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アンダー・ファイア/天使/田舎の日曜日/闇と沈黙の国

 フィルムによる写真と映画の時代は、確実に一つの山を越したように思われる。アートとしての写真を撮ろうとする者は、もはや何かを見せるために撮るのではない。写真は、もはや見られるためにあるのではなく、見ないということを可能にするメディアとしてある。そしてさらに、写真家は、写真を撮らないために撮るようになった。
 映画がそれ自身を否定しはじめたのは大分昔のことだが、最近では、それほど映画そのものの本質に意識的であるとは思えないような映画でも、映画のある種の否定を発見することができる。ごく最近見たという点でその手近な例では、ロジャー・スポッティスウッド監督の『アンダー・ファイア』がある。
 この映画は、サンディニスタ民族解放戦線FSLNによってソモサ政権が倒される一九七九年のニカラグア革命の数カ月間をあつかっているが、ニック・ノルティ演ずる写真家を主人公とするこの映画は、すべてを写真−−スチール写真(ただし『フォーカス』的な意味での)−−の角度から描いている。それは、わたしにとっては、ニカラグア革命の一端をアメリカ映画にしてはなかなかヴィヴィッドに描いている映画としてよりも、写真の陥っている今日的状況について考える素材として非常におもしろかった。
 最初のシーンは、一見してアフリカを思わせる草地のショットからはじまる。「アフリカ、チャド」というテロップ。人気のない草むらが動いて、自動小銃をもったゲリラ兵士がゆっくりと警戒しながら頭をもたげる。兵士が手で合図すると、あちこちの草むらからゲリラ兵士が姿を現わす。象に乗ったゲリラが目を引く。が、その瞬間、どこからともなく戦闘用のヘリコプターが一機、轟音をたてて近づき、無差別に機銃掃射をあびせはじめる。象は、驚きのあまり、前足を上げ、ゲリラ部隊は大混乱に陥る。象にのった兵士が、背中から落ちそうになりながらも、銃をヘリコプターに向けたとき、映画の画面は、一瞬シャッターの音とともにストップし、カラーが白黒に変わる。
 こうした技法自体は、何ら難しいものではないが、わたしは、このとき、映画やヴィデオ映像に対して写真がもっている特質というものが画像の静止−−つまりは焦点の明示−−にあることもあらためて直観したような気になった。
 むろん、映画におけるストップ・モーションとスチール写真における画像の静止とは決して同じではない。ストップ・モーションは、映画の動きのなかでは目立たないとしても、凝視してみれば、〈静止〉画像のなかで光の粉が踊っている。少し古いフィルムでは雨が降ったようになる。ヴィデオのスチール画像では画面が少し動いたり、チラついたりする。
 しかし、それにもかかわらず、映画やヴィデオがそれらの画像を静止させる−−つまりは動画としての自己を否定する−−ことによって映画としての動作を発揮するということは、映画が写真の独自性を再発見していることでもある。その意味では、かつてアンディ・ウォーホルが『エンパイア』でエンパイア・ステイツ・ビルディングを延々と映し出してみせた試みも、映画による写真の発見の試みとして受けとることができるだろう。
 ストップ・モーションは、もともと映画の技術であって、写真を発見させる技術ではない。それは、映像のなかのあるアクションやムーブメントを印象づける技法として使われることが多い。『アンダー・ファイア』の場合も、たびたび用いられるストップ・モーション・シーンは、スチール・カメラとカメラマンの存在を印象づけることを主要な目的にしている。しかし、この映画のおもしろさ(通常の映画的観点からするとそれは、逆に、この映画の欠点と映るかもしれないが)は、全体を写真の映画として見れる点だろう。この映画は、いわば静止的ショットの不連続性によって構成されている。
 この点では、パトリック・ボカノウスキー監督のフランス映画『天使』という過激な例があり、これは、音響も含めて文字通り徹底的に写真の技術で作られた映画であったが、『Aンダー・ファイア?宸ヘ、技術的には映画の技法を用いながら、そこに写真を感じさせてしまうのである。だから、動きやプロセスよりもある映像の一こまがスチール写真のような印象を残しやすい。たとえば、若いゲリラが友人の野球の選手を説きふせて教会の構内に出かけて行くシーンがある。そこの塔にはソモサの政府軍の傭兵がひそんでおり、彼らはこの敵を追いつめようとする。奇妙な静けさのなかで、ゲリラと傭兵とがねらい撃ちする弾の音が風を切る。が、その野球の選手は、手なれた様子で手榴弾を塔のなかに投げ込み、敵を倒す。このときに、この野球の選手の左手から手榴弾が離れ、塔に向かって飛んでゆくショットが、(このときはストップ・モーションは使われなかったにもかかわらず)、ある〈決定的瞬間〉を撮ったスチール写真のように脳裏に焼きつくのである。むろんそのシーンは動いているのだが、あたかも男の左手は止まり、ボールのような手榴弾も空中に静止しているように見えるのだ。
 動画と静止画像との本質的なちがいは、画像自体の内容的、質的ちがいである以前に、画像を撮る者と見る者−−とりわけ後者−−の姿勢のちがいである。動画は、向こう側が動き、こちら側は受動的になるというのは単純すぎる。たしかに、スピルバーグの『レイダース・失われたアーク《聖櫃》』(一九八一)以後の監督・プロデュース作品は、観客を一方的にある種の〈ドラッグ〉トリップにつれこむ。が、スチール写真でも、こちら側がアルコール+ドラッグを摂取しながら見ると、それは文字通り《動く》ことがある。つまり、映像が動くか静止しているかは、必ずしもハードウェアとしての画が動いているかどうかの問題ではなく、光に対する観客の姿勢の問題なのである。
 映画や写真のリアリティは、光に対するわれわれの日常的な関係との対比のなかでつくられる。その〈古典的〉なリアリティは、太陽光線とレンズとの中央集権的な光学思想にもとづいている。
 ベルトラン・タヴェルニエ監督のフランス映画『田舎の日曜日』(一九八四)は、まさにそのようなリアリティを再現することによって、それがもはや失われてしまったことを痛感させる作品である。一九一二年のパリ郊外と仮定されている場にラドミラルという一人の老人が住んでいる。すべての物語やキャラクター以前に、この場所が〈自然光〉に満ちていることが想像される。そこでは、太陽光線の独占体制があり、それをありのまま受けいれる儀式として撮影がある。レンズとは、その際、この独占と中央集権のみを伝えるメディアである。この映画では、事件らしい事件は何一つ起こらない。ある日曜日に、パリから息子一家と、それから娘が父親であるこの老人を訪ねてくる。老人は画家であり、そのアトリエは、フェルメールの描く絵の世界を思わせる。光はみずからたわむれ、もとあったように一点に集められる。ここでは、だから、すべてのディテールが絵ハガキのなかの出来事になる。
 この映画のなかで、ラドミラル氏は、息子にドガのジョークを話す。ドガは、あるとき、「カリエールの絵は少しボケている。モデルが動いたからだ」と言ったというのである。が、これは、ドガへの写真の影響を示唆するエピソードとして受けとる必要はない。写真撮影の際、被写体が動いてはならぬというのは、感光時間が長かった時代の写真に必然的なことではなく、光への独特の対応姿勢を語っているにすぎない。つまり光のたわむれを一点に集めやすくする一つの方法が動かないということだったからこそ、写真の被写体は静止に執着し、絵画は、静止を定着しようとしたのである。
 写真技術が〈進歩〉してフィルムの感光時間が凝縮され、シャッター・スピードがより速くなったとき、被写体はもはや長く静止する必要がなくなったが、それは、写真が静止という光学思想を放棄したからではなく、静止の技術が高度化したからである。レンズがあるかぎり、たとえ複数の光源を用いても、すべての光は太陽の〈子〉であり、それを一点に集約し、静止させるという発想が捨てられることはない。
 しかし、電子的な光学装置の出現は、こうした光学思想を根底から変えつつある。とりわけ光センサーの発達では、光を一点に集約するレンズとは全くちがう、光への対応を可能にする。光センサーは、レンズとは異なり、いわば眼のような点的な集約作用ではなく、皮膚のようなトポロジカルな作用をもつことが可能であり、また新しいヴィデオ・ディスプレイは、たとえ3D方式でも結局は一点に集約される中心をもつ映画のスクリーンとはちがって、多数のモジュール的な−−それぞれが自律した−−光場によってなりたっており、その一つ一つを分離して機能させることができる。つまり、電子的な光学世界では、光はもはや太陽を中心モデルとはしていないだけでなく、光を一点に集めるということも、もはや絶対的なことではなくなっているのである。ここでは、眼の特権は皮膚の特権に移行し、ちょうど光に反応する草や花と同じように、光への皮膚的な対応が可能になろうとしている。
 おそらく、映画や写真が、撮影の側においても、見る側においてもこれまでの姿勢を相対化する方向に急速に向かっているのは、こうした光の状況の変化のためであろう。とりわけ写真において、撮影者が撮ること自体をパフォーマンス化したり、ヴィデオやスライドへの関心を深めているのも、このことと関係がある。映画は写真の技術を借用し、また、その見方は、ヴィデオを用いたショットの詳細な分析にみられるように、非常に写真の見方に近づいている。
 これらは、ある意味で、レンズと太陽光線へのシニシズムであって、その集約主義そのものを越えることはできない。かつてヴェルナー・ヘルツォークは、『闇と沈黙の国』で極めて外面的ながらも盲人の世界に近づこうとした。そのなかで、一人の盲人が、盲人にとって闇だけが支配しているのではなく、色々な光が見えるのだと語っているシーンがあった。われわれは、眼=レンズによって集約され、色彩が明確に分節された世界をこれまで〈普通〉とみなしてきたが、もし、エレクトロニクスのテクノロジーが可能にする極めて皮膚的、場所的な光学世界が今後もっと発展されるならば、盲人の世界の方が、より〈自然の光〉に近いということになるかもしれない。
[アンダー・ファイア]監督=ロジャー・スポッティスウッド#/脚本=ロナルド・シェルトン/出演=ニック・ノルティ、ジーン・ハックマン他/83年米[天使]監督=パトリック・ボカノウスキー/出演=モーリス・バケ、ジャン・マリー・ボン他/82年仏[田舎の日曜日]監督=ベルトラン・タヴェルニエ/脚本=ベルトラン・タヴェルニエ、コウロ・タベルニエ他/出演=ルイ・デュクレー、ミシェル・オーモン他/84年仏[闇と沈黙の国]前出◎85/10/29『写真装置』




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