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映画の情報環境

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 映画をメディアとして論じるとき、映画をフィルムのなかの光学的な諸形式や、映像との単なる美学的な経験に閉ざすことはできない。映画が実際に機能する《場》を顧慮しなければならないのであり、そうした場との関連において映画を論じる必要がある。
 記号学的な考察が明らかにしたように、映像であれ文字であれ、その意味、その社会的機能はそれらをとりまく《場》との相対関係で決まる。
 わたしは、スティーヴン・スピルバーグの『カラーパープル』に関して、まさに《場》がその〈意味〉を決定するという事実を目の当たりにしたことがある。一九八六年にこの映画がニューヨークで封切られたとき、わたしはそれをマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジとブルックリンのフラットブッシュで見た。驚いたことに、マンハッタンとブルックリンとでは観客の反応が全く違うのであり、マンハッタンではこの映画は、シーリアスな社会ドラマとして、ブルックリンでは黒人を茶化したパロディとして見られていたのである。
 グリニッジ・ヴィレッジの観客の大半は白人で、見るからに中流の知識人層ないしはヤッピーであった。それに対してフラットブッシュの観客の多くは、ウエスト・インディアンやアフロ・アメリカンの黒人たちであり、彼や彼女らは、黒人のステレオタイプ的な描写が現われると、クスクス笑ったり、異議のつぶやきをもらしたりするのだった。スピルバーグのねらいは、決して黒人生活のパロディ映画を作ることではなかったはずだが、それが当初に想定された《場》とは違う《場》に置かれることによって、この映画は通常とは違った〈意味〉をもってしまったのである。
 わたしは、映画を規定している場として、最低限三つの場を考えたい。その第一は、映画と同種の映像的な場たとえば写真、ヴィデオ(テレビを含む)であり、その第二は、新聞、情報誌等の広告・宣伝環境であり、その第三は、映画を見る場としての映画館と都市である。これらの場は、総括的に《映画の情報環境》と呼ぶこともできる。以下においてわたしは、まず映画をとりまく情報環境の最近の変化をテレビ、広告、映画館、都市の順に考察してみようと思う。
[カラーパープル]前出

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 一九五三年に日本でテレビ放送が始まったとき、映画が将来テレビにとってかわられるかもしれないという「映画の危機」説が話題になった。テレビは、家でいながらにして映像を見ることができるのだから、将来は映画館に通う人はいなくなるだろうというのである。今日でも、ハイビジョンの出現によって誘発された似たような議論が現われつつあるが、テレビの普及は必ずしも映画を終わらせることにはならないはずである。が、いずれにしても、映画はテレビの出現によって存亡の危機に陥り、再生の方法を探さなければならなくなった。
 映画は、テレビに対抗するためにテレビでは出来ない方向を発展させなければならなくなった。一九五〇年代前半のアメリカでシネラマ、シネマスコープ、トッドAOなどのワイドスクリーン方式が開発されたのも、一つには、映画がテレビに対抗しなければならなくなった結果であるが、演出や素材の点でもテレビに差をつける努力が五○年代後半の映画で顕著になる。このことは、一九五〇年代後半のアカデミー賞受賞映画について考えてみるとよくわかる。
 一九五五年のアカデミー賞は、デルバート・マン監督の『マーティ』に与えられた。おもしろいことに、この映画は、パディ・チャイエフスキーのテレビショウの映画化であり、それをテレビで見ていた者にも映画の優位を印象づけた。いわばこの映画は、テレビへの映画の逆襲第一号とでも言うべきものであった。
 翌年にアカデミー賞を取ったマイケル・アンダーソン監督の『80日間世界一周』A五七年の『戦場にかける橋』A五九年の『ベン・ハー』は、テレビにはとうてい不可能なスケールと迫力を生みだすことに成功した。その間の五八年にアカデミー賞を受賞したビンセント・ミネリ監督の『恋の手ほどき』は、内容的にはテレビ向きだとしても、ミュージカルとしての迫力と臨場感は、映画ならではのものである。
 内容的な面では、アメリカの場合、性表現の規制が緩められた六〇年代後半以後でも、暴力場面や性表現の露骨なものを全国ネットのテレビで放映することは難しいので、映画はそうした表現分野でテレビに差をつけることができた。だから、ある意味でテレビ出現後の映画は、テレビに出来ないことを追求するなかで暴力や性の描写をエスカレイトさせて行ったということもできる。日本の場合は、ヤクザ映画とロマンポルノの出現がこれに相応する。
 こうしたテレビへの対抗は、カラーテレビの浸透、ヴィデオレコーダの普及、大型モニターの登場といったテレビ技術の革新のたびに強まり、最近はやりのSFXによる特殊撮影は、コンピュータ・グラフィックス技術を映画がヴィデオから奪還した一つの成果であるともいえる(SFXでは、模型を作成する際にコンピュータの作画技術を多用する)。
 映画とテレビとが興業的なレベルでいまや、侵略関係であるよりも、むしろ補完・競合関係である点は、テレビで放映される劇場映画と映画館で見る映画との関係においても明らかである。
 以前から、テレビでの映画上映は盛んであり、日本ではそのために吹き替えの技術が発達したが、数年まえまでは、テレビでは古いフィルムか本邦未公開のフィルムしか放映されないのが普通だった。ところが最近では、ロードショウとテレビ放映との期間が狭まり、封切り後一年もしない(しかもヒットした)映画がテレビで放映されるようになった。これは、テレビのスポンサーシップが巨大化し、視聴率を稼げる映画作品にはスポンサーが容易に高い金を出すようになったからであり、また、映画産業自体が、劇場での観客動員以上のウマミをテレビ放映に見出したからである。
 テレビで放映することは、もはや劇場上映の妨げにはならないのであって、テレビで放映されたのち再び劇場でリバイバルしても、テレビで当たった作品はかえって多くの観客を動員するのである。
 似たような現象は、映画のヴィデオ・パッケージについても言える。最近、映画のロードショウ封切りとヴィデオ版の発売とを同時に行なう例が見られるが、この商法は、まさしく劇場公開とヴィデオ発売とが相補的であることの確信から始まった。
 ますます増えつつあるヴィデオ・レンタル・ショップに行けば、(海賊版ヴィデオを含めれば)新旧の大抵の映画がヴィデオ化されているのを発見する。その際、ユーザーは、ヴィデオで見てしまったからといってもはや劇場に映画を見に行かなくなるわけではなくて、逆にヴィデオでおもしろいと感じた作品は、それを映画館でもう一度見るのである。
[マーティ]監督=デルバート・マン/原作・脚本=パディ・チャイエフスキー/出演=アーネスト・ボーグナイン、ベッツィ・ブレア他/55年米[80日間世界一周]監督=マイケル・アンダーソン/脚本=ジェイムズ・ポー、ジョン・ファロー他/出演=デイヴィッド・ニーブン、シャーリー・マクレーン他/56年米[戦場にかける橋]監督=デイヴィッド・リーン/出演=アレック・ギネス、ウィリアム・ホールデン他/57年米[ベン・ハー]監督=ウィリアム・ワイラー/脚本=カール・タンバーグ/出演=チャールトン・ヘストン、ジャック・ホーキンス他/59年米[恋の手ほどき]監督=ビンセント・ミネリ/脚本=アラン・ジェイ・ラーナー/出演=レスリー・キャロン、モーリス・シュバリエ他/58年米

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 最近二十年間の映画環境の変化を語る場合、情報誌の出現は非常に重要な意味をもつ。すでに六〇年代から散発的にはさまざまな情報誌が発行されていたが、アメリカの『CUE』iのちに『New York』に吸収される)を模した形の情報誌が定着するのは、『シティロード』と『ぴあ』が一九七二年に刊行されてからである。
 それ以前には、新聞の映画欄が映画の主要な情報源であり、名画座や自主上映の情報をコンスタントに伝えるメディアはほとんど存在しなかった。それらは、映画館が自主的に配布するチラシや仲間内の口コミを通じて伝えられることが多く、今日のように極めて小さな上映会までもが一冊の雑誌で告知されるということは全くなかった。
 情報誌が登場し、それが大衆的なメディアになるにつれて、それは映画の見方にも影響を与えるようになった。七〇年代後半から八〇年代にかけてとりわけ『ぴあ』の発行部数が急増していく。やがて『ぴあ』文化とでもいうべきものが形成され、映画や演劇を見に行くことと情報誌をチェックすることとが不可分離のものとなる。
 これは、一面で、後のコンピュータ文化に通ずる〈インデックス文化〉(行動の整理・システム化、ものごとを指標や部分からとらえる傾向)の基礎をつくったが、他方において、映画を見に行くために情報をチェックするのではなく、情報のために情報をチェックする〈情報遊び〉を生みだすことにもなった。
 こうなると、情報誌の普及は必ずしも映画人口の増加を意味しないわけであり、逆に情報誌が映画の表層的な情報を提供することによって、それまで映画人口のあるパーセンテージを占めていた流動的な観客層を減らしてしまうということにもなるわけである。
 とはいえ、情報誌の普及によって、小規模の自主上映の活動が活気づいたことは確かであり、情報誌が新しい映画観客の形成と自主製作活動に寄与したことは否定できない。

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 映画館もまた、八〇年代後半になって明確に変化しはじめた。すでにニューヨークでは、大きな映画館を幾つかに仕切って異なる映画を上映するマルチプレックス方式がさかんだが、この方法を部分的にまねた上映方式−−ミニシアター−−が日本にも導入されるようになる。これは、映画人口が減って大きな劇場を効率よく使うことができなくなったところから考え出された方式で、スクリーンのサイズはそれまでの大劇場の五分の一以下になり、観客収容数も百名以下となる。
 劇場運営の無駄なコストがミニシアター化によってどこまで低減したかはわからないが、ミニシアター化は、映画の見方を変えるはずである。従来、常設館のなかで小さなスクリーンをもつ映画館はさほど多くはなかった。いまはなき「シネマ新宿」や「中野名画座」はスクリーンが小さいことで有名だったが、観客動員数のさほど多くはない「名画」を上映する「名画座」でも、スクリーンの大きさは、たとえばミニシアターの「新宿ピカデリー2」のそれよりも大きかった。
 これは、映画が一方では、たとえばスピルバーグの作品のようにテレビへの対抗上巨大化する傾向があり、その効果は大きな映画館でしか経験できないことを考えるとき、映画にとっては致命的な傾向であるともいえる。
 しかし、他方では、テレビ文化が浸透して、人々がテレビで上映される映画に慣れるにつれて、比較的小さなスクリーンでも映像の効果を追体験できるという傾向が生まれつつあることも事実である。ミニシアターのスクリーンがどんなに小さいとしても、そのサイズは大きなヴィデオモニターのそれよりは確実に大きいからである。

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 映画館は都市文化の関数でもある。その都市にどのような映画館があり、それがどのように利用されているかを見れば、その都市文化の性格や質を判断することができる。日本の都市においては、映画館が異質な文化とくに海外の文化を保管する〈メモリー・バンク〉の機能をはたすからである。
 一般的に言って、都市文化が活気づくときには必ず新しいタイプの映画館が生まれるように思われる。一九六二年に新宿に「新宿文化劇場」(通称「アートシアター」)が出来、イエジー・カワレロウィチの『尼僧ヨアンナ』を皮切りに東西ヨーロッパからアメリカ(トリュフォー、ゴダール、アントニオーニ、ベルイマン、ワイダ、カサヴェテス等々)そして日本(たとえば勅使河原宏)の問題作を上映しはじめたが、それは、映画館そのものの革新であると同時に、新しい都市文化の形成を象徴してもいた。それは、戦後の闇市とのつながりを残したスラム文化にアメリカのヒッピー文化が混じりあったハイブリットな都市文化(ジャズ喫茶、みゆき族、フーテン等々)であり、東京オリンピック以後一九七〇年代になって顕在化する「何となくクリスタル」型のヤッピー的消費主義文化とは違った都市文化であった。
 ここでは、これ以上六〇年代の歴史に立ち入ることはできないが、東京が変わった六○年代に、従来の名画座とは違ったタイプの映画館が生まれたことを忘れないようにしよう。映画館の形式は都市のインデックスである。「アートシアター」は、フランスのシネマテーク方式の自主上映館のはしりであり、一度ロードショウ館で封切られた良質の作品を低料金で上映する「名画座」とは区別された意味での新しいタイプの映画館であった。
 このことを念頭に置くならば、八〇年代になって多くの人が集まるようになったユーロスペースや岩波ホールに特に言及しないことが許されるだろう。それらと「アートシアター」とのあいだには、スペースの大きさの違いや上映方法の違いがあるにしても、その基本的な方向は「アートシアター」によってすでに先取りされていたということができるからである。
 では、今日、「新しい」と言うことができる映画館の傾向は何であろうか? 映画館に関してより顕著なのは、マルチプレックス化や自然消滅的な閉鎖であるが、そうした消極的な傾向のかたわらにも、わずかながら新しい傾向が見出される。それは、最近の都市変化と無関係ではない。
 具体的には、新宿の「シネマスクエアとうきゅう」や渋谷の「シネセゾン渋谷」のような映画館の出現である。これらの映画館では、イスや室内デザインに気を配り、定員入替制を導入して映画観賞環境のある種の「高級化」を目指している。
 これは、映画を観賞するという点からいえば当然の処置であるようにみえるが、問題は、むしろこのような環境で映画を見ることの需要が想定されたことであり、そのような需要の供給を目的とした映画館が初めて東京に生まれたことである。
 映画は、その料金からしても、大衆的なレジャーに属する。そのスペースのつくりやイスが新劇や歌舞伎の劇場にくらべてどちらかというと能率本位なのも全体のコストを下げるためである。しかし、最近、映画館のある種の「高級化」が進みつつあるということは、映画がいまや「高級」なレジャーのなかに入ろうとしているということであり、そのような場所を好む階層が生まれつつあるということである。
 それはまだ一部の傾向であるが、映画館に限らず、八〇年代になって都市のなかに従来よりも強い階層分化志向が生まれていることは確かである。一九八四年に『金魂巻』がベストセラーになり、冗談のように言われた「マル金」と「マルビ」の対比は、むしろ今日ますます現実化しているのであり、映画館、劇場、レストラン、バア、喫茶店、ホテル、そして住居等々のスペースに対して「高級な」イメージを求める階級が形成されるのである。
 これらの階級は、「独身貴族」や「新人類」というような名称で呼ばれてきたが、このような現象が決して日本だけのものではないという点で、「ヤッピー」と呼ばれるのが妥当であると思う。
「ヤッピー」(YUPPIE)とは、YOUNG URBAN PROFESSIONALS の略であり、アメリカでは三十代後半までの年齢で、都市に住み、中流以上の収入がある弁護士・医者・コンサルタント・デザイナー・大学教授といった専門職の人々を指す。
[尼僧ヨアンナ]監督・脚本=イエジー・カワレロウィチ/出演=ルチーナ・ウィンニッカ、ミエチスワフ・ウォイト他/61年ポーランド

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 街の〈主役〉が替われば、当然街の情報環境も変化する。ニューヨークの場合、ヤッピーの増加とともにカフェ、レストラン、商店などの雰囲気がガラリと変わった。一九七〇年代の中頃まではまだあった古びた庶民的な店構えの建物が次第に「華麗」化していったのは一九七〇年代の末頃からだった。
 東京の場合、カフェ・バア、ビストロ、こぢんまりした西洋料理店といった新しいタイプのスペースが増え始めるのが一九八〇年代の中頃からである。ニューヨークのヤッピーにとって週末の最もお定まりのレジャーは、レストランで食事をしたあと芝居・音楽などを「観賞」するということだが、ヤッピーが増えれば、それに適合した映画というものが要求されてくる。
 ウディ・アレンは、明らかにこうした動向を逃さなかった。彼が、一九七九年に監督・主演した『マンハッタン』は、まさにヤッピーのために作られたような映画だが、だからといってアレンを、『ヤッピー・ハンドブック』のように「ヤッピーの元祖」とみなすのはまちがっている。彼は、むしろヤッピー感覚を先取りしてマンハッタンを描いたのであり、まさにヤッピーの街になろうとしていたマンハッタンを彼特有のユーモアとアイロニーをこめながら物語ったのである。
 注意深い映画ファンならば、『マンハッタン』で映される街の風物が七〇年代にしては〈小奇麗〉すぎることに気付くだろう。その映像は、ある種のまぶしさと白々しさとがない混ぜになった〈スリック〉感覚で仕上げられており、うさんくさく、猥雑で、アブナげなマンハッタンはきれいさっぱりとぬぐい去られているのである。
 ヤッピーは、こうした映像のなかに仕掛けられたアレンのアイロニーに気付かずに、その〈スリック〉感覚だけをエンジョイする。もともとヤッピーには歴史感覚が欠如しており、ヤッピーは歴史の痕跡をとどめるものよりも、そのようなものが気化してしまったようなツルツルの感触を好む。ウディ・アレンは、そうしたヤッピーの嗜好をよく知っていた。
 東京の場合、映画産業自体が貧しいために、都市自身がそうした映画を生むには至っていないが、もし日本の映画産業が現在の需要に敏感ならば産み出されるであろう映画がウディ・アレンのそれに一脈通ずるものをもつことは想像に難くない。
[マンハッタン]前出

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 映画の情報環境は、今後どのように変わるのだろうか?
 前述の三つの要素のうち、今後さらに圧倒的な力をもつと考えられるのは、やはりヴィデオ(テレビを含む)である。ヴィデオ・テクノロジーは、映像技術をますます独占するようになり、映画も次第にフィルムに依存しなくなるかもしれない。すでにヴィデオを大スクリーンで上映する劇場ができつつあるし、映画撮影もヴィデオ・テクノロジーへの依存度がますます高まっている。最近では、多くの映画撮影が、モニター用にヴィデオを用い、編集はヴィデオ版の方で行なう。それは、ヴィデオの方が、ショットやシークエンスの分割をコンピュータ化しやすく、そのため編集の時間を大幅に省略することができるからである。
 ハイヴィジョンのような走査線の本数が多いヴィデオ画面では、粒子の粗さに関するフィルムとヴィデオの相違はほとんど消滅する。また、ヴィデオの画面は、フィルムに比べて奥行きが出ないということがよく言われるが、今後のヴィデオ技術はこの点に関しても急速に改善されるはずだ。
 ヴィデオ・テープのコストはますます下がるはずだから、ヴィデオによる撮影は、フィルムによる撮影よりもはるかに有利なものとなるだろう。そしてまた、ヴィデオの映写技術がもっと向上し、ヴィデオで撮られた映像が映画と同じサイズのスクリーンで上映されるということが、あたりまえのことになるにちがいない。
 このとき映画とヴィデオとの相違はどこに求められるのだろうか? 映画はこのとき終わるのだろうか?
 それは、何をもって「映画」と言うかによって異なる。映画をフィルムによる映像システムだと考えれば、フィルム=映画は終わるかもしれない。
 このことは、レコードのことを考えてみればよいだろう。似たような問題がレコードにおいても起こっているからである。いま、明らかに塩化ビニール盤のレコードは光学録音のコンパクト・ディスク(CD)にとって代られつつある。これはレコードの終わりだろうか? ある意味では、それは「レコード」の終わりである。しかし、録音された音を聞くというこれまでレコードが保持してきた文化の終わりでは決してない。とはいえ、CDの出現によって決定的に変わるものはある。
 すでにカセット・テープが普及したときに始まったことだが、CDは、録音された一連の音を必ずしも初めから聴く必要はないという意識を一層拡大する。むろんレコードでもピックアップを操作して随意の位置に針を落とし、録音された音の順序を変えて聴くことは可能である。しかし、その位置を自在に変えるという点ではレコードには技術的な制約があり、テープの方がはるかに容易にそれができる。
 そしてさらに、それがCDになると、音そのものがディジタル化されているために、磁気テープの何百分の一の精度で音を選択することができるのであり、事実上最初に設定された音の順序というもの(さらに音の質そのものすら)は全く暫定的なものとなる。それゆえ、CDが普及するにつれて、録音された音楽ないしは音の聴き方が変わってくるわけで、レコードのようにレコード・メイカーによってあらかじめ設定された順序に従って聴くという文化は消滅するかもしれない。
 ヴィデオの場合も全く同じことが言える。すでにヴィデオの普及とともに、ショットのディテールへの意識が高まっている。それは、ヴィデオ化された映画を絶えずストップしたり、巻き戻し・早送りをして見る映像文化が広まりつつある証拠であろう。おそらくヴィデオを映画のように初めから終わりまで〈受動的〉に見る者は少ないはずで、大抵はリモコン装置を片手に映像を自分流儀に操作しながら見ているはずである。
 こうした見方は、今後ヴィデオの媒体が磁気テープから光学ディスクに移るにつれてますます一般化するだろう。その容量からしても、またコンピュータ処理の容易さからしても、光学ディスクの録画技術さえ簡素化されれば、磁気テープが光学ディスクにとって代わられるのは時間の問題である。映像の場合も、光学ディスクでは、細かな映像単位の選択や検索が極めて容易であることは言うまでもない。
 この場合、もし〈映画固有の文化〉というものがあるとすれば、それは観客が映像を操作しないということである。すなわち映画館に行き、最初から最後まで与えられた通りに映像を見るということである。これは、電子化された映像装置の能力からするとばかげた使い方であるとしても、それはすでに一つの文化であり、映画がそれ固有の技術とともに継承してきた文化なのである。
 映画館が「ヴィデオ・シアター」になり、「映画」がヴィデオ・プロジェクターで映されるようになる場合、その技術的な可能性からすると、いまの映画の観客がやっているような〈受動的〉な姿勢はその可能性をほとんど活かしていないということになる。しかし、観客が自由に画面を選択して映像を見るとしたら、多数の人にとっての同一のスクリーンというものは成立不可能である。それゆえ、多数で同一のスクリーンを見るという映画が継承してきた映画文化が今後も生き延びるとしたら、観客の操作性は抑えられざるをえないのである。
 こうした〈受動的〉な映画文化が維持される場合、ヴィデオ化された未来の〈映画〉は、映像と観客との関係に劣らず、観客と観客との関係に意を用いなければならないだろう。単に映像を見るというだけならば、もはや「映画館」に行く必要はないはずだからである。
 今後、映像をいわばウォークマンのように極めて個人的なモニターで見る装置が普及することが考えられるし、映像そのものを脳に直接投影してしまう技術も生まれるかもしれない。そうした状況のもとでなおかつ〈映画館〉に行くとすれば、それは他者と映像を共同体験したいという意識なしには不可能であろう。こうして、超個人的な行為を可能にする技術の極地において、逆に共同性や集団性の問題が復権するのである。

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 日本の映画館で、今日、映画そのものよりもむしろ観客の反応の方がおもしろいというような経験をすることは非常に少ない。六〇年代に東映のやくざ映画が多くの観客を集めていたころ、高倉健や鶴田浩二そして藤純子や梶芽衣子に対する観客の反応はなかなかパッショネイトであった。映画が終わると彼らは、あたかも映画の主役の魂がのり移ったかのような身振りでロビーを歩き、映画館を出てくるのであった。
 こうした映画館文化は、今日では、わずかに新宿の「昭和館」などでときどき見られるにすぎない。名画座特有の雰囲気、新しいタイプの映画館で生まれつつあるヤッピー好みの雰囲気というものはないではないが、それらは、共同性というよりも孤立性や個人性が強く、全体として今日の日本の映画館には映画館文化が極めて希薄である。
 すでに『カラー・パープル』について述べたときに触れたが、ニューヨークの映画館の観客の反応は、依然として活発であり、映画館による違いを維持している。
 一九七八年にニューヨークのイースト・サイドの映画館で『fィア・ハンター?宸?見ていたとき、わたしは観客のあまりの熱気にそら恐ろしいものを感じた。とりわけ、捕虜のデ・ニーロらが例のロシアン・ルーレットのシーンの直後に反撃に転じ、「ヴェトコン」を全滅させたとき、場内には一斉に歓喜の叫び声がこだまし、わたしは、これではカーターのリベラル路線も長くは続かないなと思った。いずれにせよ、観客の反応の積極性は実に興味深いものであった。
 一九七九年にウォルター・ヒル監督の『ウォリアーズ』が封切られたとき、アメリカの各地の映画館で観客同士のあいだで乱闘さわぎが起こり、サンフランシスコで二人、ボストンで一人の若者が死んだ。わたしは、この映画をニューヨークのタイムズ・スクウェアの映画館で見たが、そのときはすでに全米で起こった乱闘さわぎのニュースのあとだったので、各映画館にピストルをもったガードマンが配置されており、この映画館でも警戒は厳しく、暴れる者はいなかった。しかし、若い観客の反応はストレートであり、二つのグループの乱闘シーンではしきりに場内から歓声があがった。
 こうした傾向は、現在でも変わっておらず、オリバー・ストーンの『サルバドル 遥かなる日々』をグリニッジ・ヴィレッジで見たときも、いまにして思えばこの監督が一年後に『プラトーン』で獲得する成功を観客たちは予知しているかのようであった。また、『未来世紀ブラジル』をやはりグリニッジ・ヴィレッジで見たとき、ポストモダンとモダンの位相を巧みに対置した映像に敏感に反応する観客を見ているだけでも、この映画のもつ新しさがひしひしと感じられた。
 おそらく、日本の映画館は、今後、こうした映画館文化を意識的に開発していかなければならないだろう。それには、都市の地域性がもっと強力にならなければ無理であり、そうした地域性は、結局はそこに住む人々の生活の集団的な固有性によって決まる以上、その語の本来の意味における《コミュニティ・オブ・インタレスト》の発展を必要とする。このことは、映画と都市の活性化とが同じ課題のなかに属しているということでもある。
[ディア・ハンター]前出[ウォリアーズ]監督=ウォルター・ヒル/脚本=ウォルター・ヒル、ソル・ユーリック/出演=マイケル・ベック、ジェイムズ・レマー他/79年米[サルバドル 遥かなる日々]前出[プラトーン]前出[未来世紀ブラジル]前出
◎88/12/ 7『日本映画の展望』(岩波書店)




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