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作品・作家ベストテン

【作品ベストテン】
1『最後の晩餐』(マルコ・フェレーリ)
2『デスペレート・リビング』(ジョン・ウォーターズ)
3『ラブド・ワン』(トニー・リチャードソン)
4『スキャナーズ』(デイヴィッド・クロネンバーグ)
5『血を吸うカメラ』(マイケル・パウエル)
6『豚小屋』(ピエル・パオロ・パゾリーニ)
7『バスケットケース』(フランク・ヘネンロッター)
8『アンドロイド』(アーロン・リプシュタット)
9『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(ジョージ・A・ロメロ)
10『カメレオンマン』(ウディ・アレン)
【作家ベストテン】
1ジョン・ウォーターズ
2マルコ・フェレーリ
3デイヴィッド・クロネンバーグ
4ジョージ・A・ロメロ
5ピエル・パオロ・パゾリーニ
6ルイス・ブニュエル
7メル・ブルックス
8ウディ・アレン
9マーティン・スコセッシ
10ポール・シュレーダー

『最後の晩餐』(マルコ・フェレーリ)
 実生活でそれに慣れてしまっているせいか「ヘンタイ」という言葉の意味がよくつかめないのだが、「ヘンタイ映画」をこだわりの目立つ映画ぐらいに受けとって「ベスト・テン」を選んでみた。実験映画にはみなこだわりがあるから、全部「ヘンタイ映画」になってしまうので除外した。結局、商業映画で、比較的長くわたしを魅了している(あるいは魅了しうる)こだわりのある映画をあげることになった。
『最後の晩餐』は、一九七四年に東京で見て以来、機会があるごとに何度も見ている。最初はその「エキセントリック」な世界にほれこんだが、最近は、ここで描かれている世界の「自然さ」に魅かれている。
 四人の中年男たちがうまいものを無理矢理胃につめこんで、死んでいくのだが、そこには少しも悲壮さがない。マルチェロが少しヒステリックになるのを除くと、それがまるで自分の日常行動ででもあるかのように料理を黙々と口に入れていく。
 誰かが誰かに強制するわけではない。アンドレア・フェレオルが演ずる豊満な肉体の女性が性的に等しく四人とつきあうが、この集団のなかで「女王」役を演じているわけではない。すべてが「自然」なのだ。
 マルコ・フェレーリの映画では、男も女もみなエキセントリックだが、なぜか男は死に、女は生き残る。つまり、エクセントリシティが男にとっては孤立や死の要因であるのに対して、女にとっては、逆によりよき生と社会化の条件になるのである。
 エキセントリックであるということは、いくところまでいくことである。フェレーリは、ひょっとして、人間のエクセントリシティの究極は、「女になること」だと考えているのかもしれない。男は死ぬことによって女を生かすのである。
『スキャナーズ』(デイヴィッド・クロネンバーグ)
 デイヴィッド・クロネンバーグにとって、エクセントリシティの究極は、「電子的なもの」になることである。彼の映画の主人公は、電子的なものへの道を過激にのぼりつめる。その過激なエスカレイションは実に魅力的だ。
 エクセントリシティをささえるのは、何ものかへの過激な「変身」である。人間が他の人間に変わることはもはや過激ではない。動物や機械への変身ももはやめずらしくはないだろう。だから、ホラー映画は、肉塊や粘液への変容に執着するわけだ。
 クロネンバーグは、その際、電子的なものへの変身のなかにエキセントリックなドラマをみる。『スキャナーズ』のクライマックスで、主人公は電話線を通じて、端末装置もカップラーもなしにコンピューターのデーターベースにアクセスする。ここでは「超能力」とは自分をコンピューターにすることである。
「肉」や「リビドー」にではなく、電子的なものに最もリアリティを感じる者たちにとって、クロネンバーグの登場人物たちは、新しいヒーローとなる。
[最後の晩餐]前出[スキャナーズ]監督・脚本=デイヴィッド・クロネンバーグ/出演=スティーヴン・ラック、ジェニファー・オニール他/81年カナダ◎87/ 6/ 9『月刊イメージフォーラム』




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