批評のミラー・ルームを越えて

    1.
  日本語では、「批評」と「批判」はニュアンスが違うが、
英語などのインド・ユーロッパ語では、criticism、critique、
Kritik等々――ギリシャ語のkritikeなどに由来する単一の語
が「批評」を意味したり、「批判」を意味したりする。
  わたしは、あえて肩書を尋ねられるとき、「批評家」と称
している。英語では、criticである。以前、英語圏を放浪し
ていたとき、名刺に 'Social Critic'という肩書を刷り込ん
でいたら、それ見て破顔一笑し、"It's good!" と喜んだ人が
いた。わたしは、別にユーモアのつもりでそういう言いまわ
しを考えたのではなく、ただ、「社会問題を批評する」のを
仕事としているといった意味あいだったのだが、英語の文脈
では、「社会に難癖をつける人」という意味にもなって、奇
妙なユーモアが生まれたらしい。
  日本語の「批評家」にはそのような含みはない。「批評」
とは、どこかにクールな匂いをただよわせる言葉であり、
「非難」ほど感情的ではなく、また「批判」ほど攻撃的でも
ない。「批判」をして逆に攻撃を受けることはあるが、「批
評家」はいつも安全地帯におさまっている。だから、「批評
家」は、職業としても成り立つのである。「文芸批評家」が
好例である。
  その意味では、わたしが自称する「批評家」は、むしろ
「批判家」と言い換えた方がよいのかもしれない。しかし、
こう言ってしまうと、「批評」という言葉の「評」の部分に
含意されているクールな側面が吹き飛んでしまう。その語の
成り立ちからすれば、「批判」を構成する要素は、手偏を除
けば、「比」は比較や対比の「比」であり、「判」は判定や
判明の「判」であるから、「非難」のような下品さには距離
を置いているのだが、この語の歴史的な意味は原義から大き
くはずれてしまった。


    2.
  哲学では、「純粋理性批判」、「経験批判」、「批判理論」
などのように、ある能力や領域の限界確定を意味し、さしあ
たり、そこには「非難」の意味はない。それは、日本におけ
る西洋哲学の用語が、ことごとく指標的な言語でしかないか
らである。言い換えれば、ここでは、さしあたり「批判」と
いう日本語を使いながら、思考はcriticismやKritikという
原語でやるという亡命的思考がこの国の思考の基本にあるか
らである。
  教科書的な説明によれば、criticismやKritikの語源は、ギ
リシャ語のkrinein(分ける、決める)であり、crisis(危機)
も、一連の出来事の「決め手」、その前と後とを「分ける」
決定的な事態であるところからそう呼ばれる。だから「批判」
とは、まず問題の対象を腑分けし、それがどのような由来と
行き先をもっているかを確定することだということになる。
  思考の歴史のなかで批評が大きな主題となるのは、近代以
後のことであり、カントはその最大の仕掛け人の一人である。
彼にとって、哲学とは批判であり、ものごとの限界と可能性
を認識することが思考にほかならなかった。『純粋理性批判』
のなかで、彼は、「理性の一切の関心(思弁的および実践的
関心)」を次の三つの問いにまとめているが、これは、批判
的思考の課題を網羅している。

        一  わたしは何を知ることができるか
        二  わたしは何をなすべきか
        三  わたしは何を希望することがゆるされるか

    近代の思考は、結局、反省に終始する。自分が使っている
「理性」という能力を反省し、その「限界」を確定することで
ある。しかし、「反省」の原語をなすreflectionには、「反射」
や「反響」の意味がある。つまり、ここでは、自分を越えたと
ころから到来するものが自分という場で〈屈折〉するという形
而上学が前提されているわけである。実際、カントにとって、
思考とは、「理性の光」が射し込む意識の場を限界確定するこ
とであり、その場の限界を自覚しながら、それを「使用」
(「理性の超越論的使用」)することであった。
    カントの反省哲学/批判的思考は、ニュートン的な光学世
界とセットになっていた。近代科学がその数学的な時間と空間
のなかに構築した物、そしてその総体としての世界と宇宙は、
カントの言い方では、「現象」である。そして、現象とは、
「物自体」が意識の場に射し込むことによって生じた〈屈折〉
にほかならない。これは、中世の思考や物体観とは大いに異な
っている。アウグスティヌスは、『告白』のなかで次のように
言っている。

    私は私の神を愛するとき、一種の光と、一種の声と、一
種の香りと、一種の糧と、一種の抱擁を、愛するのである。
これらは、私の内なる人の光と声と香りと糧と抱擁なのである。
この内なる人のなかで、或る光が輝くのだが、この光は空間に
拡がるのではない。そのなかで、或る声がひびくのだが、この
声は時間のなかにひろがるのではない。そのなかで、或る香り
がただようのだが、この香りは風に吹きとばされることがない。
そのなかで、或る食物の味がするのだが、これは、食っても、
減ることがない。そのなかでは、或る抱擁がおこなわれるのだ
が、これは、飽きて、離れるような抱擁ではない。(今泉三良
訳)

    中世の教会にしつらえられたステンドグラスは、神から届
く光や声を〈屈折〉するのではなく、貫かせ、そこにある物を
浮き彫りにする。が、それは、近代数学の時間と空間の軸の上
に「客観的」に構築された物ではない。その物は、知覚する者
(祈る者)がそれを「永遠の相」において受け取る度合いに応
じて姿を現す。


    3.
    中世から近世への移行のなかで、〈フィルター〉としての
物から〈反射板〉としての物への移行が進められたわけだが、
批判/批評は、この移行過程のなかで活躍の現場を獲得する。
〈フィルター〉としての物のもとでは、批判/批評の場はなか
った。そもそも、神から切り離された「人間」の感覚・思考と
いう独自領域は存在しえないと考えられたのであり、人間は、
超越的な光によって貫きつくされるときのみ本来の人間であり
えるのだった。アウグスティヌスは、「すべての真なるものの
源泉である真理そのものだけを、よろこぶようになるとき、は
じめて、幸福になることができるだろう」、と言っているが、
ここで言われている「よろこぶようになる」や「幸福」は、い
まわれわれがそれらの言葉によって表象するような意味とはか
なりの隔たりがある。ゴダールの『決別』のなかのせりふでは
ないが、「火のおこし方も祈りの奥義も知らない」モダン・エ
イジおよびポストモダン・エイジの人間には、アウグスティヌ
スの言葉を理解するには相当な操作が必要だろう。
    ここでそんな操作をやっている余裕はないが、いずれにし
ても、批判/批評が極めて近代という「長周期」に特有の知覚
・思考形態であり、それゆえ、それが、社会的な身ぶりとして
は終わる別の時代が現れるということもありうるということだ。
    近代の物は、〈反射板〉ないしは〈屈折板〉として、その
究極は鏡である。批判/批評は、〈歪んだ鏡〉の歪みを補正す
る役割を果たす。しかし、鏡としての物、鏡としての世界にお
いて、その鏡性が昂進するにつれて、反省=反射は、一つの自
動過程となり、それ自体としての意味を失う。反省=反射が可
能なのは、〈反射板〉がまだ不十分なあいだだけである。近代
の物とは、歪んだ〈反射板〉が構築する幻影つまりは映像であ
るが、歪みのない鏡において、その映像は「実像」となる。も
はや、そこに反射する光の源は忘れられ、括弧に入れられ、や
がて、そんなものはなかったということになる。カントは、
「物自体」をアンタッチャブルな領域として保留したが、その
後の思考の歴史は、それを空無化することに終始した。


    4.
    いま、われわれは、映像の時代にいるが、その映像は、近
代数学の構築からはずれた物たち(「自然」や「身体」)に依
存することによって作られる映像(たとえばガラスやフィルム
に焼き付けられたシミとしての映像)ではなく、初めから数学
的に構築されたムクの電子映像である。そしてその根っから近
代数学的な素姓をもつ映像が、逆に、それまで近代数学の構成
や構築からはずれていた物たちをもシミュレートし、模造し、
ついには捏造し、それらに取って代わるというところまで来て
いる。
    デジタルの世界は、近代の動向の極みであり、完成である。
それは、鏡と化した物の世界であり、その歴史過程を顧慮しよ
うとする思考の良心がやっとのことで「ヴァーチャル」という
形容詞を付けるのを除けば、もはや誰にも「幻影」や「幻想」
との区別が出来ない完璧な「実」世界である。
    ジル・ドゥルーズは、ヴァーチャル・リアリティが登場す
るはるか以前に、この技術が普遍化する状況を概念化したかの
ような一節を書いている。

    わたしたちは、ヴァーチャル(訳書では「潜在的」)なも
のを実在的なものに対立させてきた。だがいまや、そのような
言葉遣いは修正する必要がある。というのも、そうした言葉遣
いはこれまで、正確ではありえなかったからである。ヴァーチ
ャルなものは、実在的なものに対立せず、ただアクチュアルな
ものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なもので
あるかぎりにおいて、或る十全的な実在性を保持しているので
ある。(財津  理訳『差異と反復』)

    ドゥルーズのこうした表現が、ヴァーチャル・リアリティ
の普及した状況を鋭く予見してしまうのは、彼が、近代の思考
と近代世界の行き先を根底的に考察したからであり、またヴァ
ーチャル・リアリティの側から言えば、この技術がただの流行
ではなく、近代テクノロジーの一つの極限と完成を体現してい
るからである。


      5.
    ヴァーチャリティの時代には、反省や批判/批評はもはや
社会的に目立つ思考形態ではなくなる。が、そうだとすると、
一体、どのような思考の形態が一般化するのだろうか?
    近代のなかで浮き彫りになる批判/批評は、物が〈反射=
反省〉の〈射影〉でありつづけるかぎりで有効性をもった。そ
して、この〈反射=反省〉は、何かについての〈反射=反省〉
であり、何らかの超越的外部を想定する。しかし、すべてが
〈反射=反省〉と化した世界では、まさに、『上海から来た女』
のミラールームのように、外部=出口は見えない。そして、ミ
ラールームのなかでピストルが発射され、外部=出口が判明す
るときには、その世界そのものが解体されるときなのだ。
    鏡の解体は、すべてが鏡と化した世界では、同時に思考の
解体である。ここでは、思考は、自ら循環を戯れるか、身動き
をやめて、思考の終焉に引きこもるかしかない。が、思考を思
考の戯れのなかに解放することは思考にとってこの上ないこと
ではないのか?  批判や批評が有力な社会的身ぶりとなるのを
やめて、もっとささやかで瑣末なものの位置み立ち戻ることは、
むしろ自然なことだろう。そこには、すべてがこちらに射し込
んでくるような光源としての超越も、まぶしく輝くメカニズム
的な物もないはずだ。


    6.
    思考の具体的な形態を問題にしようとするならば、メディ
アを問題にせざるをえない。メディアとは、思考の具体的な場
であり、具体的な形態であるからだ。
    思考にとって最も基礎的なメディアは手である。カントは、

かつて手を「外部の脳」だと言ったことがあるが、近代は、ま
さに、手を使わずに済ませるという方向を極限まで推し進めた。
手が「外部の脳」――これは、「内部の脳」とは別の脳という
意味ではなくて、脳の外部端子という意味だ――であるとすれ
ば、それを使わないということは、それを別のもので代替する
ということである。実際、モダン・テクノロジーの理想は、思
考を人工知能で代替することであった。
    J・H・ヴァン・デン・ベルクは、近代を規定した労働の
分業が、テクノロジーによって加速される以前に、もっと根源
的な分離衝動・欲求によって準備され、始動されていたことを
指摘し、その際、「疎遠になる手」に注目している。そもそも、
「一八世紀にあったのは労働の分業だけではなく、すべてのも
のが、ほとんどすべてのものが分離され、諸部分へと引き裂か
れ、また分解されている。病気、植物、動物、人間のエゴでさ
え複数の自己へと分離する」。そして、その際、注目すべきは、
手と生産との関係である。たとえばビンの生産を考えてみると、
「昔のビンは両手でつくられ」たが、分業が広まったアダム・
スミスの時代には、「何人もの両手でつくられ」、そして、機
械が導入されたマルクスの時代には、「ビンは手作りではなく、
手に触れることさえなかった」、とヴァン・デン・ベルクは言
う(早坂泰次郎訳『引き裂かれた人間  引き裂く社会』)。
    思考のメディアの場合にも、メディアの「発達」とは、
「疎遠になる手」の昂進である。キーボードは、まさに、手を
カオティックな脳の外化されたエイジェントとしての自律的で
トータルな位置から、極めて幼稚で単純な動作のなかに閉じ込
めたのだった。そもそも、ペンで文字を書くということからし
て、手は、相当程度単純な形式のなかに幽閉されたが、それで
も、まだ片手は解放されていた。キーボードは、その片手をも
単調さのなかに取り込むことに成功する。


    7.
    コンピュータは、その後、キーボードとは異なるさまざま
なインターフェースを持つようになるが、今日でも、依然とし
てキーボードの優位は終わってはいない。ただし、最近の変化
は、コンピュータが数字や文字だけではなく、画像や音を扱う
ようになり、しかもそれが、個人の思考の舞台に下りてくるよ
うになったために、キーボードがもはや、アルファベットの二
六文字や画一的な指の上下運動のなかに手を拘束していること
が出来ないという事態が次第に強まっていることである。マウ
スやジョイスティイクは、そうした矛盾のつけ焼き刃的な解決
方法にすぎない。コンピュータのインターフェースは、今後、
急速にキーボード離れをしなければならず、その中間段階とし
て、ピアノにおけるセシル・テイラー/山下洋輔的な使用法、
いや、ジョン・ケージのプリペアード・ピアノ的な使用法が現
れてもしかるべき状況にある。
    コンピュータは、これまで、計算機として、情報のフィー
ドバック・システムとして、極めて〈反省的・批判的〉な装置
であった。しかし、今日、コンピュータは、そのような近代の
素姓を乗り越えようとしている。反省的対話の批判的/批評的
相手であるよりも、直観や発作を誘導するやっかいだが、創造
的で脅迫的な装置へ。
    つるつるに磨き上げられてしまった鏡面は、その上に異物
を貼りつけ、投射することによって、かつての歪みを取り戻す
ことから始めるのも一方である。ドゥルーズは、前掲書の序文
のなかで、「ひとは哲学の書物をかくも長いあいだ書いてきた
が、しかし、哲学の書物を昔からのやり方で書くことは、ほと
んど不可能になろうとしている時代が間近に迫っている」と書
いている。そして、彼は、「哲学史は、絵画におけるコラージ
ュ[ルビ点]の役割にかなり似た役割を演じるべきだと、わたし
たちには思われる」、「実在する過去の哲学の書物を、まるで
見せかけだけの想像上の書物であるかのようにまんまと語って
しまうことが必要になるだろう」、と言う。この方法は、少な
くとも、批判/批評の方法ではなく、むしろ、戦略的な〈捏造〉
に一脈通じるものだろう。

現代詩手帖、1996年9月号、22~27ページ