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カサノバ

『フェリーニのカサノヴァ』のニューヨーク・ロードショウには『ニューヨーク・タイムズ』が大いに一役買い、すでに六日の日曜版付録の『ニューヨーク・マガジン』にはポール・シュウォルツマンの長文の評論が掲載され、前宣伝につとめていた。
 二月十一日の当日、四時すぎにサード・アヴェニューの〈シネマワン〉の入口をのぞいたときには数人の客の姿が見えただけだったが、向かいの〈アレグザンダー〉(デパート)を二、三十分ほど物色してもどってみると、この日三回目の入場を待つ人の列が隣りの〈oロニット〉G『Xター誕生』をやっている)からフィフティナインス・ストリートの角を入った中国料理店のまえの方まで続いている。行列のなかには多種多様な顔にまじって(映像を撮るのであろうか)むき出しの大型カメラを首からぶらさげたわが日本人同胞の顔も見える。通常、イタリアのフィルムや芝居には多くのイタリア人が集まるのだが、この日はさほどでないのは、この映画がフェリーニ初の英語フィルムだからであろうか?
 さて、制作に四年を費やしたというこの映画への観客の反応は、例によってフェリーニお得意のスペクタクル、ナンセンス、ファンタジー、悪趣味、グロテスク、卑猥さのもり沢山のサービスにもかかわらず、あまりかんばしいとは言えなかった。ダーナルド・サザーランドがスポーツの苦行よろしく奮闘するファック・シーンには笑いが起こったが、そのほかでは、(よきにつけ悪しきにつけ)敏感に反応するニューヨークの観客の反応としては白々しくみえた。
 この反応は決して、観客がこの映画にもっと生々しいカサノヴァを期待したからではない。サザーランドのカサノヴァが、セックス的世界のいささかフィルム的現実にも似た生々しくも嘘くさい非存在的現実によって翻弄される性的クラウンであることは、クラウンをおもわせるそのメーキャップからも明らかであるとしても、それはおよそ出来のわるいクラウンであって、このクラウンはいくら粉骨砕身しても彼を翻弄する世界そのものの不条理を一向に浮きぼりにすることができないのだ。
 むしろ、こんなサーカス評論家的・道化学者的解釈などよりも、この映画を構成している数々のエピソードの平板さと奥行きのなさ、その構成のしかたのワールド・トレード・フェアー的安易さをみれば、近年のフェリーニが、晩年のピカソ同様、いかに創造力の枯渇した状態に陥っているかがわかるであろう。が、それにしても、はっきりとこうした枯渇を感じとりながら、映画が終わるといっせいに拍手をするニューヨークの観客のオプティミズムは、マスコミとともにフェリーニをますます虚しい〈巨匠〉の地位にまつりあげてゆきもするのである。
監督・脚本=フェデリコ・フェリーニ/出演=ダーナルド・サザーランド、ティナ・オーモン他/76年伊◎77/ 2/16『日本読書新聞』




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