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エレファント・マン
映画をその一貫した筋書からではなく、その〈補助的〉な背景の方からみるというのは邪道かもしれないが、デイヴィッド・リンチ演出の映画『エレファント・マン』(東和配給)にちらりと出てくる一八八〇年代のロンドンの裏街の見世物小屋のシーンは、それがどの程度歴史事実に忠実なのかはわからないが、この映画の筋書をこえてさまざまなことを考えさせるインデックスとしてなかなか刺激的だった。
桑野隆『民衆文化の記号学』(東海大学出版会)によると、東ヨーロッパの場合、「見世物小屋は二〇年代初頭には姿を消し、民衆演劇もまれになってゆく」そうだが、こうした見世物小屋の衰退の端初は、イギリスの場合、一八八〇年代−−つまりマルクスの最晩年−−にすでにめばえていたようだ。むろん、この時点では〈衰退〉といってもそれは、一八五〇年代−−つまりディッケンズ文学はなやかなりし頃−−以前の見世物小屋と比較した話であって、第一次世界大戦以降、別の形態の大衆娯楽の出現によって駆逐され、まさに広末保の言う〈悪場所〉的な衝撃力を失ったところのものとくらべれば、それは依然そうした力を失ってはいなかった。が、それがすでにこの時点で一つの危機に直面していたことは、この映画のショットからも読みとれるのである。
〈エレファント・マン〉というのは、頭部が生まれつき象のようにふくれた〈奇形〉になっている実在の人物ジョン・メリック(?〜一八九〇)につけられたあだ名だが、この人物は、一八八三年にロンドン大学の医師フレデリック・トリーヴスによって発見されるまで、〈フリークス〉(奇形人間)の見世物芸人として、幼少の頃からイギリスや西ヨーロッパの諸都市を興行師といっしょに旅してまわったらしい。当時のヨーロッパでは、こうした大道芸人がいわばサービス産業の労働者として想像以上に劣悪な非人間的条件の下で働いていた。当時のロンドンの最下層階級の生活を独力で調査し、『ロンドンの労働とロンドンの貧民』全四巻(一八五一〜六二)を書いたヘンリー・メイヒューは、その中でこうした貧民をstreet-folk と呼び、それを〈街頭の物売り〉、〈廃品回収業者〉、〈拾い屋〉、〈大道芸人〉、〈街頭職人〉、〈街頭労働者〉の六つに分類しているが、そのうちの〈大道芸人〉には「人形芝居、軽業・曲芸、猿芝居、鳥や鼠つかい、道化師のほか、大男や一寸法師、白子や豚面女・六本足の馬とか二頭の豚といった人間や動物の見世物、のぞきめがねや運勢占いにいたるさまざまなものがあった」(角山栄「庶民生活の哀歓、『生活の世界歴史10』、河出書房新社所収)
が、映画で、〈エレファント・マン〉の小屋が警察にチェックされ、興行師が警官に「これはフリークですぜ」と言うと、警官から「これはひどすぎる」と言われて営業停止処分を受けるシーンがあるように、時代も一八五〇年代以降になると、見世物でもあまりに〈醜悪〉なものや〈残酷〉なものは法律で禁じられる傾向が出てきた。言いかえれば、見世物小屋への公権力の介入とコントロールがはじまったのである。
これは、映画でもみられるように、一面で家畜同然の生活を強いられてきたフリークたちにとっては〈人道主義〉の恩恵に浴する機会が到来したことのように見えるが、他面においてここには、当時大いなる危機に直面していたイギリス資本主義の〈文化操作〉が隠されてもいた。いうまでもなく、当時のイギリスは、大不況に直面していたにもかかわらず(否、それゆえに)工業化社会への道を驀進しつづけ、それにともなう−−すでにエンゲルスが『イギリス労働者階級の状態』(一八四五)のなかで観察していたような−−諸矛盾が、社会や文化のあらゆる局面でひきつづき顕在化しつつあったが、社会の底辺のレベルでは、工業への偏重から来る都市への過剰な人口流入・それに対応する農村の疲弊、都市のスラム化・病気の蔓延・犯罪の激増はますます為政者の悩みの種となっていた。が、こうした社会的諸矛盾の解決は、農業資本主義から工業資本主義へ−−つまりは前近代的なものの一次元的合理化へむかって−−つきすすむロジックのなかにはもともと含まれてはいないものであって、それゆえこの矛盾は、このロジックを徹底的に変革することによって解決するか、あるいは〈精神〉という名のよろず〈解決〉箱のなかでうやむやにされるしかないのである。現実には、イギリスの支配体制は、前者への諸々の対抗勢力をふりきり、あともどりがきかない支配体制の御多分にもれず、後者の道をとることになる。すなわち、サミュエル・スマイルズの『自助論』(一八五九)が啓蒙しているような勤勉、貯蓄、節約、真面目等を強調する精神主義や、所詮は自分たちの利害のことしか頭にないのに、そうした無意識的・意識的欲望をおおいかくすための〈人道主義〉、国家を家庭という単位の方から強化することを含意としてもつ福音主義、といった観念論的キャンペーンによって−−観念的にではなく現に物質的に存在する諸矛盾を単に意識のレベルで〈解決〉する(つまりはうやむやにする)ことになるのである。
こうしたキャンペーンのうち、具体的には大衆娯楽のレベルで推進されたものを見のがすことはできない。ピューリタニズムは、怠惰をいましめ、娯楽を怠惰とみなすイデオロギーを宣伝するのにあくことがなかった。それは、〈時は金〉でもなく、〈怠惰〉が善で〈勤勉〉が悪であったわけでもない前近代の労働倫理を工業資本主義にみあったものにするためのキャンペーンであった。福音主義もまた、伝統的な娯楽の形態をいましめ、戸外で集団を組む祝祭的な娯楽よりも家庭内でのつましい団欒をよしとするイデオロギーをふりまいた。これは、一種の家族再編成のキャンペーンである。さらに、〈人道主義〉のキャンペーンは、闘牛、闘犬、闘鶏のような見世物は動物を虐待するものとして法律的に禁じる方向で動き、フリークスの見世物も当局によって取締りを受けるようになる。ちなみに、この時代はすでに、〈王立動物虐待防止協会〉G一八二四)、〈ョ物愛護協会〉(一八三二)などの民間団体がいくつも創立されていたし、〈動物の虐待に関する法律〉(一八三五)も制定されていた。
〈エレファント・マン〉個人との関連で言えば、このあたりの事情については映画よりも、〈エレファント・マン〉ことジョン・メリックをひろいあげた医師フレデリック・トリーヴスによる回想記『エレファント・マンおよびその他の思い出』(一九二三)−−これが映画のストーリーの原型をなす−−の方がより正確な記述を与えている。映画では、元の興行師が病院に保護されていたジョン・メリックをある夜、どさくさにまぎれてつれ出し、ブラッセルでふたたびフリークの見世物の舞台に立たせるのだが、すでに身も心も〈文明〉のめぐみにそまってしまった〈エレファント・マン〉はもはやそのような芸を続ける体力も気力もなく、結局、腹を立てた興行師にさんざん痛めつけられて捨てられるということになっている。が、トリーヴスの回想記によると、興行師がメリックを手ばなしたのは、メリック自身の事情によるよりも、むしろこの種の見世物に対する公権力の取締りがきびしくなり、それ以上興行が続けられなくなったからであった。
「興行師は、絶望してブラッセルにのがれた。が、その受け入れは彼をがっかりさせるものであった。ブラッセルの取締りはきびしくその見世物は禁止された。それは残酷で卑猥で不道徳であり、ベルギーの国内では許可されなかったのである。そのためメリックにはもはや一文の値打もなかった。彼は追いはらわれるしかなかったわけだ。興行師は、メリックのわずかなたくわえをうばいとってのちロンドン行の切符を与えて列車にのせた」。
トリーヴスの回想記では、ロンドンに出たメリックは、その異様な風体のためにたちまち衆人環視の的になり、やじうまにとりまかれているのを警官に保護され、たまたま彼がもっていたトリーヴスの名刺からロンドン病院に連絡が入り、ここではじめてトリーヴスと二年ぶりに再会することになる。これは〈劇的な再会〉だったとトリーヴスは書いている。というのも、彼が二年まえにこの〈エレファント・マン〉に会ったのは、医学の研究材料としてその身体を調べるためであって、興行師から彼をかりうけたあとでふたたび彼に会うことなど考えていなかったし、まして彼を保護するつもりは特になかったからである。映画はこのあたりの時間的順序をずらせ、脚色をくわえ、トリーヴスはメリックを一目みたときから彼をあわれに思い、この再会以前にすでに彼を病院で保護し、メリックの名もこの再会以前に世に知られていたことにしている。いずれにしても、トリーヴスの回想ではこの再会後はじめて−−映画ではこの再会後ますます−−ジョン・メリックはトリーヴスをはじめとする病院側の手あつい保護をうけ、ついにはヴィクトリア女王の特命によって病院内に永住することを許される。
このことは、一見、偶然的な出来事のようにみえるが、よく考えてみると、それは決して偶然ではない。というのも、当時推進されつつあった前述の〈文化的〉キャンペーンからすれば、まさにメリックのような人物を〈救済〉することは、支配体制のタテマエとしての〈l道主義〉を宣伝するうえでこのうえなく役に立つと考えられるからである。第一、メリックのようなめぐまれない人物は当時いくらでもいたはずで、普通では、ロンドン病院の理事長からヴィクトリア女王までが援助の手をさしのべて彼に中流階級なみの生活をおくらせるなどということは考えられないのである。言いかえれば〈エレファント・マン〉は、支配体制による福祉政策の貧しさを観念的におぎなう政治ショウのアンチ・ヒーローでしかなかったのである。
〈エレファント・マン〉の〈救済〉がいかに組織的かつ政策的なものであったかは、映画ではメリックのことを新聞で読み、どうしても会いたくなって病院を訪れる有名女優、ケンドール夫人が、その実(トリーヴスの回想によると)、決して彼女の自由意志でそうしたのではなく、トリーヴスの依頼でそうしたのだという点にも表われている。トリーヴスは次のように書いている。
「わたしは、わたしの友人で若くて美しい未亡人に、メリックの部屋に笑顔で入ってゆき、おはようを言い握手をしてくれるだろうかとたずねた。彼女は、やってみましょうと言い、そうしたのだった。彼女が彼の手を握ったとき、彼は頭をひざにうずめ、しゃくりあげ、決して泣きやむことがないと思われるくらい泣きつづけた。対面はおわった。彼があとでいうには、彼女は自分に笑いかけてくれた最初の女性であり、生涯のうちではじめて自分に握手してくれた女性であった。この日からメリックの変化がはじまり、乱調をきたした物から人間へと少しずつ変わっていった。それは証言するに価するすばらしい変化であり、わたしを魅了することを決してやめることのない変化であった」
むろんここには、ながいあいだ抑圧されて人並の社会から疎外されてきた人物が、たとえ操作的であれ、〈愛情〉のこもった身ぶりによってその疎外から解放されてゆく感動的な側面がないわけではない。が、問題は、この見事な精神療法が、やがて彼をマス・コミと上流社会の寵児にしてしまう先がけとなっている点だ。もし、彼を有名にすることでなく、社会復帰させることが本来の目的だったなら、彼に〈愛情〉療法をほどこす女性はケンドール夫人のような有名人でなくても、病院の看護婦でもよかったはずではないか。それをあえて有名人にしたところには、社会的効果をねらった意図がどうしてもすけてみえるのである。
いずれにしても、〈エレファント・マン〉がヴィクトリア後期のイギリスで、今日の福祉国家でものぞめないくらいの待遇を受けたことは、きわめて組織的な操作なしにはありえないことであって、民衆は一方でその操作にたぶらかされながら、他方ではそのうさんくささをうすうす感じていたはずである。その意味では、映画でも−−ある夜メリックが、病院の警備係の先導で見物にやってきた下層階級の連中によってむりやり酒を飲まされたり売春婦をだかされたりしていたぶられることになったのは、メリック自身には全くの災難だとしても、支配階級の無意識的・意識的操作に対する被支配者階級の無意識的・意識的反抗という意味で不可避的なことであり、これを映画が支配階級の側にも被支配者階級の側にも味方せず冷徹に描いているのは特筆に価する。〈人道主義〉的な立場からすれば許しがたい彼らの野蛮な行為も、ろくな福祉にもめぐまれず、劣悪な条件のなかで生活させられている彼らからすれば、むしろ筋がとおっているのであって、それというのも、たとえ本人の意志でないにしても、支配者階級の仲間入りをしてしまったフリークなどは、凌辱されることを待っている体制の道化以外の何ものにもみえないからである。もしこれがフリークではなく、〈並みの〉身体をもった芸人であれば、下層階級から出て世界のスターになったチャップリンのように、下層階級の人々からも凌辱の対象にではなく賞讚の対象になったかもしれない。が、フリークの見世物芸人はもともと下層階級の人々から凌辱されることを機能としているといった一面があり、フリークの見世物をまえにして被支配者階級は、自分たちより抑圧されている人間(つまりフリーク)をながめることによってつかのま自分たちの抑圧を忘れる−−というよりも、ふだんは被抑圧者である自分たちが、金を払うことによってつかのま心理的な抑圧者(フリークを見物する者)になり、自分たちの本来の抑圧を忘れるといった面もあるのである。してみると、〈エレファント・マン〉ジョン・メリックとは、下層階級のあいだにあってはフリークとして最下層の位置におかれ、下層階級カタルシスの道具となり、上層階級のあいだにひきいれられては当時の文化操作の道具に使われるという、一個の対自的な人間としては全くむくわれない生涯を送ったことになる。彼の突然の死は自殺だという説もあるし、また彼をあわれんだトリーヴスがひそかに安楽死へ導いたことを暗示する説もある。
監督=デイヴィッド・リンチ脚本=クリストファー・デ・ボア、エリック・バーグレン/出演=ジョン・ハート、アンソニー・ホプキンス他/80年米・英◎81/ 3/29『社会評論』
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