『ナッシュビル』は、一見、「グランド・ホテル形式」でつくられているように見えるかもしれない。が、正確には、「アンサンブル・プレイ」の作品だと言うべきだろう。24人の登場人物による5日間のドラマ。が、彼や彼女らは、普通の意味での「登場人物」ではない。個々のキャラクターが、ジグゾーのように相互に入り組みあっており、その相互関係のなかでプリズムのように多様な光を発射する。行きつ戻りつしながら描かれる個々の人物のエピソードをつなぎあわせると、そこから、冷笑を浴びながら浮かびあがってくるのは、ドラマの登場人物であるよりも、建国200年をむかえようとしているアメリカ社会のなかに実在するあの人やこの人なのである。

  とはいえ、これは、わたしがこの映画を最初に見たときの印象であって、2006年のいまこの作品を初めて見る人は、必ずしもそうは思えないかもしれない。むろん、映画は、「開かれたテキスト」であって、解釈に制約はない。監督や脚本家が意図しなかった意味を読み取ることも自由である。が、その場合でも、問題の作品が、「最初」どのように受け取られたかを知っておくのは無駄ではないだろう。

  『ナッシュビル』は1975年に公開された。わたしは、この映画をニューヨークで見た。日本で公開されたときも見たが、ニューヨークのグリニッチヴィレッジという環境で見たときの印象が忘れらられない。おそらく、同じニューヨークでもアップタウンの映画館であったら、別の印象をもっただろう。会場には、あきらかにヴィレッジ周辺に住むアーティストや学生や知識人と思われる人々が多くいた。そして彼や彼女らは、愛国者気取りの歌手を演じるヘンリー・ギブソンの台詞や歌のひとつ一つに舌打ちをしたり、頭をふったりし、大統領候補ハル・フィリップ・ウォーカーの選挙参謀を演じるマイケル・マーフィの台詞に、「そりゃねぇだろう」といったあざけりの笑いを発するのだった。

  このような雰囲気を想像するには、この映画が公開された1975年という時代の前後の状況を知っておいたほうがいい。この時期は、アメリカの現代史のなかでもっともラディカルな時代だったのではないかと思う。『ナッシュビル』は、そうした時代の感性でアメリカの「旧い」部分を冷笑しているとも言える。この映画の根底にあるシニシズムと批判精神は、70年代特有のものだ。これは、湾岸戦争が起こり、911が世界を変え、イラクで戦火が絶えない現在の状況では想像できないだろう。

  アメリカでは、1974年にニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し、翌1975年には、アメリカの傀儡(かいらい)であった南ベトナムのサイゴン政府が北ベトナムに降伏し、ベトナムへのアメリカの介入の失敗が歴然となった。大統領という最高権威が逮捕されるというそれまで想像できなかったこと、反戦運動やマスメディアの報道によって予測はできたとはいえアメリカ人が信じたくなかったベトナムでの敗北。60年代末から70年代初頭にかけてのニューレフトの政治運動はすでに終わっていたが、一般人の意識のなかでは、権威や国家への不信と、権威や国家も誤ることがあり、それらは、ときには否定できるのだという意識がひろまった。この30年ほどのアメリカの現代史のなかで、この時代ほど、多くの人が、権威的なものに対して「ふざけんじゃねぇよ」という反逆の意識と感性をごく普通にいだいた時代はなかった。

  その意味で、『ナッシュビル』に登場するすべてのキャラクターは、こういう批判精神とシニジズムであらかじめ二重化されており、素直にはうけとることはできない。ヘブン・ハミルトンは、最初から顰蹙(ひんしゅく)を買う人物として登場するのであり、1970年代の観客は、最初から彼が「いやな奴」で「偽善者」であることを知っており、そういう認識にたって、この人物を冷笑して楽しんだのである。

  最初から滑稽(こっけい)なキャラクターとして登場するオパール(ジェラルディン・チャップリン)にしても、(彼女は、この映画のなかでヘブン・ハミルトンにおとらず多くの場面に登場する)、単純に彼女がミーハーで軽薄だというだけではない。ここでは、そもそもマスコミ的なインタヴューや取材というもの自体がパロディ化され、笑われている。彼女は、フリー・マーケットで安く買った古着を組み合わせて着ているのだが、そういうスタイルがファッションになるのは、もっとあとのことであり、この時代にこういうかっこうをしている人は、(あえて差別的な言い方を許してもらうと)どちらかというと、「神経症ぎりぎり」の人物であり、彼女がBBCの特派員であるはずはないのである。あるいは、彼女自身がそう思い込んでいるのかもしれない。アルトマンとしては、「BBCの特派員」をそういうキャラクターに矮小化することによって、ここでもマスコミを冷笑しているわけである。

  大統領候補の参謀がじきじきに姿をあらわしながら、当の本人「ハル・フィリップ・ウォーカー」が全く姿をあらわさず、街宣車のスピーカーからだけというのも、アルトマン一流の皮肉だ。1970年代の中頃をさかいに、アメリカの政治宣伝は確実に電子メディアの活用にシフトする。インターネットの前身のBBS(電子掲示板)が選挙に利用され、効果をあげるのは、1970年代末のレーガンの選挙戦からだが、この映画で極度に強調されてえがかれるスピーカーによる演説は、生身の人格としての政治家がいかに電子的に合成された亡霊のような存在になり、しかもそれがヴァーチャルな実体をなしていくことを皮肉に示唆している。ケネディ兄弟への思い入れを語るレディ・パール(バーバラ・バクスレイ)の話は、生身のアウラをもった存在としての政治家へのむなしいノスタルジアである。

  アルトマン自身が言っていることだが、彼は、この映画をつくるまえ、カントリー・ウエスタンについてあまり知らなかったという。出演者たちが自ら歌詞を書き、自ら歌っている『ナッシュビル』を音楽的なレベルで激賞する批評もあるが、カントリー・ウエスタンに入れ込んでいる人たちがこの映画に意外と冷たいのは、ここでもカントリー・ウエスタンそのものが二重化されており、その底に醒めた目が隠されているからである。ナッシュビルの華、バーバラ・ジーン(ロニー・ブレイクリー)は、一見、歌手としての存在感があるように見える。が、彼女は、ナッシュビルの「デモクラシーの殿堂」パルテノンでその存在感を見せたとたんに銃撃され、昏倒する。その存在感はあっさりと否定される。そして、それまでほとんど存在感をもたなかったアルバカーキ(バーバラ・ハリス)が、じきにバーバラの存在感をなんとかとりつくろってしまうのだ。

  政治家が肉体的な存在感を失い、電子の亡霊に変貌したのと同じように、かつてはアメリカの特定の土地や場所にねざし、その肉体から直接発する声と性的魅力で観客をとりこにした歌手や舞台俳優が、次第に電子テクノロジーへの依存のなかでそのアウラをうしなっていくのも、1970年代であった。それは、ナマ全盛からメディア全盛への過渡期であり、サンプリングとCGとヴァーチャル・リアリティの技術によってほとんどなんでもメディア操作ができる時代のはじまりだった。

  『ナッシュビル』のなかで冷笑されていることは、いまでは、ほどんどすべて「あたりまえ」になってしまった。政治とショウビジネスの癒着というよりも一体化、ラディカルな変革や体制批判的なポーズをとりこんだ保守政治、ありえない「公正」や「信仰」の偽善的な誓い、「テロ」の日常化・・・。が、唯一「あたりまえ」にはなっていないのは、アルトマン的な批判精神とシニシズムである。それは、つかのま忘れれてはいるが、ふたたびよみがえるのを待っている。

 

『ナッシュ・ビル』と現代アメリカ社会、ALL ABOUT ALTMAN  ロバート・アルトマン読本、pp.22-24、「ロバート・アルトマンBOX」付録、2006-02-25、発行:IMAGICA