4
タクシー・ドライバー
東京から届いた雑誌や新聞を読んでいて、『タクシー・ドライバー』はニューヨークのフィーリングをドキュメンタリー・タッチでリアルにとらえた映画であると絶讚している文章にたびたび出会い当惑を禁じえなかった。なぜなら、よほど〈独創的〉にみるのでないかぎりこの映画は、ニューヨークに不慣れな若者がニューヨークの街にオブセッション(強迫観念)をいだき、それを孤独な意識のなかでエスカレイトさせてゆく物語のはずだからである。いわくありげな盛り場や貧民街のシーンにしてもその視覚は、いわば「ニューヨークはこわいぞ」とおどかされてやってきた観光客がはじめてこわごわとタイムズ・スクウェアあたりを歩いてみたときのこわばった意識のそれであって、銃でやくざを皆殺しにするシーンは、「こんなことをやってみたらスカッとするだろうな」程のフラストレイションの意識に現われる——その多くはギャング映画の典型的なシーンにもとづく——〈夢想〉にすぎない。
この映画が一種のオブセッションをテーマにしているということは、ニューヨークでは常識化していることで、早い話、この映画は最近、『オブセッション』(ブライアン・デ・パルマ監督)という仕組まれた錯覚をモチーフにしたミステリーとだきあわせで二流館にリバイバルした。観客はというと、ロバート・デ・ニーロがニューヨークの街への一種の妄想と偏執をクレイジーに増幅させてゆくのをゲラゲラ笑いながら、と同時に、そのアナーキズムに喝采を送りながらこの映画を見るのである。これは、二流の心理主義的娯楽映画以上のものではあるまい。
とにかく、この映画をはじめからニューヨークという現に存在するコンテキストから切り離して論ずるのはナンセンスであって、ましてこの映画を実際のニューヨークのドキュメントとして見ようというのなら、この映画の都市イメージをニューヨークそのものに単純に短絡させることはできない。作品をもとの文化的コンテキストに移して論じることは、創造的な作品解釈にとってはつねに必要なことだが、そのためにはまず、最初のコンテキストにおける作品の第一次的な意味を正しくとらえる必要がある(さもなければ何を足がかりにして新たなものへ創造的に飛躍しようというのか?)。
作品を論じる際にその最初の文化的コンテキストがいかに重要であるかは、いくら強調してもしすぎることはないのであって、たとえば目下ブロードウェイでアンドレイ・サーバン演出のチェーホフ劇『桜の園』(四月十日まで)が話題をよんでいるが、このサーカス仕立の舞台がこの街の大衆文化を潜在的な下部構造としてもち、観客は——それを意識するにせよしないにせよ——彼や彼女らが日頃街で目にする大道芸や見世物を文化的コンテキストとしてこの舞台を見ていることは、この演出へのメイエルホリドの影響を云々する以前の問題としてみのがすことができない。
ニューヨークにはまだまだ街の芸人たちが芸を競う余地があり、天気のよい日曜日ともなると街の広場や公園にはちょっとした祭の雰囲気がただよう。日曜のワシントン・スクウェアには、一輪車乗り、手品、綱わたりをみせるハーポ・マルクス的風貌のサーカス芸人とか、芸はうまくないがかけあい万才的なやりとりがおもしろい二人組のジャグラー、トランペット吹き、素人のジャズ・バンド、ポータブル・アンプをもちこんだロック歌手等々、多数の大衆芸術家たちが集まり、その芸を披露する。それは何も広い公園にはかぎらない。無関係な音楽のなっているポータブル・ラジオを胸にいだきながらアリアを本格的に歌う老ソプラノ歌手とか、何度注意してみてもその仕掛がわからない不思議な手製の楽器を伴奏にサビのある声をきかせるソウル歌手などはヴィレッジの街頭の名物的存在だ。このほかにも多種多様な個性ある街の芸人たちがいるが、これに、ゲオルグ・グロッスが『歌う物乞い』で描いているような〈芸人〉たちまで含めたら枚挙にいとまがないだろう。おまけに、こうした街の芸術家たちのページェントに通行人が飛入りして大変な芸を披露することもあるのだから街の芸術の規模には際限がないかのようだ。
こうしたニューヨーカーの生活と一体をなした文化、つまりその語の本来的な意味におけるサブ・カルチャーが、何でも商品化されるこの世界にあってなおしぶとく生き残っているのは、非人間的な組織化をはねつけうるしぶとさがいまだその生活世界に存在するからだろう。こうした生活世界のレベルは、ニューヨークを「こわい」(犯罪都市)か「こわくない」(レジャーとショッピングの街)かといった一元的な論理で断定しようとする観光旅行者的な視角にはつねに欠けているレベルだが、だからといってニューヨークにながく住めばそれが見えてくるというわけでもないところに文化論のむずかしさがある。
監督=マーティン・スコセッシ/脚本=ポール・シュレーダー/出演=ロバート・デ・ニーロ、シビル・シェパード他/76年米◎77/ 3/29『グラフィケーション』
次ページ シネマ・ポリティカ