ね合わせながらドラマを展開する。
 都市とそこに住む人間の心の揺れや妄想とを一体のものとして描くやり方は、シュレシンジャーの場合、すでに『真夜中のカーボーイ』でうまく使っていたが、『マダム・スザーツカ』が決定的に違うのは、主人公の街への対応である。
 スザーツカは、他の住人たちがロンドン脱出を決心したあとでも、決してロンドンを離れそうにない。そもそも彼女は一度として変化するロンドンを嘆いたり、呪詛したりすることはない。それはまるで、彼女が全く都市に関心をもっていないかのようにも見えるが、彼女にとってはロンドンでの昔通りの生活しか考えられないのだろう。
 この映画の最後の場面は、むかし愛した——しかしマネクと同じような仕方で彼女のもとを去っていった——弟子が、マネクと同年の少年とその母親を案内してスザーツカのアパートの方に歩いてくるシーンである。
 たぶん彼女は、マネクにやったのと同じような仕方でこの少年にピアノを教え、そして愛するのだろう。それは、「師弟愛」などというものではなく、また「ロリコン」の女性版などという矮小化されたものでもないだろう。
 すべてが反復する。そして、そのような反復が続くかぎり、スザーツカは決して老いないだろうし、ロンドンはロンドンであり続けるだろう。
 ただし、見終わってふと思ったのは、スザーツカは男である方が、シュレシンジャーの場合、もっと陰翳のある愛や性を描けたのではないかということである。
前出◎89/ 9/ 1『キネマ旬報』




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