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ジェントリフィケーション

 最近、ニューヨークをあつかった映画がふえている。昨年(一九八〇年)の十二月からでもすでに、?囑*天楼ブルース?寉Gジョン・フリン演出)、『エクスターミネーター』(ジェイムズ・グリッケンハウス演出、『tェーム』(アラン・パーカー演出)、『ニューヨークの恋人』(マーティン・デイヴィッドソン演出)が封切られ、二月には『グロリア』(ジョン・カサヴェテス演出)が市場に出る。都市をあつかった商業映画がたいていそうであるように、これらの〈ニューヨーク映画〉も、大なり小なり、〈jューヨーク〉という都市に対する観客の憶念をあてにしてつくられている。そうしたドクサのなかで最も一般的なのは、〈犯罪都市ニューヨーク〉だが、実際、前述の五本の〈ニューヨーク映画〉のうち、『フェーム』をのぞく四本が、ニューヨークにおける犯罪と暴力をストーリーの重要部分においている。文字通り、〈Sキブリ駆除人〉というタイトルを冠したジェイムズ・グリッケンハウスの作品では、ヴェトナム帰りの青年が街の〈ダニ〉を片っぱしから血祭りにあげ、観客の〈犯罪都市ニューヨーク〉という安易なドクサを安直に慰撫してくれる。『摩天楼ブルース』は、邦題が示唆するほど紋切型ではなく、実際のロアー・イースト・サイド地区の現実と民衆の生活の一端を活写してはいるものの、原題の〈ディファイアンス〉(挑戦)が示しているように、街にのさばる暴力団を一般住人が協力して追い出す話が核心をなす。『Oロリア?宸ヘ、マフィアの会計係が当局のスパイをやってみつかり、家族もろとも〈処刑〉されることになるが、からくも隣人にあずけられた六歳の息子が、ヤクザの元情婦であるその隣人と逃避行をする話で、形の上では典型的なギャング映画だ。『ニューヨークの恋人』では、グリニッジ・ヴィレッジの雑貨屋で強盗を目撃した主人公が、とっさの機転で、たまたまアルバイトの帰りでコートの下に身につけていた〈キャプテン・アベンジャー〉(一種のスーパーマン)の衣装で強盗のまえにおどり出て二人組を退散させるというところから本筋に入る。以後主人公は、この〈正義の味方アベンジャー〉を演ずるのがやみつきになり、そのために八百長劇までするはめになって自責の念に苦しむ。他愛がないとはいえ、このドラマも、〈犯罪の遍在性〉というニューヨーク神話を基礎にしていることにはかわりがない。
〈犯罪都市ニューヨーク〉とは一応無関係にみえる『フェーム』でも、今度は、『ポパイ』なんかがしきりに宣伝している−−ニューヨークへ行けば夢がいっぱいで、街が〈劇場〉のようだといったもう一つのニューヨーク神話が、観客を無批判に映画にひきこむ魔術的な機能を果たしている。たとえば、息子が作曲して合成したテープをタクシー・ドライバーの父親がもち出し、それを息子が通っている芸術家養成所のまん前の路上で大音響でかけると、養成所の若者たちがその音楽にしびれて路地にくり出し、そこがちょっとした祭の空間のようになってしまう。この映画は、こうした悪のり的なところと芝居がかったところをつみかさねて出来ているのだが、それならはじめからつくりものに徹して、ニューヨークなどという具体的なコンテキストははずした方がよかった気がする。つくりものと言えば、『ニューヨークの恋人』では、さんざんマンハッタンの場所性を強調して話をすすめてきながら、マンハッタンにあるべき市役所前のシーンでは、マンハッタンという想定でブルックリンが使われている。一事をもって万事をおしはかることはできないかもしれないが、一事のなかに万事が露呈することもあるわけで、これほど端的にこの映画のつくりもの性を暴露している個所はないように思う。製作者側の説明によると、これは、マンハッタンの市役所前での撮影許可が下りなかったため、やむなくとった処置だというが、もし場所性ということを重視するのだったら、この場面を使わない方法を考えるべきだったのだ。ここには、映画にとって場所などというものは、ストーリーやテーマの補助的要素にすぎないという姿勢があるのであり、結局のところ、この映画では、まず映画で表わしたい観念があり、しかるのちその観念にみあった場所としてロケ地が選ばれたのである。現に、ロケできない火事場のシーンは、ハリウッドのセットで撮られた。
 街のあつかい方の点では、カサヴェテスの『グロリア』は他の映画とちょっとちがっている。この映画では、ほとんど場所のすりかえやごまかしがなく、現実に存在するニューヨークの街々にカメラを従属させ、街とその住人たちを主体にしてドラマをつくり出そうとする。むろん、ドラマの主流は俳優たちによって作られるのだが、ロケされる街とその住人たちはドラマをもりあげる単なる書割ではなく、俳優たちとともどもにドラマをつくり出す〈共演者〉としてあつかわれている。たとえば、マフィアの追跡をのがれてグロリアと六歳の幼児が地下鉄をのりつぐ場面−−これほどニューヨークの地下鉄をそれ自身に語らしめたシーンはこれまでなかった。この映画は、ドラマをドキュメンタリー・タッチで撮っているのではなくて、ドラマをドキュメンタリーとして撮っているのであり、ここでは劇映画とドキュメンタリー映画との境界線は消滅する。ある意味で、カサヴェテスのこの映画は、〈犯罪都市ニューヨーク〉という神話を逆手にとりながら、はじめは縁もゆかりもない一人の女と一人の子供が、マフィアからの逃亡という共同行為のなかで、血のつながりや人種や〈女の母性愛〉などといった伝統的な絆をこえて連帯しあってゆくプロセスをドキュメントにすることに成功している。が、それは、カサヴェテスが徹底的に場所の固有性に執着することによって、ニューヨークの街で実際に生きている民衆の生活とその社会・歴史的条件を映像化することに成功したからである。しかし、ひょっとすると、このような映画の見方は、表現を現実の〈再現〉(模写)とみなす素朴リアリズムに淫しているという批判を受けるかもしれない。だが、実は、現実を〈再現〉できると信じているのは、最初にテーマや観念を設定しておき、それにみあった人物や背景を選ぶような制作姿勢の方なのだ。そこでは、最初に設定されたテーマや観念が操作された物質によって〈再現〉できるという観念的な信仰があるのであり、物質自身に語らせようとする姿勢は全くないのである。
 他面、場所から歴史性や社会性を抜きとるということは、物質−−つまり歴史的・社会的なもの−−から現実性を消去し、それを交換可能なもの、つまりは商品にしてしまうことにほかならない。まさしく〈ニューヨーク映画〉の多くは、ニューヨークという−−人々が生き、闘っている場所を商品化し、そこには民衆など存在しないかのような神話をつくり出しているのである。むろん、こうした傾向は相互的なものであって、〈ニューヨーク映画〉という文化商品を生産する側と、それを輸入する側の条件と無関係ではない。日本ではかつて、〈パリ〉という固有名詞が、何かロマンティックな夢や期待をかきたてる象徴記号としての魔力をもっていた一時期があったが、今日それは、〈ニューヨーク〉によってとってかわられようとしている。本屋にならんでいる週刊誌や雑誌をどれか無造作にとりあげてページをひらいてみれば、必ずどこかにニューヨークについての記事を見出すことができるだろう。たとえそうした記事が見つからないとしても、広告ページには必ず〈ニューヨーク〉という言葉やニューヨークの写真を護符のように使った広告が見つかるはずである。活字メディアだけではない。ラジオはニューヨークではやっているというレコードをかけ、テレビはニューヨークの風俗をロケして放送する。ニューヨークで撮ってきた写真の展覧会も鳴物入りで開かれ、人々の〈ニューヨーク〉への夢をかきたてる。モードの中心もパリからニューヨークに移ったとかで、衣料品の会社は、ネタを仕入れるために専属のデザイナーたちを年に何度もニューヨークに派遣するという。現に、一九七八年の冬にニューヨークではやりはじめたキルティング・ジャケットは、一年後の日本で、あたかも予定調和でもあるかのように大流行となった。むろん、旅行会社や航空会社の目玉商品は〈ニューヨーク〉である。
 日本でこうしたニューヨーク・ブームが急速に過熱しはじめたのは一、二年まえのことである。ブームというものはもともとつくられるものであり(従って、いくら〈ニューヨーク・ブーム〉だといっても、ニューヨークの民衆文化や文化運動の情報などはさっぱり〈輸入〉されない)、日本は、かつての〈舶来〉信仰にみるまでもなく、このような手口で資本を拡大してきたわけだが、ニューヨーク・ブームの場合は、〈ニューヨーク映画〉とか〈ニューヨーク・モード〉とかいった文化商品が介在しているのだから、それらの輸出先であるアメリカの産業構造の変化もこのようなブームと無関係であるはずはない。実際にそのような変化はあるわけで、ニューヨークでは、それは確実に街とその支配者階級の生活様式の変化として顕在化している。
 マンハッタンでもブルックリンでも、以前よりもはるかに多くの改築工事が行なわれており、ペンキをぬりかえたり、レンガを洗いなおしたりした建物も目だつ。スラムがとりこわされ、〈高級マンション〉がたち、貧民がナインティシクス・ストリートより南側にはだんだん住みにくくなり、マンハッタンが比較的高収入の住人で占められる傾向も強まっている。グリニッジ・ヴィレッジやソーホーは、かつては貧乏芸術家の街であったが、いまでは弁護士、医者、エリート・ビジネスマン、建築家、プロデューサー、コピー・ライター、写真家、画商といったいわゆる〈プロフェッショナル・アッパー・クラス〉の街になりつつある。
 こうした変化は、ニューヨークが、工業生産よりも文化と情報商品の生産に重点をおく街に変わってきたことを意味する。ニューヨークというと〈消費の街〉という印象が強いが、ニューヨーク市の最大の収入源は、依然、衣料品製造である。が、近年は、事情が変わりつつあり、観光やサービス業からの収益がそれを追いあげている。一九七九年には、ニューヨークに内外から二億人の観光客が訪れ、二十億ドルの金を市におとした。
 ドルが弱くなって外国の観光客がアメリカに殺到するようになったことがニューヨークの観光産業を促進したことは事実であり、政策的に市もそういう方向に力を入れている。また、宣伝、コミュニケイション、出版などの文化産業の本店がニューヨークに集中する傾向もますます強まり、外国銀行の支店の数も年々ふえている。
 こうした傾向に対応して、いままで生産部門にたずさわっていたブルー・カラーの労働者や移民労働者が職を得にくくなり、アメリカ中西部に流れてゆき、その反対に、知識集約型の産業で働く専門家がニューヨーク市に集まってくるという傾向が出てきた。この〈新勢力〉は、十五、六世紀のイギリスの〈ジェントリー〉になぞらえて〈ニュー・ジェントリー〉と呼ばれるので、都市が〈ニュー・ジェントリー〉を中心とした街に変わることは〈ジェントリフィケイション〉と呼ばれ、ニューヨークでは目下〈ジェントリフィケイション〉が進行中であるなどと言われる。
 いずれにせよ、ニューヨークは変わりつつあり、それはまた、アメリカの産業構造の変化にも対応している。アメリカの歴史のなかには、ニューヨークのような東部に重心がおかれる時代と中西部が東部をリードする時代とがあるが、一九七〇年代以降、アメリカの文化・社会的な中心はニューヨークに移った。消費主義や郊外居住、大型自動車、などによって象徴される〈アメリカ的生活様式〉を信奉する中西部的イデオロギーにかわって、コミュニティの再構築、浪費の排除、鉄道や都市生活の再評価などを特徴とする〈ニューヨーク・ミドル・クラス〉イデオロギーが支配的となってきた。
 いうまでもなく、こうした重心移動は、アメリカ資本主義の〈延命〉のロジックにみあって出てきたものであり、単にアメリカ資本主義が〈健康さ〉をとりもどしたとか、〈弱体化〉したとかいった一次元的な論法でとらえられるものではない。表面的にみれば、アメリカの資本主義経済は、衰弱しつつあり、現実に、自動車産業などは日本に完全にくわれてしまうという事態が出てきているわけだが、そのかわり、ニューヨークを中心とする情報と文化の生産・輸出の面でははるかに他の資本主義諸国を凌駕し、いまや、世界資本主義体制における情報・文化帝国として不動の位置を築きつつあるのである。その際重要なことは、こうした情報と文化による新帝国主義が形成されつつある状況下では、革命や戦争の形態と意味も、根底から変化せざるをえないということだ。少なくとも、革命や戦争の伝統的な手段であった武力闘争は、それが〈革命的〉であれ〈反革命的〉であれ、情報と文化における闘争の道具と効果にされてしまい、〈革命的〉な武力闘争が〈反革命的〉な武力闘争に、またその逆に、〈反革命的〉な武力闘争が〈革命的〉な武力闘争に容易に変換・操作されるという事態も生じてくるのである。
[摩天楼ブルース]監督=ジョン・フリードキン/脚本=トーマス・マイケル・ドネリー/出演=ジャン・マイケル・ビンセント、テレサ・サルダナ他/79年米[エクスターミネーター]監督・脚本=ジェイムズ・グリッケンハウス/出演=ロバート・ギンディ、スティーヴ・ジェイムズ他/80年米[フェーム]監督=アラン・パーカー/脚本=クリストファー・ゴア/出演=アイリーン・キャラ、リー・キュレーリ他/80年米[ニューヨークの恋人]監督=マーティン・デイヴィッドソン/出演=アン・アーチャー、ジョン・リッター他/80年米[グロリア]前出◎81/ 1/26『社会評論』




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