145

記憶の呪縛

「決定的なことはめざめとまどろみのはざまで起こる」と言ったのはカフカだったろうか? ウディ・アレンの『私の中のもうひとりの私』で起こるすべてのことは、見方によっては、そのような「はざま」の出来事である。
 表面的な筋立てからすると、この映画は、ジーナ・ローランズ扮する五十過ぎの女子大教授マリオンが、ニューヨークのダウンタウンにある彼女の仕事場で、「通風ダクトの防音が不備のために」たまたま隣室の話し声を聞いてしまうという設定で始まる。隣室は精神分析医の治療室である。
 ウディ・アレンの映画では、音は重要な「登場人物」だが、この映画では、隣から「ダクトを通じて」聞こえてくる声は、やけに大きく、鮮明である。ということは、この映画の世界が、「主観的」な観点で構成されているということであり、映像や音の多くが主人公マリオンの「妄想」や「錯覚」のフィルターを通して構築されているということである。
 実際、最初の方のシーンで、「自分の本当の姿を知って死にたくなりました」と語る身重の中年女性ホープ(ミア・ファーロー)の告白を聞いてしまうのは、マリオンが原稿を書こうと思いながら仕事場のテーブルにうつ伏せになって眠ってしまい、しばらくしてめざめたときである。この場合、めざめを必ずしもリアリズム的に受け取る必要はない。以後展開するストーリーがすべて彼女の〈夢〉のなかで起こっていてもかまわないのだ。
 重要なのは、「夢」か「現実」かではなく、マリオンが生と死の中間状態に迷い込み、自分がこれまでやってきたことがすべては無意味であり、行く手には死が控えているという強迫観念をもってしまったことである。
 アレンの映画のなかでは、これは『インテリア』に次いで「深刻」な作品だが、ある意味でアレンの映画は、いずれもこのような強迫観念をかわしたり、忘れたり、それにふりまわされたりする人々の滑稽さやばからしさを描いてきた。『私の中のもうひとりの私』は、このことをいわば直接法で語っているにすぎない。
 その際、アレンは、記憶というものに「救い」を見出そうとしているように思える。最後に、マリオンを愛した男(ジーン・ハックマン)が書いた小説のなかの言葉が引用される。「思い出とは、現実のものか、それとも過ぎ去ったことにすぎないのか……」。
 これは、ユダヤ的な生の定義である。その存在の可能なかぎり行動し、自己を発展させ、より多くのものを所有すること——これは、西欧文明とそのなかでの生を形成してきたファウスト的価値観だが、ユダヤ的(ただし、ヘブライ的ではなくてイーディッシュ的)伝統を重んじるアレンは、それには背を向ける。ファック・オフ・ゲーテ(ついでにファック・オフ・手塚治虫)というわけである。
 記憶とは、所有ではなくて、所属であり、伝統、歴史、時間……の流れに属することである。しかし、西欧の近代文明は、記憶を所有や貯蓄の対象と考えてきた。そうして、記憶はテクノロジーによって集積・操作可能な情報とみなされるようになる。
 人が生きているかぎり、記憶は?桝カ在?誤植〉キる。が、西欧文明の発想では、記憶は「保持」されなければならない。記憶も所有の一形式であり、記憶は記憶「力」の問題に帰してしまう。
 最近、エンボディメント・フィルムズの主催で開かれた「新鋭映画祭」には、イギリスのテレビ局「チャンネル4」の短篇フィルムがかなり含まれていたが、それらの多くは、みな深い〈jヒリズム?誤植〉ノいろどられている。
 ノーマン・ハルの『アウト・オブ・タウン』では、ひと気のない田舎を歩いている男が、突然穴に足をとられる。が、なぜか、足はそのまま抜けず、通りがかりの人も助けてはくれない。一人だけ手を貸そうとした黒人は、車を止めようとして轢き殺されてしまう。そして、男もやがて穴のなかにのみ込まれてしまう。「不条理劇」ではおなじみのプロットではあるが、突然いままでの記憶が通用しなくなるドラマとして見るとどこかで『私の中のもうひとりの私』につながる面がある。
 ポール・バンボローの『Aーカディア?宸ナは、家族は家のなかで各自武装し、一瞬も油断しない。とりわけ息子と母親は、つねに一触即発の関係にある。ここでは怒りを爆発させ、人を撃ち殺すことが「普通」なので、街のゲーム・センターでは、怒りを抑えることが、特殊技能であり、非日常的な出来事とみなされる。ここでは、なれあいや反復は破滅であり、記憶への従属は不可能である。
 人間が記憶からかぎりなく離れていくとき、彼や彼女はどのような存在になるのだろうか? #ジョアン・カプランの『ザ・ジップ』は、ある日気づくと、自分の胸にジッパーがついてしまっている男の話である。彼が、ジッパーを恐る恐る少し開いてみると、なかからもう一本手が出てくる。そこにはもう一体からだがあるらしい。悩みぬいたあげく男は、ジッパーを全開し、なかから「もう一人のわたし」を登場させ、その抜け殻をバッグに詰め、そのためにあるらしい「抜け殻保管所」に持って行く。
 それから男がどうなったかわからないが、たぶん記憶の呪縛から逃れて、サバサバした生活を送ったのではないか? 自分のからだのなかから飛び出したもう一体のからだとは、反省や記憶を構成する要素であり、死や未来への不安を語りかける主体でもある。人は、普通、自分のからだのジッパーを開き、そのなかの「もう一人のわたし」と争ったり、対話したりしているわけだが、『U・ジップ?宸フ主人公のように、そのつど外側の自己を脱ぎ捨てることができるとしたら話は簡単である。西欧文明は、しかし、この簡単な方法をいかにして実現するかということでむなしい努力を続けてきた。
[私の中のもうひとりの私]監督・脚本=ウディ・アレン/出演=ジーナ・ローランズ、ミア・ファーロー他/89年米[アウト・オブ・タウン][アーカディア][ザ・ジップ]◎89/ 5/ 1『流行通信OM』




次ページ        シネマ・ポリティカ