テクノロジー/手/水/子供

子供たちの「反乱」

『最後通告』は、スイスの社会的現実についてだけでなく、《いま》を考えさせる非常に多くのテーマを含んだ作品である。子供、夫婦、家庭、差別、メディア、テクノロジーと自然、そして夢と神秘・・・。そして、これらのすべての問題が、いま、子供という壊れやすい場のなかで顕在化している。ある意味で、この映画は、〈子供たちの反乱〉を描いている。
むろん、もはや「反乱」は流行らない。反乱の対象が見えにくいだけでなく、反乱ということそのものが、そもそも、問題の根源の一つである男性原理に基礎を置く行為だからである。その点で、「フェミニズム」もゲイ・ラディカリズムも不十分だった。おそらく、今後、ある種の〈子供主義〉、キッズ・ラディカリズム、キッディズムが台頭するだろう。
それは、すでにはじまっているのかもしれない。これまでの「反乱」は、暴力に頼らざるをえなかった。子供の暴力的な「反乱」なら、珍しくはない。が、もし、子供の新たな「反乱」が起こっているとすれば、それは、非暴力であり、目立たぬ形で進行している。『最後通告』の不思議な出来事は、そのような側面を独特のやり方で表現している。居場所を失った子供たちは、この世界に異議を唱えたり、反抗したりする代わりに、失踪し、どこかで子供たちだけの新たな場所を作っているらしい。しかも、面白いのは、この子供たちは、仲間同士で集団失踪したのではなく、別々に、同時に失踪し、集合しているらしいことである。つまり、これは、ネットワーク的な「反乱」なのである。


「ボロ」のネットワーク

『最後通告』を見ながら、わたしが、まず思い浮かべたのは、『ボロ'ボロ』(bolo'bolo) のことだった。これは、P.M.というペンネームで知られているスイスの思想家・アクティヴィストの主著で、すでに数か国語に訳されている知る人ぞ知る怪著である。P.M.は、1980年代の前半に早くも、ソ連の崩壊――というよりも、やがて世界は、「ソ連的なもの」と「アメリカ合衆国的なもの」とが融合したもの(「USSSR」の形成)になるということを予言した。「ボロ」とは、身体的かつ観念的=情報的なネットワークを提唱し、チューリッヒに「パラノイア・シティ」というモデルを作った。ここは、突然の訪問者が宿泊したり、レクチャーやパフォーマンスを行なうこともできるが、これは、そうしたフリーなTAZ(ハキム・ベイ)的なスペースにとどまらず、もっと広く、さまざまな個人がさまざまなメディアを通じて交流しあうノックのような存在を目指す運動の暫定モデルに過ぎなかった。
数年前、長い文通の末、やっとフェイス・トゥ・フェイスでP.M.に会ったとき、彼は、スイスで最も《いま》を描き続けている映画作家としてフレディ・M・ムーラを挙げた。おそらく、二人のあいだには、何らかの交流があるはずである。というのも、『最後通告』に出てくる子供たち「神秘的」な集まりや、その親たちが「ライブTV」のスタジオで形成する非常に即興パフォーマンス的なつながりと交流は、まさに「ボロ」特有のものだからである。


水の現実とメタファー

テクノロジーと自然を互いに対立するものとしてとらえるのはもう古い。それは、依然として続いている現実であり、実際にこのモダニズム(近代至上主義)が、諸悪の根源をなしているのだが、他方で、それを越える試みが生まれつつある。この映画で一見「神秘主義的」に見える出来事も、それをヴァーチャル・リアリティやオプトエレクトロニクスなどの先端テクノロジーが可能にすることとと重ね合わせて考えると、それは少しも「神秘的」でも「神秘主義的」でもない。
その意味で、水中を映した冒頭のシーンは示唆的である。カメラが進んで行くと、そこには、あるがままの水底とともに、パソコンのモニターのような現代のテクノロジーを象徴する物品の姿が映る。それらは、のちに、別の女のもとに去った夫マックスの妻イレーネが、夫の持ち物を水中に投げ捨てたものであることがわかるが、これらのテクノロジー的物品が、水中の単なる廃棄物であるか、それとも、水と融和し、何か新しいものを生み出すものとなるか、ということが、まさにいまのテクノロジーに問われていることである。また、水――この映画では最も重要なメタファーにもなっている――は、その汚染が問題にされ、その純化が叫ばれるわけだが、重要なのは、テクノロジーを撤廃した世界での水を追求する(そんなことは不可能だ)よりも、テクノロジーを変容することによって、水を生き返らせることだろう。冒頭の水中シーンは、そういう過渡期のカオス状態を示唆しているように、わたしには思えた。


トランスローカル

ベルリンの壁の崩壊以後、世界は、「USSSR」に向かって動き始めた。ヨーロッパの側から見れば、これは、「アメリカ化」である。が、この「アメリカ化」は、ビジネスのアグレッシブな競争主義やファーストフードの浸透、「アメリカ的」ライフスタイルの流行にとどまるわけではない。かつてハイデッガーは、「『コミュニズム』をただ党派として、あるいは『世界観』として片づける人は、『アメリカニズム』の名のもとに、単に軽蔑した意味での特殊な生活様式しか認めない人たちと同じように、認識不足である」(『ヒューマニズについて』)と言った。「アメリカ化」とは、要するに、モダン・テクノロジーがその完成をめざして進む一つのスタイルをあらわしているのであり、このテクノロジーのもとにますます世界が一体化するという動向にほかならない。
だが、その一方で、新たな動きが生じてきた。モダン・テクノロジーの「完成」は、同時に、その終末と新たなものの始りである。そして、一見、モダン・テクノロジー一色に見える装置とシステムのなかにも、そうした二重の事態があらわれはじめている。たとえばインターネットだが、このグローバルな地球的規模の情報テクノロジーは、ローカルなものを地球的規模のなかに解消させるというモダン・テクノロジーの理念を体現する一方で、ローカルなものを突出させ、「地球的規模」というような観念を無意味にする力を持ってもいる。少なくとも、インターネットを新しいアートの表現技術として用いる場合、そのグローバルな特性よりも、グローバルでありながら、局所化(ローカライズ)する《トランスローカル》な特性に執着した方が面白い。

このコンテキストのなかでは、もはや「巨大技術」は無用の長物と化する。それは、モダン・テクノロジーのなかでも最も古い部分である。この映画のなかで、原子力発電所の重要スタッフであるマックスに対して、富豪の義父が言うせりふが印象的だ。原子力発電を死守しようとしているマックスに対して、彼は、こう言う。
「原子力発電なんか、無理に廃止しなくても、電力経済の自由化で自然に崩壊するよ」。
つまり、いまや、これまでモダン・テクノロジーと手に手を取って進んできた「資本家」ですら、そういうものに見切りをつけている。遅れた資本主義だけが、巨大テクノロジーに執着するわけである。実際、「スモール・イズ・ビューティフル」というスローガンは、資本主義システムのただなかから出てきたのだった。いまや、資本主義システム自身が、エコロジーを内包しようとしている。が、問題は、エコロジーや「スモール・イズ・ビューティフル」という理念のなかで意味されていることが、資本主義そのものの特質を越えはじめていることである。この矛盾は、特に西ヨーロッパの資本主義において顕著である。おそらく、西ヨーロッパの資本主義は、ある日気づいてみると、もはや自分を「資本主義」とは呼べないものになっている、というような事態に直面するだろう。


マイクロメディア

90年代になって、北アメリカと西ヨーロッパ(そしていずれは東ヨーロッパや南アメリカでも)で「マイクロ・ラジオ」が流行しているのは、こうした事態に対応している。「マイクロ・ラジオ」とは、1970年代のイタリアを皮切りに西ヨーロッパ全土に広まった「自由ラジオ」とは一線を画する。自由ラジオは、国家や組織の規制から自由に放送をするということが主眼であって、そこでは、メディアのサイズへの意識は希薄だった。イタリアでは、1976年以来、当時の政治情勢のなかから逆説的に、誰でもが免許なしに放送できるという事態が生じ、以後、猛烈な数のFM局が登場した。しかし、ダイヤルをさまざまな局がひしめくようになり、周波数の空きがほとんどなくなり、混信状態もひどくなると、当初、小出力で放送していた局も、出力の増強を余儀なくされ、特定の小地域限定での放送などは夢物語になってしまった。技術的には、通常の放送局と同様に、遠くに飛ばせることが出来ればそれにこしたことがないという、モダン・テクノロジーの観念に逆戻りしてりしてしまったのである。
これに対して、マイクロラジオは、80年代に登場した日本の「ミニFM」の理念とも呼応関係を持ち、最初から、ローカルであることを基本にする。これは、通信衛星の技術が特権的な組織のものではなく、個人でも利用できるものとなり、インターネットや携帯電話のような技術が、一般に普及したいまでは、大きなエリアに同じ情報を送ったり、送信の距離をかぎりなく延ばすということは、決してユニークなことではなくなったこととの関係がある。距離のメディアはもうあたりまえだからである。
遠くで聴くことがラジオの特質ではないのではないか? 映画・演劇・ライブ演奏のために劇場に足を運ぶように、聴くため、見るためにある場所に集まってもいいし、そういうラジオ局・テレビ局があってもいいのではないか? こうした発想は、イギリスでは、90年代前半のクラブ・シーンとともに具体化した。


ライブTV

『最後通告』に出てくる「ライブTV」の放送スタイルは、関心を呼ぶことなら何でも流してしまおうという、アメリカ的な「露出主義」のメディアである。『トゥルーマン・ショウ』では、生まれたときからその私生活がテレビに映し出されているという人物が、やがてそのことに気づき、その巨大な「ショウ」空間を脱出する話だが、『エドTV』では、みずから自分の私生活をテレビのライブショウに提供する。最初はためらい、結局は、自分をさらすことに嫌気をさしてしまうが、面白いのは、その間に主人公エドが、カメラにさらされていても、けっこう「快適に」私生活を送るシーンがあることである。この場面を見ると、人は、いずれ、プライバシーなどというものにこだわらず、ある種の「露出症」を受け入れるようになるのかもしれない、という気がする。
だが、個人ないしは少数者が「露出」し(あるいは「露出」させられ)、大多数がそれを覗き見している巨大メディアの傾向とは、異なり、「ライブTV」は、いわば、コミュニティの誰でもが、「露出」する者と「覗き見」する側との両方になりうるようなメディアである。というのも、このテレビ局は、メディアのサイズからすると、地域限定であるからである。局の前には放映中の映像を通行人が見、ときには、通行人を映し出すことができるカメラもある。
この放送局のスタジオに、失踪した子供たちの親たちが集まる大詰めのシーンは、まさに「マイクロ・ラジオ」的である。親たちは、自分たちの考えを視聴者に訴えるためにそこに集まったのではあるが、実際には、そのスタジオで親たちが相互関係のなかで自分を表現し、発見していくのであり、視聴者はどうでもよくなる。外部との重要な関係は、局の外の路上にいる謎の――12人の子供たちのメッセンジャーを務める――黒人少年との関係であり、この放送は、たしかにある一定エリアに電波を放射(キャスト)してはいるが、それは、情報の放射よりも、人々をそこに引きつけ、集める機能を果たしているのである。これは、今日のメディアの新しい方向である。


手のテクノロジー

この映画では、両手をこすって、その片手で目を覆うという身ぶりが暗示的に登場する。この身ぶりがどこから取られたものであるか、わたしは知らないが、ここには、コミュニケーションとメディアの基本があると言えないこともない。というのも、今日のメディアは、ますます手に執着するようになっているからである。
そもそも、新しいメディアは、手との関係で生まれてきた。(ゴダールも、そのようなことを『映画史』のなかで示唆していた)。文庫本は、価格を安くしたためにあれだけ普及したのではない。手との関係を、従来の机に置いて読む本との関係からより積極的なものにしたから普及したのである。いま、携帯電話(片手で操作できる)が、単なる移動電話から総合的な情報装置として発達し、爆発的に普及しつつあるが、これは、コンピュータとの関係はむろんのこと、情報との関係を片手との関係に集約させたというかぎりで、画期的である。
しかし、これらのメディアは、手を単にスウィッチの切り替えのためにしか使っていない。手は、カントが言ったよに、脳の端末である。それは、脳とともに動く。
両手をこするということは、脳をマッサージすることかもしれない。そして、手を目に当てるということは、見るという脳の静観的な機能を一時停止し、動き、世界に直接働きかける脳としての手にすべてを譲り渡すことを意味する。ちなみに、「理論」(セオリー)とは、ギリシャ語の「テオリア」(見る)に端を発する。他方、テクノロジーは、ギリシャ語の「テクネー」と関係があるが、「テクネー」には、手仕事の意味があり、手との深い関係を持つ。(その意味で、黒人の少年とともに、盲目の調律師――手技の導師――の存在も示唆的である)。モダン・テクノロジーは、手との関係をどこまで切り離すことが出来るかというチャレンジのなかで「発展」してきたが、いまや、テクノロジー自身が手との関係の回復を求めている。

路上の黒人少年の姿が、スタジオ内のモニターに映り、親立ちがそれに注目する。すると、その少年は、いきなり両手を素早くこすり、その片手を自分の目に持っていく。すると、それまで少年の姿を映していた画面に、失踪した子供たちの姿がぼんやりと映りはじめる。映像的にも実に感動的なシーンである。 むろん、このようなことは、映像映像編集の詐術であり、「現実」には、起こりえないことである。だが、現実とは何かということを考えると、この場面が単なる映像表現であるとして済ますことが出来なくなるだろう。というのも、現実とは、いまや、「自然」の原野に素裸で立っている人間の現実ではなく、さまざまなテクノロジーや、歴史的に蓄積された夢や妄想とともに構築された《いま》のすべてだからである。

2000-06-28