42

闇と沈黙の国/カスパー・ハウザーの謎

 ヴェルナー・ヘルツォーク回顧展で上映された『闇と沈黙の国』を見に行ったのは、この作品が彼の『カスパー・ハウザーの謎』の発端をなしているとどこかでふきこまれたからである。しかし、それは、『カスパー』以上にわたしを触発し、逆にいままでいだいていた『カスパー』へのイメージが変わってしまった。
『カスパー』をはじめて見たのは、一九七七年頃にニューヨークの名画座であったが、ブルーノ・Sの迫真的な演技に圧倒された。とくにカスパーが言語を習得し、はじめて言葉を口にするシーンにはスリルをおぼえた。しかし、その後、この映画のシーンを記憶のなかで何度も反芻するうちに、話がどうもうますぎるような気がしてきた。片田舎の秘密の牢獄のようなところから出されたとき、あたかも野生の動物のような身ぶりで現われたカスパーの身体は、われわれが行なっているような体の動きをすることができず、われわれの身体性がいかに後天的に制度化されたものであるかがよくわかった。『闇と沈黙の国』にも、ウラジーミールという肥満した盲聾の青年が出てくる。彼は、ほとんど教育されずに家で父親に育てられたので、部屋のなかを歩くことすらおぼつかない。食物を噛むことも知らず、口にくわえさせられた食物をそのままのみこんでしまう。他者とのコミュニケイションは、全く成立しないかにみえる。少なくとも、それが、何かの情報を交換するという意味だとしたらである。しかし、『闇と沈黙の国』で提示されているのは、現実の一断片であるのに対して、『カスパー』では、これがすべてだと言わんばかりにカスパーの〈秘密〉が提示されているようなところがある。
 失語症や失行症は、〈象徴的意識の障害〉であり、メルロ=ポンティによると、「失行症者は、ことに鏡に写った像に頼りながら(あるいは面と向かっている人の動作を真似ながら)対象に適応した運動をすることが困難である」(滝浦、木田訳「幼児の対人関係」『眼と精神』みすず書房)。失行症の患者においては、像と実物との関係が混乱しているわけだが、こうした能力は、ヴァロンによると、満一歳から決定的に発達すると言われるが、その時期に−−たとえば他者から全く切り離された生活をさせられたりすると、身体は人並みに成長し、運動麻痺や不随意筋の運動障害などがないにもかかわらず、〈ちゃんと〉歩くことができない。『カスパー』は、まさに、こうした症例を随所で見せてくれ、その意味では実におもしろいのだが、逆に考えると、こうした症例のデータをつなぎあわせてカスパー・ハウザーの生涯を再構築しているようなところが気になってくるのである。そうなると、この映画はアーサー・ペンの『奇跡の人』−−話はもっとメロドラマ的だが−−とあまりちがわないものになってくる。
 ペーター・ハントケは『カスパー』という作品で映画と同じテーマをあつかっているが、この舞台を七〇年にニューヨークで見た友人の話によると、それは、ヘルツォークの映画よりもメタフォリックな換起力の点ではるかに刺激的だったという。とくに、カスパーが言語の世界にはじめて入ってゆくプロセスが鋭く浮きぼりにされており、映画よりも言語哲学的であったらしい。映画でも、そういう面がなかったわけではないが、カスパーが言語と〈理性〉を習得するにつれて、彼がその〈汚れなき〉まなざしにうつるまま語り出す一言一句は、ゆがんだ現実を風刺的に異化することになり、言語哲学的というよりは、社会批判的トーンがこの映画の基調にあるように見えてくるのだった。
 スタンリー・カウフマンは、『わたしの目のまえで』(一九八〇)という映画批評集のなかで『カスパー』について、この映画の主題は、「カスパー・ハウザーの秘密」ではなくて、彼を牢から連れ出してニュールンベルクの街路に放置し、そしておそらくは彼を刺したと思われる謎の男の「秘密」であると、いささか皮肉をこめて言っている。「あの男は誰だったのか?」、「なぜカスパーを幽閉したのか?」、「なぜその男は、カスパーを解放し、世のなかでやってゆく方法を教えたのか?」、そして「そのあとでなぜ彼は、もどってきてカスパーをなぐり、それから殺害したのか?」たしかにこうした問いが、この映画を見おわったあとに残る。そうだとしたら、この映画は、『闇と沈黙の国』との一貫した関連で、つまり言語論的な関心から見られるよりも、一つのミステリーとして見られた方がおもしろいかもしれない。もう一度見る機会ができたときには、そういう観点から見なおしてみたいものである。
 ヘルツォークは、岩淵達治氏とのインタヴュー(『月刊イメージフォーラム』一九八三年七月号所収)などを読むと、映画のなかにあらかじめ仕掛をひそませ、それが観客によって暴かれるのを黙って待つタイプではなく、自分の製作意図も、たずねられればどんどんしゃべってしまうタイプの人のようだが、そうした誠実さとデカルト的な〈透明な意識〉にもとづく作品でも、そこには、彼の予期しない地平的な部分が含まれているはずで、そうした部分を思いっきり拡大してゆくと、『カスパー』から別のストーリーと別のテーマがたち現われてくることもなきにしもあらずである。
 ハントケの『カスパー』に、ヴィトゲンシュタインの言語論の影響をみる者もいるが、その意味では、?嚠ナと沈黙の国?宸フなかにも多くのヴィトゲンシュタイン的テーマを見出すことができる。
 この映画は、五十六歳の盲聾の女性フィニィ・シュトラウビンガーの〈目〉から描かれているような体裁ではじまる。タイトルとともに見えるぼんやりとした畦道は、彼女がまだ目の見える子供のころに見た情景の再現である。黒緑色の画面も、視覚障害を当人の意識の側から指示しようとする操作である。この女性は、自ら語るところによると、子供のころはとてもお転婆で、いつも元気よくかけまわり、母親を困らせていたが、あるとき階段から落ち、頭をひどくうちつけた。そのことを母親にはだまっていたが、次第に目が見えなくなり、また耳もきこえなくなり、医者にかかったときには手おくれだったという。
 が、そうだとすると、この映画が彼女の〈目〉から描かれるということは不可能である。彼女は、映画の世界を想像する以外にそれを知覚するすべがない。彼女は話すことができるが、聞くことはできない。手の平に相手が指で点と線をつくる筆話を通じて他人とコミュニケイトする。それ以外のコミュニケイションは、抱擁やキスのような、いずれにしても触感覚的な方法で行なわれるしかない。映画の最初の方に、全然口のきけない盲聾者をまじえて、自分たちの生いたちやその思うところを〈語り〉あうシーンがあるが、それらの〈会話〉の媒体は筆話における手と手との直接的な触れあいである。
 そうだとすると、われわれが画面のなかに見ているものは、フィニィ・シュトラウビンガーの意識世界というよりも、映画とわれわれが共犯的に構成している世界であるにすぎない。しかも、この映画に登場する人物は、ほとんどすべてそのような障害者であり、映画は、フィニィが、バイエルン盲人連盟の依頼を受けて、各地の障害者たちを訪ねて歩くのを追う。彼女は、行く先々でコミュニケイションの困難に出会う。前述のウラジーミールもそうだが、まちがって精神病院に長く入れられていたため、他人と話すことをしなくなってしまった四十八歳の女性エルゼ・フェーラーは、フィニィがどんなにコミュニケイトの努力をしても、とうとう反応を示さない。生まれつきの聾者だが、三十五歳までは目が見えた五十一歳の男は、長年家畜小屋で家畜といっしょに生活させられてきた。彼にとっては、人間よりも木々や動物の方が親しみのある世界に属しているらしい。フィニィは、この男ともコミュニケイトすることに成功しない。
 フィニィには、われわれ〈正常者〉にコミュニケイトすることのできる言語がある。彼女の話によると、聾者の世界は決して沈黙の世界ではなく、たえず何かの音がきこえているのだという。ときには砂の流れるような音であり、ガンガン何かがなりひびくこともある。また、盲者の世界も、完全な闇ではなく、黒、白、緑、黄といったさまざまな色が見えており、「盲目は暗い流れのようなものだ」と彼女は表現する。
 それゆえ、この映画は、奇妙に重層した空間を共有させることになる。それは、実のところ誰一人として、同一なものを確固と共有していると信ずることはできないような空間であり、それぞれの人々がそれなりの身体を世界に投げ出すことによって共有しているような空間である。従って、それは、あなたやわたしが、その共有空間への自己投企を中断したり、放棄したりすれば、それはただちにくずれ去ってしまうはずである。
 ヴィトゲンシュタインが、?囀N学探求?寉G藤本・坂井訳『論理哲学論考』A法政大学出版局)で問うている問題は、究極的にこの問題につながっている。彼は、その章節のなかで次のように言っている。
「他人はわたしの痛みを、わたしの振舞いを通してのみ学ぶ、などということはできない。−−なぜなら、わたしが痛みを学んだなどと、わたしについていうことはできないからである。わたしは痛みを感じているのである。
 わたしが痛みを感じているかどうかについて他人が疑いをもっている、と他人について語ることには意味がある。それは正しい。しかし、それをわたし自身についていうことは、正しくない」(二四六)
 痛みは、わたしが感じるしかないものであり、他人はそれを推察することができるだけである。言語とは、こうしたわたしの痛みに貼られたレッテルにすぎず、それは一つのゲームである。「語の意味とは、言語の中におけるその用法である」(四三)から、「言語ゲーム」の規則が変われば、同じ言語が別の意味をもつ。「異なった教育が行なわれれば、これらのコトバの直示的教示が同じであっても、まったく異なった理解を惹起するであろう」(六)。
 ヴィトゲンシュタインは、従って、アウグスティヌスを批判しながら、彼は、「子供はすでに考えることができるが、まだしゃべれないだけだといわんばかりなのである。ところが、〈考える〉ということは、この場合、自分自身に向かってしゃべるといったことなのである」(三二)と言っているが、これは、『カスパー』と『闇と沈黙の国』に登場する人々のコミュニケイション問題を明らかにしてくれる。「言語を教えるということは、それを説明することではなくて、訓練するということである」(五)ということは、『闇と沈黙の国』のなかで、聾者で全盲に近い妹と盲目で全聾に近い兄との二人の子供に言語を教えている専門学校のシーンが、ずばり示している。その教師の一人は、「概念というものをつかんだら、それは盲聾者の精神的な誕生を意味します」と語るが、「しかし彼らが〈名誉心〉とか〈希望〉とか〈幸福〉とかいう言葉に対して、どんなイメージをいだいているのかは、本当のところはわれわれにはわからない」。
 しかし、ここで考えなければならないことは、こうした〈わからなさ〉は、もしコミュニケイション手段ないしはメディア・テクノロジーが改善されさえすれば、解決されるようなものではなく、むしろ、コミュニケイションそのものの特質であり、逆にそうした不可能性によって、コミュニケイションの一回性や固有性が保証されるという点である。ヴィトゲンシュタインは次のように書いている。
「私的な体験に関する本質的な事柄は、実は、各人が自分独特の標本をもっているということなのではなくて、他人もこれをもっているのか、あるいは何か別のものをもっているのか、を誰も知らないということである。それゆえ、一部の人間はある赤さの感覚をもっているが、他の人間は違った赤さの感覚をもっていると仮定することが−−検証不可能ではあるけれども−−可能であろう」(二七二)。
『闇と沈黙の国』は、障害者の世界をいままでにないやり方で描いてみせたというよりも、ふだんはなかなか接することのできない多様なコミュニケイションの場にわれわれをひきいれるという点で、わたしには刺激的だった。ヘルツォークは、前述のインタヴューのなかで、「私の主要テーマというのは、人間像を描くのはもちろんですが、これまで未だかつていかなる映画も描き出さなかったような新しい映像の文法を自分でつくってゆくと言い換えられるかもしれない」と言っているが、〈映像の文法〉とは、映画の単なるスタイルではなく、フィルムに対するわれわれ全体のかかわり方だとすれば、『闇と沈黙の国』はたしかに一つの〈文法〉をつくり出すことに成功した。この映画の世界は〈正常者〉の観客が自分の目に見える世界を信じ、道案内役のフィニィ・シュトラウビンガーの話をありのまま信ずることによって成立するわけだが、そうした前提は、何かヒューマニズムとか宗教的信念によって基礎づけられているのではなくて、ヘルツォークがこの世界をつくり、観客がこの世界として見るという純粋に映画的な信憑によって維持されるのである。
[闇と沈黙の国]監督・脚本=ヴェルナー・ヘルツォーク/出演=フィニィ・シュトラウビンガー他/71年西独[カスパー・ハウザーの謎]監督・脚本=ヴェルナー・ヘルツォーク/出演=ブルーノ・S、バルター・ラーデンガスト他/75年西独◎83/11/16『映画芸術』




次ページ        シネマ・ポリティカ