2001-03-26/粉川哲夫
【映画『スタンリーグラード』劇場パンフレット原稿】
戦争は、つねにマシンの論理で動く。戦争には、CPU(「中央処理幹部」とも訳せる)があり、その命令にしたがってすべてが動く。戦争と喧嘩の相違は、戦争にはつねにCPU的命令系統が存在することである。そこには、個人の情や思いが入り込む余地はない。戦争の非情さというが、戦争にはもともと「情」などなく、自動的に動く機械のように進行するのを理想とする。これは、情報戦争の時代になっても同じだ。インフォメーションは、いみじくも、日本語で「〈情〉報」と訳され、ITの理想はただのデータだけでなく、「情緒」のレベルをいかに表現するかであるが、戦争と情報とが結びつくと、そうしたファジーなレベルはすっかりそぎ落とされる。VR技術が、手や皮膚の微妙な感触をいかに電子的に再現するかにやっきになる一方で、同じ技術を使ってピンポイント爆撃がシミュレートされ、ゲーム感覚で人が殺傷される。
現実とテクノロジーに対する態度を180度変えたところに戦争は立脚している。人間は機械のようには動けないのだが、それを機械のように動くことを強制すること、人はそれぞれ個人であり、妥協なしには集団行動ができないにも関わらず、システムマシンとして「一丸」となって行動することを前提とする、これが戦争の基本だ。
ヴァシリ(ジュード・ロウ)らの若い兵士たちが、スターリングラードへ向かうために乗せられる貨車は、外から鍵がかけられる。このシーンは、ユダヤ人たちがアウシュビッツへ貨車で送られる様を映した多くの映画でくり返し描かれた典型的なシーンとそっくりなのは皮肉である。ユダヤ人の場合は、外から鍵を閉めることがひどく残酷な印象をあたえやすいが、考えてみると、貨車は外から鍵を掛けるしかない。問題は、むしろ、ユダヤ人もソ連の兵士たちもともに物としてあつかわれたということであり、それは、戦争機械のなかでは「あたりまえ」のことだったのである。
スターリングラードに着いたヴァシリたちは、ろくな武器もあたえられずに、武装する敵兵のいならぶ戦線に突撃させられる。これは、『グラディエータ』の時代(古代)と変わらない野蛮さだが、同じことが朝鮮戦争でもベトナム戦争でもくりかえされた。人間が機械として行動させられるのだ。戦争のなかのロマンを描いた映画や小説が感動を呼ぶのは、戦争のなかではそもそもロマン的な世界が排除されているからである。そのようなものは、存在するとしても無視される。映画や小説は、普段見えないものを見えるようにする。貨車に乗せられたヴァシリの目に突然映った本を読む女性の姿。戦争のロジックのなかでは、そのような姿は決して見えない。見えたとしてもそれは見てはならないものとして無視される。だが、映画は、それをあえて鮮明に持続させる。ヴァシリのように印象深く経験することが許されないからこそ、映画がこのシーンを描く意味がある。
だが、『スターリングラード』の面白さは、そうしたある意味で「絵空事」を描くのではなく、戦争のロジックを逆手に取ること、そして、それが実際に起こり、かつナチスの侵略を撃退した事実によって裏づけられていることである。
ヴァシリは、祖父から受け継いだ天才的な狙撃の技術を持っている。狙撃とは、個人の技術であって、集団の技術ではない。個人の才能、特質、癖、そのときどきの気分・情緒が左右する技術である。戦争も、実は、個々人の才能や技術、個々の兵士にとって起こる些細な出来事によって左右されるのだが、それらを機械的に組織化しようとすること――ここに戦争の矛盾と悪がある。ここでは、兵士は決して主体にはなれず、機械の論理に従属させられ、戦勝は、自分では「血を流さない」最高幹部の功績にさせられる。
狙撃の技術は、外部のいかなる命令で動くのでもなく、あくまで狙撃手の判断と確信に左右される。機械の論理で動く戦争のなかで狙撃手ほど、個人の自由と特性を発揮できるポジションはない。『スターリングラード』は、その様をあますところなく見せてくれる。ヴァシリが、標的の予測した動きに銃身を絞り込んでいく身ぶり、標的には聞こえないであろう銃音とともに倒れる姿。それが暗殺映画のシーンよりも「すがすがしい」のは、それが、戦争機械の論理と全く異なる論理で起こることだからである。個人が自分の力でなし遂げたこと、しかも、個人を無視し、なぎ倒す圧倒的力が支配する場で。
『スターリングラード』は、ヴァシリの狙撃のこうした意味を、ケーニッヒ少佐(エド・ハリス)との対比でさらに明確にする。ヴァシリの狙撃の功績に手を焼いたナチス側が送り込んだケーニッヒ少佐も、名うての天才的な狙撃者であるが、二人の違いが次第に明らかになる。
ケーニッヒ少佐は、たしかに腕があるが、ヴァシリとの闘いで見せる技術は、彼の老獪な政治戦略によっておぎわれている。彼は、少年サーシャ(ガブリエル・マーシャル=トムソン)を言葉たくみに誘導し、ヴァシリの情報をつかむ。彼は、狙撃者としては自力の人だが、同時に彼は他人に命令し、他人を組織する人でもあるのだ。戦争は、こういう人間の延長線上にあり、その意味でケーニッヒ少佐は、個人であるよりも戦争機械=人間なのである。であれば、彼が少年を道具としてあつかうのは不思議ではないし、彼がそれだけ残酷な人間であったからではない。戦争機械=人間にとって、相手はすべて機械の駒の一つにすぎないからである。
戦争映画は、それがどんなに反戦的な主張に抜かれているとしても、多くの場合、戦闘を美しく、そしてカッコよく描く。そして、そのかぎりで、多くの戦争映画は、その主張と関係なく好戦映画となる。この矛盾を逃れる方法は、戦争を極度にカッコ悪く描くか、あるいは、戦争が踏みにじる個人の要素を浮き彫りにすることである。『スターリングラード』では、無防備で突撃を命じられ、逃げようとするソ連軍の兵士を味方の監視部隊が撃つ。死者塁々の先行きの見えない闘いにもかかわらず、フルシチョフ(ボブ・ホスキンス)は戦闘の続行を強制する。彼自身も、スターリンに強制された戦争機械の歯車の一枚にすぎない。戦争は、すべてカッコよくはないのだが、スターリングラードの闘いは、名実ともにカッコ悪い闘いだった。
戦争を遂行するためには、戦争を人々の意識のなかに「カッコよい」ものとして植えつけなければならない。メディアがその機能を果たす。戦争にとってメディアは、その装置の一部である。この映画で、ジョセフ・ファインズが演じるグニロフ第2級政治将校は、「名狙撃手ヴァシリ・ザイツェフ」というイメージを作るために働いた。おそらく、最初は、ヴァシリへの尊敬と敬愛からであったのだが、それが次第に宣伝の材料になっていく。上からの命令(フルシチョフは、情報戦にもたけていた)がそれに加わり、次第に自分自身でもコントロールできないものになっていく。ヴァシリは、こうして生まれた架空の自分につきまとわれ、悩まされることになる。
ダニロフは、戦争機械に従属することと、個人に徹することとのあいだをゆれ動く。一方で共産党と、「階級なき社会」を実現する革命の神話を信じ、他方では、ターニャ(レイチェル・ワイズ)という一人の女性に対しヴァシリと恋敵の関係(最も個人主義的な関係)におちいっていることを意識している。彼は、本来、作家になるべきであった。もっとも、スターリンの体制下では、作家も自由な個人表現をはばまれたから、事情は同じだったかもしれない。いずれにしても、ダニロフは、戦争機械に加担すればするほど、自分の個人性を奪われていくのだった。これは、戦争機械に加担することが同時に狙撃という個人性を発揮することとなったヴァシリとの決定的な違いである。ダニロフは、最後に、「新しい人間なんていない」という認識のなかで死ぬ。ねたみ、憎みはなくならず、階級も消えなかった、と。
平等な社会が安定状態で続いたことは、歴史上一度もなかった。歴史は戦争の歴史であり、20世紀もそうだった。人を命令し、集団として組織し、人を見下したり、支配したりする欲望はなくならない。階級は消えず、階級闘争もなくならない。しかし、人間を機械にまき込んでいく戦争や組織化のただなかでも、個人性を維持することができるならば、「階級」がつかのまなくなる瞬間を経験することができるだろう。
ヴァシリの「カッコよさ」は、戦争機械のなかの一つの装置としてのそれではなくて、アーティストがその肉体と技術をブリリアントに提示して見せる瞬間、個人性の輝きを持続させる瞬間のそれであり、そうすることによって、戦争をアートのなかに取り込んでしまった。スターリンは、アートを戦争のなかに取り込もうとしたが、それは成功しなかったし、その戦争体制自体が、戦争機械の論理とは反対の要素によって支えられていたということは歴史の皮肉であリ、教訓である。(スタジオ・ジャンプ/松田茂樹)