書評/H・ツィシュラー『カフカ、映画に行く』(瀬川祐司訳、みすず書房)

カフカがプラハで最初の作品を執筆しはじめたころ、映画は、最先端の新しいメディアであった。「東欧のパリ」と呼ばれた二〇世紀初めのプラハは、新しい情報技術の環境として有利な位置にあった。 カフカの作品と映画との関係については、これまでもブロート、ベンヤミン、アドルノ、ヤーンなどによっても指摘されてきた。しかし、本書のように、映像経験と「書くという行為」との深い関係を単なる観念的な考察ではなく、実証的なデータを細かくたどりながら行った例はなかった。著者は、ゴダールの『新ドイツ零年』の役者としても知られるハンス・ツィシュラー。彼にして初めて本書のようなユニークはカフカ論が可能になった。
ツィシュラーは、カフカの日記や手紙を頼りに、彼が見たと考えられるほとんどすべての映画作品とそのメディア環境(劇場・上映方法)を克明にたどる。本書は、これだけでも多くの新発見に満ちている。 ここから、著者は、カフカの創作と知覚のしかたそのものに入っていく。たとえば、パリへの旅のなかで、カフカが、列車、タクシー、地下鉄などの乗り物での移動と映画におけるカメラの移動とのあいだに似たような要素を見出していたこと、また、彼が書く手紙の相手(とりわけ恋人フェリーツェ)は、彼の夢・想像・思考を投影するためのある種の「スクリーン」であったこと・・・。
カフカがもし生きていたら、彼がパレスチナに行ったかどうかということは、カフカの思想をどうとらえるかということにも関わる一つの難問だが、ツィシュラーは、この問題に関しても、「カフカにとってパレスチナは、到達不可能な、踏み込むことのできない領域、手にとれるほど近くでもあれば、遠くでもある領土――想像のなかの空間、一本の映画であり続ける」と結論づける。ひらめきのある、魅力的なアプローチである。

1998-09-04(執筆)、『日本経済新聞』1998-09-06(掲載)