「不偏不党」なんてあったっけ?
この映画についてコメントをもとめられた小泉首相は、「政治的な立場の偏った映画というのはあまり見たいとは思わないね」と語ったが、最盛期の小泉なら、「これはダメだね、全然ダメな映画だよ」と言っただろう。「見たんですか?」と訊かれたら、「見なくたってわかるさ」と切り返すのが昔の小泉だ。
監督・脚本・出演のマイケル・ムーアは、はっきりとこの映画によってブッシュを打倒したいと言い、七月の民主党大会に参加し、ケリー候補を支持しているわけだから、「偏っている」などと言うことは、この映画を評価したことになる。ムーアは、政治的に中立な映画などというものを信じていない。
放送法で「不偏不党」をうたっている日本でも、メディアリテラシーを動員するまでもなく、各局はそれぞれの政治的立場をとっているし、全体としては「保守反動」である。日本には、「ここまで言っていいの?」と思わせるような番組を放送する局は、ごくマイナーなネット・ラジオやネット・テレビをのぞけば、皆無であり、メディアはひたすら保守なのである。これは、「自由と民主」を標榜する国としては例外に近い。
ところで、この『華氏911』のスタイルは、アメリカのインディペンデント系のビデオやパブリック・アクセスやコミュニティテレビの番組では、それほどめずらしいものではない。ブッシュとイラク戦争という誰でもが無視できないテーマと、六〇〇万ドル(ちなみに『スパイダーマン2』は二億ドル)というそれなりの予算を考えると、同じにはあつかえないとしても、映像のトーンと論調は、たとえば最近『SHOCKING AND AWFUL』というイラク戦争批判のDVDを出したディープ・ディッシュTV (http://www.deepdishtv.org)などの映像と非常によく似ている。アメリカには、すでに大分以前から、こうした「反権力的」映像の伝統があるのである。
ムーアがみずから顔を出し、ホワイトハウス付近で上院議員をつかまえ、イラクへあたなの息子さんを送るのに署名してくれと迫るパフォーマンスにしても、これは、ビデオアクティヴィズムでは常套の技法である。だから、この映画が上映されると、ふだんはエンタテインメントの大作しかかからない普通の映画館の場内が、マイナーな集会の雰囲気とそっくりになってしまうのだった。わたしがこの試写を見た八月一二日のよみうりホールも、映画が終ると、配給会社のブラボー屋が仕掛けるのとはちがった、無意識の連帯を感じさせる「熱い」拍手が起こった。
しかし、これは、この映画の「弱点」でもある。というのは、この映画は、見たい者しか見に来ないし、こういう作品を見る観客はどの国でも非常にかぎられているからである。ブッシュを支持しているのは、ロードショウ作品などめったに見ない層と、「革新」と聞けばその作品には見向きもしないリッチで保守主義の層である。
この映画は、ブッシュをバカあつかいしているといううよりも、戦争がいかに貧しい層(軍に入るしか生活の道がない)を犠牲にしているか、不明瞭な手続きで大統領になったブッシュが、いかにアメリカをダメにしてしまったかを鋭く描いている。その点は、決して「偏って」はいない。少し歴史と現実に関心のある者なら、納得のいく描き方をしている。しかし、ブッシュとその一党がおさえているのは、教育に関してもメディアに関しても、むろん生活に関しても、選択肢が極度にかぎられた層なのであり、頭ではわかったとしても選べない現実に生きる人々なのだ。
とはいえ、この映画がたきつけた批判の力のたかまりは、ブッシュ「再選」(?)後、ウォーターゲート事件のときのニクソンのような形で彼を辞任に追い込む可能性を確実に予測させる。こういう層がどんなときもついえず、事あるときに再生してくるアメリカのポジティブな側面を実感させる。
粉川哲夫
週刊金曜日、2004年9月3日号、no.522、pp.50-51