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鉛の時代

 マルガレーテ・フォン・トロッタの『鉛の時代』(欧日協会配給)をみておもしろいと思ったのは、ここでは一九七〇年代流の闘争へのクールな反省とともに、わずかながら新しい闘いの方向が示唆されているように感じられたことだった。
 西ドイツの国家権力は、『西ドイツ「過激派」通信』(田畑書店)でも開示されているように、完璧なまでに民衆の造反的エネルギーをそのコントロール下に置く諸制度を拡充させた。そうした〈合理化〉は、日常生活のなかだけでなく、刑務所のなかにまで及び、この映画にも、ウルリーケ・マインホーフやアンドレアス・バーダーらの活動家たちが不可解な死をとげる刑務所とおそらく同程度のものと思われる刑務所設備が出てくる。そこでは、つねにエレクトロニクスの監視装置がセットされており、面会室には面会人と獄中者とのあいだにぶ厚い防弾・防音のガラスがあり、面会人と獄中者が手を触れあうこともできないばかりか、両者の声はマイクとスピーカーを通じてしか伝えあうことができない。まさに、ここでは、メディアは人と人とを近づけるための媒介としてではなくて、オーラルなレベルを抹殺し、人と人とを遠ざけ、たがいに相手を孤立させるための暴力装置として使われているわけである。
〈外界〉への唯一の窓口である面会すらもこのようにエレクトロニクスとメカニクスの壁で絶縁されてしまった獄中者が、正常な意識と身体を保持することは至難のわざであろう。そうした獄舎は、原始的な暴力を少しも使わずに獄中者を〈自発的〉な死に向かわせることすらできるかもしれない。ちなみに、こうした現実は、何も西ドイツだけで起きていることではなく、この日本でもすでに制度化されている現実である。「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃粉砕控訴審をたたかう支援連絡会議ニュース」(第八号)で片岡利明氏が書いているように、「第二種独居房」と呼ばれる独房には、わずかにある窓に穴あき鉄板がとりつけられていて風通しがわるいうえに、自殺を防止するという名目で、水道の蛇口のかわりに押ボタンとビニールホースだけが壁から突き出ているというように、あらゆる突起物が撤廃されているという。また、こうした独房の半数には天井にテレビカメラが付いており、二十四時間監視体制がしかれている。片岡氏によると、「死刑囚や、死刑になる可能性がある(と当局がみなしている)者は、現在すべてこの自殺房にぶちこまれる」というが、そうだとすれば、これはまさに「獄中者を肉体的、精神的に痛めつけ、かえって自殺(生きることへの絶望)を促進する弾圧装置」であり、「自殺促進房」以外の何ものでもないだろう。
『鉛の時代』は、こうした合法化された国家暴力の摘発にのみ重点を置いているわけではない。むろん、そうした暴力の摘発と批判は、この映画が行なっている以上に厳しく行なわれなければならないし、国家には国家の病いとしての犯罪を治療する義務こそあれ、それに復讐する権利なぞ全くないということが、もっともっと明確にされねばなるまい。とはいえ、国家の権力独占が全体化している今日では、こうして暴露された国家暴力に対して銃や爆弾をもって対抗することは不十分であり、多くの場合無力であり、国家が民衆のあらゆる造反的手段を一層独占するチャンスをつくってしまう。
『鉛の時代』の主役ユリアンネ(ユタ・ランペ)が到達するのも、そうした苛酷な現実の認識であり、そのようなリアルな認識のうえに立った長期的な闘争の決意である。
 ユリアンネとマリアンネは、ともに強い社会意識の持主だが、二人が社会に介入するやり方は少なからずちがっていた。映画は、市民主義的なジャーナリストであるユリアンネの眼で、武装闘争に身を投じ逮捕されるマリアンネの姿勢を批判的にとらえる。深夜、ユリアンネとその恋人が眠っているアパートに突然訪れて勝手なふるまいをする妹。彼女の姿勢には、彼女が社会変革の決意を強めれば強めるほどナルシシズム的な甘えと空想が目立ってくる。彼女は、自分が世界人民の解放のための危険な闘争に挺身しているのだから、自分のまわりの者はそれに協力するのがあたりまえだと思っている。
 その意味では、ユリアンネは終始マリアンネに対して批判的であり、彼女が〈自殺〉しなかったとしたら、市民社会の秩序を信じ、武装闘争に対しては恐怖心のみをいだくただの市民主義者で終わっていただろう。そのようなユリアンネを変えたものは、面会に行って目撃したマリアンネの刑務所での姿であり、ひきつづき起こる彼女の〈自殺〉であった。 とはいえ、ここで彼女は、市民社会に絶望したアメリカ映画の主人公がよくやるように、ふたたび銃や爆弾をにぎって体制に刃向かうわけではない。それは、妹が陥った国家の暴力メカニズムの罠にはまることにすぎない。国家は爆弾や銃を独占しているだけでなく、それらの社会的効果をいかようにも変調できるマス・メディアの装置をも独占している。このことについては、ジャーナリズムで働くユリアンネにはわかりすぎるほどわかっている。ではどうするのか?
 それは、むろん、明示されているわけではないが、マリアンネの死のからくりを独力で調査し、つまりは市民社会的論理をせい一杯駆使して権力と闘おうとして失敗するユリアンネと、「テロリストの息子」として心なき右翼主義者に私刑にされかかり大やけどをおったマリアンネの遺児とのあいだで、映画の終末部ではじまるある新たな連帯−−ここには、テロリズムと市民主義を越える何かがある、とわたしには思われる。七〇年代に殺されたものは、九〇年代にもっと別の形で生きかえるだろう。

監督・脚本=マルガレーテ・フォン・トロッタ/出演=ユタ・ランペ、バルバラ・ズコバ他/81年西独◎83/ 1/ 8『月刊イメージフォーラム』




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