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ラストエンペラー

 映画好きの書く最近の映画評には政治感覚や批判精神に欠けるものが目立つ。こんなことでよいのだろうか。
 一月二十九日付けの本欄(『東京新聞』大波小波欄)で幻視人氏は、ベルトルッチの映画『ラストエンペラー』に関して、「少しぐらいカットされても、あの映画の意味深長さは失われない」としていたが、これには大いに異論がある。
 あの問題は、映画の一シーンが映画全体のなかでもつ意味の問題などにはとどまりはしない。重要なのは、オリジナルに対する日本の映画配給の無神経な姿勢であり、ああした処置が表現の自由を損なってしまうということに対して会社が全く無知である点だ。
 第一、完成された作品を評価するのは観客なのだから、それを見るまえに教育ママみたいにおせっかいをやいて場面をカットしてしまうなんて、観客をナメている。
 たまたま今回は、政治的な内容のシーンだったので問題化したが、これまでにも性描写に関しては、とても「国際国」とは思われないメチャクチャな修正削除をやってきたのが日本の映画配給なのである。
 むろんこれには、日本の法的規制が大いに絡んでいることは言うまでもない。芸術映画でも平気でボカシを入れざるをえないので条件付きでしか「国際映画祭」を開けないのは、「自由主義圏」のなかでは日本だけなのである。
 このへんを改善せずに「国際化」を云々してもナンセンスではないかと思うのだが、いかがなものか。 (直視人)
前出◎88/ 2/ 4『東京新聞』




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