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マニアック/ミッシング

「わが批評のルーツ、嫌悪と愛情はどこから来るか?」というのは、わたしにとってはなかなか挑発的なテーマだ。というのも、わたしはこれまで、批評に〈ルーツ〉などというものはない、批評と好き嫌いとは関係がないという方向で批評活動を行なってきたからである。
 批評とは、わたしがそれを〈書く〉というレベルで行なうかぎりにおいて、記号の差異の分析と暴露であらざるをえず、評者〈個人〉と言われるようなものの嫌悪や愛情の吐露ではありえない。嫌悪や愛情が何か批評的な機能をもつとすれば、それはパロール(たとえば面談)の次元においてであって、それがそのままエクリチュールのレベルに移行できると思うのは幻想であろう。言語や映像を用いた表現においては、いまこの文章を記している当の〈主体〉を指して言うような〈わたし〉の心理的・生理的状態が〈ありのまま〉に現われることはないのであって、ある文章がその〈作者〉自身の心理的・生理的な表出だと思うのは錯覚でしかないのである。
 言語や映像は記号であるから、そこでどんなに〈極私的〉にみえることが表現されているとしても、それはすでに社会化されているのであり、そうした記号が読者や観客に与える心理的・生理的効果は、まえもっていかようにも操作可能なのであり、〈作者〉と〈読者/観客〉とが無媒介的に結びつくなどということはありえない。従って、〈わたし〉がある文章や映像を〈嫌う〉だとか〈好き〉だとか書くとしても、〈わたし〉が本当にそう感じたとはかぎらないわけであり、そこに何らかのたくらみが仕組まれている場合もないわけではなく、それを読者や観客が心理や生理のレベルで受けとって済ませるわけにはゆかないのである。
 文学や映画にかぎらず、批評文の世界には、書き手の好き嫌いを書くことが批評であるとするきらいもないではないが、問題は、そうした好き嫌いを述べる〈わたし〉とは誰かである。〈わたし〉と書くとき、この〈わたし〉は社会化されているのだから、それは誰に対しても開かれているのでなければ自己矛盾である。ところが、好きだとか嫌いだとかいうことは、きわめて恣意的かつイデオシンクラティックなことであるから、それを一般化し、批評の〈ルーツ〉にしてしまうと、社会化されているはずの〈わたし〉を極度に特殊な社会性のなかにとじこめたり、権威主義化してしまったりすることになる。
 むろん、「わたしは好きだ」と書くのは自由である。しかし、批評的意識からすると、そう書いた次の瞬間のわたしが依然その状態のままにあるのかを疑わずにはいられない。もしそれが未来永却にわたってそのまま(つまり〈求[ツ〉jだとしたら、そのわたしは生きたわたしではないであろう。それは物のような存在にすぎなくなる。逆にそれが瞬間的なものだとしたら、読む方としては「ああ、そう」と反応するしかあるまい。
 一例を示そう。『ナイトホークス』や『アパッチ砦ブロンクス』でイタリアなまりのアクの強い刑事を演じていたジョー・スピネルが自作自演している『マニアック』の試写をみていると、ちょっと血なまぐさいシーンで二人の観客が席を立った。それは、スピネルが演じるマザコンの男が、愛しているマネキン人形の頭に新鮮な生身の頭髪をかぶせてやるために、ニューヨークの安ホテルで売春婦を殺し、その頭髪を額から切り取るシーンなのだが、明らかにその二人はこのシーンに嫌悪感をいだいたらしかった。この映画は、アメリカでもゲテものあつかいされたようだが、こうしたシーンに対する嫌悪感をもってこの映画を批評するというのであれば、それは批評以前の問題だろう。今日では、心理的・生理的な状態は、たった一ミリグラムの薬品によってほとんど自由に左右できるのだから、ある映像表現が観客の心理や生理に生ま生ましい反応を与えたとしても、それをもって〈現実〉のリアルな〈再現〉だとするわけにはゆかないし、そういう再現の美学にしがみついても批評にはならない。もし、心理的・生理的な嫌悪感や愛情を問題にするのならば、問われるべきは、それらをつくり出す装置の仕組みでありプロセスである。その意味では、『マニアック』は、一見再現の美学にどっぷりつかって悪趣味な世界を〈再現〉しているかにみえながら、その実、マネキン人形に執着する主人公の倒錯的世界と〈グラン・ギニョール的映像〉とによって観客をむしろ差異の美学の方へ誘うのである。が、そのような美学を露呈させるためには、たとえ嘔吐をもよおしてもその場にいあわせ、その嘔吐しかたを検証しなければならないし、また極度の快感におそわれても忘我状態に身をまかせてすますわけにはゆかない。少なくとも、それでは批評ははじまらないのである。
 もう一つの例は、コスタ・ガブラスがはじめてアメリカ資本(プロデューサーは、アンジェラ・デイヴィスをあつかった『ブラザース』のエドワード・ルイス)でつくった『ミッシング』である。この映画は、アメリカのジャーナリストがチリのクーデターにまきこまれ行方不明になり、その父親と妻が彼を捜索するなかで浮かびあがってくる権力の不条理を描いているのだが、事実にもとづいているこの映画に不快感をいだいた人々が少なからずいたらしい。まず、アメリカ国務省は、プレビューの前日に、三ページの白書を発行し、この映画が示唆しているチリ・クーデターへのアメリカ政府の介入が事実無根であることを主張した。また、新右翼のリーダー格をつとめるアーヴィング・クリストルは、この映画を賞讚した『ウォール・ストリート・ジャーナル』のジェイコブ・ティマーマンを非難して、「ティマーマンを擁護する者は、左翼およびリベラル左翼によって開始されたプロパガンダ・キャンペーンに加担するものだ」と嫌悪感をむき出しにした。
 こうした嫌悪感が、『ミッシング』の批評の直接の規準にはならないことは、今日情報公開の自由化によって入手可能になった「国務省秘密メモ」などから、米政府のチリ・クーデターへの介入やこの映画で問題になるジャーナリスト、チャールズ・ホーマンは、「知りすぎた」ために殺されたことが裏付けられているという事実からも明らかで、むしろ、あたりまえのことを言っているにすぎないこの映画に対してそうした反感が生じたことは、『ワシントン・ポスト』のミーガン・ローゼンフェルトが言っているように、「アメリカの役人たちが、無実の人たちに向かって気まぐれに鉄砲を乱射する外国の狂人たちと結託できるかどうかを信ずるにせよ、そうではないにせよ、(エル・サルヴァドルやラテン・アメリカで)古い分割路線が復活している」ことの指標である。
 わたし自身の心理的・生理的反応について言えば、この映画は、当面、かなりの心理的・生理的快感を与えた。冒頭のタイトル・バックで、子供たちが路上でサッカーに興じているショットに、いきなり反政府軍の兵士たちののったトラックの姿がみえ、子供たちが追い散らされるさりげない−−しかし重大事が起こったことを告げているシーン。友人の車でホテルへもどろうとしているチャールズ・ホーマンが街で目撃する緊迫した情景。少なくとも、父親役のジャック・レモンが登場するまでの街頭シーンは、クーデターや暴動シーンを撮らせるとコスタ・ガブラスはさすがだなという気持をいだかせたと言うことができる。
 しかし、こうした印象にひたりながら、わたしは他方ではすでに、〈まてよ〉という気持をいだきはじめている。以前にみた『Z』や『戒厳令』にくらべると、『ミッシング』の諸々のショット、街頭シーンは、あまりに破綻がなさすぎるじゃないか。『Z』や『戒厳令』の映像は、はるかに未成熟で荒けずりだったが、まさにそのことが、映画に観客が安易にのめりこみ、あたかもわれわれがクーデターや事件の現場にいあわせているかのような錯覚に陥ることをふせぎ、観客を自分自身の現実に直面する動機を与えたものだった。
 こう考えてくると、いままでの心理的・生理的〈感動〉がたちまち色あせてくるが、批評的意識がとてつもない反応をはじめるのは、まさにここから以後なのである。
[マニアック]監督=ウィリアム・ルスティーグ/出演=キャロライン・マンロー、ジョー・スピルネ他/81米[ミッシング]監督=コスタ・ガブラス/脚本=コスタ・ガブラス、ドナルド・スチュアート/出演=ジャック・レモン、シシー・スペセイク他/82米◎82/ 7/12『映画芸術』




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